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第3話 沈黙の懐中時計【後編】―沈む声―


沈黙の国になっていた。


議事堂の外では、誰も声を上げない。

街の喧騒は消え、ニュース番組のコメンテーターは“正確な原稿”しか読まない。

笑い声は減り、SNSでは言葉が削られ、

ただ“正しい沈黙”だけが、国を満たしていた。


それを作ったのは、他でもない――志貴蓮司だった。


「これが秩序だ。混乱は、真実を歪める。」


彼はそう言って、胸ポケットの懐中時計に手を当てた。

銀の蓋は冷たい。

だが、その重みはもう、心臓の鼓動よりも確かに感じられた。



「志貴先生、また神代派の会合です。」


秘書が震える声で告げる。

神代――志貴が最も嫌悪していた男。

かつては癒着の象徴だったその政治家が、今では彼の“味方”として隣に立っていた。


「先生の法案がある限り、我々の組織は盤石です。

 真実だけを話す政治家。これほど扱いやすい存在はない。」


皮肉にも、それは志貴の正義が最も腐った形で成功した瞬間だった。


志貴は気づいていた。

利用されていることも、票のための傀儡であることも。

だが、反論できなかった。

時計の影響か、それとも己の信念か。

彼はただ――沈黙した。



ある日の記者会見。

志貴は壇上に立ち、国の方針を発表した。

フラッシュの光が飛び交い、記者たちは紙をめくる音さえ立てない。

沈黙の支配。

その中で、ひとりの若い記者が手を挙げた。


あの夜、志貴に言葉を投げた青年だった。


「志貴先生。あなたの“虚偽防止法”によって救われなかった人々がいます。

 家庭内での虐待を訴えた母親が、“虚言の疑い”で支援を打ち切られ、

 子どもが自ら命を絶ちました。

 あなたは、これをどうお考えですか?」


会場が静まる。

息をする音すら聞こえない。

時計の針が、わずかに震えた。


志貴はマイクを見つめた。

唇が動く。

脳裏で言葉を選んでも、声は勝手に流れ出した。


「……はい、犠牲は出た。

 だが、それは必要な犠牲だ。

 正義に犠牲はつきものだろう。」


沈黙の中で、記者が息を呑む音が響いた。

その顔は、冷たく濡れた刃のようだった。


「真実だけで国を動かせると思っているんですか?

 それじゃあ、人間じゃなくて、ただの時計だ。」


――その言葉を、志貴は確かに聞いた。

あやめが残した涙の声と、まったく同じ響きで。


だが、理解はできなかった。

理解しようとした瞬間、頭の奥が焼けるように痛んだ。

(かつての俺なら……この言葉の意味を、わかっていたのだろうか?)

彼はそう思いながら、ただ笑った。

静かで、虚ろな笑みだった。


カメラのフラッシュが弾けた瞬間、

国中の支持が崩れた。


SNSは一瞬で炎上し、

“沈黙の狂人”“正義の独裁者”という見出しが踊った。


神代は笑いながら、志貴の肩を叩いた。

「もういいだろう、志貴。お前の正義は、国民が飽きたよ。」


「……俺は、まだ正しい。」


「正しい奴ほど、使いやすいんだ。」


冷たい声が背中を貫いた。



夜、議事堂を後にした志貴は、

人気のない街を歩いていた。

雨が降っていた。

傘は差さなかった。

雨粒が頬を伝い、音もなく地面に落ちる。


懐中時計を取り出す。

光はもうほとんど残っていない。

それでも、彼は震える手で蓋を開いた。


音が、消える。

街の灯りが滲み、車の音も、風の音も消える。

本当に静かだった。


「……これが、俺の作った世界か。」


その声すら、自分には届かない。

鼓膜の内側で、自分の声が吸い込まれていく。

あやめの顔が浮かんだ。


“あなたの正義は、美しい嘘です。”


(あの言葉……どういう意味だったんだろうな。)

呟きは雨にかき消えた。

答えを探しても、もう誰もいなかった。



だが――それでも、やめられなかった。


時計を閉じるたびに、手が震えた。

胸の奥が疼き、脳が「正義を語れ」と命じてくる。

まるで、甘い毒を求めるように。


志貴は街へ出た。

議員バッジは外され、名刺も失ったが、言葉だけは残っていた。

街頭で、SNSで、あらゆる場所で声を上げた。


「この国は嘘に満ちている!

 お前らは見て見ぬふりをしているだけだ!」


通行人は足を止めず、誰も彼を見ようとしなかった。

だが、志貴は気づかなかった。

自分の“真実”が、もはや誰にも届いていないことに。



ある日、商店街で惣菜屋の老婆が子どもに微笑んでいた。

「今日は特別ね、おまけしとくよ。」

子どもは嬉しそうに頭を下げ、コロッケを握りしめて走り去った。


志貴はそれを見て、声を荒げた。

「それは虚偽だ! 正しい値段を告げろ!」

老婆は震えながら、「いいのよ、少しぐらい」と笑った。

だが、志貴は許さなかった。

「小さな嘘が世界を腐らせる!」

通りすがりの客が眉をひそめた。


別の日、老人ホームで見かけた介護士が、

認知症の老人に向かって穏やかに言った。

「おじいちゃん、久しぶり。孫の麻衣だよ。」

老人は涙ぐみ、安心したように頷いた。


志貴はその様子を見て、叫んだ。

「嘘をつくな! 偽りで人を安心させるな!」

介護士は振り向き、怒りと悲しみを混ぜた声で言った。

「あなたに……人の心はあるんですか?」


その言葉にも、志貴は迷わなかった。

「心こそ嘘の温床だ。俺は真実の側にいる。」


その日を境に、誰も彼に話しかけなくなった。

道を歩けば、人々が避けた。

SNSでは「正義中毒」「現代の亡霊」と呼ばれた。


それでも彼は止まらなかった。

夜の街角で、雨に打たれながら、

誰もいない観客に向けて、正義を語り続けた。


「真実を語るのは俺しかいない……!」


声が掠れても、喉が裂けても、

時計の針が震えるたびに、快楽のような熱が胸を満たした。

嘘を見つけ、正すたびに、脳が痺れる。

世界が静まり返るほどに、彼は生を実感した。


だが、もうその目には誰も映っていなかった。

あるのは、正しさという名の闇だけ。



……雨の匂い。

クロノスの店内、棚の上で懐中時計がひとつ光を失う。

店主は静かにそれを見つめた。


「正義を望む者は、必ず嘘に沈む。

 沈黙とは、心の墓場です。」


カウンターの奥で、別の魔道具が小さく震えた。

外では、また雨音が響く。


路地の先に、傘を差した影がひとつ立ち止まる。

その視線の先にあるのは――

「クロノス」と書かれた小さな看板。


新しい物語が、またひとつ始まろうとしていた。

それが、誰かの“終わり”になるとも知らずに。


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