第5話 モラトリアムの終わり
それからの一年近くの期間は、二人にとって、今まで生きてきた中で最も幸せなひとときだった。幸い、周りの人間に邪魔されることもなく、二人だけの世界を構築していった。聖なる泉で密かに会ったり、休みの日にデートしたり。サーシャに会えると思えば、厳しい仕事も苦にならなかった。
そんな日々が永遠に続くと思っていたある日。
「サーシャどうしたの? なにか気になることでもあるの?」
マリエッタに聞かれるまで、サーシャは自分が考えにふけっていたことに気づかなかった。
「えっ? ううん。なんでもないよ。いつもと違う?」
「うん、ちょっと……。いや、気のせいかな? よく分かんない」
そう言ってへらっと笑う。サーシャは、マリエッタに気付かれてないことを知ってほっと胸をなで下ろした。絶対に知られてはならない。いつまで隠し通せるか分からないが、マリエッタを落胆させるようなことはしたくない。
今を去ること一週間前、サーシャの父がこんなことを言ってきた。
「今まで散々延期してやったが、もう我慢の限界だ。サーシャ。お見合いをしなさい」
お見合いの話になるといつも激しい親子喧嘩になる。結婚する気はないと言っても、両親は決して耳を貸そうとしなかった。それでも娘の気迫に押されて、先延ばしになっていたが、18歳を迎えるに辺り、いよいよごまかしが効かなくなったのだ。
「何度も言ってるでしょう? 僕は、男の人に頼る生き方はしたくない。自分で人生を切り開くんだよ」
「またそんなことを言っている。一人で生きていける人間なんて、男女問わずどこにもいないんだよ。私たちはみな、お互い助け合って生きている」
「そんなおためごかしを言わないで! はっきりと家の存続のために必要だと言いなよ! 爵位なんて何の役にも立たない! こんなくだらないことを続けてなんの意味があるの?」
言いたいことだけ言って、部屋に鍵をかけて閉じこもる。これがいつもの親子喧嘩の顛末だ。最近こうなる頻度が多くなっている。マリエッタさえいれば何も不満はないのに。サーシャは、楽しいひとときに嫌なことを思い出してしまったことを後悔した。
この日も夕方までたっぷり遊んで、日が暮れる前にマリエッタと別れた。向こうも大聖堂の門限が厳しいので遅れたらまずい。大聖堂の前まで送り届けて、自分も家へと急いだ。
家の中に入ると言葉にならない異変を感じた。何やらいつもと雰囲気が違う。何かを待ち構えているような、どこか緊張した空気。サーシャは本能的に身構えた。
「サーシャ帰ってきたのか。ちょうどいい。私の部屋に来なさい」
執務室から父の声が聞こえる。いったい何の用事があるというのだろう。サーシャは、警戒心を解かぬままそろりそろりと執務室へ向かった。
扉を開けると父の他に20代半ばくらいの青年が立っていた。初めて見る顔だ。サラサラした銀髪を背中に流し、切れ長の目をゆっくりとサーシャに向ける。彼と目が合い、思わずビクッとする。彫刻のように美しく整った顔立ちに怜悧な眼差し。サーシャは一瞬にして彼が何者か察した。
「父上! 僕に何の断りもなく、本人を連れて来たのですか!? 見合いの時間には遅すぎるでしょう? もう夕方ですよ?」
「不意打ちでなければ会ってくれないだろう? こちらの事情をお話ししたところ、それでも構わないとおっしゃっていただいた。こちらアドルファス・ヘンダーソン伯爵だ。お前も自己紹介なさい」
しれっと言う父を、サーシャはきっとにらみつけた。しまった、嵌められた。あらかじめ見合いの日を設定すると、家出されるとでも思ったのだろう。確かにその予想は当たっている。サーシャはいつでも家から逃げられるように、家出用の荷物を詰めた鞄をベッドの下に用意していた。
歯ぎしりしたまま押し黙る娘を見て、父はため息をついた。
「本当に申し訳ない。ここまでご足労いただいたのにどこまでも失礼な娘で面目ございません。本当にサーシャでいいのですか?」
「なかなか面白そうな令嬢ではないですか。おおいに興味を惹かれました」
アドルファスは、愉快そうに目を細めてサーシャを眺めまわした。本当に不快そうなところはなく、余裕めいたものすら感じられる。その態度がまた癪に触った。
「わざわざ会いに来てくれて恐縮だけど、結婚する意思は一切ありませんので。これ以上の話し合いは無駄ですよ」
「話は父上から聞いているよ。何でも一人で生きていくんだって?」
「できないと思ってます? そんなのやってみなきゃ分からないでしょう! やる前から手足をもいで『ほら、できないじゃないか』とでもおっしゃるおつもり?」
アドルファスはこらえきれなくなったようにクスクスと笑いを漏らした。お腹に手を当て、身をかがめて笑っている。
「生きがいいのは結構なことだ。噂には聞いていたけど、本人に会ってみたらそれ以上に魅力的でますます気に入った。私でよければ婚約者になってくれませんか?」
まっすぐ向き直り直立の姿勢になってから、こちらに片手を差し出してプロポーズの言葉を口にする。サーシャは彼を穴のあくほど見つめた。
「はあっ? 僕の話聞いてました?」
「もちろん聞いていたよ。その上でお願いしているのだが?」
涼しい顔のままのアドルファスがたいそう憎らしく思えて、サーシャはとうとう堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけるな! 僕は見せ物じゃない! 珍しいものを見たいなら、見せ物小屋か動物園にでも行ってくれ! こっちは真剣なんだ!」
「私も真剣だ。至って真面目に言っているのだが?」
「あんた……、僕を女だと思ってバカにしてるんだろう?」
サーシャは顔を真っ赤にしてわなわな震えながら言った。もし自分が男だったら、目の前のスカした野郎をぶん殴っているのにーー。
「女だからバカにしてるんじゃない。立派で尊敬に値する女性はごまんといる」
「どういう意味だ?」
「反抗的なくせに、親の庇護のもとでぬくぬくと暮らして恩恵だけは得ている、その態度がバカらしいと言ってるんだよ。一人で生きるんだと言いながら、なぜ家にずっといる? さっさと実行すればいいだろう?」
それを聞いたサーシャは、今度は別の意味で顔が赤くなった。彼の言う通りだ。いつでも家を出るチャンスはあったのに、先延ばしにしていたのはサーシャ自身だ。本音のところでは、このぬるま湯の生活が心地よかった。衣食住に困らず、親友にも会えて、責任から自由でいられる。本当はずっと続いて欲しかった。うつむいて唇をかみしめるサーシャに、アドルファスは、少し声を和らげて言った。
「分かったなら少しは私の話を聞いてほしいーー」
「いやだ」
「サーシャ、まだそんなことを言っているのか?」
父がたまらず言葉を挟んだが、それにもかかわらず、サーシャは下を向いたままだった。
「あんたは、僕が世間知らずの甘ったれと言いたいんでしょう。確かにその通りかもしれない。でも嫌なものは嫌なんだ。結婚して、家に縛られ、夫に縛られ、生殺与奪の権が自分にない状態は耐えられない。頼むから分かってくれ」
アドルファスは、なにやらしばらく考えこんでいた。重い沈黙が続く。やがて、彼はふっと顔を上げて、意外な提案をした。
「君は、言葉を尽くしてもはいそうですかと従うタイプではないようだ。何度も何度も訪ねて説得を試みても、隙を見て家を出て、どこかの人買いに捕まるのがオチだろう。私は今晩で蹴りをつけたい。どうだ、私と勝負しないか?」
「え? 勝負?」
サーシャは、目を見開いてアドルファスを見つめた。
「そう。なんでもいいよ。チェスでもカードでもフェンシングでも。君が選んで構わない。どうする?」
今度は、サーシャが考え込む番だった。どういう意図があってこんな提案をしてくるのか? アドルファスの真意はどこにあるのか? 隠された裏の意味を見出そうと頭をひねったが、なにも浮かばない。この賭けに乗るべきか乗らざるべきか? ここで決断をしなければならない。
「もし私が勝ったらあなたは引き下がってくれるの?」
「もちろん。二言はないよ。ただし、反対の結果になっても同じだよ。分かってるね?」
サーシャが負けたら、アドルファスとの婚約を受け入れなければならない。そういう意味だ。
「それくらい分かってるよ。バカにしないでほしい」
問題は、何で勝負するかだ。ここで選択を間違えてはいけない。見たところ、アドルファスは相当頭の切れる男のようだ。頭脳戦は経験値が高いと見える。それなら武力のほうは? 長身ではあるが細身の体型を、サーシャはじろじろと眺め回した。この体格ではさほど力は強くないだろう。体を鍛えているようには見えない。剣術ならばサーシャにも勝機がある。彼女は剣の稽古をずっと続けてきた。師匠にも筋がいいとお褒めの言葉をいただいている。
「フェンシングでお願い」
「あい分かった」
そう言った時のアドルファスが一瞬にゃっと笑ったように見えたのは気のせいだろうか。夕方ではあるが、まだ太陽が沈んでなかったのは幸いだ。二人の勝負は庭で行うことになった。
不安を隠せない父をよそに、サーシャは黙々と準備を進めた。一世一代の大勝負だ。ここでしくじるわけにはいかない。普段の力が発揮できればきっと大丈夫。単純な力勝負に持ち込まず、俊敏さと戦略で相手の隙を作るのだ。彼に剣術の心得がなければサーシャにも十分勝ち目はある。そんなことを考えながら、彼女はコートを脱いだ。
「父上、カウントをお願いします」
「3、2、1、始め!」
始めの合図で、サーシャは剣先をまっすぐ向けたまま前に飛び出た。早く蹴りをつけるつもりだった。しかし、正確に前に出した剣先は、あっけなくアドルファスに跳ね返された。そのスピードとタイミングに思わず目を見張る。驚く暇もなく、今度はアドルファスが攻撃を仕掛けてくる。すんでのところで避けることができたがそれだけだ。反撃する前に、第二第三の攻撃が降りかかる。
(なんだこれは……。相当の手練れじゃないか。誰だ、剣術なら勝機があるなんて言った奴は?)
アドルファスは、相当な剣の使い手だ。ここまで到達するのにたゆまぬ訓練をしてきたに違いない。同じく剣術を習っているサーシャには理解できた。それに、体の線は細いものの、服の下には均整の取れた筋肉が付いているに違いない。剣で彼の攻撃を交わすたび、体力が消耗していくのが分かる。このままでは、ボロを出すのは自分のほうだ。早く蹴りをつけないと。サーシャは勝負に出た。一瞬攻撃が止まったのを狙って、一旦小さくかがんでから、前に大きく飛び出したのだ。
「やった……、あっ!」
しかし、狙いを正確に定めたはずの突きは、圧倒的な力量差で跳ね返された。剣はサーシャの手を離れ、くるくると宙を舞って地面にぐさりと突き刺さる。気づくと、目と鼻の先にアドルファスの剣先があった。勝負ありだ。
「私の勝ちだ。サーシャ嬢、怪我はないか?」
汗ひとつかかず涼しい顔のまま、アドルファスは剣をしまい、サーシャに向かって手を差し出した。
「近づくな! 触るんじゃない!」
サーシャは、半狂乱になって叫んだ。自分の負けを受け入れられず、半泣きになっていた。怪我なんてどうでもいい。それより、これから自分はどうなるのだろうか?
「いい勝負だった。女性でここまで戦える人がいるとは思わなかった。真面目に剣術に取り組んできたのが分かる」
「お世辞なんか言わなくていいよ。結果は結果だろう?」
「それは確かにそうだ。急に物分かりが良くなったな」
アドルファスが顔をほころばせたが、サーシャは顔を背けただけだった。
「パウエル卿、いますか?」
「あ、はい!」
呆然としていたサーシャの父は、急にアドルファスに呼ばれて我に帰って返事をした。
「これで婚約は成立しました。準備ができ次第、ご息女を迎えに再訪します。それまで逃げられないようにしっかり監視してください。外出はもちろん、面会や手紙もやりとりも禁止です。隙をついて逃げられたら元も子もありません。いいですか、頼みましたよ? ではまたお会いしましょう。サーシャ嬢もお元気で」
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