第6話 前高市
アジ文の加藤から電話があった。
「明後日、前高市と打ち合わせがあります。八王子から小泉が車で行きますが、中野さんも同行しますか?」
「それはありがたい。是非お願いしたい」
「わかりました。小泉に伝えておきます。それから中野さんの家は埼玉でしたよね? でしたら小泉に途中で拾わせますが、どうします?」
「助かるな。俺の家の最寄り駅のロータリーで待ち合わせをしよう。時間は?」
「午後1時でお願いします」
「了解」
当日、午後1時に待ち合わせ場所へ行くと、摩耶がすでに来て待っていた。
車は業務用のステーションワゴンで、荷台には遺物が収納されたコンテナが積まれている。
摩耶の方は、遺物の打ち合わせなのだろう。
「悪いな。迎えに来てもらって」
「いえいえ。途中ですから」
摩耶は車を発進させた。
これから近くのインターから関越自動車道に乗る予定だ。
俺は、瓦が出た隣地を発掘調査した前高市の担当者の名前を言い、摩耶が知っているかどうかを聞いた。
「あたしの業務の担当ではないけど、顔見知りですよ」
「どんな感じの人だ?」
「気さくな人です。中野さんが聞きたいことも、多分素直に教えてくれると思いますよ」
「そりゃよかった。ただし摩耶ちゃん、俺が持っている瓦の話は先方には内緒で頼む」
「わかりました」
摩耶と世間話をしながら、車は順調に前高市に向かった。
前高市役所に到着し、埋蔵文化財整理室に遺物コンテナを運ぶのを手伝い、摩耶の打ち合わせに同席した。
アジ文の名刺は以前仕事をした時に作ってあったので、それで前高市の担当と名刺交換をした。
俺の知りたい瓦については、摩耶がうまく話を作ってくれた。
「こちらの中野は、弊社で奈良時代を主に担当していまして、参考のために前高市さんの調査例もよろしければ教えていただきたいと思いまして。具体的には赤城山西南麓で宅地開発に伴う発掘調査が進んでいますよね。そこの調査の内容を少し教えていただけましたら、うれしいのですけど」
こういうお願い事は、やはり女性からするのが効果的だ。
早速快諾してもらい、宅地開発地区の発掘調査担当を呼んで、引き合わせてくれた。
「私は遺物の方の打ち合わせをしますので、中野さんは用を済ませてください」
と、摩耶が俺の耳元で小声で言う。
俺は頷いた。
「西南麓の整理作業は別のところで行っていますので、こちらへ」
と言って、担当が俺を建物内の別の場所に連れていった。
「何をお知りになりたいのですか?」
俺の目的は、例の瓦が出土した付近に遺構があったのか、その遺構の特徴はどのようなものだったのか、ということなのだが、それをあからさまに知られたくなかったので、慎重に言葉を選んだ。
「まず、西南麓地区の遺跡全体図はあるのでしょうか?」
「ありますよ」
前高市の埋蔵文化財整理室には、遺跡情報システムが導入されていた。
それは、カーナビを高機能化したようなもので、基本地図の上に、前高市内の指定文化財や埋蔵文化財包蔵地、そしてすでに発掘調査が終了した遺跡全体図が記載されている。
このシステムは、前高市内での開発申請が回覧されて来た時の位置確認や、民間企業がこれから開発しようとする土地に埋蔵文化財が存在しているかどうかの照会対応に使われるが、学術研究にも十分に使用できる。
「奈良時代の遺跡の分布を見せていただけますか」
担当は、この操作を瞬時に行い、俺の方に大型モニタを向けた。
俺は、背景地図から茂木太平宅を見つけ出し、そこから道を辿っていくと、瓦が出土した畑の位置がわかった。
その隣は確かに発掘調査が行われていた。俺は、この調査地区に目を凝らした。
モニタを指さして、
「この地区は、最近調査したところですか?」
「そうです」
「この調査地区を拡大してもらってもよろしいですか?」
担当は、無言で操作を行った。
遺跡の全体図がクローズアップされ、ひとつひとつの遺構平面図が明瞭に確認できる。
俺は、先日訪れた茂木太平の畑と、その隣の整地済みだった土地を思い浮かべ、瓦が出土したというところはどこかと思いながら、画面を見つめると、その境界線付近に一つの遺構があることに気づいた。
その遺構は、細長い長方形状で、茂木太平の畑に続いているため、遺構の図面が境界線で途切れている。
……この遺構だ……これに違いない。
やはりあの瓦は、遺構に伴っていたのか……
俺は、モニタ上で、この長方形の遺構を指さしながら、担当に聞いた。
「この遺構についてですが、どんな感じだったのでしょう?」
担当は、虚空に目向け、発掘調査の時のことを思い出しているようだった。
「大量の木炭が充填されていました。自然堆積ではありません。明らかに人為的に埋め込んだものです」
これを聞いて、俺は心の中で興奮した。
木炭が大量に出土した状況は、茂木太平の話と符合するからである。
続けて俺は質問した。
「出土遺物はありましたか?」
「ありました。須恵器椀と瓦の破片が出土しました」
須恵器とは登り窯で焼いた灰色の陶器のことで、奈良時代には関東ではかなり一般的になっている。
椀とは今のお碗と同じような食器の用途に使われた。
「須恵器の時期は判るのですか?」
「ええ、8世紀の中葉と考えていいでしょう」
これはすごい、と俺は思った。
豊島足此十女によって墓が造られた天平14年(742)という年代と、遺構の年代観に矛盾がないことが確認できたからである。
それと、出土した瓦のことを聞いた。
「瓦はどのようなものでしたか?」
「破片ですが。平瓦の端部破片です」
これを聞いて直感した。
俺の持つ瓦の一部だ。
「その瓦の破片を見せていただくことはできますか?」
「いいですよ。ちょっとお待ちください」
と言って、担当は遺物の保管場所へ行き、目的のものを取ってきた。
中型のチャック付ビニール袋に入れてある。
「これです」
と言って、俺に手渡した。袋から取り出し観察してみる。
……間違いない……
俺が持っている瓦の割れ口と形状がよく似ている。
本当は写真を撮りたいところだが、整理中の遺物を部外者が撮影することはまず許されないし、あまり目立ちたくなかったので断念した。
俺は、聞くべきことを聞いたので用は済んだのだが、他にこの地域の奈良時代全般の話を取り留めもなく聞いたりして、俺の目的をカムフラージュし、適当なところで話を終了した。
「参考になりました。ありがとうございました」
俺は、担当に礼を言って辞去した。
摩耶の打ち合わせの方は、まだ終わらないようなので、俺は建物を出て駐車場にあるベンチに腰掛け、自動販売機の缶コーヒーを買って飲みながら考えた。
瓦はやはり、遺構に伴うものだった。
しかも俺の持っている瓦とぴったり接合するもう一方の瓦片が出土していた。
これは、茂木太平が重機で畑を耕したとき、バケットで瓦を割ってしまい、その破片の大きな方を茂木太平が拾い、もう片方を前高市が発掘調査によって見つけたということなのだろう。
それと、この遺構からは時期が判明する遺物が出土しており、それと瓦文の造墓の年がぴったり合ったことが確認できたのである。
出土遺物の椀は、食器である。
当時一般的に使われていた食器には、須恵器という硬質の焼物と土師器という素焼きの焼物の2種類存在したが、須恵器の方がより高級である。
この須恵器椀、おそらく豊島足此十女が墓内に安置したものだろう。
椀には食べ物か何かが供えられていたのであろうか。
俺には、宿奈麻呂に対する豊島足此十女の想いを感じるように思えた。
……宿奈麻呂と豊島足此十女……
この二人は、恋人であったのか、夫婦であったのか、あるいは兄妹であったのか?