第7話 長屋王と藤原氏
再び車に乗り、俺の家に着いた時はもう夜になっていた。
摩耶は、俺を下ろすと、八王子に戻って行った。
俺は、夕食を済ませて後、コーヒーを飲みながら、瓦に関することを頭の中で整理する。
墓は、茂木太平の畑と、前高市の発掘調査を行った場所の両方にまたがっていて、茂木太平が重機で瓦を割ってしまい、その片方が太平によって拾われ、もう片方は前高市の発掘によって取り上げられたことになる。
また墓は、炭が大量に充填された木炭郭で、太安万侶の墓と同じような構造であることが、前高市の調査でも裏付けられた。
墓からは瓦の他に、当時の椀が出土しており、考古学的に見て8世紀中葉ごろと判断され、瓦文に記された造墓の年と、出土した椀の年代が合ったことがわかった。
ここで、ふと疑問が湧いた。
大量に炭を充填する墓は、関東ではあまり類例がないことを考えると、当時、この墓の作り方は都の周辺で行われたものらしい。
とすると、この造墓者は、奈良での墓の作り方を知っていて、それを踏襲したものと考えられる。
つまり、豊島足此十女が造墓者とすると、彼女はそれを知っていたことになるわけだ。
……彼女は都に滞在していた経験があるのではないか?
そう推定すると、彼女が何者なのかを探る一つの手がかりになりそうである。
実は、宿奈麻呂について先日パソコンで調べた時に、豊島足此十女についても同じように検索してみたがヒットしなかった。
そこで、おそらく豊島が姓で、足此十女が名前だろうと思い、それぞれをキーワードにして検索してみたが、それでも関連するようなものはヒットしなかった。
……うーむ。なかなか思ったようにはいかないな……
俺は、飲み干したコーヒーカップを机の隅に移動させて、パソコンにむかった。
長屋王事件について調べてみる。
ネット上では、おおむね以下のように説明されている。
神亀6年(729)2月に、漆部造君足と中臣宮処東人の2人から「長屋王が左道を学び、国家を傾けようとしている」との密告があり、それ受けて藤原氏等が率いる軍勢に長屋王邸が包囲され、窮問を受けたのち、長屋王と妃の吉備内親王およびその子供たちが自決した事件、となっている。
……おお、ここに君足がでてきた!
瓦文の2行目に見える人物だ。
<左大臣長屋王近侍不和君足告意此>
宿奈麻呂と仲が良くなかったという君足とは、この漆部造君足のことだろう。
もう一人の中臣宮処東人も含めて3人は、長屋王の側近であったのだろうか。
この3名を比較すると、宿奈麻呂は、外従五位下の位階を持っていて、しかも「朝臣」という姓に位する。
「朝臣」の姓は、皇室以外の氏族の中で最高に位置づけられ、君足や東人の姓は連らしく、宿奈麻呂の方が比較にならないほど高位である。
つまり宿奈麻呂と君足・東人とは、位階や姓の上から、大きな隔たりがある。
同じ側近でも、長屋王に仕える役割が違っていたのかもしれない。
おそらく、より高位な仕事と低位な仕事だろう。
例えば、前者が政治的・軍事的なことで、後者が邸内の管理や一族の身の回りの世話などの違いが考えられる。
……そりゃ、こんだけ違えば、仲も悪いだろうよ……
事件後、君足と東人は、長屋王を密告した褒美をもらっている。
続日本紀にはこうある。
《天平元年(729)2月21日。長屋王の謀反を告げた漆部造君足と中臣宮処東人の両名に外従五位下を授ける。また食封30戸・田10町を賜う》
……こいつはすごい褒美だ……
無位無官の人に、いきなり地方最上級相当官である外従五位下(宿奈麻呂と同じ)が与えられている。
食封とは位階に付属する俸禄だ。
今の感覚でいえば最高金額の宝くじがあたったどころか、位階を保持している間は、これらの収入は保証されるので、毎年最高金額の宝くじが当たるような感じであろうか。
だが素直に考えると、密告者に莫大な報酬を与えていることは、この事件が単に正義が果たされたのではなく、むしろ後ろ暗さがあるからこその結果と考えた方が良い。
この中臣宮処東人には、続日本紀に後日談が載っている。
長屋王事件が起こってから10年近く経ったころのことである。
《天平10年(738)7月10日。従八位下大伴宿祢子虫が、太刀を持ちて、外従五位下中臣宮処連東人を斬り殺す。小虫は長屋王に仕えて、すこぶる恩をこうむれり。東人と碁を打っている時に話が長屋王に及び、小虫が憤り罵りてこれを斬り殺す。東人が長屋王を誣告したゆえ也》
中臣宮処連東人は、大伴宿祢子虫と碁で対局している時に、話が長屋王のことになり、東人は、つい、自分が長屋王を売ったことをしゃべったのであろう。
相手の大伴宿祢子虫は亡き長屋王を敬愛していた。
それを聞いた小虫は憤激して、東人を斬り殺してしまったという事件である。
注目すべきは続日本紀が、東人が誣告したとして、長屋王は無実であると記しているのである。
……それなら、長屋王をハメたやつは一体誰だ?
それは、ズバリ、藤原氏である。
その背景にあるのは、皇族の代表たる長屋王と藤原氏との権力闘争であるらしい。
長屋王の父は、古代最大の内乱である壬申の乱で大活躍した高市皇子である。
高市の父は天武天皇。
つまり長屋王は、天武天皇の孫なわけだ。
皇族の中では、まさにサラブレッドだった。
高市は天皇にはなれなかったが、その政治的地位は天皇と並ぶほどであったという。
高市は42歳で亡くなる。
その高市の長男が長屋王である。
長屋王は、まだ天皇位を望めるほどの地位であったという。
これを鋭く警戒していたのが、藤原不比等だ。
不比等は、藤原氏初代である父の鎌足に匹敵する辣腕家で、文武天皇(天武天皇の孫)を擁立し、自分の娘の宮子を文武天皇の夫人とし、文武天皇と宮子の間に生まれた皇子は後に聖武天皇となり、聖武天皇には、また自分の娘の光明子を嫁がせている。
そうやって皇室の中に自分の血筋を浸透させていく。
不比等は、養老4年(720)に死去する。
不比等には、4人の男子がいた。
長男武智麻呂。
次男房前。
三男宇合。
四男麻呂。
彼らも着々と藤原氏の勢力を伸張させていくが、不比等が亡くなった直後の朝堂では、皇族のサラブレッドであった長屋王には一歩及ばなかった。
神亀4年(727)、聖武天皇と光明子の間に皇子が誕生する。
藤原氏にとっては待望の男子であり、早くも2か月後には皇太子となる。
皇太子が順調に成長し皇位につけば、藤原氏は外戚となって、朝堂に不動の地位を築くことができる。
だが、皇太子は翌年に亡くなってしまう。
同じ年に、聖武天皇と県犬養広刀自との間に皇子が生まれ、藤原氏はこれに不安を募らせる。
この皇子の即位を阻止するために、光明子を皇后に昇格させる作戦を立案する。
というのも皇后は、場合によっては即位することも可能であるからだ。
しかし、これまで皇族以外に皇后となった例はなく、強行すれば朝堂の反発は免れない。
この光明子を皇后にするという難関の前に立ちはだかったのが、長屋王だったのだ。
藤原四兄弟からみれば、長屋王は目の上のタンコブだ。
だから、なんとしても長屋王を始末しなければならなかった。
そしてうまく罠にハメたのである。
長屋王の死後半年を経て、光明子皇后が実現する。
当時の藤原氏の絶大な権力をもってすれば、密告人の2人に過分な褒美を与えることなど造作もなかったであろう。
以上が、長屋王事件についての理解である。
俺は、瓦文のプリントアウトに、今一度目を走らせた。
2行目 <告意此> 《この意見を告げた》
3行目 <合薬事> 《薬を合わせること》
3行目 <夭死訖王誅之也> 《夭死訖しおわんぬ。王の誅これなり》
……うーむ……
やはり、相変わらず分からないところは、この3か所である。
俺は、解決の糸口を求めて、ちょっと視点を変え、瓦を考古学的に調べることにした。