第3話 沈黙の懐中時計【後編】―沈む声―
沈黙の国になっていた。
議事堂の外では、誰も声を上げない。
街の喧騒は消え、ニュース番組のコメンテーターは“正確な原稿”しか読まない。
笑い声は減り、SNSでは言葉が削られ、
ただ“正しい沈黙”だけが、国を満たしていた。
それを作ったのは、他でもない――志貴蓮司だった。
「これが秩序だ。混乱は、真実を歪める。」
彼はそう言って、胸ポケットの懐中時計に手を当てた。
銀の蓋は冷たい。
だが、その重みはもう、心臓の鼓動よりも確かに感じられた。
◇
「志貴先生、また神代派の会合です。」
秘書が震える声で告げる。
神代――志貴が最も嫌悪していた男。
かつては癒着の象徴だったその政治家が、今では彼の“味方”として隣に立っていた。
「先生の法案がある限り、我々の組織は盤石です。
真実だけを話す政治家。これほど扱いやすい存在はない。」
皮肉にも、それは志貴の正義が最も腐った形で成功した瞬間だった。
志貴は気づいていた。
利用されていることも、票のための傀儡であることも。
だが、反論できなかった。
時計の影響か、それとも己の信念か。
彼はただ――沈黙した。
◇
ある日の記者会見。
志貴は壇上に立ち、国の方針を発表した。
フラッシュの光が飛び交い、記者たちは紙をめくる音さえ立てない。
沈黙の支配。
その中で、ひとりの若い記者が手を挙げた。
あの夜、志貴に言葉を投げた青年だった。
「志貴先生。あなたの“虚偽防止法”によって救われなかった人々がいます。
家庭内での虐待を訴えた母親が、“虚言の疑い”で支援を打ち切られ、
子どもが自ら命を絶ちました。
あなたは、これをどうお考えですか?」
会場が静まる。
息をする音すら聞こえない。
時計の針が、わずかに震えた。
志貴はマイクを見つめた。
唇が動く。
脳裏で言葉を選んでも、声は勝手に流れ出した。
「……はい、犠牲は出た。
だが、それは必要な犠牲だ。
正義に犠牲はつきものだろう。」
沈黙の中で、記者が息を呑む音が響いた。
その顔は、冷たく濡れた刃のようだった。
「真実だけで国を動かせると思っているんですか?
それじゃあ、人間じゃなくて、ただの時計だ。」
――その言葉を、志貴は確かに聞いた。
あやめが残した涙の声と、まったく同じ響きで。
だが、理解はできなかった。
理解しようとした瞬間、頭の奥が焼けるように痛んだ。
(かつての俺なら……この言葉の意味を、わかっていたのだろうか?)
彼はそう思いながら、ただ笑った。
静かで、虚ろな笑みだった。
カメラのフラッシュが弾けた瞬間、
国中の支持が崩れた。
SNSは一瞬で炎上し、
“沈黙の狂人”“正義の独裁者”という見出しが踊った。
神代は笑いながら、志貴の肩を叩いた。
「もういいだろう、志貴。お前の正義は、国民が飽きたよ。」
「……俺は、まだ正しい。」
「正しい奴ほど、使いやすいんだ。」
冷たい声が背中を貫いた。
◇
夜、議事堂を後にした志貴は、
人気のない街を歩いていた。
雨が降っていた。
傘は差さなかった。
雨粒が頬を伝い、音もなく地面に落ちる。
懐中時計を取り出す。
光はもうほとんど残っていない。
それでも、彼は震える手で蓋を開いた。
音が、消える。
街の灯りが滲み、車の音も、風の音も消える。
本当に静かだった。
「……これが、俺の作った世界か。」
その声すら、自分には届かない。
鼓膜の内側で、自分の声が吸い込まれていく。
あやめの顔が浮かんだ。
“あなたの正義は、美しい嘘です。”
(あの言葉……どういう意味だったんだろうな。)
呟きは雨にかき消えた。
答えを探しても、もう誰もいなかった。
◇
だが――それでも、やめられなかった。
時計を閉じるたびに、手が震えた。
胸の奥が疼き、脳が「正義を語れ」と命じてくる。
まるで、甘い毒を求めるように。
志貴は街へ出た。
議員バッジは外され、名刺も失ったが、言葉だけは残っていた。
街頭で、SNSで、あらゆる場所で声を上げた。
「この国は嘘に満ちている!
お前らは見て見ぬふりをしているだけだ!」
通行人は足を止めず、誰も彼を見ようとしなかった。
だが、志貴は気づかなかった。
自分の“真実”が、もはや誰にも届いていないことに。
◇
ある日、商店街で惣菜屋の老婆が子どもに微笑んでいた。
「今日は特別ね、おまけしとくよ。」
子どもは嬉しそうに頭を下げ、コロッケを握りしめて走り去った。
志貴はそれを見て、声を荒げた。
「それは虚偽だ! 正しい値段を告げろ!」
老婆は震えながら、「いいのよ、少しぐらい」と笑った。
だが、志貴は許さなかった。
「小さな嘘が世界を腐らせる!」
通りすがりの客が眉をひそめた。
別の日、老人ホームで見かけた介護士が、
認知症の老人に向かって穏やかに言った。
「おじいちゃん、久しぶり。孫の麻衣だよ。」
老人は涙ぐみ、安心したように頷いた。
志貴はその様子を見て、叫んだ。
「嘘をつくな! 偽りで人を安心させるな!」
介護士は振り向き、怒りと悲しみを混ぜた声で言った。
「あなたに……人の心はあるんですか?」
その言葉にも、志貴は迷わなかった。
「心こそ嘘の温床だ。俺は真実の側にいる。」
その日を境に、誰も彼に話しかけなくなった。
道を歩けば、人々が避けた。
SNSでは「正義中毒」「現代の亡霊」と呼ばれた。
それでも彼は止まらなかった。
夜の街角で、雨に打たれながら、
誰もいない観客に向けて、正義を語り続けた。
「真実を語るのは俺しかいない……!」
声が掠れても、喉が裂けても、
時計の針が震えるたびに、快楽のような熱が胸を満たした。
嘘を見つけ、正すたびに、脳が痺れる。
世界が静まり返るほどに、彼は生を実感した。
だが、もうその目には誰も映っていなかった。
あるのは、正しさという名の闇だけ。
◇
……雨の匂い。
クロノスの店内、棚の上で懐中時計がひとつ光を失う。
店主は静かにそれを見つめた。
「正義を望む者は、必ず嘘に沈む。
沈黙とは、心の墓場です。」
カウンターの奥で、別の魔道具が小さく震えた。
外では、また雨音が響く。
路地の先に、傘を差した影がひとつ立ち止まる。
その視線の先にあるのは――
「クロノス」と書かれた小さな看板。
新しい物語が、またひとつ始まろうとしていた。
それが、誰かの“終わり”になるとも知らずに。




