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第9話 摩耶の指摘

 P大考古学研究室に行った翌々日の午後、俺は八王子に行った。


 アジ文の加藤から、約半月後に開始する予定の発掘調査の打ち合わせをしたい、とのことだったからである。


 打ち合わせは夕方6時過ぎに終わり、辞去しようとすると加藤が、飯を食いに行きませんか? と誘ってきた。


 2人で飲みに行くということをどこで嗅ぎつけたのか、摩耶が「あたしを置いていくつもり?」という顔をしていたらしく、加藤が、


「小泉。お前も行くか?」


 と聞くと、「当たり前でしょ」という表情で頷いた。


「駅近くのいつもの海鮮居酒屋だ。先に行ってる」


 加藤とぶらぶら2人で駅方面に歩いているうちに、遅れてはならじ、と摩耶がトートバックを抑えながら追いついてきた。


 3人で海鮮居酒屋のボックス席に落ち着き、飲み物をオーダーした後、加藤が、


「いえね、この間、前高市に行った帰り、中野さんが、ほとんど口を聞いてくれなかったって、小泉が言っていたもので気にしていたんですよ」


「そうだったかな?」


「小泉。そん時、中野さん、耳たぶをしきりと引っぱってなかったか?」


「そうでした。そうでした。よくわかりますね」


「中野さんがそういう時は、頭の中がアクセル全開なんだよ。学生時代からそうだったんだ。ということは」


「ということは?」


「これから、面白い話が聞けるってことだよ」


「……瓦の文字内容と生産地が、両方とも長屋王事件と長屋王邸に向かっている。しかし、まだわからないことが多い」


 俺は、これまで自分が調べたことを、ざっと2人に説明した。

 2人とも目を輝かせて話を聞いていた。


 すでに3人は最初のビールから、それぞれの飲み物に移っていた。

 俺と加藤は焼酎のロック、摩耶は日本酒の(ひや)だ。


 俺と加藤は、そこそこイケるクチだが、摩耶は並外れた酒豪だ。

 日本酒一辺倒で、ほっとけば一升ぐらいは平然と飲む。


「ところで中野さん」


 摩耶がグラスをテーブルに戻しながら聞いた。


「何だ?」


「先日、会社に持って来られた瓦なんですけどね。見せてもらって、ちょっと気になったんですよね」


「何が?」


「彫ってある字のことなんですけど。これを彫ったのは女じゃありませんか?」


「女?」


 俺と加藤のすっとんきょうな声がハモった。


「刻まれた文字の一画一画の深さが浅くて、非力な人が刻んだように思ったんです。この瓦は焼きが悪くて、ちょっと軟質ですよね。男の人が刀子(とうす)で刻んだとすれば、もっと深くてしっかりしたものになったんじゃないかと思うんです。非力というなら子供の可能性も考えられるんですけど、書かれた漢字はしっかりしたものでした。やはり子供よりは女性を想定したほうがいいように思ったんです」


 摩耶の指摘を聞いて俺は、はっとした。

 確かにあり得る。


「言われてみると確かにそう思える。すると、これを刻んだ人間は、豊島足此十女(とよしまあしこのとめ)、その人ということになる」


 摩耶が頷く。


「豊島足此十女が刻んだとするなら、彼女は相当素養がある人物だ。当時の状況を考えるなら、位階を持った官人の配偶者か女官だろうか?」と俺。


「宿奈麻呂の奥さんだったとか?」と摩耶。


「あり得るな。被葬者のために墓誌を妻妾が用意したとするのは自然な考え方だと思う。だが、なぜ瓦に刻む必要があったのかは理解できない。その頃の墓誌の材料は銅板が主流なはずだ。外従五位下という高い位階を持つ宿奈麻呂の親族であれば、十分に調達可能だったろう。百歩譲って、どうしても瓦に文字を入れる必要があるなら、何故、窯に入れる前に文字を入れなかったのか? 焼成後なら(くぎ)でひっかいたようなものにしかならない。不自然だと思わないか?」と俺。


「面白いな。こういうのが仕事だったら楽しいのにな」と加藤。


 一般の人たちは、考古学や発掘調査と聞いただけで、そこにロマンを感じているが、民間会社の発掘調査事業の実態は、そんなものとはかけ離れている。


 現場で、遺構を確認し、掘り下げを行い、記録を取り、埋戻しをする。

 終わったら、遺構図面の編集を行い、出土した遺物を整理し、最終的に発掘調査報告書にまとめていく。


 しかもタイトなスケジュールを守り、少しでも利益を上げるために、できる限り経費を切り詰めなければならない。

 民間企業は、大学や行政よりシビアである。

 一連の作業は、ほとんど決められた手順に従い、機械的に処理していく作業であり、ロマンなどという言葉が入る余地はない。


 しかし一方で、考古学を専攻した人間は、遺構や遺物を通して、何か新しい考古学的考察の可能性はないのか? これまで明らかにされなかったことを、それこそ、掘り当てる、ことはできないのか?

 このことにこそ考古学を目指した者の本望があるのではないのか? と思っているのである。


 加藤にせよ、摩耶にせよ、制約の多い民間発掘調査事業の中で、そうしたことをやれないフラストレーションが溜まっているのだ。


「もったいないな。前高市の発掘調査結果と、中野さんの瓦を一体化して考えれば、面白い考察が書けるだろうに」と加藤。


「仕方ない。俺は佐伯のジイさんから頼まれた仕事をしているだけだから」と俺。


「確か、佐伯老人は、前高市の文化財保護審議委員でしたよね。中野さんの調査が終わったら、前高市に寄贈するんでしょうかね?」と加藤。


「さあ、わからんな。なにせ食えないジイさんだからな」と俺。


 この何気ない会話に重大な意味があるとは、俺はこの時思ってもみなかった。


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