第12話 女の正体
埼玉北部の発掘調査予定地での調査員の顔合わせが終了した後、加藤と関越自動車道で帰途についた。
高速に乗ってから、加藤が世間話を始めた。
「中野さん、小泉の姉ちゃんが離婚するって聞きました?」
例の瓦のことで沈思していた俺は、現実に引き戻された。
話が摩耶のことなので、ちょっと興味を持った。
「へー。姉ちゃんいたんだ。知らなかった。摩耶ちゃんって30歳手前くらいだったよな」
「姉ちゃんは、33歳だそうです。名前は摩季っていうのですって。子供もいるそうですよ。小泉が嘆いてました。なんでもっとうまくやれないんだろうって……」
摩季と摩耶。
この時、俺の頭の中に、閃くものがあった。
……そうか!
もしかして、瓦文の<豊島足此十女>は、<豊島>と<足此十女>の両方とも、名前なのではないか?
今までは<豊島>という名字と、<足此十女>という名だと思っていた。
ひょっとして二人の名前を並列して書いている可能性はないのか?
となりで加藤が喋っていたが、俺の耳には、言葉が時々しか入ってこない。
「……でですね。静岡の浜松で、奈良時代の木簡がでてきた有名な遺跡があるでしょう。その隣で発掘調査の入札があるんですよね。低湿地遺跡っぽくてやりにくいから、入札辞退しようかな、なんて思っているんですけどね……」
……木簡!
そうか! 木簡か! 今までなんで思い浮かばなかったのだろう。どうかしている、と俺は自分の頭を殴りつけたくなった。
よし、帰ったら木簡を調べてみようと思った。
帰り道、加藤の話は、ほぼ俺を耳をスルーしていた。
今日は、いろいろ加藤から、良いサジェスチョンをもらった。
加藤が俺の家まで送ってきて、帰り際、今日の帰りの話はすごくタメになった。
今度お礼に奢るよ、と俺が言うと、怪訝な顔をしていた。
俺は、家に入るなり、パソコンの電源を入れ、起ち上がる時間がもどかしいくらいだった。
木簡とは、短冊状の薄い木の板に文字が書いてあるもので、紙が安価に普及していない奈良時代には、荷札やさまざまな記録に使用された。
長屋王邸の発掘では、大量に廃棄された木簡が出土していた。確か数万点に及ぶ木簡が検出されていたはずだ。
何か有望な文字資料が、その中に含まれているかもしれない。
木簡を調べるに当たっては、実に便利な方法がある。
ネットの奈良文化財研究所のサイトに、データベースのコーナーがあり、その中に「木簡データベース」がアップされている。登録点数は、数万点に及び、検索用の分類項目も充実している。
俺は、早速、パソコンでアクセスし、木簡データベースの検索フィールドで「豊島」を入力して検索をかけたがヒットしなかった。続けて「豊嶋」で検索をかけると、今度は20件がヒットした。
あった! その中の一つに、
<・位上行家令赤染豊嶋/年六十//>
と記されているのを見つけた。
<赤染豊嶋>なる人物は、長屋王家の家令であり、しかも官位を有している。いつの時点かはわからないが、年齢が60歳であったことがわかる。
続日本紀によると、長屋王事件の時には、事件2日後に<赤染豊嶋>は、一旦、衛士兵衛府に禁足されたらしい。しかし、その翌日には放免された。
……<豊島>とは、この人物に違いない……
漢字が微妙に異なるが、古代では漢字を使用するのに、さまざまな当て字を用いることが多いので、異とするにはあたらない。
<足此十女>については、木簡データベースにヒットはなかった。
俺は考えた。この<豊島>と<足此十女>は、どのような関係だったのだろう?
一方の<赤染豊嶋>は官位を持つ老境の家令である。
それに対して<足此十女>は、長屋王邸でどのような地位にいたのだろう?
ここで今一つ、同じく邸内にいた宿奈麻呂も、外従五位下という官位を有していた。
このことから<足此十女>だけが、ランクの低い下女のようなポジションであったとは考えにくく、例えば女官のような存在ではなかったであろうか?
それに彼女は瓦文からみて文字が書ける。
かなり高等教育を受けたとみて良い。
それと<足此十女>は、今の群馬の高前市に宿奈麻呂の墓を造った。
考えてみれば、墓を造るという行為は、その土地と何らかの深い関係がなければならない。
他人の土地に勝手に墓を造るわけにはいかないからだ。
とするなら、彼女の故郷も、今の群馬の前高市ではなかったか?
調べてみると、奈良時代においては、この付近は上野国勢多郡であったらしい。
すると、彼女の故郷は今の群馬であり、そこから何らかの事情で、長屋王邸に派遣された女官のような存在であったのだろうか?
……女官か……
それにしても少し不自然ではないだろうか?
今のように、飛行機や新幹線で行ける時代ではないし、離れたところに行くとしても、基本食料は自弁である。
例えば防人や租税の庸調を運ぶ担夫がそうであった。
そもそも基本的にこの時代は、一般女性の長距離の移動は、ほとんどあり得ない。
そもそも朝廷の女官などという者は、地方の人間など登用しない……
と考えた時、俺の頭に閃くものがあった。
……いや、ある。もしかしたら……
そう、それは、采女である。
采女とは、天皇の側で食事や身の回りの雑務を行う女官で、大宝律令では、年齢が13歳以上30歳以下、出身が郡司の郡少領以上の姉妹か娘、容姿に優れていることなどの条件を満たしていなければならなかった。
天皇の後宮の女官としての役割が、メインであったらしいが、親王としての待遇を持つ長屋王にも、配属された可能性は十分にある。
采女の出身が、地方豪族の郡少領以上の姉妹か娘ということならば、当時の上野国勢多郡の郡司が誰か分かれば、<足此十女>の素性が判明するかもしれない。
早速、俺は続日本紀に当たってみた。
すると、一つの記事が目に止まった。
<天平勝宝元年(749)5月20日。飛騨国大野郡大領外正七位下飛騨国造高市麻呂と上野国勢多郡小領外従七位下上毛野朝臣足人は、それぞれの国の国分寺に献上品を奉ったことから、両者に外従五位下を授ける>
記事の中には、<上毛野朝臣足人>なる人物が見えている。勢多郡の郡司として富貴であったようだ。
ここで俺は、うん? と思った。
郡司の名前である。
<足人>
これは、おそらく《たるひと》と読むのだろう。
一方で、瓦文の中に登場する<足此十女>と比較してみると、
もしかしてこれは、《あしこのとめ》と読むのではなく、
《たるひとのむすめ》と読むのではないか?
個人名の後に来る<女>は、その個人の娘であることを表す。
ちなみにこの当時の女性は、今の名前に当たる呼び名はもちろんあったが、それは家族の中だけで使用され、表に出ることはなかった。
ましてや公式の記録に載ることはない。
誰々の女と記載されるだけである。
<此>は本来は<比>と書くべきで、<足比十女>が正解なはずだが、<足此十女>ぐらいの当て字や誤字は、当時はほぼ当たり前であることを考えると、無理な理解ではないと俺は確信した。
……そうか……
<足此十女>は、勢多郡司の娘であったのだ。
こう理解すれば、前高の地に墓があることや、長屋王邸にいたこともスムーズに説明できる。
<足此十女>は、長屋王邸の女官だった。
だから、長屋王の側近である宿奈麻呂とも知り合えたし、勤務の内容では、家令の<赤染豊嶋>とも交流があったはずである。
そして、あの長屋王事件が起こった。
長屋王とその妻や子供たちは、審問を受けた後に自決し、宿奈麻呂も事件に関係した罪で流罪となった。
長屋王邸は没収され、そこにいた人物たちは自然と解雇となったであろう。
<足此十女>は、実家である上野国勢多郡に戻ることとなる。
その時に、例の瓦を持っていくことにした。おそらくなんらかの記念品的なものではなかったか?
彼女が帰郷してから、群馬でどうしていたかは知る由もないが、彼女の父親は裕福な郡司であり、毎年、租税である庸調を都に運ぶ責任があったことから、奈良の都の動向は、よく把握できたはずである。
その後、都では天然痘が流行り、長屋王をハメた藤原四兄弟を始め、<足此十女>が宿奈麻呂の仇とも思う人物も天然痘で死亡した。
<足此十女>はこれを、長屋王の誅として理解した。
長屋王事件から13年後、宿奈麻呂が赦されたことを知った。
そして宿奈麻呂が体を壊して故郷である群馬の地に戻ってくることも知った。
彼女は、戻ってきた宿奈麻呂を看病したが、その甲斐もなく4か月後に亡くなった。
<足此十女>は、今の前高市に宿奈麻呂の墓を造り、長屋王邸から持ち帰った瓦に、文を刻み入れ、宿奈麻呂の冥福を祈った。
だいたい、以上のような理解が、当たらずとも遠からずといった感じであろうか。
だが、まだ長屋王に誅された人物が誰なのかがわかっていない。
……もう時間が無い……
俺はもう、あと残り少ない佐伯老人との約束の日までに、この問題を解ける自信を失いつつあった。




