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7話 袋球のエロガール

「ったく……それにしても今日もまた、ひでー雨だな……」

 6月になり最初の平日。

 予報通りに勢いよく降りしきる雨に対して、うんざりしたように文句をつけながら傘を閉じ、奏多は校舎へと足を踏み入れる。

「天からの恵みに文句だなんて、随分とおこがましいのね」

 後に続くシエルが非難するように声を上げた。

「むぅ~なんだかベタベタするデス……」

「……まあ、確かに命奈の言うとおり、湿度が高くてやたらとベタ付くのは、不快極まりないけれど」

 命奈がそう言うと、シエルがそこには素直に同意した。そのまま二人してブラウスの襟や裾を掴んで扇ぐ。


 ――この日から学校では夏服に完全移行となっていた。

 この学校に通う以上、一行も例外ではなく。落ち着いた色合いのブレザーを脱いでの登校となった。

 そして本日の空模様は激しい雨。傘を差していても濡れることは免れないほどに、屋外には雨粒が勢いよく降り注いていた。

 そのせいで透けたブラウス。

 命奈が困り顔で、シエルが憂鬱そうに、それで自らを扇ぐたびに雨や汗でしっとりと濡れた少女たちの肌が見え隠れする。

 ……それはそれは扇情的な光景だった。


「…………」

 その様子に否が応でも目を奪われる奏多。

 それに気づいたシエルが小馬鹿にした笑みを浮かべて言う。

「……一体何をそんないやらしい目で、ジロジロと見ているのかしら?」

 そのまままるで挑発するかのように、裾を捲ったままにする。

 見た目通りに幼さを残した、それでいてしっかりと女性らしさも感じさせる、ほっそりとしたシエルの腰回りが露わになる。

 容姿、仕草、表情、状況――どこを切り取っても完全にアウトな、蠱惑的な情景であった。

「う、うっせーよ、ジロジロなんて見てねーだろーが。下らねーこと言ってねーでさっさと行くぞ」

 自らの無意識の視線を指摘され、奏多は途端に小恥ずかしくなり悪態をつき視線を逸らす。

 そのまま少し足早に教室に向かおうとした矢先、何者かと衝突した。

「――っと、すみません、前よく見てなくて――」

「……奏多?」

 謝罪の言葉を口にする奏多を制するように、その何者かは奏多の名を呼んだ。

「?」

 改めて相手の顔を見やる奏多。


 彼女はどこか億劫そうに細められた切れ長の目の奥、銀色に輝く双眸で奏多をまっすぐに見つめていた。

 その目線の高さは奏多よりほんの少し低いくらい、女子の中では長身な方であろう。

 涼やかなスカイブルーの髪が頭頂部で団子状に纏められている。

 実は長髪なのか、その団子のボリュームがそこそこあるため、なおさら長身に見える。

 対照に余分な肉の付いてなさそうな細い顎筋。

 全体的にクールな印象を受ける、そんな少女。

 正直に言うと、見た覚えのない顔だった。


「…………誰?」

「……人の顔も覚えてないとか、ちょっと失礼じゃない?」

 不機嫌そうに言う少女の名を命奈が明かす。

「真冬サンデスよ」

「は!?」

 驚きを隠そうともせずに再度、奏多は彼女を見直す。

 改めて全身をくまなく見ていくと、彼女らしいものが見て取れた。

 ブラウスの下に重ね着された長袖。以前よりは少し薄手になった手袋。そして変わらずスカートの下から伸びるジャージ。

 やがて奏多も納得したように頷いた。

「……ああ、確かに」

「本当に失礼ね」

 彼が明らかに顔を見ずに服を見て断定したことを、やはり不満そうに非難する真冬。

「いや、悪い。見違えたというか何というか――なんて言ったら良いんだ? とにかく悪気はないんだ」

 釈明の言葉を並べる奏多に真冬は悪戯っぽく微笑む。

「……ふーん、そっかそっか」

 続く言葉に奏多は唖然とする。

「見とれてたってことなら、悪い気はしないし……仕方ないから、許してあげようかな?」

 確かに見とれていたと表すのが正しいかもしれないが、それを彼女自身にあっけらかんと言われるとさすがに言葉を失う。

「良かったデスね、奏多サン!」

「全く、節操のない男ね」

 背後からも慰めやら嘲笑やら思い思いの言葉が飛ぶ。

「……もう勝手にしてくれ……」

 少女たちの様子に奏多はうなだれ、諦めたように呟いた。


 そんなやり取りを物陰から窺う一人の少女。

(転校生たちだけじゃなく、雪村さんともあんなに親しげに……なんてうらや、じゃない、はしたない……!)

 憎々しげに奏多を睨みつける。

(千夜ちゃんに言いよったって噂の七生ってのは、あいつで間違いなさそうね……!)




 朝のホームルームが終わり、休み時間。校舎を繋ぐ渡り廊下。

(……まったく、あいつらちょっと無防備すぎなんだよ……俺だって一応男なんだぞ……)

 雨のせいもあってか人通りの少ないその片隅で、奏多は一人深く溜息をついていた。

(雪村は雪村でからかってくるし……そりゃ確かに――)

「ちょっとあんた」

 その背後から唐突にかけられる声。

「……はい?」

 振り向いた奏多の左頬に、瞬時に何の断りも無く強い衝撃が走る。それと同時に短く、乾いた破裂音の様な物が響いた。

 自身に強烈なビンタが浴びせられたと認識するのに、彼は一瞬の間を要した。

(……えぇ?)

 状況への理解が追いつかないまま張られた頬を呆然とさする奏多に、追い打ちのように言葉がかけられる。

「なんで叩かれたかぐらい、言わなくてもわかるわね?」

 声の主に向き直る奏多。

 そこに居たのは、鮮やかな桃色のツインテールが可愛らしい、命奈と同じくらいの背丈の少女。

 その可愛らしさとは裏腹に、満月の様な瞳を宿した両目に苛立ちを滲ませて彼を睨みつける。

 見てわかるとおり怒りの色に染まった表情だが、それでもなお可憐と言わざるを得ない美しい顔だった。

 しかし彼女にはその整った顔立ちよりも、さらに目を惹きつけるものが備わっていた。


 それは……胸。

 ブラウスがはち切れんばかりにたわわに実ったそれを張り、腰に手を当てて見下す。

 当人は威圧のつもりだろうが、むしろ逆効果にしかならなさそうな、そんな凄まじさだった。

「……ちょっと、人の話聞いてる? 叩かれた理由はわかるでしょ?」

「いや、全然」

 あからさまな怒気を含んだ少女の問いかけに、奏多はやはり呆然と答える。

 それを聞いた少女はさらに苛立ちが募ったのか、歯噛みしてから語気を強めた。

「千夜ちゃんには近づかないで。わかった?」

「……千夜ちゃん?」

 その少女の口から飛び出したのは、先日知り合った少女の名だった。

「近づくなって……んなこと言われても、向こうから近寄って――」

「うっさい、口答えすんな!」

 奏多の訴えは無残にも遮られた。

「……えぇ?」

 なんとも間の抜けた情けない声を上げる奏多。そこに容赦のない罵声が浴びせられる。

「あんたいろんな女の子と仲良くしまくってるらしいじゃない、汚らわしい!」

 こき下ろし足りないのか、さらに少女はまくしたてる。

「他の子はよく知らないけど、千夜ちゃんはあんたみたいな薄っぺらい男なんかとは釣り合わないんだから、潔く身を引きなさいよ!」

 好き放題に言ってのける少女の言葉に、ただただ呆気にとられる奏多。

「わかった!?」

 何のリアクションも無いことに業を煮やしたか、少女は念を押す。

「は、はぁ……?」

 しかしやはり奏多からは要領を得た言葉は出てこなかった。

 その様子に拳を震わせる少女。

「――なんなのよ、その気の抜けた返事は!? ちゃんと人の話聞いてるの!?」

「……何やってんの奏多?」

 どんどんヒートアップする少女とは対照的な冷ややかな声が、そこに響いた。

 少女の背後にはいつから居たのか、真冬が怪訝そうな顔をして立っていた。

「わからん。とりあえずいきなりビンタされた」

「………………」

 奏多が今の状況に対しての素直な感想を伝えると、真冬が無言で少女を一瞥した。

 すると、彼女はたじろぐ。

「うっ……! と、とにかく、また千夜ちゃんに言いよったりしたら承知しないから! 覚えておきなさいよ!」

 そしてそのまま捨て台詞を残して、その場を去って行った。


 静かに見送っていた真冬が少し間を開けてから、何か思い出したようにポツリと呟いた。

「…………あの子、確か……」

「知り合いか?」

「いや、1年の時クラス一緒だっただけ」

 奏多が尋ねると、真冬は首を横に振った。

夢見(ゆめみ)……とかいう名前だったはずだけど」

 記憶を手繰りながらといったように、ゆっくりと言葉を続ける。

「私の姉貴が入ってる大学のサークルに、あの子の兄貴も居るらしくて……」

 そこで一呼吸おいてさらに続ける。

「そのせいか執拗に絡んできて、何かウザかったから覚えてる」

「お、おう……そうか……」

 真冬がそれ以上語ろうとしないのを見て、奏多は短くそう返した。

(それが千夜ちゃんと何の関係が……?)

 奏多の疑問は膨らむばかりだった。




 昼休み。

「――なんて言う事がありましてね」

「た、大変そうだね、七生君……」

 かの少女について、千夜に会って確かめようと校内を移動していた奏多は、ばったりと出会った珠声に今朝のいきさつをかいつまんで説明していた。

 そこに探し人が息を上げながら現れる。

「先輩!」

「あ、千夜ちゃん」

 姿を見るなり、心配そうな顔をして奏多に駆け寄る千夜。

「先輩、何か咲姫(さき)ちゃんに酷い事されませんでしたか!?」

「……咲姫ちゃん?」

 聞きなれない名に首を傾げる奏多。

「千夜に悪い虫がつかないように、ガツンと一発お見舞いしてきた、なんて咲姫ちゃんから聞かされまして……」

「……それって、もしかして夢見のこと?」

 千夜の語る内容からほぼ確信しながらも確認すると、彼女はキョトンと不思議そうに奏多を見た。

「? あ、先輩は咲姫ちゃんの下の名前はご存じなかったのですね。これは失礼いたしました」

 やがてその意味を理解した千夜は軽く頭を下げ、改めて聞き直した。

「それで、一体何をされたんですか?」

「いきなりビンタされた」

 ありのままに伝えると、千夜は衝撃を受けたように硬直する。

「!? 咲姫ちゃんったら、なんて失礼なことを――!」

 その後、動転しながらも深く頭を下げた。

「申し訳ありません、先輩……咲姫ちゃんに代わって、非礼をお詫びいたします」

「ああいや、それは別にいいんだけど――」

 先ほどから謝りっぱなしの千夜を奏多が制したところで、それまで二人のやり取りを見守っていた珠声が遠慮がちに声を上げた。

「七生君、その子は……?」

「ああ、そういえば先輩は千夜ちゃんと面識なかったですね。彼女は――」


 奏多が簡単に紹介を済ませると同時に、珠声は見るからに慌て始めた。

「あ、有門家のご息女なんですか……!?」

「……やはりこういう反応をされるんですね。千夜としては、もっと普通に接していただきたいのですが……」

「だそうです、先輩」

 千夜が物憂げに小さく溜息をつき、奏多がそれを促す。

「ふ、普通に……?」

 言われ、目を白黒させる珠声。

「普通ってなんですか……!?」

「だそうです、千夜ちゃん」

 やがて珠声は泣きそうな顔で短く零し、奏多がそれを反芻する。

「普通は普通です! 先ほど七生先輩と談笑していた時のようにしていただければ、それで結構です」

 千夜の言葉にハッとしたように動きを止め、奏多を見やる珠声。

「な、七生君と同じように……わ、わかりました、頑張ります」

 その後千夜に向き直り、そう意気込んだ。

(それは頑張ることなのだろうか……?)

 奏多はつい口から出そうになった言葉をどうにか抑えていた。


「でも、七生君は悪い虫、なんて言われるような人じゃない……と、思うけどなぁ」

「そうなんですよ! ですが、彼女はどうも昔から思い込みが激しいというか……」

 その後、意外とすぐに打ち解けたのか、二人は普通に会話を繰り広げていた。

「昔からの知り合いなの?」

 千夜が不満そうに零した言葉の一部から、気になったところを聞き直す奏多。

「はい、彼女は千夜の――」

 それに千夜が答えようとした矢先。

「千夜ちゃん!」

 彼女を呼ぶ声が響いた。

 それを発したのは紛れも無く件の少女、夢見咲姫であった。

「探したよーもう、急に走って居なくな――」

 続く言葉が途中で呑み込まれる。

「! あんた、何やってんのよ?」

 ガラリと声のトーンが変わって敵意がむき出しになる。

「千夜ちゃんには近づくなって、言ったでしょうが!」

「止めてください、咲姫ちゃん!」

 ものすごい剣幕で歩み寄る咲姫の行く手を千夜が遮った。

 すると咲姫は一瞬だけ、困ったように表情を曇らせて千夜を見たが、すぐに奏多を睨みつけて凄んだ。

「……どうやってここまで取り入ったのか知らないけど、次はないから。覚悟しておきなさい」

 打って変わって柔和な笑みを千夜に向ける咲姫。

「さ、行きましょ千夜ちゃん」

 そう短く告げると、踵を返して歩き始める。

「あ……先輩、申し訳ありません。このお詫びはいずれまた改めて」

 再度奏多に頭を下げて、千夜もその後に続いて行った。

「七生君、なんだか本当に大変そうだね……?」

 どんよりとした空気を纏ってその場に残された奏多には、おずおずと慰めの言葉がかけられるのだった。




「えー、それでは皆さんお待ちかねの、テスト返却でーす」

 そう担任が発したのは終わりのホームルーム。気だるげな雰囲気が一気に生徒達に広がる。

「なんですが、その前に……実はこのクラスで、学年トップの点数出した人が居ます」

 そんな空気を裂くように、唐突にそんな発表があった。ざわつく教室内。

「天道さん」

 呼ばれ、席を立つシエル。

「フッ……当然ね」

「素晴らしい成績ですね。平均点96点なんて、先生初めて見ました」

 ざわめきが大きくなる。

「う、嘘だろ……!?」

 無論、奏多にも衝撃が走った。

「どうかしら? これが私の真の実力というものよ」

 答案を受け取り、席に戻ったシエルが誇らしげに奏多を見下ろす。

「じゃあ、このまま出席番号順に……七生君」

 奏多は席を立ち、答案を受け取る。

 その点数はそう悲惨ではないものの、当然シエルには遠く及ばなかった。

 チラチラと盗み見ては軽く噴き出すシエル。

(うぜぇ……)

 執拗な精神攻撃に耐えながら、奏多は答案返却が終わるのを待った。

 しばらくして、返却を終えた担任は軽い調子で口を開いた。

「あ、そうだ。ついでに、席替えしますよー」


「そんな馬鹿な……ありえないわ」

 戦慄の表情を浮かべるシエル。

「天に選ばれし私が、このような――」

 机に手をついたかと思えば、ブツブツと小声で呟く。

「そうだわ、きっとこれは悪魔の仕業だわ。私の任務に支障をきたそうと妨害を仕掛けてきたんだわ」

「ただの席替えのくじ引きで、どんだけ大層な思考してるんだ」

 先ほどからシエルが苦悩しているのは、奏多の言うとおりただの席替えの結果である。

 成績優秀だったシエルには、くじを引く順番を決める権利を与えられた。

 彼女はまず奏多に最初に引かせ、次に自分が引けるように出席番号逆順で引くように指定した。

 のだが、奏多が引いたのは窓際の後方二列目、対してシエルは教卓目前の中央最前列だった。

 ……常時監視をするには、あまりにも遠かった。

「次はワタシデスね!」

 やたらと意気込んでくじを引く命奈。

 その席は見事、奏多の隣だった。

 からかうように周囲から口笛が鳴る。

「奏多、何か細工をしたのね……! こんなこと、それ以外ありえないわ……!」

 周囲の様子をよそに、迫真の表情で奏多へと振り返るシエル。

「わざわざそんなことするかよ」

 奏多は否定するが、シエルは聞く耳を持たなかった。

「そうまでして私の庇護下から逃れたいと……何と浅ましいのかしら……!」

「勝手に言ってろ……」

 奏多が呆れたように呟くと、シエルは言われたとおり好き勝手に言葉を並べ立て始めた。

「しかし、これほどの憤りを感じるものなのね……約束された勝利を逃すというのは……!」

「いや、約束されてねーだろ、別に」

「……かつて地下帝国の一角を治めた長は、負けるはずのなかった戦いに敗北し、こう言ったと伝わるわ……!」

 そのまま会話を噛み合わせる様子も無く、シエルはのたまった。

「俺のシマじゃノーカンだから……と」

「むしろイカサマしてるのは、そっちじゃないですかね……」

 奏多の指摘を無視して「ノーカン、ノーカン……」と一人でざわざわするシエルをよそに、くじ引きは進んでいった。


 そしてその後。

 つつがなく、くじ引きは終了した。

「あの、天道さん……」

 とそこで、シエルに話しかける生徒が一人。

「ノーカン、ノーカ――何かしら?」

「良かったら……席、変わってくれない?」

 彼の引いたくじは奏多の席の真後ろだった。

「!!」

 驚愕に目を見開くシエル。

 直後これ以上ないほどに穏やかな笑みを浮かべて、彼の両手を握った。

「素晴らしい申し出だわ……あなたに神のご加護があらんことを」

「大袈裟だな」

 かくして、奏多の周辺はあまり変わることがないまま、席替えが終了した。




 翌日、朝。

 奏多は文次に呼び出され、男子トイレに居た。

「奏多君、君のもたらした情報から、夢見咲姫という女について調べてみた結果だが……」

 その用件とは、咲姫のことについてだった。

 奏多は一応、命奈と付き合っているということになっている手前、別の女子の情報を大っぴらに嗅ぎまわることもできず。

 その行動をしても不自然でないほど女子に飢えた、なおかつ秘密裏に情報提供できそうな近しい人間……つまり文次に、やむなく探ってもらっていた。

「何かわかったか文次?」

 したり顔で大仰に頷く文次。

「こちらの画像をご覧いただきたい」

 彼はそう言って懐からスマホを取り出した。

 そこに表示されていたのは、紛れも無く咲姫。

 SNSにでも投稿されたものだろうか。いわゆる自撮りのような雰囲気で、見知らぬ女子と共に二人で並んで、大写しになっている。

 二人ともTシャツにデニムと、ラフな格好。そして彼女の表情は、少なくとも奏多は一度も見たことがない、とびきりの笑顔だった。

「……おわかりいただけるだろうか?」

 画像をぼんやりと眺める奏多に、文次の妙に芝居めいた声が届いた。

「何がだよ?」

 奏多が聞くと文次はそのままのトーンで、さも当然と言わんばかりに言い放った。

「とんでもないエロ女だということが判明した」

「ひでぇ言い様だな」

 奏多が短く斬り捨てると、文次は画像を拡大して指を差す。

「何を言う奏多! このTシャツをよく見ろ!」

 言われるままに改めて画像を見る奏多。

 咲姫の着ているシャツには、二行に分かれて大きめの文字がプリントされていた。

「アイラブたまぶくろだぞ! これがエロくなくて何がエロいと言うのか!!」

 上段の胸元にはIとハートマーク、下段には袋球と並んだその部分を、丸く囲むように指を動かしながら文次は力説する。

「いや、さすがにちょっと早計すぎやしませんかね……」

 なおも怪訝な顔をする奏多を、文次がさらにまくしたてる。

「それに見ろ、このビビッドなピンク色! ピンクは淫乱、古事記にもそう書かれている!」

「そんなわけねーだろ、古事記を何だと思ってるんだ」

 呆れたように言って自らもスマホを取り出す奏多。

「袋、球…………たいきゅう、か……?」

 そしてそう呟きながら検索をかけると、ただちに結果が表示される。

「……ああ、ラクロスのことなのか」

 納得がいったと言うように嘆息する奏多。


 よくある球技名がでかでかと書かれた、部活熱心な部員とかが着てそうな、あの微妙にダサいTシャツ的に当てはめると、つまり。

 アイラブ袋球。

 要するにラクロス大好きというアピールでしかなかった。

「……○クロス……!?」

 しかし文次の理論は止まりそうになかった。

「悪意のある伏字をするんじゃない」

 奏多は即座に諌める。

「そんなんだから頭ん中真っピンクだの、年中発情期だの言われるんだぞ」

 その主な発言者は級友の荻野目なのだが。

「ちっ、大賢者様は余裕の発言ですなぁ」

「誰が賢者だ」

 もはや言われ慣れ過ぎて溜息すら出てこない奏多に文次は追い打ちをかける。

「うるせー、どうせ命奈ちゃんと毎晩しこたま○クロスしてんだろーが! その使いこまれた股間の○ーンスタッフでバシ○ーラ唱えてどっかイかせてんだろうが!」

「文次、その発想力の高さだけは尊敬するわ。お前こそが真の魔法使いだ」

 感心したように目を細める奏多。

「やめろぉ! 俺はシエル様の教えの下、栄光の未来を勝ち取るのだ!」

 さぞ真剣にそう叫んだところで、ふと自らのスマホに視線を落とす文次。

「そうだ、なんならこの女を手籠めにするのも悪くないのではないか……?」

 そのまま欲望にまみれた瞳でそうのたまう。

「命奈ちゃんですら太刀打ちできんほどの、この凶悪極まりない胸部装甲……!」

 そのまま画像の一点を穴が開きそうなほどに見つめる。

「伝説の縦すら余裕でこなせそうではないか、ぐへへ……!」

 目で見えるほどに負のオーラを纏って下卑た笑い声をあげる文次の様子に、奏多はついに溜息をついた。

(調査頼む相手を間違えたな……)

 そしてそのまま、画像に夢中な文次を置いて先にトイレを出た。

(しかし、本人のあずかり知らんところで、勝手にオカズとして献上する形になってしまったか……)

 若干の申し訳なさが芽生える。

(すまん夢見、それだけは謝っておく)

 心の中で深く謝罪する奏多だった。


 一方その頃の咲姫は。

(……何か、悪寒が――!?)

「どうかした、さっきー?」

「な、なんでもない!」

 クラスメイトと談笑しながら、異様な寒気を感じていた。




 次の休み時間。

「なぁ雪村」

「……何?」

 奏多は再度、真冬を頼ることにした。

「夢見について、なんか知ってること無いか?」

「知ってることって言われても……この前言った通りだよ」

 しかし彼女の答えは芳しくなかった。

「そうか……」

「後は……とにかく男子を毛嫌いしてるってことぐらい、かな」

 残念そうな奏多の様子を見かねたか、真冬はそう付け足した。

「男子を毛嫌い?」

「……その理由までは知らないけど」

 新たな情報に食いつく奏多に、真冬は先に釘をさす。

 途端にうなだれる奏多。

「…………何? そんなに気になるの、あの娘のこと?」

 からかうような言葉とは裏腹に、どこか面白くなさそうな顔で言う真冬。

「いや、そんなんじゃねーよ」

 対して奏多は自嘲するように笑いながら否定する。

「何でこんなに目の敵にされんのか、せめて理由が知りたいってだけだよ」

 おどけたように肩を竦めて正直な思いを吐露する奏多を、まっすぐに見つめる真冬。その表情は心なしか安堵したように見える。

「何をしててもいちいち突っかかってきて、面倒なことこの上ねーからな」

 続けて愚痴をこぼす奏多。

「あ、噂をすれば……」

 そんな彼から、何かに気づいたように視線を外し、真冬が小さく呟いた直後。

「大人しくしてるかと思えば――!」

 不機嫌そうな少女の声。

「今度は雪村さんにちょっかいかけようとしてるワケ!?」

 それは当然、咲姫のものであった。

 バツが悪そうな顔で彼女を見やる奏多。

「ホンット、汚らわしい!」

 そんな彼に咲姫の怒号が容赦なく浴びせられる。

 大きなため息をついてから、奏多が何か言おうとした矢先。

「……あんたさ、いい加減にすれば?」

 冷たくも鋭い、糾弾するような声がその隣から響いた。


「ゆ、雪村さん……?」

 妙な威圧感に委縮する咲姫。

「嫌いなら嫌いで近づかなけりゃ良いじゃん」

 諭す、というよりは論破するといった調子で、真冬は続ける。

「それをわざわざ自分から追っかけまわして、あげくケンカ吹っかけてさ……」

「べ、別にこいつを追っかけてるわけじゃ――」

 咲姫が反論しようとするも、真冬はそれを一蹴する。

「奏多も迷惑してるって、さっき言ってたよ」

 あまりの勢いに言葉が詰まる咲姫。

 そんな彼女に、真冬は先ほど奏多にかけたのと同様の言葉で追い打ちをかける。

「それとも何? あんたもしかして、奏多のこと好きなの?」

 今度は言葉通りに、少し揶揄するような表情で。

「そ、そんなわけ――!」

 慌てて否定しようとする咲姫。その視界の端に奏多の顔が映る。

「何を満更でもない顔してんのよ、この――!」

 実際には、あまりに一方的に言い負かされる咲姫の様子に満足していたのだが、頭に血が上った彼女には『彼が勘違いしている』という風に映ったようだった。

 腕を横に大きく振りかぶり、奏多の前へと踏み出す咲姫。

 そのまま振りぬいた手は、真冬にしかと掴んで止められた。

「だから、いい加減にしなよ」

「! く、うぅ~……!」

 二人の顔を交互に見ながら、無念そうに唸る咲姫。

「……お、覚えてなさいよ、七生! いつか絶対に吠え面かかせてやるんだから!!」

 掴まれた手を解放されるや、情けない捨て台詞を残してその場を去って行った。

「……なんなの、あの娘?」

「……さぁ? 俺の方が聞きてーよ」

 残された二人は同様の感想を漏らしていた。

「まあ何にせよ助かったよ、ありがとうな」

「……ん、別に……」

 奏多が礼を言うと、真冬は少し気恥しそうに視線を逸らした。

「悪りーな、わざわざ嫌われ役に回ってもらうような感じになって」

 あまりに頼り切りだったため、奏多は余分に彼女を気遣う。

「……気にしないで、嫌われるのには慣れてるから」

 が、対する真冬の返事は随分とそっけなかった。

「そ、そうか……」

 若干気まずい奏多であった。




 昼休み。

 図書室に赴いた奏多は、そこに偶然居合わせた陽富、千夜の両名と同席していた。

 彼女らにもテストの返却がされていたようで、二人して答案を机に広げている。

「どう、100点だよ! ボク、すごくない!?」

「そうだな、ある意味すげぇな」

 やたら自信満々に言う陽富に、呆れたように同調する奏多。

「全教科合わせて100点とかどんな頭の悪さだよ。もはや平均点が赤点じゃねーか」

 陽富の答案の隅はどれも、彼の指摘通り凄惨な数字に彩られていた。

「むしろどうやって入試パスしたんだお前……?」

「それ、先生にも言われたんだけど!?」

 奏多がふと思ったままの疑問を口にすると、陽富は憤慨した様子を見せた。

 改めて陽富の答案と問題用紙を見る奏多。するとある一つの点に気が付く。

 なぜか彼女は選択肢を選ぶ問題“だけ”は全て正解していた。

(選択肢……つまり、マークシート……!)

 そう。先ほどの彼の疑問への答えは、つまるところ“運ゲー”の一言に尽きるのだった。

「すごいですね、陽富ちゃん……千夜はここの選択肢でひっかかってしまって――」

 奏多の横から、そう評す千夜。

 だが当の彼女の答案は、逆にそこしか誤答していなかった。

 つまりほぼ満点である。

「いやどう考えても千夜ちゃんの方がすごい」

 素直に称賛する奏多。

「そーだよ! チヨちゃんに比べたらボクは普通だよ、普通!」

「いや待て、普通ではない」

 続く陽富の言葉は即座に否定される。

「……という事は、千夜はまだ普通には遠いんですね。千夜ももっと頑張らないと……!」

「千夜ちゃん、これに関してはあまり見習わない方が良いと思う」

 陽富の発言を聞いて深刻そうな顔をする千夜が、逆に心配に思える奏多だった。


 その後、千夜の答案を参考にする形でテストの復習を開始する陽富。

「も~ダメ……さっぱりわかんない……!」

 ものの数分後、そこには机に突っ伏した陽富の姿があった。

 対面に並んだ二人が揃ってうなだれる。

「陽富ちゃん、途中から考えるの止めてませんか……?」

「だって考えたってわかんないんだもん!!」

「何でそこで諦めるんだよ。もっと熱くなれよ」

 千夜の指摘に対して開き直る陽富を、彼女の口癖そのままで咎める奏多。

「もう十分熱くなってるよ!」

 すると陽富は派手に知恵熱を放出しながら訴えた。

「心は熱く、頭は冷静じゃないとダメなんだよ……!」

「何を急にもっともらしいことを言ってやがる……」

 呆れながら問題用紙と答案を取り、改めて注視する奏多。

「……お前絶対まともに考えてないだろ、これ。だいたい、設問に対しての解答が噛み合ってないし。例えば――」

 奏多が陽富の解答の不備を一つずつ、洗いざらいに指摘し始めた。

 しばらくうんうんと頷きながら聞いていた陽富だったが、唐突に手を上げた。

「先生、日本語でお願いします……」

「日本語しか喋ってないはずなんだが」

 頭を抱える奏多。

 そもそもそのテストは日本語のテスト、要するに現文だったのだが。

「あ……」

 そんな二人の様子を、彼の隣から静かに見ていた千夜はあることに気が付き、声を漏らした。

(先輩の腕に蚊が止まっています……)

 それは今まさに奏多に襲いかかろうとする、小さな存在だった。

(先輩の血を吸おうなんて、いけない子ですね……えいっ!)

 身を乗り出した千夜の手が軽く奏多の腕を掠めた。

 それに気づいた奏多が千夜の方を見やる。

「? ちょ――千夜ちゃん、危ない!」

 その時すでに、千夜は椅子ごと奏多に向けて倒れ始めていた。

 やがて短い悲鳴とともに辺りに大きめの物音が響いた。


(千夜ちゃん、お友達とお勉強って言ってたけど……)

 その頃、咲姫は図書室へと向かっていた。

 目的はもちろん、奏多が千夜に近づかないか見張るためである。

(さすがに大丈夫かな……? あの腐れ変態クズゴミ虫が、まさか図書室になんて居ないでしょうし……)

 そのまさかが起こっていることも知らず、呑気に都合のいい妄想を展開する。

 そんな彼女の耳に椅子が倒れたような物音が届く。

(? ……何事?)

 不審に思いながら、図書室を覗き込む咲姫。

 物音の発信源、周囲の生徒の注目を浴びるその位置には。

 抱き合った奏多と千夜が居た。

「!!」


 自身に向かって倒れてきた千夜を、咄嗟に正面で受け止めた奏多。

 千夜が前に突き出した両手の下から奏多が腕を差し込んだため、彼女は見事に抱きしめられる形になった。

 密着する二人の体。

 互いの吐息と心音が交差し、頬を赤らめる千夜。

「あ、せ、先輩、その――」

「え、えーと……大丈夫、千夜ちゃん?」

 奏多もさすがに気恥ずかしそうにしながら、ひとまず体を離し千夜を気遣った。

「……ボクには勉強押しつけておいて、二人はなにイチャイチャしてんのさ~?」

 陽富ですらそんな感想を抱くような状態を、彼女が見過ごすはずがなく。

「あんた、何やってんのよ!?」

「げ、夢見……!」

 鬼の形相で叫びながら現れた咲姫に、奏多はうろたえる。

「さっさと離れなさいよ、この変態! ド変態!」

 咲姫は蔑みながら奏多を突き飛ばす。

「痛ってーな、何すんだよ!」

「咲姫ちゃん、なんてことを!」

 二人から非難されるも、咲姫の怒りは収まりそうになかった。

「この薄汚い虫が! この!」

 言いながら倒れた奏多に上から足を踏み下ろす。

 その行為に、ついに千夜も声を荒げた。

「――いい加減にしてください! 千夜も怒りますよ!?」

「ち、千夜ちゃん……?」

 奏多を守るように身を挺しながら、ようやく大人しくなった咲姫を見上げて睨む千夜。

「こんなに意地悪ばっかりする咲姫ちゃんなんて、嫌いです! あっち行ってください!」

 そう言って彼女はそっぽを向いた。

「そ、そんな……千夜ちゃんまで――!」

 その言動にどうやら相当なショックを受けたようで、涙目になっている咲姫。

 しかしそんな彼女には目もくれずに、千夜は奏多に向き直った。

「すみません先輩、さあ続けましょう」

「……あ、ああ……」

 申し訳なさそうに微笑む千夜に促され、彼女と共に奏多は椅子に掛けなおした。

(別に、俺は悪くないはずだけど……なんか、さすがに可哀想になってきたな……)

 見るからに肩を落としてトボトボとその場を去っていく咲姫の後姿を、奏多はそう思いつつも見送るしかできなかった。




 その日の放課後。

 頭上に広がる曇り空のように、どんよりと沈んだ気持ちを抱えながら咲姫は一人、帰路につこうとしていた。

(雪村さんも千夜ちゃんも、あんなやつの何がそんなに良いんだろ……?)

 彼女が一歩外に踏み出したまさにその時、堰を切ったように大粒の雨が空から降り注ぎ始める。

 すぐさま後ずさり、鞄の中を探る。しかし目当ての物は見当たらず、肩を落とし溜息をついた。

「…………はぁ、最悪」

 そこに通りがかった生徒が、彼女に声をかける。

「夢見? どうしたんだ?」

 相手を見て、さらに深く溜息をつく咲姫。その相手とは当然、奏多である。

「……傘もって来んの忘れたのよ! 見りゃわかるでしょ!」

「そ、そうか」

 心底不機嫌そうに答える彼女に、少しためらいながらも奏多は提案した。

「……俺の傘使うか?」

 すると彼女はなぜか動揺し始めた。

「お、お、おお、俺の傘!?」

 そのまま顔を赤らめながら続ける。

「な、なんて破廉恥なの!?」

「なぜそうなる」

 全く持って理解できないと言った様子の奏多に、咲姫は恥ずかしげに目を伏せながら叫んだ。

「お、俺の傘ってつまり……あ、アレのことなんでしょ!?」

 そのままチラチラと奏多の下腹部の辺りに視線を彷徨わせる。

「は?」

「俺の傘を見てくれ、こいつをどう思う、って……それでそのままどさくさに紛れて、あたしで雨宿りとか言い出す気なんでしょ!?」

 どういう訳か、話が飛躍しまくっていた。

「んなわけねーだろ……」

 呆れ顔の奏多を咲姫は拒絶する。

「と、とにかく! あんたのなんて絶対嫌よ、絶対に!」

「あーそうかい、はいはい。……ったく、気ぃ使って損したよ、じゃあな」

 うんざりしたように吐き捨てて傘を差したところで、命奈とシエルが現れた。

「奏多サン、どうかしたデス?」

「……いや、別にどうもしねーよ」

 ぶっきらぼうに答える奏多。

「む? そちらの方は?」

 その隣に立ち尽くす咲姫を不思議そうに見やる命奈。

「……傘忘れたから帰るに帰れないんだとさ」

 溜息交じりに説明する奏多。

「じゃあ、ワタシの傘を貸すデス!」

 すると命奈は一片の迷いも見せずに、そう言って咲姫に傘を差しだした。

「……え? で、でも――」

 咲姫が受け取るのを躊躇っていると、命奈は続けた。

「ワタシは奏多サンの傘に入れてもらうデス!」

「なぜそうなる」

 奏多が拒否するような返事をすると、途端に命奈は頬を膨らませる。

「むぅ、入れてくれたっていいじゃないデスかー!」

「入れるんだったら命奈よりシエルの方が楽だろ、体小さいんだし」

「お断りよ」

 奏多が出した代案は即座に拒否された。

「私を濡らさないように細心の注意を払って傘を持つことを確約した上で、地に頭を擦りつけて頼むというのであれば……まあ考えないことも無いけれど」

 最大限の譲歩とでも言いたげなシエルの様子に、奏多は冷ややかに答えた。

「いえ、結構です」

 返答するや、シエルは心底呆れたような嘲笑を浮かべる。

「……せっかくチャンスは与えたというのに……奇妙な男ね」

「お褒めに預かり光栄だよ」

 口でそう言いつつも、どう見ても嬉しそうではない奏多。

 二人のやり取りを尻目に、命奈は半ば強引に自らの傘を咲姫に手渡した。

「そう遠慮せずに使うといいデス!」

 まさにその瞬間。

「じゃあ俺、先に帰るよ」

「私も」

 そう言って傘を差し、駆け出す奏多とシエル。

「!? ちょっと待つデス!」

 置いて行かれた命奈は、叫び二人の後を追った。

「逃がさないデス、奏多サン!」

「早っ!?」

 賑やかに帰っていく奏多達の姿を、咲姫は静かに見送っていた。




 翌日の朝。

「あ、あの……これ、ありがと……」

 咲姫は命奈を呼び出し、借りていた傘を礼と共に差し出した。

「どういたしましてデス!」

 命奈がいつもの明るい調子で返事をして受け取ると、咲姫は遠慮がちに口を開いた。

「……あの、一つ聞いていい?」

「いいデスよー?」

 快く承諾する命奈。

「命奈ちゃんはあいつ……七生と、仲良いんでしょ?」

 咲姫は言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと口にしていく。

「……あいつのどこが、そんなにいいの?」

「? 奏多サンはいい人デスよ?」

 問われた命奈は不思議そうにしながらも、はっきりと答えた。

「いい人……?」

「毎日ちゃんとご飯も作ってくれるデスし……」

 しみじみと感じ入るように、頷きながら言う命奈。

「お母さんみたいデス!」

「そ、そうなんだ……」

 複雑な表情を浮かべる咲姫。

「……ワタシは、“お母さん”のことは、よくわからないんデスけどね――」

 そんな彼女の様子をよそに、命奈は誰に聞かせるでもなく、寂しげにそう呟いた。

「えっ?」

 あまりに消え入りそうな声だったので咲姫が聞き直そうとすると、命奈は何事も無かったかのように話を戻した。

「――とにかく皆も、奏多サンのそういうところが好きなんだと思うデス!」

 そのまま困ったように笑顔を向けながら、彼女は頼んだ。

「だから咲姫サンも、あんまり奏多サンを嫌わないでほしいデス……」

「………………」

 咲姫ははっきりとした返事をできないまま、時間だけが過ぎていく。

 やがて予鈴が鳴り始めたため、うやむやのまま二人は教室へと戻っていった。


 昼休み。

(……今日は静かだな)

 命奈とシエルと、三人で机を寄せ合っての昼食を終えた奏多。

(あれか、夢見が絡んでこないからか……)

 二人が何やらやり取りしているのを、それとなく聞き流しながら考える。

(……けど、なんか視線は感じる気が――)

 ふと教室の外に目を向ける奏多。

 しかしそこには特に変わったものは無かった。

(気のせいか……)

「――奏多サン、聞いてるデスか!?」

 不意に呼ばれ、奏多は間の抜けた返事をする。

「全く、何を呆けているのかしら? 私のあまりの可憐さに見とれでもしたの?」

「んなわけねーだろ」

 尊大なシエルの物言いをきっぱりと否定してから、彼は二人との会話に意識を集中させた。


 教室の外。

(いい人……かぁ)

 かろうじて奏多の視線を回避した咲姫は、まるでドラマに出てくる張り込み中の刑事のように、扉の陰から彼の様子を再び窺っていた。

(……命奈ちゃんが嘘をついてるようには、全然見えなかったけど――)

 昼食のバナナを黙々と齧りながら注視する。

(けど皆、騙されてるだけかもしれない……どうせ男なんて、女を侍らせることしか考えてないんだから! あんなかわいい子相手ならなおさら!)

 食べ終えたバナナの皮を強く握りながら、不信感を露わにする。

(ちゃんと監視はしておかないと――)

 周囲の生徒の一部から怪訝な顔をされ始めた彼女の元に、一人の生徒が近づいていった。

「あなた、確か……2組の夢見さん、だったよね?」

 突然の呼びかけに身を縮ませる咲姫。

「はいぃ!?」

 上ずった返事をしながら振り返ると、そこには生徒会の腕章をつけた少女が立っていた。

「……何してるの? 用事があるなら入れば良いのでは?」

 不審者に対するそれとしか思えない視線と言葉を少女は投げかける。

「え? あ、いや、別に、特に何も……! あ、あはははは……!」

 咲姫が誤魔化すとなお一層不審そうな表情をしつつも、少女はそれ以上の追及を止めた。

「……まあ、別に良いけれど」

 そう言いながらメガネの位置を直し、去っていく少女。

 それをぎこちない笑顔で見送ると、咲姫はやはり奏多の様子を窺うのだった。


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