第二章 湖上の存在
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湖上にずっと佇んでいる、悲しげな存在を私は発見した。
私のご主人は頻繁にこの湖にやってくる。ご主人は村で水を汲む役目を担っているのだ。しかし、本来なら朝早く起きて、村にある井戸、ご主人の住む場所からほんの数十分で到着する井戸で水を汲み、各家庭に配らなければならないのに、ご主人は井戸の場所を間違えて、気がついたら、いつもこの湖にやって来てしまう。
湖に到着したら私には目もくれず、せっせと水を汲み始めるのだ。
間違いに気づくと急いで私を連れて村の井戸まで戻る。気がつかなければ、家庭に配り終わるまで往復し続ける。そんな気まぐれな労働に付き従う中、私は彼を発見した。
確かにこの湖に連れられてきた当初から彼の存在は把握していたが、まさか彼が生きている存在とは思いもしなかった。
この村にやって来て、様々なことがあって、そのどれもが衝撃的で受入れ難いものだった。
戸惑いに尽きることはなかった。植物の中には、言われなければ、動物なのではないかと疑ってしまうような奇妙奇天烈な風貌をしたものもあり、湖の上に浮かぶ荒んだ物体も何か植物の一種なのではないかと最初はふんでいた。
あるとき、私がぼうっとしながら湖の揺れる水面を眺めていると、ご主人の叫び声が聞こえた。急いで振り返って確認してみると、ご主人の右足が蟹に挟まれていた。
この辺りに生息している蟹にもやはり少し変ったところがあり、サイズはそこまで大きいわけではないのだが神経を軽く麻痺させる液体がハサミから出ている。
蟹に挟まれたご主人はその場で悶え苦しみ、しかし何を思ったのか、水汲みに使う大切な容器を両手でがっしりと拾い上げ、そのまま猪突猛進痛みは何処へ、湖に向かって走って行き、彼方目掛けて思いっきりその容器を放り投げてしまった。
私はその光景を見て妙な面白さを感じ、ニヤニヤしていた。だが、かと言っていつまでもそうしているわけにもいかなかったので、近くにあった小型のボート目掛けて走りだし、水辺で仰向けになり、ジタバタしているご主人にアイコンタクトをした。
塗装が剥がれ、所々小さな亀裂が入ったボートからは不穏な空気が漂っていた。しかし、備え付けられているオールは、いかにも効率性を重視したフォルムのとても綺麗な新品のようだったので、私は安心感も抱いた。そしてボートに乗り込むと、意外にもすいすい進んだ。
容器が浮いている所にたどり着くまでにご主人をちらっと何か確認したが、何回確認しても見慣れたあのご主人とは違った生物が波に見え隠れしていたため、私は少しばかり恐怖を感じた。
水面から直線的に漕ぎ始めてしばらく経ち、ようやく肉眼でも容器の詳細な姿を捉えられる距離までやって来た。
確かにその場で私は容器を見ていた。あくまでもご主人の気まぐれによっていたずらされた容器を眺めていたのである。だが、視界の端には、普段眺めている湖上にぽつんと浮かぶあの物体もあった。
ある瞬間、目線が物体の方に思わず目移りしてしまった。
そこには、全く予想していなかった光景があった。
私は強い関心を抱き、より近づいてじっと観察してみることにした。そしてその瞬間、我々は出会った。
最初にも記述したが、彼は生きている存在であった。私は愕然とした。この村に来たときも驚いたが、そのとき以上に驚いたと言っても過言ではなかった。
「こんにちは」
彼は、まるで壊れたスピーカーのようなしわがれた声で話しかけてきた。
びっくりした私は、思わず両方の手の力を抜いてしまった。ぶくぶくと音がした。オールが沈んでいったのである。ただ、私はオールを拾おうとは思わなかった。ただただ、目の前にある生き物を凝視していた。目の前にある生き物は続けた。
「おっと大丈夫? それがないと……。でも仕方ないか。そして……なぜそんな目で見るんだい君は?」
「なぜって? だって君は……」
「僕は……?」
「君は……?」
「もう言って欲しい……」
「君は……君は、あまりにひどい」
彼は、酷い見てくれだった。痛々しいとも言えた。
湖上の上で椅子に座っている彼は、棘だらけの蔦で全身をぐるぐると縛り付けられていていた。所々に見える皮膚からは、血がにじんでいた。
椅子がどのような仕組みで湖上に浮かんでいるのかはよくわからなかったが、一定のバランスは保たれているようで、倒れる気配はなかった。しかし、彼自身は今にも倒れそうだった。終始うつむき、何とか絞り出したような彼の声は、ただただ水に吐き捨てられているかのように弱弱しく、頭のてっぺん、手の先、足の先、体の末端には既に生のエネルギーが消え失せてしまっているのか、ぼやけて霞み、二回に一回はその姿をはっきりと確認することが出来なかった。彼の周りには、退廃的な雰囲気が漂っていた。
「ひどいと言うのか僕を。そうか……。でもね、そうならば、僕だけでなく君だってひどいはずさ。僕は今、君のことを声でしか判断出来ない。まだ君のその姿を捉えてはいない……。判断材料は声のみと言う訳だ。でもね、大切なのはその判断材料を除いたとしても、いや、むしろそんな判断材料はいらない。君も酷いはずさ。予感。絶対に外れることのない予感だ。よし、今見てみよう。顔を上げるよ……」
彼はパッと顔を上げた。
彼の顔面には四輪の花が咲いていた。
丁度、両方の目の上と下二センチ程のところに、鋭利な花弁を持つ幾重にも折り重なった薄紅色の牡丹の花があった。
此方から見て左側の二輪は、反時計回りにゆっくりと回転しながら、花占いのように静かに自らの命を削っている。絶え間なく、花弁がひらひらと散っている。
右側の二輪は、対照的に動きはないが、彼が顔を動かそうとも、波に揺られようともビクともしない。右側の方はペイントか何かかと私は思ったが、その立体的で曲線的なフォルムは、本物と遜色がなかった。
「懐かしいだろ……牡丹だよ。持ってきたんだ。酷い君にも香りを嗅がせてあげたっていい。それにしても……君はやっぱり酷いね」
私はしばし彼の花に見とれていたが、彼の発した言葉に嫌悪感を抱き、なぜ私が酷いと言われなければならないのか、その説明が欲しいと思った。
「ひどいって私の何が酷いんだ?」
「酷いよ……。花は嫌いかい? 本当にもっと近くによって、嗅いだっていいのに」
「私の質問に答えてくれ」
「花が嫌いとは珍しい。いや、でも多いのか今は。よくわからないね。本物の花が顔にくっついていたって今は不思議じゃない」
「君は酷い。だって、その恰好はあまりに酷いだろ。そんな風に縛り付けられて……。誰が見たって酷いって言うよ。でも、なぜ私を酷いって言うんだ? どこが酷いんだ!」
「だから、酷いんだよ……。でもそれより、お願いだよ……花にもっと関心抱いて欲しい。花に関心を抱くということは、僕にも関心を抱くということ。人に関心を持つのさ……。それはつまり、人間の関係で……。あれ、でもいま君は僕に関心を抱いているのかい? 花はいらない? よくわからないな」
「花云々じゃない。そりゃ、牡丹は素敵さ。それよりも、聞きたいんだ! なぜ君が私を酷いと言うのか? 私が君を酷いと言うのには、さっきも言ったが理由がある。でも私は、私のどこに……」
彼が唇の端を斜め上に吊り上げた。声も少し漏らした。笑っていた。その後、彼は十秒間黙りこくって自分の足元を見ていたが、再び私の方を向いて口を開いた。
「言ったじゃないか! 予感でわかる。僕は正しいんだ! わかっていたんだ!」
彼は思いっきり叫んだ。あらかじめ人差し指で自分の耳に栓をして、あからさまに殺意を持って私にぶつけてきた。その殺意の波動を私は予期していなかったので、まず、叫ぶ姿、視覚から凄まじいダメージを被った。続いて、やはり聴覚から攻撃は続き、体のあちこちが鋭利なもので切り付けられたかのようにジリジリと痛んだ。
彼の姿は、あまりはっきりと確認することが出来なくなっていた。と言うのも、そのとき、気づいたら私のボートが彼から数メートル遠退いていたのである。
私は急いでボートを漕いだ。当然、オールを大分前に失ってしまっていたので、手で水を掻いて彼のもとへと向かった。労力のいる作業だった。単調で満たされた。加えて、どうしてもう一度彼に向かって進んでいるのか、その疑問で頭が一杯になった。ただ進路を少しばかり変更して、ご主人の仕事道具をさっと拾い、わき目も振らず沖へと帰ってご主人と微笑み合えばいい。しかし、何故だか私はそうしなかった。
いつの間にか彼のもとへと再びやって来た私は、何をしたかと言うと……彼に理由を聞くわけでもなく、彼と対話することは止め、彼の顔にある四輪の美しい花を力いっぱいむしり取っていた。無意識だった。我に返ったのは、「待って、空が……」という彼の一言だった。
フラッシュがたかれたかのように、一瞬、空が神々しく光った。夕焼けのようで、どこか全く違う茜色をした空があった。
象牙色の階段が、天から海面に向かって続いていた。階段は緩やかなカーブを所々描いていた。それを目で追っていると、すっと胸が苦しくなり、そこで私は息をすることを忘れていたことに気がついた。