第1話 マリエッタとサーシャの出会い
毎日一話ずつ投稿します。全20話、8万文字の長編となります。
「マリエッタ! 床磨きをするだけでどれだけ時間かかるのよ! いつになったら仕事を覚えるの?」
国で一番大きいフェリシア大聖堂は、毎日多くの巡礼者が訪れる一方で、聖女の養成機関としても知られている。しかし、その舞台裏では今日も怒号が飛び交っていた。
「次は泉まで水を汲んで来て! 儀式に使う聖なる水だからねっ! こぼすんじゃないよ!」
マリエッタと呼ばれた少女は力なく返事をすると、よろよろと木の桶を持って裏口から外に出た。これから大聖堂が所有する広大な森の真ん中にある泉へ行くのだ。そこは、聖なる水が湧き出る泉として厳重に守られており、宗教的儀式があると必ずその水を使うことになっていた。泉までは、足場の悪いけもの道を通らなければならず、水の入った重い桶を持って歩くのはかなりの重労働だ。
今日も朝食を与えられなかったので空の桶を持ってるだけで足がふらつく。何かの罰でそうなったのだが、最早理由なんて覚えてない。ほぼ毎日、取るに足らない理由でケチをつけられ、嫌がらせのように朝食を抜かれるので、すっかり慣れっこになっていた。問題は、ここでヘマをしたら昼食まで抜かれてしまうことだ。それだけは何としてでも避けたい。
マリエッタは、足を踏ん張りながら十分以上かけて歩いた。元気な状態ならその半分もかからないが、粗相をしないように気をつけるとどうしても時間がかかってしまう。また遅いと怒られてしまうだろうか。
しばらく歩いていると、うっそうとした森がこつぜんと開け、鉄の柵に囲まれた泉が見えてきた。四角く区切られ、四方には彫像が置かれている。こうして水を汲みに来たり、定期的に掃除をしたりする以外にはほとんど誰も来ないため、鍵は付いていない。中に入り、水を汲もうとしゃがみこむと、視線の先に一人の人影を認めた。
(なに!? どうして神聖な泉に人が……?)
マリエッタはぎょっとして後ずさった。上品な身なりをした若者が靴を脱ぎ、くるぶしまでズボンをたくし上げて裸足の足をぴちゃぴちゃと水に浸けている。腰には剣を差しており、どうやら騎士のようだ。露わになった足は真っ白で、ほっそりとしている。男性にしては体の線が細い印象だ。
(どうしよう……! こんな人気のないところで男の人と二人きりなんて! 早く逃げなきゃ!)
マリエッタは、水を汲むのも忘れてすぐに逃げようとした。まだ向こうは顔を背けており、こちらには気付いてない様子。音を立てないようにそろり、そろりと移動しようとしたその時、相手が顔を向けた。
「ひいっ!」
マリエッタは、思わずお化けに会ったような声を出してしまった。しかし、相手の顔を見た瞬間、別の意味で固まる。凛々しい顔つきをしているが明らかに女性だったのだ。
(こんなきれいな人見たことない……なのに、どうして男の人の格好をしているの?)
目が合ったマリエッタは、金縛りにあったようにその場から動けなくなった。相手の騎士は、自分と同じくらいの年代の若い女性、しかも、月の女神のように高貴な美しさをたたえていた。つややかなブロンドの髪を後ろにたばね、長いまつ毛の奥にある紫色の瞳は宝石のように輝いている。コートにクラバットを着け、下はズボン姿なので腰から腿にかけて体のラインがくっきり出ており、なまじ女の格好よりもなまめかしい魅力がある。
「あれ、誰もいないと思って休みに来たんだけど、仕事中にごめんね? 足が疲れたから冷やそうと思って」
「ここは神聖な泉ですよ! 神様に捧げる泉に足をつけるなんて信じられない!」
きょとんとした顔で平然と言う男装の令嬢に向かって、マリエッタは食ってかかった。着ているものからして、かなり身分の高い者だと察せられるが、厳重に管理している泉で休む不届者なんて初めてだったので、衝動的に声を上げてしまった。下っ端とは言え、マリエッタも聖女としての矜持は持っていた。
「あーそうなんだ。やけに手入れされてると思ったらここが神聖なる泉ってやつなんだね。ぶらぶら散策するうちに、こんな所まで来たのか。ごめんね、この水って大事なんでしょ?」
「分かってるならその足を早くどけてください!」
マリエッタはわなわなと震えながら言ったが、令嬢は平然としたままだ。
「どうせ誰も分かりゃしないよ。まさか、あんな格式ばった儀式をする意味が本当にあると思う? 自己満足以外で?」
マリエッタは、えっ? と声を出してその場に固まった。今までそんなこと考えたことがない。
「神に祈れば願いが叶ったり、奇跡が起きたりするのなら、飢えや病気で苦しむ人なんて存在しないよ。百歩譲って、信仰することで救われる心はあるかもしれないけど、ただそれだけだ。そんなものに躍起になって何の意味がある? 一番大事なのは生きてる人間だ。信仰のために身を滅ぼすなんて本末転倒もいいとこだ」
「あの……えっと……」
マリエッタは頭を働かせて適当な答えを見つけようとしたが、何も考えが浮かばなかった。疲労に加え、朝から何も食べていない頭では考えなんてまとまらない。その様子を見た令嬢はクスクス笑った。
「ごめんね、神に仕える聖女さまに話すことじゃなかったよね。自分でも意地悪な自覚ある。頼むからこのことは黙っていて。あとが面倒だからさ」
なんていけいけしゃあしゃあな。そう思った時、返事するかのようなタイミングでマリエッタのお腹がぐうーっと鳴った。木々のざわめきや鳥の鳴き声が響く森に響き渡るお腹の音。マリエッタは耳まで真っ赤になってうつむいた。
「あれ、お腹がすいてるの?」
「大丈夫。なんでもないです」
そう言って逃れようとしたが、相手は食い下がった。
「大丈夫じゃないよ。よく見れば顔色もよくないじゃん。何も食べてないの?」
「本当に何でももないですから。心配しないでください」
マリエッタは強引に振り払って立ちあがろうとしたが、急に動いたため体がふらついて泉に落ちそうになった。慌てて令嬢が体を支えてくれたお陰で事なきを得る。
「カバンにパンが入っているから食べなよ。私は家に帰って食べればいいから。あなた満足に食べさせてもらってないんでしょう?」
こちらの素性は何も話していない。服装から大聖堂で働く聖女ということしか分からないはずなのに、令嬢はマリエッタの背景をずばり言い当てた。図星だったのと恥ずかしい気持ちで何も言えなくなる。固い顔でうつむいたままのマリエッタを見て全てを察した令嬢は、黙ってカバンから食べ物の包みを出した。
「はい、これ。ここで食べていくといいよ。水も持って来てある」
「そんな……! 受け取れません!」
「強がっているとまた食べられなくなるかもしれないよ。あそこは聖女の教育に関してはとても厳しいと聞いてるから。あなたも変な意地張らないで、健康のために食べておきなさい。倒れたら元も子もない」
確かに令嬢の言う通りだ。マリエッタはプライドと空腹の狭間でずっと葛藤していたが、しばらくして泣きそうな顔でパンを受け取った。すると、令嬢は安心した笑みを浮かべ、今度は水筒を取り出す。マリエッタは、無我夢中でパンにかぶりついた。
(おいしい……。こんなの初めて)
それは、ハムと野菜のバゲットサンドだった。マリエッタたちが普段食べる固くてパサパサしたパンとは全く別物のふかふかしたバゲットに、今まで食べたことのない高級なハムと新鮮な野菜が挟んである。こんなものを口にするのは高位貴族に違いない。
しかし今はそんなことを考える暇もなく、ひたすら黙々と食べ続けた。サンドイッチを平らげたあと、無言で水筒を渡されたのでそれもごくごくと喉を鳴らしながら飲み干す。全て食べ終わり、ほうっと息をついて思わず天を仰ぐ。やっと頭に血が巡り出すようになり、はっと我に返った。
「ごっ、ごめんなさい! こんな卑しいことをするなんて、どうかお許しください!」
「いいよ。それだけお腹が空いていたんだろう? これで体調が戻ればなんてことはない」
しかし、マリエッタは恥ずかしさの余り消えてしまいたくなった。空腹で食べ物を恵んでもらったなんて。これでも、元は下位貴族の出身である。ここまで落ちぶれたなんて情けなさの余り泣きたくなる。
「ついでだから近くまで水を運んでやるよ。女の子じゃ重いだろ?」
「そんな、これ以上はとても……!」
「いいの、いいの。神聖なる泉に入ったおわびだよ」
いつの間にか、男装の令嬢は、泉から出て靴を履いていた。そして、マリエッタの返答も聞かず、片手でひょいと水を汲んですたすたと歩きだす。自分も女なのに「女の子じゃ」なんて変なことを言うと思ったが、マリエッタよりも力は強いらしい。水の入った桶はかなり重いのに、片手で持ったまま、軽やかに進んでいる。これがマリエッタなら、フラフラしながらあちこちに水をまき散らしたことだろう。そんなことを考えながら、小走りであとを追いかける。
帰りは、行きの半分ぐらいの時間でたどり着いた。建物が見えてくると、令嬢は立ち止まり桶を地面に下ろした。
「はい、誰かに見られる恐れがあるからここまでにしとくね。これで泉に入ったバチは受けずに済むかな?」
ウインクしながら話す令嬢に、マリエッタは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます! 何から何まで……このご恩は忘れません。恐縮ですが、最後にお名前をお聞かせ願いませんか? 私は聖女のマリエッタ・ポプキンズと申します」
「近くの屋敷に住むサーシャ・パウエルだよ。じゃあね、マリエッタ。頑張って生きるんだよ」
サーシャ・パウエル。マリエッタは、その名前を頭に刻み込むために何度も復唱した。颯爽と立ち去る背中が見えなくなっても、その場に立ち尽くしていた。
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