第9話 昇進と婚約
サーシャがアドルファスの元で奮闘しているころ、マリエッタの生活にも変化が起きていた。
「マリエッタ、大聖女さまがお呼びよ」
大聖女が直接自分を呼びつけるなんて珍しいこともあるものだ。マリエッタは不思議に思いながら、仕事の手を一旦止め大聖女の執務室に行った。
「遅かったわね、早く来なさい」
大聖女に促されて椅子に座る。大聖女は50代くらいで、痩せ型ではあるがそれでも貫禄というか威厳のようなものが備わっている。聖女と言っても全員がここに残るわけではない。修行期間を一定の花嫁修行と割り切って、縁談がまとまって途中で抜ける者も多い。ずっと未婚のまま過ごした者の中から大聖女が選ばれる。
「明日からあなたを見習いから指導係に昇進させます。それに伴い部屋も大部屋から個室に変わってもらいます。今から荷物をまとめて準備しなさい」
「えっ、私がですか!? でもどうして?」
自分でも決して模範的な態度ではなかったと思うのに、どうして出世できるのだろう? つい先日もサーシャに会いに行くために許可なく聖堂を留守にしたので、朝食抜きにとどまらず、掃除や厨房の手伝いなど多くのペナルティを課された。その矢先に位が上がるなんて、なにか裏があるに違いない。
「何を驚いているのですか? あなたの同期はとっくに出世してますよ。これでも遅いくらいです。もっと真面目に修行なさい」
昇進したのに結局大聖女から怒られてしまった。マリエッタは、部屋を辞してからも信じられないままだった。言われてみれば確かに出世は一番遅い。でも、そんなこと今まで気にしたことがなかった。普段から多くを望まない癖がついているマリエッタは、我が身の不幸を嘆くことも特になかったのだ。
しかし、一度位が上がると、こんなに楽になるものなのかと驚いた。毎日井戸から水を汲む重労働をしなくて済むし、個室に移ってプライベートが守られるのも嬉しい。ベッドの質も少し良くなった気がする。この分で行くと、大聖女になる頃には王様並みの待遇ではないかと思ってしまう。
仕事面でも大きな変化があった。これまで雑用しかしてこなかったマリエッタだが、初めて聖女の教えを授けられる機会ができたのだ。今までやってきた雑用が聖女としての修行内容だと愚直に信じてきたが、雑用はしょせん雑用だった。こんなことを今になって知るなんて、本当に自分は落ちこぼれだなとつくづく思う。
「水は命を守るためにとても大切よ! 水が汚染されていたら病気になりやすいし、食べ物も汚染されてしまう。煮沸したものしか飲めない場所もあるくらいだからね!」
ケイトが熱のこもった口調で力説する。マリエッタは聞き漏らさないように必死に耳を傾けた。
「なぜ煮沸すると飲めるようになるんですか?」
「うん!? それは、先輩がそう言ってたから、じゃなくて、まだよく分かってないけど、経験則でそうなってるの! とにかく、水は大事ってとこだけ覚えて。儀式の時も聖なる水が欠かせないでしょ? 裏手の泉から湧き出るやつ。清浄な水が私たちを守るという思想が元になってるのよ」
「ええ? あれはそんな意味があったんですか? 魔法の力が隠されてるとかじゃなくて?」
「あなた今までなに聞いてたのよ? 雑用しながらでもそれくらいのこと分からない?」
ケイトにぴしゃりと言われて少ししょげる。かつてサーシャが泉に足を浸して「どうせ誰にもバレやしないよ」と言っていたのを思い出す。あれは墓場まで持っていかなければならない秘密になってしまった。
「大聖堂で修行して地方で働く聖女もいるの。そういう人たちは、地域の住民の健康状態を守るために正しい知識を広めて啓蒙する役割もあるのよ。今言った水の話もそうだし、睡眠が大事とか、食べていい食材とダメな物の見分け方とか。一旦患ってしまったら治すのは大変だから、予防の方が大事なの。聖なる力なんて言うけど、魔力だけが物を言う世界じゃないのよ。魔力が弱くても、大聖女になった人もいるくらいだもの」
何から何まで初めて聞くことばかりだ。マリエッタは、今まで何を見ていたんだろうという気持ちになった。漫然と雑用をしていればいいやと思っていた自分が恥ずかしい。ケイトの言う通りならば、魔力が弱い自分でも、聖女として一人前の働きをすることも夢では無いのだろうか。
「そりゃそうよ。まさかあなた、どうせ芽が出ないだろうと半分ヤケになっていたの?」
「そこまでではありませんが、魔力も大したことないし家柄もよくないし、どうせ落ちこぼれだろうと思ってました……」
身を小さくして言い訳めいた口調で言うマリエッタに向かってケイトは大きなため息をついた。呆れられても仕方ない。
「これだからあなたって人は! 雑用なんて意味がないと思って毎日やっていたんだろうけど、あれだって日々の気づきが得られるものなのよ? ここは水が豊富な土地だから恵まれているの。こういうところから人々の暮らしに役立っているの」
「面目もございません……。これからは心を入れ替えて頑張ります……」
こないだ来たサーシャの手紙には、彼女も前向きになりつつあるようなことが書かれていた。自分も次に会った時に恥ずかしくない状態でいたい。いつか再会できる日を夢見て、聖女としての修行を頑張らなければと思うようになった。
ケイトからの指導が一段落してから、マリエッタは食堂に行って昼食を摂ることにした。少し位が上がったことで食事の席の位置も変わった。今までは一番末席にいたのが、部屋に唯一ある暖炉に少しだけ近くなったのだ。最下層の聖女は私語厳禁だが、上の位になるとそういった規律も緩やかになる。マリエッタが食事の入った盆をテーブルに置いて腰を下ろすと、近くに座っていた他の聖女たちの会話が耳に入ってきた。
「アドルファス・ヘンダーソン伯爵って知ってる?」
「知ってるもなにも『結婚したい独身貴族』ナンバーワンのイケメンじゃない。彼がどうしたの?」
「みんな彼を狙っていたのに、今度結婚するんですって! 相手は誰だと思う? パウエル伯爵の令嬢なのよ」
「へーっ、知らなかった! でもパウエル家の令嬢と言えば変人で有名じゃなかった? なんでも男の格好で歩いてるとか?」
「変人でも結婚してやれば、パウエル家の支援も得られるじゃない。立身出世を考えれば合理的な考えよ。これでまた一つ夢が敗れるわね。素敵な貴公子が巡礼に来てくれないかしら?」
サーシャとアドルファスの婚約が正式に発表されたのだ。マリエッタは、自分のことのように緊張して身を固くした。そうか、いよいよなんだ。ついさっき前向きな気分になったばかりなのに、今度はサーシャが遠い国へ行ってしまうような寂しさが込み上げてくる。あの時、手紙を受け取ってくれた人がアドルファスなのだろうか。その時の彼は、マリエッタの心の痛みに同調してくれるような労わりが見てとれた。優しい人だったらいいな……とマリエッタは祈ることしかできなかった。
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「準備はいいかな、サーシャ姫さま?」
控え室にアドルファスがひょっこり顔を出す。明らかに楽しんでいる顔だ。サーシャは、ドレスを微調整しながら、鏡越しに彼をにらんだ。
「殿方がレディの控え室に顔を出さないでくれる? 婚約お披露目パーティーなんて気が重いだけだわ」
「女性の話し方もすっかり板についたね。よく頑張った」
「本当はかなり無理してるけどね。あなたはよくそんなに楽しそうにしてられるね?」
サーシャは数日前に本邸に入った。モリーの指導がようやく形になったのと、現伯爵の家長の妻となるサーシャが、父の後妻に遠慮する体裁をいつまでも取るわけにいかないという事情もある。そこで、サーシャはノーランを連れて本家に移動した。モリーは別邸の方が居心地がいいからと留まる方を選んだ。
「だって実際楽しいじゃないか。私のかわいい婚約者をようやく皆の前に見せられるんだよ。こんなに嬉しいことはない」
「本気で言ってる? どうせ男の格好をしていたじゃじゃ馬娘がどれだけ調教されたかみんな見たいだけだよ」
「なんだ、知ってたの?」
平然と言ってのけるアドルファスに、サーシャはずっこけそうになった。
「やっぱりそうじゃないか! あなた、ぼ……私が笑い物にされても構わないと?」
「まともな人間ならば、私のお嫁さんになる人を面白おかしく言ったりしないだろう? こんなに素敵な君をどうしたら悪く言える?」
アドルファスはそう言うと、サーシャに向かって両手を広げてみせた。彼の顔をじっと見つめたが、どうやらからかっているわけでもないらしい。サーシャは恥ずかしくなって、ぷいと顔を背けた。
「仕事ができる人はお世辞も上手ね。私がいないと出世にも響くから必死に引き留めようとしてるのね」
「まさか、そんな理由で君を選んだと思ってるの?」
「えっ?」
「カッコいいじゃないか、みんなに嫌われるのも厭わずに自分のスタイルを追求するなんて。私は周囲の期待に応えるのに必死だったから君が眩しくて仕方なかった。でもそのままにしてたら、ぽっきりへし折られそうな危うさも感じたのは事実だ。あれ、この話しなかったっけ?」
サーシャは呆気に取られて空いた口が塞がらなかった。どうしてこんな時に薮から棒に大事な話をするのか? しかも初耳である。とことん掘り下げないと気が済まないのに、無情にも開会の時間になってしまう。もしかしてアドルファスは忙しい時間帯だからこそこんな話を持ち出したのかもしれない、敢えて深入りさせないために。
「後でゆっくり話を聞かせてもらいますからね。逃げないでよ」
「怖いなぁ、お手柔らかに願いますよ」
こうして二人は腕を組んでお披露目パーティーの会場へと出ていった。
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