第14話 保身という罠
時はサーシャの結婚直後まで遡る。アドルファスとサーシャは、それは豪華な結婚式を挙げた。まるで御伽話に出てくるようなふわふわしたドレスを着て、ありとあらゆるものに贅を尽くした式は、後々まで人々の語り草となった。しかし、主役の二人は至って冷静というか、冷めていると言ってもよかった。
「あなたがこんなロマンチストだとは思わなかったわ。私を砂糖菓子のように飾り立てて満足?」
「もちろん美しく飾り立てた君を見るのは楽しい。でもそれ以上に宣伝効果が見込める。世間が私たちを何と言ってるか知ってる? 美貌の貴公子がじゃじゃ馬を手なずけて、お姫様になる魔法をかけたんだって。それならこっちもその話に乗ってやろうじゃないか」
アドルファスの説明を聞いても、サーシャはふんと鼻を鳴らした。どこか不満げのようだ。
「いい気なもんね。あなたは褒められるけど私はコケにされるだけじゃない。妻の評判を下げる代わりに自分の株を上げていい気分ですか?」
「おやおや、サーシャ姫はおかんむりだね。大丈夫。君ならどんな場所でも輝ける。私はそういう人を選んだのだから」
アドルファスはそう言うと、鏡台の前に座るサーシャの背後に回り、彼女の肩に両手を乗せた。そして、鏡越しに妻の顔を見てから前に回り込み、愛おしそうに額にキスを落とした。
実際、アドルファスは、自分の妻に一定以上の役割を求めているようだ。二人の実家、ヘンダーソン家とパウエル家は、どちらもそれなりに実力のある家だ。その両家が姻戚になったのだから、アドルファスの野心は言わずもがなである。だから、サーシャはただいるだけで最低限の役割を果たしていると言えるのだが、アドルファスは車校の席には必ず同席させるなど、積極的に妻を人前に立たせた。
「素敵な奥様ですね。二人並ぶと正に美男美女カップルだ」
こんな歯の浮くお世辞も最近は笑って受け流せるようになった。しかし、サーシャ本人は、この順調すぎる生活に物足りなさを感じるようになっていた。なんと言うか、アドルファスの掌で転がされているような、そんな気がするのだ。
サーシャは婦人だけの社交の場でも注目の的になった。飛ぶ鳥を落とす勢いで出世する若手の有力貴族、アドルファス・ヘンダーソンの美しい新妻とあっては、放っておかれるはずがない。あちこちの会合に引っ張りだこになっては、注目の的になっていた。
「あなたがヘンダーソン氏の奥さん? まあ、なんて愛らしい」
社交界の重鎮の夫人がサーシャを傍に置いて猫なで声で言う。サーシャも必死で愛想笑いの顔を作った。
「パウエル家とヘンダーソン家が姻戚になれば怖いものなしね。ヘンダーソンさんの将来も安泰だわ」
「そんな、
「どうだった、今日の集まりは?」
「毎度ながら、どのグループに参加しても変わり映えのない話題だわ。外側ばかり取り繕って、偽善の塊で、全く反吐が出るったらありゃしない。今日も貧しい国に援助しましょうみたいなことを言ってた人がいたけど、きっと自国の貧民街すら歩いたことないわ」
「ははは、いいね。その調子」
長椅子にゆったり座ったアドルファスは心の底から楽しそうに笑う。サーシャはそんな彼をジロリとにらんだ。
「これでもあなたの顔に泥をぬったら悪いと思って言いたいことも言わずに我慢してるのよ? 変わり者の妻が変なことを言ったらあなたの評判まで落とすでしょう?」
「なんだ、君もそんなことを考えるようになったんだ、丸くなったね。私は別にそこまで求めちゃいない。むしろこの硬直した貴族社会を君が引っ掻き回したら面白いのにとすら思ってるよ」
丸くなったと言われ、またむっとする。誰のために窮屈な思いをしていると思っているんだ。まるで他人事じゃないか。
それともう一つ気になることがある。最近気づいたのだが、どうやらうちの夫はモテるらしい。二人で歩いているとやたら視線を感じるようになったが、正確には自分の斜め上を見られているようだった。以前にも義母のパティが色目を使ったことがあったが、似たような事例は数知れず起こるようになった。その度に目を光らせているのも正直つらい。
(無駄に顔がいいのが問題なのよ……! 別に私自身は面食いじゃないのに! 変なところで気苦労が絶えない!)
伯爵の妻ともなればやることが多い。毎日は慌ただしく過ぎていく。だから、意識せぬ間に「こうならなければならない」と自分で自分を縛っていることに気が付かなかった。全てはアドルファスのため。うまくいっている時はそれでもよかった。しかし、思わぬところから綻びが出てくるようになる。
エミリー第二王女がサーシャに会いたいという打診があったのはこのころだ。つまり、友人の一人になってほしいという意味だ。王族の友人として側に仕えるのはとてつもない名誉とされていた。どうやら、社交界でも名を馳せるサーシャに興味を示したらしい。
「あなたがアドルファスのお嫁さんね。思った通り素敵な人ね。彼の奥さんにふさわしいわ」
サーシャより年下のエミリー王女は、無邪気な好奇心をぶつけてきた。やはり、ここでもアドルファスは人気らしい。サーシャは愛想笑いでごまかすしかなかった。
しかし、この後もひたすらアドルファスの話題。どんな食べ物が好きかとか、とっておきのエピソードとか。そのうち、サーシャは、エミリー王女は自分のことはこれっぽちも興味を持ってないということを認めざるを得なかった。
そしてもう一つ気になることができた。最近アドルファスが家に戻らないことが増えたのだ。なんでも最近、他国との折衝役に抜擢されて多忙らしい。この案件が成功すれば更なる出世が見込まれるのでアドルファスは張り切っていた。サーシャが寂しいなんて言う隙間はない。そんな素直な気持ちをあけすけに言ったら笑われるんじゃないか。プライドにかけても弱音を吐くことはできなかった。
「サーシャったらどうしたの、ぼんやりして? なにかあったの?」
ふと、エミリー王女に声をかけられてハッとする。どうやら考えごとをしていたらしい。
「すいません。ちょっと別のことを考えてました」
「そんなんだから裏をかかれるのよ。もう少し目を光らせてなさい?」
なんのことやら分からず、きょとんとして聞き返す。
「やだ、知らないの? アドルファスが最近さる公爵未亡人とねんごろになっているという噂。最近家に帰ってこないんじゃない?」
誰にも言っていないことをズバリ言い当てられ、思わずぎくっとする。顔に出さないつもりがばっちり丸分かりだったようだ。
「やっぱり。あんなハンサムな人、狙われて当然だわ。私だって憧れるくらいだし。それに男なんてのはね、出世のためなら手段を選ばないものなのよ。あなたも気をつけたほうがいいわよ」
年下のエミリー王女に訳知り顔で言われるのも違和感あるが、なにやらよくないことが起こっているのは察せられる。本人を問いただそうにも、会う機会がないのだからどうしようもない。それに、この時頭に浮かんだのは、父と母のことだった。
(貴族ならば浮気なんて誰でもするものよ。政略結婚だから、自由恋愛は不倫からという人もいるくらい。うちの父だってそうだったじゃない。気に病み過ぎたら母のようになってしまう)
もうずっと忘れていたのに、今になって母のことを思い出してしまった。愚かにも、夫の愛情を信じてしまった母。信じたばかりに裏切られた時の反動が大きくなって、心を病んでしまった。自分は母のように弱い人間にはなりたくないと思い、強くなろうと決心した。元を辿れば、男装するようになったのもその一環だ。
でも、疑心暗鬼になるのを止められない。どこの社交場に出ても、夫とのことが噂されているのではないかと気になった。実際に、エミリー王女のように心配している風に聞いてくる人もいるからなおさらだ。しかも、貴族社会は、結婚する前は貞操観念を持ち出すくせに、結婚してからは比較的自由なところがあった。サーシャはこの価値観にいつまでも慣れないままだったが、他の皆は当たり前のように受容している。アドルファスも同じ考えなのかもしれない。
たまに帰宅する彼はぐったりと疲れている様子だ。仕事が忙しいのは確からしい。ソファに深く沈み込み、そのまましばらく動かない彼を見たら、被害妄想かもしれない疑念をぶつけるなんてできるはずがなかった。
そのさなか、びっくりする出来事が起きた。妊娠したのだ。あまりにも寝耳に水の出来事で、サーシャは大いに戸惑った。まさか、こんなタイミングで妊娠するなんて。しかし、大きな問題が一つあった。アドルファスが海外赴任で不在なのだ。折衝していた相手の国にしばらく出張に行ったまま、しばらく戻れる見込みがない。
そのため妊娠の報告は手紙で済ませた。喜びに満ちた返信を見てサーシャは安心した。ここ最近の不穏な噂が吹っ飛ぶくらいの爽快感だ。やっぱりあんな噂は嘘だったんだ。だって、この手紙を読めば私は彼に愛されているのが分かるもの。
愛? 今になってこんなありふれた言葉が妙に引っかかる。そう言えば、婚約パーティーの時、自分は愛を知らないと言った気がする。じゃあ、今はちゃんと分かっているのだろうか? ここまで考えたところで、なにおかしなことを言ってるんだと自嘲する。きっと疲れているんだろう。こんな時は休むに限る。いやだ、私ったらいつの間にか母みたいになってる。一人でも生きていくのが目標だったはずなのに、いつの間にか愛なんて頼りないものにすがってて。全く馬鹿げている。
結局その夜はなかなか寝付けなかった。妊娠するのは本来喜ばしいはずなのに、捉えどころのない不安にどこまでもさいなまれた。妊娠中はつわりもあるし気持ちも不安定になりがちだから。そんな言葉で慰められるが、いまいちピンとこない。
結局それは未来に対する予感だったのだろうか。初めての妊娠は、初期のうちに流産という結果に終わった。どうしよう、アドルファスに合わせる顔がない。サーシャは、これまでにないくらい嘆き悲しんだ。余りに激しいので、モリーやノーランが駆けつけたほどだ。モリーが「初期の流産は珍しくないのよ、原因がなくても起きるものなの」と必死で慰めても、サーシャは聞く耳を持たなかった。
せめてこんな時アドルファスがいてくれれば。しかし、彼が帰ってくる見込みはまだない。取り敢えず黙っているわけにはいかないので、正直に手紙で知らせた。手紙を書き終えた後、サーシャはぼんやりした頭で考えた。
(手紙……。そう言えば、マリエッタからも久しぶりに手紙が来てたっけ。しばらく返事がないから心配してたけどこないだやっと届いたんだった)
いつもは、届いたらすぐに封を開けて読んでいたマリエッタの手紙も、人生の一大事ですっかり忘れていた。サーシャはふらふらした足取りでマリエッタの手紙を取りに行った。封を開け、懐かしいマリエッタの文字が目に飛び込んでくる。どうして彼女を忘れることができたんだろう。大切な友人なのに。
しかし、手紙の内容を読んで今度はびっくりした。なんと、嫁ぎ先が没落して土地と家を売り払い廃業したというのだ。そして、王都に引っ越して店を開いたらしい。手紙には転居先の住所が書いてあった。王都なら一人でも行ける。サーシャは突然天啓を受けたかのようにフラフラと立ち上がり、すぐに出かける準備を始めた。
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