8話 ななみけ おかえり
赤く色づいた陽が差し込むオフィス内。
「じゃ、おっ先~」
幾重にも折り重なったキーを叩く音を裂いて、一人の女性が上機嫌そうに声を弾ませた。
「あれ? 編集長が定時にすんなり帰るなんて珍しいですね?」
「ま、ちょっとやりたい事あるからね~。有給まで取っちゃったし!」
デスクから身を乗り出して驚いたように言う若い女性社員に対し、編集長と呼ばれた女性は得意げにそう返した。
「仕事以外にやりたい事とかあったんですね……」
「ほんとに。ちょっとびっくり」
そこに書類の束を抱えた若い男性社員が通りがかり意外そうに呟くと、それに女性社員も同意する。
二人の様子に編集長は眉間を押さえながら溜息をつく。
「……ちょっと待って、君らは人のこと何だと思ってんの?」
問われた二人は一度顔を見合わせると、口を揃えて言った。
「仕事の鬼」
随分と簡潔に評された彼女はガックリと大きく肩を落としながら、口を開いた。
「あのさぁ……まあいいか、事実だし……」
愚痴っぽく言いながらも気を取り直したように再び表情を緩めると、二人に手を振りながら告げた。
「ま、とにかくそういう訳だから、あとよろしく~」
二人や他の社員たちからの「お疲れ様です」の声を背に、彼女はオフィスを後にした。
その数分後、オフィスの入ったビル内の地下駐車場。
自らの所有する軽乗用車のそばに立つ女性。ドアロックを解除すると意味も無く颯爽と乗り込み、即座にエンジンをかける。
そして息を整えるように大きく深呼吸すると、小さく呟いた。
「……さーて、と。奏ちゃんはしっかりやってんのかしら?」
彼女はどこか不敵に見える笑みを浮かべつつ車を発進させた。
それから数日後。
夏休みを目前に控えた、7月の日曜日。時刻は正午になろうかと言うところ。
「……シエルの奴、まだ寝てるのか?」
奏多は大きめの鍋を二つ同時に火にかけながら、朝からまだ姿を現していない同居人の様子に対して苦言を呈する。
二つの鍋からはそれぞれ、ぐつぐつと湯の煮える音と、激しくパチパチと油の爆ぜる音が響いていた。
そこに来客を告げるチャイムの音が鳴る。
「ん? 何だ?」
対応しようかと扉の側に視線を向けるが、ふと思い直し声を上げた。
「悪りぃ命奈、ちょっと表見てきてくれ」
「わかったデス!」
テーブルに食器を並べていた命奈が返事をし、一度その手を止めて玄関へと赴いていった。
「今日もあっついわね~、しかし……」
その頃軒先では、一人の女性がうんざりしたような顔で、自らを手で扇ぎながら呟いていた。
「……もしかして休みだからって、まだ寝てるのかしら?」
なかなか姿を現さない住人の様子にそんな想像を働かせながら、再度呼び鈴に手をかけたその時。
静かに扉が開いた。
「あ、奏――?」
それを確認した女性が扉越しの相手に声をかける。
しかし中から姿を現したのは、彼女の想定とは違う人物だった。
「どちら様デス?」
「……? ん~、間違えたかな?」
少し気まずそうな笑顔を浮かべつつ首を傾げて小さく零した後、女性は改めて扉から顔を覗かせた少女、命奈に尋ねた。
「ここって七生さんのお宅で合ってます?」
「はい、合ってるデス」
命奈が簡潔に答えると、女性は逡巡の後にどこか嬉しそうに表情を輝かせた。
「……そうなの! んじゃ、ちょっと失礼――」
そのまま声を弾ませながら命奈の目前まで歩み寄り、扉の奥に向かって呼びかけた。
「ちょっとー、奏ちゃーん!?」
湯の煮える鍋の中身を笊に上げ、氷水で絞める。
命奈が対応に出ている間にも、奏多は着々と昼食の準備を進めていた。
だが、そこに先ほどの女性の呼びかけがリビングまで響いてきた。
途端に奏多の動きがピタリと止まる。
「……まさか――!」
一瞬の後、やや険しい表情で一言だけ発した彼は、火を止めてからその場を後にした。
「やっほー、奏ちゃん! 元気してるー?」
リビングから奏多が姿を現すと、待ってましたと言わんばかりに声を上げる女性。
対する奏多はバツが悪そうな顔をしながら、静かに玄関まで歩いていく。
(……ついに来てしまったか――!)
内心彼はこの事態にどう対処したものか、考えあぐねていた。
「ま、聞くまでも無いかー。……まっさか女の子連れ込んで、よろしくしてるとは思わなかったわー」
そんな彼の心中を知ってか知らずか、勝手な解釈を垂れ流す女性。
「よろしくって何だ、その言い回しは!?」
「よろしくはよろしくでしょうが、まったくぅ~……言わせんな、恥ずかしい!」
このこの~、と揶揄するように言いながら肘で小突く。
「全く……このアグレッシブさ、誰に似たのかしらねぇ? あ、私か?」
とぼけたように言う女性の様子に、奏多は大きな溜息とともに肩を落とす。
「奏多サン、こちらは――」
命奈が奏多に紹介を求めると、奏多が答えるよりも先に女性は自ら名乗りを上げた。
「やーどうも、初めまして。いつもニコニコ奏多の隣に這いよる肉親、七生遥香です!」
「…………肉親?」
それを聞いた命奈が怪訝そうな顔で奏多を見ると、彼は観念したようにか細い声で言った。
「これ……母さんです……」
テーブルに着いた遥香の前に、冷蔵庫から出した麦茶をグラスに入れ差し出す命奈。
「どうぞデス!」
「ん、ありがと、命奈ちゃん!」
その半分ほどを一口で飲み干し感慨深げな吐息を漏らすと、遥香はやはり揶揄するように言った。
「……それにしても奏ちゃ~ん、いつの間にこんな可愛い彼女作ったの?」
「彼女じゃない」
対してキッパリと短く否定する奏多。
それを聞いた遥香の眉根が見る見るうちに下がっていく。
「違うの……?」
「何でそんなに残念そうなんだよ……?」
理解できない、といった風に奏多が問うと、遥香は頬杖をつきながら惚けたように息を一つ吐いた。
「奏ちゃんもついに一丁前に色気づくようになったのか……と、母はこう見えても期待と不安に駆られたのよ?」
「なんだそりゃ」
「十年前はおかーさんおかーさんって、ずっと私の後について来てたあの奏ちゃんが――」
「うっせー、余計なこと言うな」
しみじみと感じ入るように語る母に、照れくさそうに語気を強める奏多。
「あら、反抗期かしら?」
息子の悪態にも、やはり遥香は飄々と返す。
そんな風にやり取りをしていると、突然部屋の扉が開く。
「騒がしいわね、朝っぱらから……」
もう一人の同居人がようやく部屋から姿を現し、心底鬱陶しそうな声音で吐き捨てた。
「もう昼なんですけど」
それに対し条件反射的にツッコみを入れる奏多。
(あ、まずい――)
それと同時に言い知れぬ不安を感じ、そちらに視線を向ける。
奏多の視線の先に居た人物は瞳を爛々と輝かせ、まさしく興味津々といった様子で声を弾ませていた。
「……じゃあ、こっちが彼女?」
「違います」
「――ご期待にそえず申し訳ありませんが、私はただの学友です、おば様」
説明を受け、状況を理解したであろうシエルが当たり障りのない答えを返すと、やはり遥香は眉根を下げた。
「そうなの……」
「だから何でそんなに残念そうなんだよ……?」
先ほどと同様に奏多が問うと、遥香は今度は真剣な表情で彼を見据えた。
「奏ちゃん、本当にただの友達なの? あなたはそれでいいの?」
「何がだよ……」
奏多が呆れたように聞き返すと一転、遥香は表情を緩めて口を開いた。
「いや、だって、ねぇ? うら若き男女が一つ屋根の下、何も起こらないはずがなく――」
「おい待て」
彼女が何を考えているのか、容易に想像できた奏多はその先を言わせまいとするも、遥香は気にした風もなく言葉を続ける。
「……ってことは、もしかして友達って……アレ? けだもの的なフレンドとかそういう、体だけの関係ってヤツなの?」
「どうしてそうなった」
唖然とする奏多をシエルが更に囃し立てる。
「すっごーい、奏多は性欲を持て余したフレンズなんだね!」
「やーらしーい!」
遥香もそれに続く。
「いろいろな意味でその言い回しはやめろ」
さらに盛り上がりそうな二人に対して、奏多はしっかりと釘を刺した。
「――それはそうと奏多、食事はどうなっているのかしら?」
それを気にした風もなく、シエルはさも当たり前のように言い放つ。
「はいはい、用意できてますよ……っと」
言うが早いか、奏多は一度キッチンへと向かい、両手にガラスの器を持って戻ってくる。
その中身は先ほど氷水で絞めていた、涼感溢れる細く艶やかな白き麺。
「そうめん!」
「あら、美味しそうね~」
命奈が瞳を輝かせながら歓声を上げると、遥香もそれに倣うように声を漏らす。
続けてつゆの入った小鉢と共に奏多が大皿に乗せて運んできたのは、付け合せの天ぷら。
「ほれ、お待ちどうさん」
「いただきますデス!」
片や元気に宣言し、片や静かに祈りを捧げる。対照的な合図を皮切りに食事を始めた二人。
それを背にキッチンに向かった奏多が、自らの分の食事を手に戻ったその時。
「そういえば、私もお昼まだなんだよな~……」
あからさまな猫なで声が彼にかけられた。
「ああ、そう……」
物欲しげに見つめる遥香に奏多は冷ややかに返し、そのまま席に着き箸を持つ。
しかしながら、なおも遥香は見た目の通りに指を咥えて、奏多に無言で訴えかけ続けていた。
「…………何?」
しばらく無視していた奏多がうっとおしそうに口を開くと、遥香は急に大きく声を上げた。
「同情するなら飯をくれ! 同情するなら飯をくれ!」
飯なき親と化した遥香に対抗するように、奏多も叫んだ。
「おめーの飯、ねぇから! 用意してねぇから!」
物悲しそうな表情で再び指を咥える遥香。気を取り直して奏多も箸を持ち直す。
「奏多ー」
だが、そこで対面のシエルから呼び声が一つ。
「……何だよ?」
だいぶ中身の嵩が少なくなった小鉢を奏多に見せつけながら一言、非常に簡潔極まりない要求を述べた。
「めんつゆ」
唖然として身動き一つしない奏多の様子に、ふてぶてしくも彼女は続けて「ん」と短く不満げに呻く。
苦々しい表情で舌打ちをしながらも、仕方なく奏多は素直にキッチンへと向かうことにするのであった。
奏多が冷蔵庫から市販のつゆを取り、戻ってきたその時。
「美味しい!」
遥香の満足気な感嘆の声がリビングに響いた。
「何で俺の分食ってんだよ!?」
叫ぶ奏多。彼の食べるはずだった天丼は既に遥香の手に落ちていたのだった。
「奏ちゃん、どんどんお料理上手になっていくわねー、是非嫁に欲しいわー!」
「マジで何しに来たんだよ……!?」
悪びれる様子も無く謎の称賛を送る母の態度に、奏多は天丼を奪い返しながら苛立ちを隠そうともせずに言う。
「もー、そんな邪険に扱わなくてもいいじゃない、ねー?」
それを受けた遥香がいじけたように言ってから少女たちに目くばせすると、二人も彼女に味方する。
「そうデスよ、奏多サン!」
「親御さんはもっと丁重に扱いなさい、奏多。それでも血の通った人の子ですか」
二人から揃って非難される奏多。この構図にも慣れたもので、大仰に溜息をついて「はいはい」と投げやりに短く返す。
そうしたところでふと思い出し、シエルに向き直る。
「そういえば確かお前も、お母様とやらを邪険に扱ってたような……?」
「はて、何のことやら」
当のシエルは堂々としらを切った。
(こいつ――!)
奏多が追及しようとしたところで、遥香が間に割って入る。
「奏ちゃんはもう、シエルちゃんのお母さんともお会いしてるの?」
「? それがどうかしたか?」
淡泊な態度の奏多とは裏腹に、遥香は鼻息を荒くした。
「ということは、すでに親公認の間柄なのね!?」
「だから、何ですぐそっち方向に持っていくのかなぁ!?」
奏多が叫んだところで横槍が入る。
「むぅ、ワタシもおじいちゃん公認デス!」
「変なところで対抗意識燃やさなくていいから」
不満げに声を上げる命奈を奏多が宥めた。
「……全くぅ、奏ちゃんも隅に置けないわねぇ~」
そんな様子にどこか眩しい物を見つめるように目を細める遥香だった。
昼食を終えて奏多が片付けを始めた頃。
「で、今日はこれからどうするの、奏ちゃん?」
結局食事にありつき損ねた遥香が、カバンから取り出したブロック状の栄養食品を仕方なくといった様子で口に運びながら、そう言った。
「どうするったって……別にどうもしないけど?」
食器を洗う手を止めずに発せられたそっけない返答に、遥香はどこか落胆したように続ける。
「どこか出かけたり、予定とかないの?」
「ないな」
やはりそっけない奏多の返事に、大仰に肩を落とす遥香。
「……面白みのない返事ね~。そんなんじゃ奏ちゃん、いつか飽きて捨てられちゃうわよ?」
そのまま冗談めかして言う彼女をまるで咎めるように、強く否定する声が上がった。
「そんなことないデス!」
真剣そのものな表情で遥香に詰め寄る命奈。
「……あらあら?」
対して遥香は面食らったように一言だけ呟いた。
そのまま見合う二人。しばしの沈黙の後、おもむろに遥香が口を開いた。
「命奈ちゃんは、そんなに奏ちゃんのこと好きなの?」
「はぁ!?」
「? 好きデスよ?」
赤面し声を裏返らせる奏多とは対照的に、命奈は当然とでも言わんばかりに恥ずかしげもなく答える。
「あらまあ、ベタ惚れねぇ……」
その返答に、やはり目を細めて嘆息する遥香。
「それに比べて奏ちゃんったら……」
「……何だよ?」
遥香はことさらに呆れたように溜息をついて続ける。
「こんなに可愛くて良い子をぞんざいに扱うなんて、奏ちゃんは罪な男ねぇ……」
「ええ、おば様。本当に、奏多は罪な男ですわ……」
至極愉快そうに同調するシエル。
「もうなんでもいいわ、好きに言っといてくれ……」
全てを諦めたように奏多はそう呟いた。
「そうだ! 予定がないなら、お買い物でも行きましょう!」
「買い物?」
手を打ち鳴らし提案する遥香を怪訝そうに見つめる奏多。
「もうすぐ夏休みでしょ? せっかくだからいろいろ良い物買ってあげるわ!」
得意げに胸を張りながら遥香は宣言した。
「もちろん二人にも、ね!」
続けてそう言いながら少女たちの方に向き直りウインク。それを受けて二人の表情がパッと明るくなる。
「だから夏休みはちゃんと今から予定立てて、ガッツリ! 楽しみなさい!」
「おー!」
にわかに盛り上がる女性陣。
「そうと決まれば、善は急げってね! 早速行きましょう!」
「おー!」
そのまま意気揚々とリビングを連れ立って出ていく。
「おい、ちょっと――あーもう……!」
仕方なく奏多もその後に続いて行くのだった。
奏多の家の最寄駅から電車で20分ほど。
地域一帯でも指折りの繁華街、その駅前通り沿いに鎮座する巨大な百貨店。その正面入り口前に一行の姿はあった。
「着いたわね~」
辺りは日曜の昼下がりということもあってか、うだるような暑さをものともせず人でごった返しになっていた。
「相変わらず、すっげぇ人の数だな……」
「本当デス! いっぱいデス!」
命奈が興奮気味に周囲を見渡す。
「……少しは落ち着きなさいな、恥ずかしい」
彼女の様子にシエルが苦言を呈すると、不服そうに頬を膨らませながらも大人しくなる命奈。
「ほらほらケンカしない! 楽しく行きましょ、楽しく!」
そう言ってにこやかに先導する遥香に続いて、三人も建物へと足を踏み入れた。
服飾の専門店や有名ブランドのアンテナショップなどが軒を連ねる、百貨店上層階の一角。
「あぁ~いいわね~二人とも!」
とある店舗の試着室の前で、遥香は嬉々とした声を上げていた。
「素敵だわ~」
シャッター音が続けざまに響く。
被写体は当然、命奈とシエルの両名。
得意げに次々とポーズを決めるシエルと手持無沙汰に立ち尽くす命奈。
「映えるわ~ほんと映える!」
対照的な二人を前に鼻息荒くレンズを向ける遥香。
それを尻目に奏多は退屈そうにあくびを噛み殺していた。
まるでファッションショーのように次から次に着替えさせられる二人とそれを激写する遥香。
入口からエレベーターに乗り、この区画に直行してかれこれ一時間以上。この間、女性陣はずっとこの調子であった。
「もういっそのことさー、うちの出してるファッション誌で読モとかやらない、二人とも? 二人さえ良ければ、担当に話しつけちゃうけど――」
「ちょっと待て」
上機嫌で口走る遥香を奏多が背後から制止する。
「そう固いこと言わずにお願いしますよ~、マネージャーさ~ん」
「誰がマネージャーだ」
言いながら遥香は振り返り手をすり合わせるが、奏多はそれを呆れた様子で一蹴する。
「どくも……?」
命奈が初めて聞いたとでも言いたげに頭上に?を大量に躍らせて呟く様子を、鼻で笑うシエル。
「……面白い提案ですが、辞退させていただきますわ、おば様」
続けてそう言って遥香の誘いを断った。
奏多が意外そうにシエルを見ると、底意地の悪そうな笑顔と見事に目が合う。
「嫉妬に狂った男は何をしでかすか、わかりませんもの」
「おい、それはどういう意味だ?」
そのままあたかも自身が危険に晒されるかのようにのたまう彼女に、奏多は一応説明を求める。
「確かにそれもそうね……シエルちゃんが大変な目に会わされちゃうわね」
が、その答えが返ってくるよりも早く遥香はシエルに同調し、残念そうに肩を落とした。
「あんた自分の息子を何だと思ってるんだ」
憤る奏多の声はかしましい二人と内容をよく理解していない一人には届かず、店内の虚空に吸い込まれていった。
「じゃあどの服買おっか?」
その後ようやく元の服に着替えた二人と大量の衣類の入った買い物かごを前に、遥香は至極楽しそうに言った。
「……いっそ全部買っちゃう!?」
「全部!?」
改めて品定めを始めた二人へかけられた声に、シエルですら驚きの声を上げる。
「ちょうど都合よく男手も居ることだし――」
その一方で奏多を見もせずに調子のいい言葉を続ける遥香。
「俺は荷物持ち係かよ!?」
「奏ちゃんの、ちょっといいとこ~?」
扱いの悪さに奏多がさすがに声を荒げると、そこで遥香は振り返りこの上ないほど見事な煽り文句を放つ。
「何がちょっといいとこだよ……ったく」
呆れつつも期待されたとおりに全てのかごを抱え、レジへと向かう奏多。
「お~さっすが~!」
「……本当によろしいのですか、おば様?」
歓声を上げながら後に続く遥香に対し、珍しく不安そうに確認するシエル。
「いいのいいの、気にしない!」
しかし遥香は変わらず軽い調子で答えて、誇らしげに胸を張る。
「お金で買えない価値がある。買える物はなんとやら――ってね!」
なかなかにえげつない金額になっていたが、一切気にも留めずに支払いを済ませる遥香。
次々に袋に詰められる服を片っ端から受け取っていく奏多を横目に、彼女は少女たちに向けて言った。
「さ、それじゃ本題に行きましょうか?」
「まだあんのかよ!?」
奏多が驚きの声を上げると遥香は不敵に微笑む。
「当然でしょ?」
「いやもう、すでに結構きついんだけど! 特に腕が!」
袋の持ち手を大量に通した腕をアピールするように持ち上げながら訴える奏多。
しかしまるで意味を成さなかったようで、遥香は興奮気味に言い放つ。
「夏らしくてしかも映えると言えば、やっぱ水着よね!」
「勘弁してくれよ……!」
訴えを完全に無視された奏多が力なくうなだれると、シエルがやや高圧的に言った。
「……映えるを持つ私に逆らうと言うの?」
「映えるって所有権あるんすね……」
心なしかツッコみにも力がない。
「俺はその辺で休憩してるから勝手に行ってこいよ……水着ならこんな大量に買わないだろ」
「……もう、しょうがないわね~。じゃあ二人とも行きましょうか!」
彼の様子に遥香はつまらなそうに言ってから、命奈たちに呼びかけ先を歩き始めた。
そのすぐ後に見るからに上機嫌なシエルが続く。一方の命奈は心配そうに奏多の顔を覗き込んだ。
「奏多サン――」
「俺のことはいいから、行ってきなって。母さんは言い出したら聞かないからな……」
奏多がそう言うと命奈は何度か振り返りつつも、既に小さくなった遥香とシエルの背を追っていった。
百貨店の同じフロアにあるスポーツ用品店。シーズン真っ只中ということもあって、海水浴のアイテムが前面に押し出されている。
その店内では遥香がやはり楽しそうに商品を見比べていた。
「――やっぱり命奈ちゃんはスタイル良いし、ビキニよね!」
言いながらいくつかを手に取り、命奈の元に行きひとつ手渡す。
その手渡された水着を遥香に言われるがまま、身体の前に合わせる命奈。
「…………違うわね、命奈ちゃんには赤じゃないわ――」
「遥香サン」
ブツブツと一人で品評を始める遥香に対し、命奈は意を決したように毅然とした表情で声をかける。
「ん? どうかした?」
「遥香サンは奏多サンのこと、心配じゃないデスか?」
先ほど一人で置いて来た奏多に対してのそっけない態度。それが腑に落ちないと言いたげにそう問いかけた。
「いいえ、全然そんなことはないわよ?」
まるで茶化すように飄々と答える遥香。
「なら、どうして――」
命奈が更に質問を重ねようとしたところで、浮かれた顔のシエルが両手に水着を携えて現れる。
「おば様、どちらの方がより私の魅力を――? どうかしたのかしら?」
二人の間に流れる空気を察して、少しだけ表情を引き締めるシエル。
「……きっと奏ちゃんはあんなツンツンした態度だけど、内心では寂しがってると思う。それは私にもわかってるんだ」
命奈の言わんとしたことを汲み取りながら、遥香は二人に向けて真剣な声音で話し始めた。
「けれど私には仕事もあるし、ずっと一緒には居られない。……仕事に関してはお金のためって言うよりは好きでやってる事だし、我儘だって言われても仕方ないけどね」
遥香の独白を、二人はただ静かに聞く。
「だからお願い。二人はあの子と一緒に居て、仲良くしてあげてね?」
「もちろんデス!」
二人に対して初めて包み隠さず本心から発した願いを、間髪入れず快諾する命奈。シエルも穏やかな表情で静かに頷いてみせる。
好意的な反応に胸を撫で下ろし、微笑む遥香。
「……ま、あの子のこと放り出して仕事ばっかりしてた私が、今更そんなこと言えた義理じゃないかもだけど!」
やや間を開けてから重くなった空気を払拭しようとしたか、殊更におどけて自虐気味にそう続けた。
「それは一向に構いませんが、おば様……いつも働きづめで接する時間が少ない、というのはやはり心配ですわね」
それまで遥香の言葉を黙って聞いていたシエルがそこで口を開いた。
「私の知る逸話に、疎遠だった母親に対してその息子が訴えた言葉として、このようなものがありますわ……」
相手の反応を待たずに、そのまま芝居じみた口ぶりで語りながら歩み寄る。
そして遥香の目前で足を止め、一拍置いてから語気を強めて言った。
「八歳と九歳と十歳の時と、十二歳と十三歳の時も僕はずっと、待ってた……と」
「な、何を……?」
何故かやたらと鬼気迫る雰囲気を纏う彼女に若干気圧されながら遥香が問うと、シエルはその答えを叫んだ。
「クリスマスプレゼントだろ!」
一気に周辺が静まり返り、無関係の客の視線までもがシエルに集中する。
「…………失礼、取り乱しました」
咳払いをしてからその場を取り繕うと、何事も無かったように周囲に喧騒が戻る。
「クリスマス……」
呆気にとられていた遥香もやがてポツリと呟く。
その様子を見るや、シエルは諭すように声をかけた。
「とにかく母親というものはそれほどに大きな存在です。……特に男にとっては、ね」
「……そっか、それじゃ今年は何か考えておこうかな!」
シエルの言葉に何か思うことがあったのか、遥香は大きく頷きそう返した。
「ええ、それがよろしいかと。その前向きさ、イエスですね」
彼女の返答にシエルは満足そうに微笑む。
「……ところでおば様、どちらがより私の魅力を引き出せると思われますか?」
そして先ほど聞きそびれた質問を繰り返すと、何事も無かったように一行は再び買い物を楽しむのだった。
「お待たせ~奏ちゃん!」
呼びかけられた奏多が声の主に顔を向けると、遥香は得意気に高らかに宣言する。
「とっても素敵な物が見つかったから、楽しみにしておきなさい!」
「はいはい……」
対する奏多の返事は淡泊極まりなかった。
「本当に奏ちゃんったら、つれないんだから~もう」
「いいから、終わったんならさっさと帰りましょう。こっちはさっきからいちいち注目浴びて恥ずかしいんだから」
言いながら袋を持ち直し足早に帰路に就く奏多の後を、微笑ましく見守るように三人も続いて行った。
帰宅後、大量の荷物をそれぞれの部屋にしまい終えた頃にはすっかり日が傾いていた。
「じゃあね、奏ちゃん! また来るからね!」
「別に良いけど、次からは来る前にちゃんと連絡しろよ……」
玄関で振り向いて言う遥香に頭を掻きながら答える奏多。
「二人に迷惑かけちゃダメよ?」
「むしろかけられる側だってーの……」
苦々しげに答える奏多に遥香は顔を寄せ、僅かに声を潜めながら神妙な面持ちで続ける。
「それから、することする時はちゃーんと、後のこと考えてするのよ? 奏ちゃんはまだ学生なんだから――」
「何の話だよ!?」
奏多が声を荒げると、発言内容と同様の下世話な顔をする遥香。
「何の話って……もう、そんなの分かってるくせにー」
「あのさぁ……」
呆れかえる奏多をひとしきり小突いた後、遥香はその後ろに控えた二人に向き直った。
「命奈ちゃんもシエルちゃんも、奏ちゃんのことよろしくね!」
「もちろんデス!」
「大船に乗ったつもりで任せていただいて構いませんわ、おば様」
共に笑顔で答える二人の返事に、遥香は満足気に頷く。
「頼もしい限りねー、うんうん」
放っておくといつまでも居座りそうな雰囲気を醸し出す彼女に、ついに奏多が業を煮やす。
「いいから、もうさっさと帰れよ……!」
言いながら強引に玄関から遥香を押し出す奏多。
彼女はその行動をまるで意に介した様子もなく、笑顔で少女たちに手を振り続けるも、しかしながらゆっくりと確実に外へと押し出されていった。
「……ったく、せっかくの休みだってのに、無駄に疲れた」
扉を閉めると同時に深く溜息をつき、恨めしげに呟きながらリビングへと戻っていく奏多。
「とりあえず何か飲も……お前らも何かいるか?」
彼が気を利かせて問うと、シエルが即座に答えた。
「ええそうね、頂くわ」
そして彼女は僅かに間を開けてから、いつもの挑発的な笑顔で奏多のことをそう呼んだ。
「……奏ちゃん」
「…………あ?」
明らかに小馬鹿にされたことに対する苛立ちと、母と同じ呼び方をされたことに対する羞恥の入り混じった、微妙な表情でシエルを見る奏多。
そんな彼に、シエルは悪びれもせずに返した。
「どうかしたの、奏ちゃん?」
「奏チャン!」
シエルの悪ノリに、命奈も悪気なく乗っかってくる。
「うるせー!!」
二人からの羞恥責めに奏多は叫び逃げ出すも、面白がって追いかける二人。
――結局その日はずっと、そう呼ばれ続けるはめになるのだった。