第3話 崖っぷちのモラトリアム
それからは、夢のようなひと時だった。サーシャが二人分の食事を用意していて、一緒に食べようと言ってくれたのだ。思ってもみなかったことに、マリエッタは、慌てて断ろうとした。
「こないだは体が弱っていたからとても助かったけど、いつも甘えるわけにはいかないわ! あなたと会えるだけでいいの。それ以上のことは望んでいないから」
「そうじゃなくて、僕がマリエッタと一緒に食べたいんだよ。家じゃいつも一人ぼっちだから。君とならおいしく感じられるかもしれない」
そんなことを言われたら断れなくなってしまう。それに、自分と一緒に食べたいなんてサーシャに言われたら、嬉しすぎて天にも昇る気持ちだ。マリエッタは、恐縮しながら食べ物の包みを受け取り、雑念を振り払うかのようにがぶりと噛みついた。
普段食べられない高級なバゲットサンド。崩したゆで卵のまろやかさの中にマヨネーズの酸味がアクセントになる。高位貴族はこんなものを毎日食べているのかと改めて驚く。
大聖女ならいざ知らず、自分のような下っ端にはとても手が届かない食べ物だ。それを神聖な泉のほとりで食べているなんて知られたら、大目玉どころでは済まないだろう。
でも、マリエッタが一番嬉しかったのは、サーシャと一緒に食べられたことだ。聖堂の食堂は薄暗い半地下にあり、とても食事を楽しめる雰囲気ではない。そもそも、修行中の身で食べることに喜びを見出すのは贅沢だと禁止されている。機械的に栄養を体に詰め込む作業に過ぎないのだ。
それが、サーシャとおしゃべりをしながら、木漏れ日の下でいただく食事は、この上もないご馳走だった。それはサーシャも同様のようで、太陽よりも眩しいキラキラした笑みを浮かべていた。
「あーおいしかった! うちの食べ物ってこんなにおいしかったんだ! いつも砂をかむような気持ちで食べていた!」
「そんなの贅沢よ! こんなにおいしいのに砂をかむだなんて。作ってくれた人に失礼だわ!」
「マリエッタと一緒だからおいしかったんだよ。君となら、どんな粗末な料理でも、一流シェフのフルコースに変わってしまう」
サーシャの混じり気のない賞賛に、マリエッタは恥ずかしくなって頬を染めた。いくらなんでも大袈裟では。
「大袈裟なんかじゃない。本心からの気持ちだよ。またこうして君と会いたいな。次はいつ会える? 聖堂で行われる儀式の日をチェックすればいい?」
「それもいいけど、手紙の交換をしましょう! それなら連絡も取りやすくなるし、会える日が増えると思うわ! 休みの日が分かれば、街の中でも会えるでしょ?」
マリエッタは、大聖堂に来てから今まで休日をとったことがなかった。一番下っ端は休みが取れないのかと最初は思っていたが、どうやらそうではないらしい。彼女よりいい家出身の同僚は、週に一度きっちり休んでいることを後に知った。でも自分の立場では申し出たところで許可が降りないだろうと諦めかけていたのだ。でも、サーシャに会うためなら事情は変わる。上司が渋い顔をしようが、押し切る勇気が出てきた。
「ねえ、そろそろ時間ヤバくない? 遅いって怒られない?」
「あっ! いけない! そろそろ戻らなくちゃ!」
マリエッタは、我に返り突然立ち上がった。聖なる泉の水がなければ儀式は始められないから、マリエッタの責任にされてしまう。
「それならこないだみたいに僕が運んでやるよ。マリエッタには重いだろうから」
サーシャは、マリエッタの返答も聞かず、片手でひょいと木の桶を手にして水を汲むと、こないだのようにすたすたと聖堂に向かって歩いていった。マリエッタが小走りで後を追いかけるのも同じだ。
「そんな……、申し訳ないわ」
「これでも鍛えているからどうってことない。腰に帯びている剣もおもちゃじゃないよ。いざという時使えるよう常備してるんだ」
マリエッタは驚いて目を見張った。サーシャが男装している意味なんて考えたことなかったが、男性と同じように戦うためなのだろうか?
「実践はしたことないけどね。でも森を歩いてる時に野犬が襲ってきた時は役に立った」
それを聞いてひえ……と小さく叫び声を上げる。自分だったらなすすべもなく固まっていただろう。
「だから僕にできることがあったらなんでも言って。ほら、もう見えてきた」
視線の先には、フェリシア大聖堂の裏口が見えていた。これで怒られずに済むとホッとすると同時に、サーシャとの宝石のような時間が終わってしまうと悲しい気持ちになる。
「じゃあね、マリエッタ。帰ったらすぐに手紙を書くね」
「私こそ帰ったらすぐに書くわ。本当にありがとう。あなたみたいな素敵な人が友達なんて言ってくれて嬉しい……。本当に私なんかでいいの?」
「『なんか』は禁止。マリエッタだからいいんだよ」
マリエッタは、サーシャに何かお礼をしたかった。このまま別れるなんて名残惜しすぎる。せめて感謝の気持ちを何らかの形で伝えたかったのだ。その時、ふとうっそうと茂る緑の中に、黒い斑点のついたオレンジの百合が目に留まった。野生の百合の花だった。
「ねえ、ちょっといいかしら」
マリエッタはその百合の花を摘み取ると、少し背伸びをしてサーシャの艶やかな髪に差した。百合の騎士。今頭の中でぱっと浮かんだ言葉だが、サーシャにぴったりの言い回しだ。
「素敵! よく似合うわ」
「ありがとう、僕も嬉しいよ。また会おうね」
サーシャはキラキラした笑顔を残して去っていった。マリエッタは、いつまでも彼女がいなくなったところを見つめ、余韻を味わうかのようにいつまでもその場に立ち尽くした。サーシャみたいな人に友達と言ってもらえるなんて、自分はなんて果報者なんだろう。お姫様を王子様が助けに来る御伽話なんて、現実には存在しないと思っていたのに、こんな身近に王子様が実在したのだ。マリエッタは、いつまで経っても現実味がないように感じられて仕方なかった。
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サーシャは百合の芳香を楽しみながら、足取り軽く帰宅した。しかし義母の一声で、幸せで膨らんだ心が一気にしぼむことになる。
「サーシャ、また男の格好なんかして。どこへ行ってたの?」
義母は、階段を駆け上って足早に自分の部屋に閉じこもろうとするサーシャを目ざとくとらえ、一階から刺々しい声をかけた。やれやれ。分かってはいたが、毎度毎度うざったいたらありゃしない。どうせ、周りから白い目で見られるのが恥ずかしいだけのくせに。サーシャは、反抗的な眼差しで継母をにらんだ。
「周囲の目を気にする家族に気をつかって、人気のない森を散歩してただけですよ。なにか問題でも?」
「あなたの将来を心配していると言ってるのがどうして分からないの? 変な噂が立ったらいくら名門のパウエル家とは言え、嫁の貰い手がなくなってしまうわよ!」
「それが迷惑だって言ってんだよ!」
サーシャはたまらず叫び声を上げた。
「あなたも父上も、僕のこと本当に心配して言ってる? どうせ周りから変な目で見られるのが怖いだけなんだろう? 知らない人間が何を言おうが、ほっとけばいいじゃないか! 名門貴族のパウエル様がなにビクビクしてるんだよ? 僕がどんな格好をしようが勝手だろ! 誰にも文句は言わせない!」
そう言うと、自分の部屋に閉じこもってピシャリと扉を閉めた。そして、椅子の背もたれにコートを置いて、ソファにごろんと寝転がった。
(全く! どいつもこいつもバカばっかり! 早くこんな家出て行ってやる!)
サーシャは、憤懣やる方なくソファの肘掛けを蹴って八つ当たりした。
(まだ父上と母上は、僕をどこかへ嫁にやることを諦めてないらしい。男に頼る生活は真っ平ごめんだとあんなに言ったのに!)
サーシャは、自分が女に生まれたことを心底呪っていた。男に生まれれば、一人で生きることができるのに、女に生まれたせいで、男に守られる生き方しかできない。自分の生き方を他人に委ねるなんて到底受け入れられなかった。私は、母のようにはならない。
サーシャの実母は体も心も弱い人だった。実家の身分が高く美しかったので、たくさんの男性から求婚されたという。その中から選んだのが、パウエル伯爵、父のことだ。新婚当初は相思相愛だったが、母が妊娠すると父は隠れて浮気をするようになった。
その時も揉めに揉めたらしいが、サーシャが生まれて一時は治まった。娘から見ても母は繊細な人だったが、しばらくは平和な日々が訪れた。
再燃したのは、サーシャが9歳の時。母が再び妊娠したのだ。サーシャは大事に育てられてはいたが、やはり嫡男が生まれることが望ましい。今度こそ男児であってくれと、母は周囲から期待をかけられた。
しかし、ここでまた父の浮気癖が再発した。何もなければ穏やかでいい人ではあるのだ。しかし、そんな理性的な人でも制御しきれない衝動は持っているらしい。母は、夫の二回目の裏切りに大層心を病んだ。それが原因かどうかまでは分からない。結局、新しい命は死産という結果に終わった。母も産後の肥立が悪く後を追うように亡くなった。
当然ながら、このことは、サーシャの人格形成に暗い影を落とすことになる。母が亡くなった直後は、ただ悲しみに暮れていただけだったが、成長して色々なことが分かってくると、父を始め周囲の大人を憎むようになった。
それは、亡くなった母も例外ではなく、夫に依存して精神をすり減らした母がみっともないと思うようになった。男に頼らず一人で生きていきたい。思春期に差しかかったサーシャはそう考えるようになった。
14歳の時に父が再婚した。やはり跡取り息子を諦めきれないらしい。サーシャにとっては唾棄すべき父だが、一つ救いだったのは、後妻に入った継母は、父と浮気していた相手ではなかったことだ。だから、継母には悪感情は持っていない。でもそれだけのことだ。継母は、サーシャを矯正したくてなにかと介入してくるが、余計なお世話である。とっとと後継ぎを産んで、自分など無視するようになればいいのに。
(あーあ。鳥はいいな。翼があるからどこまでも飛んでいける)
サーシャは、窓の外の景色をぼんやり眺めながら、そんなことを考えていた。
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