10話 侵略の魚人
まだ昇り切っていない太陽が、これでもかとばかりに強く照りつける夏の朝。
寄せては返す波の音だけが響いていたとある無人島の海岸には今、どよめきが広がっていた。
「何者だ、貴様!?」
珠声を取り囲んだ魚人のうちの一人が、怒号を上げる。
(篠神さん……!?)
今にも取り乱しそうな珠声の様子をよそに、怒号を向けられた少女――命奈は毅然と答えた。
「答える義理はないデス」
それを皮切りに両者の間の空気が緊張感で満たされていく。
「命奈、俺よりまず先輩を!」
命奈の背後から奏多が声を上げる。それを受けた命奈は即座に眼前の男を払いのけ、そのまま珠声の元へ猛然と突き進んでいった。
「――させるかっ!」
間に立つ男たちがそれぞれに得物を構え、立ちはだかる。
「それはこっちのセリフデス」
対する命奈は先頭の男の前で踏み切り、高く跳びあがると翼を広げ滑空。数人の頭上を飛び越え、珠声を囲む男たちの目前へと迫った。
相手が得物を命奈に向けるよりも早く、宙返りからの開脚で左右の男の頭を蹴り飛ばすと、その奥で珠声を腕に抱いた男の脳天に鎌の柄を突き立て、勢いよく突き飛ばした。
吃驚する男たちの声を背に、珠声の腕を取り抱きかかえると命奈は低空を舞った。
「大丈夫デスか、珠声サン?」
「う、うん……! だ、大丈夫……!」
にこやかに問いかける命奈に、珠声はまだ気を動転させながらも気丈に返す。
「そこまでだ!」
これで一安心と思いきや、今度は奏多の居た辺りから男の声が響く。
二人が声の上がった方に視線を向ける。するとそこでは先ほどまでの珠声と同様、しかし随分と扱いが悪くなった格好で奏多が男たちに囲まれていた。
「わ、悪い……捕まっちまった……」
「大人しくしろ! こいつがどうなってもいいのか!?」
青ざめた表情で呟く奏多と威勢よく恫喝する男。
「奏多サン!」
「な、七生君……!」
命奈の悲痛な叫びと共に、二人の表情が陰る。
「馬鹿め……雑魚は解放された隙に、さっさと逃げておくべきだったな――!」
両手を上げ抵抗の意思を見せていない奏多に、背後の男が冷たい刃と言葉を向ける。
「――ええ、全く持ってその通りね」
そこへ新たな声が響いた。
直後、軽い衝撃と共に奏多の拘束が解かれる。同時に奏多の背後に居た男が悲鳴をあげながら、ものすごい勢いで砂浜を滑っていった。
男を襲ったのは、それはそれは見事なドロップキックだった。
「何ぃっ!?」
小柄なシルエットがそのまま奏多の頭上で華麗に翻る。
その様子を驚愕の表情で見送る男たち。それをよそに彼らと奏多との間に白き翼をはためかせながら厳かに舞い降りる、奏多の拘束を解いた張本人。
「あまつさえ丸腰の相手を、不意打ちで武器を持って制圧し、その上人質にまで取るなんて……まさしく雑魚の所業ね。恥ずかしくないのかしら?」
そしてその者は地に足をつけると同時に周囲を一瞥し、どこまでも居丈高にどこまでも挑発的にそう言ってのけた。
奇妙な威圧感に男たちが後ずさる中、奏多が安堵に満ちた声でその名を呼ぶ。
「シエル――!」
するとシエルは見返り、呆れたように軽く鼻を鳴らしながらも不敵に微笑んだ。
「……かつて伝説の狼と称された男は、あなたたちの様な悪漢に対して、こう言ったとされているわ……」
そして再び男たちの方へと向き直ると、昨日と同様に強く握った手を胸の前に掲げながら説いた。
「男なら拳ひとつで勝負せんかい……と」
「何故だろう……いつも以上に説得力を感じない……」
しかし奏多にはやはりツッコまれるのだった。
「ふざけたマネを……!」
「怯むな! 相手の戦力はたったの二人、大した問題ではない!」
新たなる乱入者に男たちが戸惑う中、一人の男が得物を構えるとシエルに目掛けて突撃する。
勢いを乗せて正面から鋭く突き出される得物。しかしシエルはそれを造作もなく叩き落とすと、その拍子にその場で身を翻す。
「必殺――」
ちょうど一回転して正面に向き直るタイミングで、拳を握り地を蹴る。そしてそのまま間近に迫った男の顔面に、拳を突き出した。
「シャイニーパンチ!」
拳が見事にクリーンヒットすると男の体は吹っ飛び、その勢いのまま砂浜を転がっていく。やがて止まったその場で気を失ったか、伏せたまま動かなくなった。
「グーで行ったー!?」
まるで容赦のないその一撃に奏多は驚愕の声を上げる。
それを気に留めた様子も無く、シエルは未だ敵意を見せる周囲の男たちを呆れたように見やった。
「全く……どこまでも愚かしく、浅はかな者どもね……」
彼女はそこで一度言葉を区切ると、やはり不敵に口元を歪めた。
「いいでしょう……私もちょうど昨日から、約一名のおかげで虫の居所が悪かったことだし……徹底的に叩きのめしてあげるわ……!」
約一名とはおそらく陽富の事を差しているのだろうが……しかしてその表情たるや、見るからに相手を必要以上にいたぶる気満々な嗜虐的なものであった。
(……それじゃ、ただの八つ当たりなのでは……?)
少し思うことはあるものの、助けられた手前迂闊に口出しできない奏多だった。
「珠声サンも、こっちへ!」
「あ、ありがとう、篠神さん……!」
シエルに注目が集まるその隙に、命奈は珠声の身柄を奏多に預ける。そしてシエルの隣に立つと、改めて鎌を構える。
「魚人共……一匹残らず……」
場の緊張感が高まる中、シエルは闘志を漲らせるようにして呟く。
「全滅してやるぞ……!」
「えぇ……?」
続く言葉に奏多は思わず気の抜けた声を上げた。
対して男たちは戦意を削がれた様子もなく、得物を持つ手に力を込め直す。
「――舐めるな! 貴様らこそ駆逐してやる!」
リーダー格と思しき男が激昂したように叫ぶと、男たちが一斉に突撃を開始した。
まず迎え撃つは命奈。素早く突出すると鎌を背後から大ぶりに縦一閃。
直後に甲高い音が響く。
先頭を走る男が前方に向けて携えたその得物、狙って当てるにはあまりに細いその刃先を命奈は一振りで見事に捉え、そのまま砂浜に突き立てさせる。
衝撃と驚愕で男の動きが止まる中、命奈は叩きつけた鎌を支点にして宙返り。男の脳天に強烈な踵落としを見舞う。
その一撃で顎を地面に叩きつけられ、悶絶し倒れ伏す男。
すぐ後ろに続いていた男が咄嗟に横に半歩踏み出し、命奈に得物を突き出す。
対し命奈は瞬時に鎌を男の側へ振りぬく。柄同士がぶつかり、迫る刃の狙いが逸れた。
そのまま反動の勢いを乗せて回転し、足払いをかける命奈。男はバランスを崩し転倒する。
しかしさすがに命奈も体勢が不安定になったのか、転倒させた男の上に覆いかぶさるように背中から落ちた。
すかさず後続の男が数人で彼女の周りを取り囲もうとするも、その動きを察知した命奈はすぐさま飛び起き距離を取る。
「このっ、ちょこまかと!」
男が一人、苛立ったように得物を振り上げて突進し、命奈に迫る。
振り下ろされたそれはしかし、彼女を捉えることはなかった。
半身に立って相手の一撃を至近で躱すと、鎌の柄を突き出し鳩尾に素早く反撃。
短い呻きと共によろめく男の体。命奈はそこへすかさず追撃をかける。
懐に踏み込み体当たり。威力はそこまででもないが、相手を押し飛ばすにはそれで十分だった。
男の体が軽く宙に浮き、ちょうど先ほど倒した男の上まで吹き飛び倒れる。
それとほぼ同時に左右から命奈に繰り出される刺突。
彼女は咄嗟に前方へ踏み出し刃を躱すと、そのまま身を捩り大ぶりに横一閃。
渾身のフルスイングが脇腹に直撃した男は、得物を残して海まで吹き飛ばされた。直後、派手な音と水しぶきが上がる。
その間に彼女の前方に新たな男が二人立ちはだかる。残された片割れの男と合わせて三人に囲まれる命奈。
得物を前に構え、じりじりと包囲を狭める男たち。
「こいつめ、大人しくしろ!」
万事休すかと思われたが、命奈は僅かに身を屈めるとその場で跳躍した。
その後再び翼を展開すると、一度大きく羽ばたき後方に宙返り。
そちらに居た男が慌てて頭上に向けて薙いだ得物を、逆さ向きのまま掴んで受け止める命奈。勢いにやや振り回されつつも宙返りを続け、その動きから続けて流れるように男の後頭部を蹴り飛ばした。
先ほどまで命奈が居た位置と入れ替わるようにしながら、男は足元をよろめかせて倒れる。
こうして難なく包囲を脱した彼女はそのまま群がる男たちを見下ろし、まるで威圧するかのように滞空する。
その様は傍目にはどこか神々しさすら感じさせるものだった。
「す、すごい……!」
男たちを圧倒する命奈の姿を呆然と見つめながら、感嘆の吐息を漏らす珠声。
「見惚れている場合ではないわよ、珠声」
上の空な彼女の注意を引くように、シエルが声をかける。
それとほぼ同時に彼女らの背後、海から別の一団が姿を現す。その者たちも手に手に武器を携え、不意を突き急襲しようと珠声の元に忍び寄っていた。
「げぇっ、こっちからも来た!」
振り向き、その接近に気付いた奏多が声を上げると、彼らの間近にいた男が得物を振り上げる。
奏多の隣で珠声が悲鳴を上げるよりも早く、シエルが二人の前に飛び出すとその勢いのまま跳躍。
直後、彼女の頭頂部よりも高い位置にある男の顎に飛び膝蹴りが炸裂した。
衝撃に男の体が揺らぎ、得物が力なく地に落ちる。しかし男は倒れることなく、なんとその場に踏みとどまった。
そのまま怒りに身を任せて雄叫びを上げながら、お返しとばかりにシエルへと腕を振り下ろす。
対してシエルは余裕の表情で翼をはためかせると、その体が高度を保ったまま軽やかに後退し、反撃を空振りさせる。
そして次の瞬間には、宙に浮いたまま距離を詰めつつ水平に一回転。男の側頭部に回し蹴りを見舞ったのだった。
さすがに今度は男の体が吹き飛び、海面に叩きつけられた。
その光景を目の当たりにし、後続の男たちが明らかに動揺し始める。
「あら、もう怖気づいたのかしら? なんて手応えのない……」
攻めの手が続いてこないことをどこか残念そうにしつつ、シエルはゆっくりと着地し男たちを一瞥する。
「ひ、怯むな! 我らの目的はあくまで人魚の確保だ! 奴の相手までする必要はない、無視しろ!」
奮い立たせようと後ろに控えていた男が叫ぶと、表情に嘲りの色をさらに強くするシエル。
「……ふっ、聞いてもいない事まで敵に教えるなんて、あなたたちは馬鹿なのかしら?」
やれやれとでも言いたげに肩を竦めるその様に、男たちは血相を変える。
「こいつ、言わせておけば――!」
容易く挑発に乗り今にも斬りかからんとする男たちを、シエルはやはり不敵に微笑んで見据える。そして男たちに視線を向けたまま彼女は足元に転がる魚人の得物を拾い上げると、背後に居る奏多の元に投げて渡した。
「え? こ、これをどうしろってんだよ?」
彼女の意図を今一つ理解できなかった奏多が問うと、シエルは背を向けたまま答える。
「今の言葉を聞いていなかったの? 敵は珠声を最優先で狙ってくるわ、あなただってそれは避けたいでしょう?」
幾分か呆れた様子で言いながら視線だけを送る彼女に、ただ頷いて返す奏多。
「ならば、最悪それで時間稼ぎくらいできるでしょう?」
続けて有無を言わさぬ真剣な口調でそれだけ言うと、正面に向き直った。
つまり身を挺して盾になれ、と。
「マ、マジかよ……!?」
「心配しなくとも、私も簡単な治癒くらいは施せるわ。ただ――」
青ざめる奏多を勇気づけるように、シエルは言葉をかける。
「悠長にお喋りとは、随分と余裕だな!」
その途中で苛立った様子の男がシエルに向けて斬りかかった。
不意を衝いて上段から振り下ろされた一撃を彼女はその場で容易く受け流すと、大きく一歩踏み込み男の顎に下から掌底を打ち込む。
上体が浮いた隙にさらに一歩踏み込み、追撃の掌底を鳩尾にもう一撃。連撃で男の体がふらつき、後ずさる。
それでもまだ攻めの手を緩めないシエル。男が後ずさった分少しだけ開いた間合いを一気に詰め、懐へと潜り込むと体を捻り背中から体当たり。
格闘ゲームのコンボさながらなトドメの鉄山靠で、男は吹き飛び完全にダウンした。
ただちに正面に構え直したシエルに、間髪入れずに別の男が襲いかかる。
男は猛然とシエルの間近まで突進すると、回転しながら得物を横に大きく振りぬく。
首元に迫る刃に対し、シエルは前に倒れるようにして身を躱す。
得物が空を切ると同時に両手を地につくと、そのまま前転。そして逆立ち状態のまま男の首を両側から足で挟み、即座に反転。
突進の勢いが乗った男の体をその進行方向へと引き、勢いのままに顔から地面に叩きつけた。
直後、うつ伏せの体勢からシエルはすぐさま足を畳んで地を蹴ると、翼を広げて高く跳躍。その体が前後反転しながら、およそ人間には跳べそうにない高さまで舞い上がる。
そしてその高さから両足をそろえて男の真上へ一気に急降下。地に叩きつけられた男の頭が上から踏みつけられた。
思わず鳥肌の立ちそうな衝撃音と短い苦悶の呻きの後に、男の動きが完全に止まった。
「――せいぜい即死させられないようにだけは、気を付けなさいな」
男の頭の上に立ったまま何事も無かったかのように、先ほど中断させられた言葉の続きを奏多に投げかけるシエル。
「……は、はい」
彼女のそんな様子に圧倒された奏多は、ただただ震える声で返事をするのだった。
奏多がシエルに返事をしたまさにその瞬間。今度は奏多たちの側面、陸地側から何者かの気配と物音が近づいてきた。
珠声を庇うように奏多が身構える中、青々と生い茂った草むらを派手に音を立てて掻き分けながら、人影が一つ飛び出してきた。
「お~なんだなんだ~!? プロレスか~!?」
その人影は浜辺に飛び出てくるなり、きょろきょろと周りを見渡し楽しげに大声を上げる。
あまりに緊張感に欠ける感想を漏らした人物、それは言うまでも無く陽富であった。
「な、なんかそんな安穏とした感じじゃなさそうだけど……!?」
「これは……一体、何事ですか!?」
「……奏多、どしたの? 何があった?」
そんな彼女に続く形で連れ立って現れた少女たち。それぞれが険しい表情で状況を確認する。
「まだ仲間がいたか……! 手間をかけさせる!」
「貴様らも邪魔立てするつもりなら、容赦はせんぞ!」
しかし男たちは取り合う様子も無く、声を荒げて威嚇する。命奈を囲むように展開していた内の数人が、新たに乱入した四人へとその矛先を変えた。
不安げに立ちすくむ千夜に咲姫が寄り添い気丈に男を見返す中、陽富はいまひとつ事態を呑み込めていない様子で小首を傾げていた。
「…………何? やる気?」
そんな中、打って出るかのように先頭に歩み出た真冬に至っては欠片も怖気づいた様子を見せず、逆に相手に睨みを利かせる始末。
「おい待て、雪村! 相手は武器持ってるんだぞ!? 下手に挑発するな!」
彼女の対応に奏多はすぐさま心配そうに声を上げる。
「貴様……! ただの脅しではないのだぞ、わかっているのか!?」
対し男は彼女に一切の躊躇なく得物を突き付けた。
男に得物を向けられた真冬はしかしそれを気にする素振りも見せず、むしろ奏多の心配する様に嬉しいやら恥ずかしいやらで僅かに頬を上気させていた。
「……そんなに心配しなくても――」
そしてそう呟きながら、片足を半歩引きつつ腰のあたりに手を回した。
次の瞬間、彼女は目にもとまらぬ速さで眼前を拭うように薙いだ。
甲高い音と共に男の手から得物が弾き飛ばされる。
「こっちにも……武器なら、ある」
声も表情も真剣みを帯びた調子に戻した彼女が、その手にしかと握っていたもの。
それはおよそ肘から指先までほどの長さで、円柱状の物体。
持ち手の側から大体三分の二までが白く、そこから先は新芽の様な薄緑に変わるとそれが先端にかけてだんだんと色濃くなっていく。
そして緑が濃くなり始める辺りから、Yの字をかたどるように二又に分かれていた。
「……ネギだー!?」
そう、彼女が手にしていたのはどこからどう見てもネギであった。
「今どこから出したの!?」
「ここ」
「いや、武器ってネギかよ!?」
「……? そうだけど?」
咲姫と奏多が口々にツッコむと、二人の慌てた様子を心底不思議そうに小首を傾げて見やりつつ、真冬はそれぞれに答える。
「いやいやちょっと待て、おかしいだろ!? さっき当たり前のようにキーンって弾いてたけど、それ本当にネギなの!? 仮にネギだとして主成分何製なのそのネギ、鉄製!?」
「何製って……ネギはネギよ?」
腑に落ちない様子の奏多が矢継ぎ早に質問を繰り出すのとは対照的に、真冬は冷静に返答する。
「薬味や彩として重宝するヒガンバナ科ネギ亜科ネギ属の多年草にして、数多の戦場にて語り継がれる伝説の剣……それがネギよ」
「何なの? その豊富な知識とネギに対する全幅の信頼は……?」
謎の自信に満ち溢れた答えに、奏多は呆気にとられるばかりだった。
「ちっ……ふざけやがって、この――!」
得物を弾き飛ばされ同じく呆気にとられていた男がそこでようやく我に返り、苛立ちを吐き出しながら一歩踏み出した。
「……そしてこの剣に、私の力を乗せれば――」
奏多の側から正面の男に振り向きざまにそう呟きながら、真冬は冷気を自らの手元に集中させる。
すると彼女が手に持つ剣の周囲が、少しずつ凍てつき始めた。
それはやがて、手元から先端に向けて鋭く形作られていき――。
「――こんなこともできる」
陽光を反射し薄青に美しく輝く、氷の剣を成したのだった。
まるで魔法の様なその所業に、真冬と相対する魚人が目を見開く。
その一瞬の隙に真冬は素早く踏み込むと、剣の腹で男の顔を勢いよく張り倒したのだった。
「……それネギ必要なの?」
「必要。付いてなくてもできれば欲しい……それがネギ」
奏多の問いかけに即答する真冬。その様子からはどことなく有無を言わせぬ力強さをいつも以上に感じる。
(できれば欲しい……それはつまり裏を返せば、無くてもできるということでは……?)
奏多は訝しんだ。が、何だかツッコまない方が良い気がしたので、声には出さずに心の内に止めておいた。
「あんたらが何様かは、知ったことじゃないけどさ」
彼が口をつぐんだのを見て、改めて並み居る男たちに睨みを利かせる真冬。
「……雪女だって、ナメてもらっちゃ困る」
続けて、そう啖呵を切ったのだった。
「いやいやちょっと待て……え? 雪村、お前……雪女なの……!?」
あまりに突然の告白に、奏多は当人に再度確認する。
「……? そうだけど?」
変わらず大したことではないと言わんばかりの返答。
「いや、あの……もう何からツッコんだらいいのか……え? もしかして、俺の感覚がおかしいのか?」
奏多が自らの中の常識に自信を無くしかけていると、真冬の隣から呑気な声が上がった。
「先輩、すご~い! それボクにも貸して~!」
見るからに興味津々といった様子で爛々と目を輝かせた陽富が真冬にせがむと、彼女は少し間をおいてから渋々といった様子で剣を手渡す。
「おおっ、冷たい!」
それを両手でしっかりと受け取り率直な感想を述べると、陽富はそのまま剣を天に向けて掲げて叫んだ。
「ねんがんの アイスソードを てにいれたぞ!」
「そう、かんけいないね」
意気揚々とポーズを構える陽富に対し、奏多の反応はその剣のように冷ややかだった。
それも束の間、剣を持ち直し猛然と駆け出す陽富。彼女が向かった先は命奈の元。
「どおぉぉりゃああぁぁ~~!!」
牽制し合う少女と男たちとの間に突入すると、一つ大きな掛け声とともに男たちの側へ剣を大きく横に振り回した。
その直後、彼女の掛け声をかき消すほどの轟音を伴いながら、まるで台風かと見紛うほどに突風が冷たく吹きすさぶ。躱す間もなく、それに直近で巻き込まれた男たちが次々に悲鳴を上げる。
「……何か出た!」
たった一振りで数人蹴散らしたまま固まっていた陽富だったが、その場から説明を求めるように真冬に向かって叫んだ。
状況的に考えてその突風を巻き起こしたと思しき彼女自身も、何が起こったのかよくわかっていない様子である。
「……いや、あんたが出したんでしょーが」
そんな彼女に対し、呆れたように答える真冬。
「ボク何もしてないし!? 振り回しただけだし!」
「んなわけないでしょ、それは妖力に反応して吹雪を――」
なおも自分の所業ではないと主張する陽富に、畳み掛けるように返す真冬の言葉が不意に止まった。
「……あんた、まさか……普段から垂れ流してるの?」
「ん? 何を?」
何か思い当たったのか確認する真冬だったが、陽富はいまいちピンと来ていない様子。
「何って、だから妖力」
「……よーりょく、って何?」
初めて聞いたとでも言いたそうな陽富の返事に、さすがに真冬も唖然としていた。
「はぁ……もういい、とりあえず加勢する。あんたたちは?」
大きく溜息をついてからもう一本、懐から剣を取り出しつつ真冬は背後の二人に目配せする。
「……千夜は――」
「あ、あたしたちは戦うのとか苦手なんで! ほら、一緒に下がってよっか千夜ちゃん!」
千夜が震える声で何か言おうとしたのを遮りながら咲姫が代わりに答えると、彼女はそのまま千夜の手を引いて茂みへと元来た道を引き返そうとする。
「そう、じゃあ奏多のとこに居て。固まってた方が守りやすいから」
そんな彼女の行動を制するように、理由も付けて端的に要望する真冬。
「う……ゆ、雪村さんがそう言うなら、そうしとこうかな! ……不本意だけど」
咲姫は一瞬バツが悪そうな顔をしてから、まるで他愛のない会話でもしているかのように従う意思を見せた。最後の一言だけは、すぐ隣に居る千夜にさえ聞こえないくらいの小声だったが。
ともあれ二人は手を繋いで奏多の元へと駆けて行ったのだった。
それを見届けると真冬は再び氷の剣を生成しながら、ゆっくりと歩を進めた。
「ねーせんぱ~い、よーりょくって結局何なの~?」
「……無事に帰れたら、親に教えてもらえっての」
真冬の近づく間にも陽富はなおも質問を飛ばすが、それに対しては取り合うつもりも無さそうな返事。
「え~!? 教えてくれたっていいじゃん!」
「んなこと言ってる場合か、今?」
駄々っ子のように腕を振り回しながらごねる陽富に、真冬は男たちの方を指して凄む。
その間にも陽富がその手に持つ剣からはとめどなく冷気が迸っていたのだが、それにより男たちは迂闊に攻め込めずにいたのだった。
「命奈、こっちは私とこいつで抑えとくから、少し休んだら?」
その様子から戦力は二人で十分と判断したか、命奈を気遣うようにそう提案する真冬。
「ありがとうデス、任せるデス真冬サン! でも、ワタシはまだ大丈夫……だから、あっち見てくるデス!」
対して命奈は表情を緩めて礼を言うと、すぐさま反転し奏多たちの元へ向かった。まるで疲れを感じさせない軽快な所作に、感心したか呆れたか、真冬はどちらともつかない溜息を一つついた。
「……さて、私の友達にケンカ売ったんだ、覚悟はできてんだろうね?」
改めて男たちに向き直り、威圧感たっぷりに言い放ち剣を逆手に構える。
「凍りたい奴から、かかってこい……」
己が得物の切っ先のように冷たく鋭い視線で睥睨すると、凍りついたかのように空気が張り詰める。
「ちょっと先輩、カッコつけてないで説明してー!?」
そんな様子にはお構いなく憤ったように声を上げる陽富。
その一瞬の後、彼女の後頭部が勢いよく平手で張られたのだった。
その頃、奏多の元に集った少女たちはというと。
「先輩方、ご無事ですか!?」
奏多と珠声の二人を前にするなり、心配そうに声をかける千夜。
「う、うん……私は、大丈夫」
「俺も別に、怪我とかはしてないから」
不安を煽らないよう、共に努めて平静に返す二人だったが、対する千夜は表情を曇らせたまま深々と頭を下げた。
「申し訳ありません、こんな……千夜がこちらに誘ったせいで、皆様にご迷惑を――」
そんな彼女の行動を真っ先に制したのは、隣に控える咲姫だった。
「何言ってるの、千夜ちゃんのせいじゃないよ!」
穏やかに笑みを浮かべて千夜の肩を抱き、安心させるように真正面から説く。
「大方こいつが何か余計な事でもしたんでしょ?」
「何故そうなるんだ……ともかく、千夜ちゃんのせいじゃないってのは、その通りだよ」
そのまま流れるように奏多に責任を被せようとする咲姫の様に、彼は呆れながらも追従する。
「でも――」
「そ、そうですよ! それに、この人たち……私を狙っている、みたいですから……だから――!」
なおも沈痛な面持ちの千夜。そこへ珠声も同じく追従するが、それはしかしだんだんと悲観的な物言いへと変わっていった。
「あーもう、先輩のせいでもないですって……!」
見かねてすぐさまフォローする奏多。
「じゃあ、やっぱりあんたのせいね!」
「はいはい、俺のせいでいいです。だから千夜ちゃんは気にしない、ね?」
これ見よがしに糾弾の声を上げる咲姫には感情のこもっていない声で返しつつ、奏多は千夜に優しく諭す。
皆の言葉にようやく千夜も口をつぐんで頷いたのだった。
「……それより、このままじゃ――」
「帰れないデス?」
気を取り直して話を先に進めようとした奏多の言葉に先んじて、駆けつけた命奈が告げる。
「命奈ちゃん!」
無事を喜ぶように咲姫が声を上げて駆け寄り、皆がそちらを見やった。
「ああ、そうなんだよ……相手はどうやら相当な数で海を制圧してる、対してこっちはこの人数……数では圧倒的に不利」
奏多も彼女に視線を向けつつ、そのまま言葉を続ける。
「孤島だから、こっそり逃げられるような抜け道も無く……このままいずれ迎えの船が来たとしても、この状況から見てそれを見逃してくれるとは到底思えない」
彼が改めて状況を整理していくと、皆一様に表情を陰らせる。
「……命奈とシエルがそれぞれ三人抱えて飛べるんなら、話は別だけどな?」
と、そこまで続けざまに不利な要素を並べ立てていた奏多が、不意にちゃらけた様子で命奈に問いかけた。
「さすがに無理デス!」
「ですよねー……」
即座に返答する命奈。ダメ元の質問だったとは言え、脱出にはやはり無理があるようだ。
「じゃあ、どうすりゃいい……助かるには――!」
一転して苦渋の表情を見せる奏多。
「ならば簡単ね、全員蹴散らせばいいのよ」
そこへ、この状況でも変わらず自信に満ち溢れた声が届いた。直後に大きな水音が一つ。
軸足一本で立ったまま、体を寝かせるようにして地面と平行に蹴り出していた足を、ゆっくりと下ろしながらシエルが言う。
「と、言いたいところだけど……一体どれだけいるのかしら、キリがないわ」
嬉々として男たちを撃退していたシエルもさすがにうんざりしてきた様子で、未だ海面からヒレを多数覗かせる魚人の群れを一瞥してそう吐き捨てる。
「いっそこの島諸共、まとめて吹き飛ばしてしまおうかしら?」
などと物騒な発言をしながら、奏多たちの集まる元へと歩き出した。
「シエル、後ろっ!」
その直後、海に背を向けたままのシエルの虚を突こうと、音も無く上陸し迫る男の影。それに気付いた奏多が声を上げる。
彼の声に男が先に反応し、得物を前に突き出し一気に距離を詰める。切っ先がシエルに触れようかという、まさにその瞬間。
「愚かな」
前に踏み出していた足に体重を乗せて素早く振り返ると同時に、両手で男の得物の柄を上下から挟むシエル。
そしてそのまま得物の下に添えた手を持ち上げ、反対に上からは押さえる。
するとなんと、てこのように男の体が持ち上がり、ふわりと軽やかに宙を舞った。
数瞬の後、重力に引かれて落下してきた男目がけて向き直り、シエルは両手を揃えて掌打を放つ。
小柄な体躯から繰り出したとは思えない一撃が、男の胴を空中で捉える。衝撃により男は吹き飛び、再び大きな水音が響いた。
命奈以外の一同が唖然とする中、何食わぬ顔でそのまま合流するシエル。
「……なんでいちいち倒し方が格ゲーや格闘漫画チックなの?」
ここまでの彼女の戦いを見ていた奏多が何気なく感じていた疑問を口にすると、シエルは得意げに鼻を鳴らして答える。
「その方が映えるでしょう?」
「そこ重要!?」
まるで緊張感のない答えに、すかさずツッコミを入れる奏多。
「重要に決まってるでしょう。テクニカルフィニッシュボーナス、いわゆる芸術点ね」
「何の!?」
続けざまにそれこそ格闘ゲームの様な単語が飛び出すと、さらに奏多がツッコむ。
「もちろん信仰よ。敵はより美しく華麗に倒した方が、周囲の尊敬や畏怖の念が高まるものよ……それはやがて強固な信仰となる」
筋が通っているのかいないのか、よくわからない理屈を論ずるとシエルはやはり不敵に微笑んだ。
「それを糧に、私はさらなる高みへと至る……そう、いずれあのB――お母様よりも上に、ね……!」
(野心の塊……!)
何だかどす黒いオーラが見えた奏多は、もうこれ以上追及しないことにしたのだった。
「ところで……どうするデス、シエル?」
「決まっているわ。打って出るのよ」
そんな彼女に向けて命奈が真剣な表情で短く問うと、シエルも即座に意図を察して簡潔に返す。
「打って出るって、まさか魚人を相手に水中戦でもするってのか?」
「短絡的ね、そうではないわ。わざわざ不利を背負って戦う必要はないでしょうに」
その答えに奏多が懐疑的な声を上げると、シエルは呆れたように肩を竦める。
「じゃあ――」
「わからないかしら? 向こうはこれだけ数で優位に立っておきながら、何故未だに膠着しているのか」
「それは……お前らが強すぎて歯が立たないから、とかじゃないのか?」
逆に問い返された奏多は思いつく限りの答えを返す。
「まあ、それも間違いではないでしょうけど」
シエルは心なしか上機嫌そうに胸を張ると、チラリと海を見やる。
「見たところ、相手も一枚岩ではなさそうね……士気にムラがあるように感じるわ」
戦いながら感じたであろう事を語りながら、右手を天に掲げて数回手首を回す。
それに応えるかのように、小さな光球がいくつか彼女の手元に降り注ぎ、まばゆい輝きを放った。
「隙を窺っているのか、それとも遠巻きに眺めているだけなのか……何にせよ、島を囲んでいる者の全てが、この戦闘に躍起ではない、という事よ」
彼女の言わんとすることを掴みかねた奏多が短く唸る。
「? だったら、何だって言うんだ?」
「つまり、簡単にひっくり返す手立てがあるってことデス?」
そんな彼に代わって命奈が声を上げると、シエルも頷く。
「ええ、そういうことよ」
言うや掲げていた手を静かに下ろし、自らの足元へ向ける。
同時に宙を舞っていた光球が彼女の左右に分かれ、腰の横で形を変化させ始めた。
「……何これ、大砲?」
少し離れた位置から眺めていた咲姫が、身を乗り出すようにして呟く。彼女の所感通り、半球状の基部から二つ横並びに筒状の砲身が伸びたそれは、連装砲を思わせる形状だった。
「対潜戦闘用意」
シエルの声に反応して、砲身に光が集中しさらにその輝きを増す。
「さて……それじゃあ、邪魔者にはご退場願いましょうか……!」
「あの、シエルさん?」
誰に聞かせるでもなく静かに告げたシエルに、背後から奏多が声をかけた。
「拳一つで勝負するんじゃないのかよ!?」
どうしてもそこにツッコみたかったようだ。
「……武器を持った奴らが相手なら、遠距離攻撃を使わざるを得ない」
対するシエルの返答は実に堂々としたものであった。
「開き直った!?」
「合理的と言って欲しいわね」
腑に落ちない様子の奏多にそれだけ言い残すと、シエルは海に向き直った。そして。
「カーニバルだよ!」
高らかに叫びながら、一回転して何やらアイドルのようにポーズを決めるのだった。
直後にシエルの両隣から、海に向けて一斉に光が放たれる。
「もはや矢じゃなくてビームだ……」
呆然と奏多が見たままの感想を漏らすのとほぼ同時に、僅かに俯角を向いて放たれた光が水面に触れる。その数秒後、まるで水面下で爆発でも起こしたように、盛大に水柱が上がった。
「天使って、何でもアリなのね……!」
目の前の光景に、咲姫も若干顔を引きつらせて呟くのだった。
シエルの狙っていた効果は、すぐに表れた。
「何だ、今のは!? か、勘弁してくれ!」
「クソっ、メチャクチャだ! やってられるか!」
海から次々と怖気づいたような声が上がり、島の包囲を成していた者たちの一部が散り散りに遠ざかっていく。
それまで一切手出しされなかった海中への突然の攻撃によって、比較的士気の低い者が恐慌状態に陥ったのだった。
「おい、待てお前たち! くっ……誰でもいい、奴をどうにかしろ!」
統制が乱れる中で上がった号令によって、残った男たちは破れかぶれになった様子で上陸し、襲い掛かってくる。
「命奈! 陸に上がってきた者の相手は任せるわよ!」
「言われなくとも、デス!」
シエルが要請するよりも早く、その前に躍り出た命奈が返事と共に横薙ぎ一閃。間近に迫っていた男たちを一纏めに海まで吹き飛ばす。
直後、再びシエルの砲撃。轟音と共に次々に上がる水柱、その数が増えるごとに島を囲む影は反対に数を減らしていく。
追い立てられるように攻勢に転じた者も、命奈によって片っ端から追い返されていった。
一方、奏多たちを挟んで逆側に陣取った真冬も、並み居る男たちを軽々と打ち倒していた。
「遅い」
突き出された一撃を切り上げて払い、そのまま上段から得物を持つ手へ剣の腹を打ち据える。
怯んだところにもう一撃、一回転して顔面を張り倒す。短く呻いて男が倒れると、他の者たちはじりじりと後ずさる。
「……大したことないね、凍らせるまでもない」
その様を彼女が一笑に付すと同時に、少し離れた位置から気迫の籠った叫び声が轟く。そこでは陽富が変わらず剣から吹雪を迸らせながら、男たちを蹴散らしていた。
「よーしっ、なんとなーく使い方はわかったし、そろそろみんなまとめて海のひじきにしてあげるよ!」
周囲を一掃した彼女は、上機嫌そうに意気揚々と宣言する。
「……ひじき?」
「あれ、わかめだっけ? こんぶ? もずく?」
それに真っ先に反応した真冬が怪訝な顔で呟くと、陽富はとぼけたように返す。
「あぁ、海の藻屑、ね……」
ひたすら列挙される海産物から連想して、彼女が言わんとしていた言葉に辿り着いたのだった。
「そう、たぶんそれ!」
「あんたはとりあえず食い物から離れろ」
答えがわかってスッキリしたとでも言いたげな陽富に、真冬は呆れた顔で続けた。
その間にも片や繊細な剣捌きで攻撃をいなしながら打ち倒し、片や豪快に剣を振り回してまとめてなぎ倒し、上陸した敵の数を減らしていくのだった。
「さあ、浅はかなる魚人共よ! 降伏するなら今の内よ!?」
機に乗じて、高笑いと共にシエルが海中への砲撃を続ける。その頃には島を取り囲んでいた幾多の影は、もはや数えるほどしか残っていなかった。
どうにか彼女を止めようと果敢に突撃する者も、命奈がことごとく撃退し近づくことすらできずにいる。
不利な遭遇戦から始まったこの戦いも、いよいよ大勢が決しようとしていた。
その頃、包囲の中心では戦闘に携わっていない少女たちが、未だ降りかかる恐怖に耐えようと身を寄せ合っていた。
「皆さん、ご無事でしょうか……!?」
「だ、大丈夫ですよ! この調子なら、あたしたち勝てますよ!」
心配そうに口走った珠声になるべく明るく答えた咲姫の表情が、不意に強張る。
「ようやく追い詰めたぞ……!」
彼女の視線の先から、予期せず聞こえたのは男の声。
一行が振り向くと、傷一つ負っていない万全たる様子の男が一人、すぐそこまで迫っていた。
やや弛緩していた空気に、再び一気に緊張が満ちる。
(いつの間に……こっちは雪村と陽富が抑えてたはず――!?)
改めて正確な戦況を窺おうと、奏多は視線を巡らせる。
その目にまず飛び込んできたのは、真冬が完全に包囲され身動きが取れなくなっている様子だった。
「ちっ、この――」
それでも彼女は動じず、次々と襲い来る男たちを舌打ち交じりに倒していたのだが、その周辺で暴れていたはずの陽富の姿がない。
「っつーか、あいつはどこまで行ってんの……?」
突然囲まれたのを不審に思ったか、一人ごちる真冬。
「待てぇー! 逃げるなー!!」
それに答えるかのように陽富の叫びが響く。彼女は遠く敵陣深くまで、分断されて単身突出していたのだった。
「一人めっちゃ陽動されてる!?」
「まんまとおびき寄せられてくれたな、奴がアホで助かったぞ?」
状況を理解した奏多がショックを受けていると、男が馬鹿にしたように告げた。
「さあ、痛い目を見たくなければ、大人しく彼女を引き渡せ……!」
続けて珠声の傍らの面々を、それぞれ睥睨して威圧する。
「そんな脅しで、大人しく従うかっつってんだろ!」
少女たちが怯えて息を呑む中、いざという時のために手にしていたままの得物を携え、奏多は精一杯の勇気を奮い男の前に立ちはだかる。
(とにかく時間さえ稼げればいい、先輩には近づけさせない……!)
やるべきことを頭の中で反芻し、募る不安ごと大きく息を吐き出し、竦み震える足を叩いて落ち着かせると彼は駆け出した。
珠声と千夜の悲鳴じみた呼びかけを背に受けながら、正面から男の頭へ目掛けて得物を振り下ろす。
「ふん」
しかし男は微塵も慌てず彼の攻撃を難なく受け止めると、すぐさまそれを押し返し逆に横薙ぎに攻撃を仕掛けた。
押し返された勢いでよろめき後ずさりながらも、奏多は敵を押し止めようと懸命に得物を振るう。
が、不安定な体勢では十分な力が込められず、弾き飛ばされてしまうだけだった。
奏多の手を離れた得物が砂浜を跳ね転がり、彼自身も仰向けに倒れる。
「威勢だけは良くても、所詮はこの程度か……さて」
勝ち誇ったかのように得物を奏多の眼前に突きつけて、至極つまらなさそうに男は言った。
「うっ……く、くそぉ――!」
対する奏多は尻もちをついたまま、無念そうに吐き捨てることしかできなかった。
そんな奏多の背を、咲姫は不満げに歯噛みしながら見つめていた。
(なんなのよ、もう! あいつ男のクセに、イマイチ頼りになんないんだから!)
次いで、顔から血の気がみるみる引いていく傍らの二人を、気まずそうに横目で見やり逡巡する。
(でもこのままじゃ千夜ちゃんも危ないし、先輩だって何されるかわかったもんじゃないし――!)
苦々しい表情のまま、彼女は静かに歩を進めていった。
(――なるべく使いたくなかったけど……こうなったら、仕方ない……!)
「――ちょ、ちょっとあんた、こっち向きなさい……!」
やや声を裏返らせながら、男に呼びかける咲姫。
「ゆ、夢見、お前――!?」
「……なんだ貴様? まさか貴様が素手で私を相手取ろうと言うのか?」
想定外の展開に狼狽える奏多と、一瞬眉をひそめてから嫌味な薄笑いを浮かべる男。
「ええ、相手してやるわよ……!」
覚悟を決めた強い眼差しで相手を見据える咲姫。
「ただの男が、あたしに勝てるわけないんだから――!」
ある種の確信めいた思惑をもって、しかしその一方で自分に言い聞かせるようにそう呟くと、彼女はゆっくりと指先で自らの唇をなぞった。
すると彼女の体にある変化が起こった。
彼女の髪と同様の鮮やかな桃色をした、蝙蝠を思わせる薄い膜の様な翼がその背から伸びて広がる。
それと同時に臀部からはこれまた桃色の、小ぶりで可愛らしいハート形の先端を成した、細くそれでいてツタのようにしなやかな黒い尻尾が飛び出す。
そして腹部の中心では、へそを起点として下腹部へと伸びるようにハートを模った、禍々しくも蠱惑的な意匠の紋様が浮かび上がったのだった。
「行くわよっ、覚悟しなさい!」
体の変化が落ち着くと共に、彼女が放ったのは、投げキッス。
「? 何のつもりだ……っ!?」
怪訝そうに問うた男の視界には、ふわりと軽やかに宙を舞い迫る咲姫の姿があった。
男はたじろぎ得物を横に薙ぐ。それは少女の胴をしっかりと捉えていたが、しかしまるで空振りのように手応えが無い。
実際に咲姫の姿はそこにはなかった。宙に浮かんだそれは男だけに見えている幻覚であった。
驚いた顔を浮かべる男になおも接近しながら、咲姫の幻影は妖しく微笑む。
その次の瞬間、幻影は分身した。
最初から二体重なっていたのか、それとも今生み出したのか。それは定かではないが、蛹を破って羽化するかのように背中から上体を起こすと、すぐさま高く飛び立ち分裂した。
そしてそれぞれ男の前後に肉薄すると同時に、躊躇いも無くその豊満な身体を密着させたのだった。
「なっ――!?」
振り払おうと男は手を薙ぐが、やはりそれは空を切るだけ。
「暴れちゃ、ダ~メ♪」
前方の幻影が更に身体を押し付けながら、唇が触れそうなほどの至近距離で甘く囁く。直後、背後の幻影が耳に息を吹きかけた。
戦場で受けるとは思えぬ甘美な刺激に、全身を強張らせる男。
幻影であるはずが、触れた箇所からその柔らかな感触だけは、確かに脳髄まで神経を伝ってきたのだった。
男の反応を楽しむかのように、後方からは続けざまに息を吹きかけ、さらに脇の下から手を通し胸元を弄る。
同時に前方では胸板に胸を擦りつけるように身体を揺り動かしながら、一心不乱に首筋に舌を這わせる。
途方もない快感によって、男の意識は一瞬にしてそれしか感じられぬように塗りつぶされていく。
「さあ……豚のように鳴き、猿のように盛りなさい?」
歯を食いしばり耐える男に、背後の幻影が嗜虐的に耳元から囁いた。それが最後通告であったかのように、前後の幻影がゆっくりと男の股間へと手を伸ばしていく。
そのまま体力・気力の限界まで、男はその全てをひたすら搾り取られ続けるのだった。
――この間、時間にしてほんの数秒。
咲姫の放ったその“一撃”により、男は得物を握っていられない程に全身を脱力させたものの、どうにかその場に突っ立っていたのだが。
「……良い夢は見れたかしら? じゃあそのままそこで伸びてなさい」
やがて恍惚とした表情で白目をむいたままのけぞり倒れていく男に向けて、見下した様子で言い放つ咲姫。
そのまましばし押し黙る彼女。その翼と尻尾、それに紋様、その全てが幻だったかのように消失したその瞬間。
「…………あぁー! やっぱりダメ、かゆいぃー!!」
咲姫はけたたましい叫びを上げつつ振り返った。しかもその全身に鳥肌を立てながら、腕を掻きむしっている。
「せ、先輩……ちょっとだけ触らせてもらっていいですか!?」
「え――?」
そのまま切羽詰まった様子で珠声に詰め寄り問いかけると、返事も待たずに後ろから抱きつきその腕と腹へとおもむろに手を這わせた。
「あぁ……このスベスベの感触……たまらない……!」
興奮に我を忘れた様子で珠声の体を撫でまわし続ける咲姫。
「ゆ、ゆゆ夢見さん、なな何してるんですか!? は、離してくださいぃ……!」
珠声は訳も分からずされるがままに、目を白黒させて狼狽えるしかできなかった。
「えーと……どういうことなの、これ……?」
その様子を横目に奏多は、暴走し始めた咲姫と一番付き合いが長いであろう千夜に、理由を聞いてみることにしたのだった。
「その……咲姫ちゃんは千夜と同じく、宵闇の種族でして……その中でも特に強い魔性を持つ“夢魔”――サキュバスと言えば伝わりやすいでしょうか?」
「サ、サキュバス……!?」
彼女の口から明かされた事実に、奏多は愕然とその単語を繰り返した。
「はい……ですが、彼女なりにいろいろと理由があって、普段は力を使っていないようだったのですが――」
説明を続けようとしていた千夜だったが、その背後にはすでに夢魔の魔の手が迫っていた。
「千夜ちゃんも、ちょっとだけお願い……!」
言うが早いか咲姫は今度は千夜に抱きつき、珠声に行ったのと同様に遠慮の欠片も無く体をまさぐり始める。
「ひゃわぁ!? な、何してるんですか咲姫ちゃん!?」
突然の行為に全身を震わせながら抗議の声を上げる千夜。
「ちょっとだけ、ちょっとだけだから……痛くしないから――!」
そんな様子にもお構いなしに、咲姫は千夜の耳元で熱っぽい吐息を漏らしながら手の動きを激しくしていった。
「ど、どこを触って……あぁ、ダメぇ――!」
ろくに抵抗する間もなく、千夜もただただされるがままに身悶え始めていた。
(……とりあえず、あんま見ないようにしよう……)
奏多はこの状況を自分にはどうすることもできないと判断し、せめてもの対応として淫靡極まりないその光景を直視することを避けたのだった。
「陽富ー! 帰ってこーい!」
気を取り直して呼びかけた奏多の声に反応し、陽富がその場でピタリと動きを止め振り返る。
「ん? 先輩呼んだ!?」
「防衛、防衛して! ディーフェンス、ディーフェンス!」
「……あー、忘れてた!!」
言うや瞬く間に奏多たちの元へと駆け戻ってくる陽富。
再び男たちの方へと向き直ってから、ようやく足元に倒れている男の存在に気が付いたように彼女は驚きの声を上げた。
「……あれ、何か倒れてる? 先輩がやっつけたの!?」
「いや、俺じゃない……夢見が守ってくれた」
満足したのか千夜を解放し、心なしか肌の色艶が良くなったように見える咲姫の方を指しながら答える奏多。
「えぇ~サキちゃん先輩が~!? どうやったの~!?」
それを聞いた陽富は、うっとりとした表情で身を捩る当人に詰め寄り質問した。
「……知りたい、陽富ちゃん? じゃあ教えてあげよっか?」
「うん! 教えて教えて!」
見るからに邪な魂胆を抱えた、ゲスな顔をして聞く咲姫に無邪気にそう答える陽富。
「止めとけ、多分お前もああなるぞ」
奏多が間に割って入り、陽富に忠告しながら指を差す。
「な、七生君……私、もうお嫁にいけないです……!」
「せ、先輩……こ、怖かったよぉ……!」
その先では二人が体を寄せ合いながら、涙目で震えて訴えていた。
(一体どんな辱めを……!?)
かける言葉が見つからない奏多は、二人の姿をただ呆然と見つめるしかできなかった。
「……奏多、大丈夫だった? 何か、二人すごい泣いてるけど……?」
「ああ、かろうじて致命傷で済んだ」
窮状を察してか、包囲を脱して駆けつけた真冬に対し奏多は簡潔に答える。
「……? そう……?」
何事も無かったようにはとても見えないが、ひとまずは無事なようなので真冬はそれ以上追及しないことにするのだった。
「奴もしくじったか!」
そのやり取りとほぼ同時に、遠目から男の憎々しげな声が上がった。
「このままでは、あわや全滅だ……! 仕方がない……皆、アレを使うぞ! 一旦下がれ!」
リーダー格らしき男が号令をかけると、上陸していた男たちは皆一様に海へと跳びこんでいった。
「ふん! おととい来なさいっての、この変質者共!」
一旦は平穏を取り戻した浜辺に、咲姫の罵倒が響く。
「さて……今の言葉を聞く限り、これで終わりとは思えないけれども――」
両脇に浮かぶ砲塔を元の光の球に戻しながら、しかし完全には警戒を解かずにシエルが呟く。
そんな中、陽富は浜辺に倒れたままの男を剣で小突きながら、呑気な声を上げた。
「ねぇねぇ、この人全然起きないけど、どうしよ~?」
「と、とりあえず……海にリリースしとくか? 魚人だし、別に溺れ死にはしな――」
それに対し奏多が答えを返していた、その時。
突如、地震でも起きたかのような地響きと共に、先ほどまで穏やかだった沖合の水面が大きく揺らいだ。島へと打ち寄せる波の勢いも、にわかに強くなっていく。
「な、何だ!?」
奏多が慌てて海を見やると、その先では命奈が波に足元を濡らされながら遠くを見据えていた。
「何か……来るデス!」
警戒を促すように命奈が声を上げつつ構える。
「な、何かって、何だよ!?」
「奏多……こういう浜辺で、しかも少女相手に侵略してくるようなのなんて、大体イカと相場は決まっているものよ……!」
緊張し狼狽える奏多に呆れたように、シエルがしたり顔でそう説いた。
「どこの界隈の相場だよ!?」
「しかしイカなら御しやすいわ……エビをくれてやれば懐柔できるもの」
「それは一体どこのイカ某なんだ……?」
何故か自信満々に語るシエルに奏多がツッコミを続けていると、すぐ間近の海面から突然何かが飛び出した。
逆光を浴びて島に細長い影を落としたそれは、鞭のようにしなるとそのまま猛烈な勢いで振り下ろされた。
「ひえぇー!」
大地を揺らすほどのその衝撃に、咲姫が吃驚の声を漏らす。
海中から一行が背にする茂みまで打ち付けられた長大なそれは、一般的な成人の胴以上の太さをしており、一見して生体とは思えない様相であった。
「う、嘘だろ……本当にイカが襲ってきたってのか!?」
その馬鹿げた大きさの、おそらくは足だろうと思われる物体を見ながら、信じられないと言いたげに口走る奏多。
しかしながらその足は、予想に反してやや薄紅がかった色をしていた。
続けざまに足の伸びてきた海から、音を立ててせりあがる胴体。それもまた予想とは違い、丸みを帯びた球形であった。
「タコだ、これー!!」
海上に現れたその姿を見て、陽富が騒ぐ。
「……まさか、デビルフィッシュとは……さすがHENTAIの国ね、恐ろしいわ……!」
「いや、大して変わんねーだろ!?」
シエルが表情を険しくしながら深刻そうに呟くと、奏多がそう主張する。
「変わるわよ! なにせイカと違って奴らの足には、その全てにびっしりと吸盤が付いているもの……吸い付くためだけの器官が!」
「吸い付く!? なんて卑猥な!」
妙に強い口調で違いを述べるシエルの発言に即座に食いついたのは咲姫。彼女の瞳は何故か爛々と輝き、口元には涎が滴っていた。
「そういう発想に持っていくお前の頭が卑猥だよ!?」
これには奏多もツッコまざるをえなかった。
そうして呑気に騒いでいるところに一切のお構いなく、巨大なタコの足がさらにもう一撃叩きつけられようとしていた。
今度は狙い澄ましたかのように、奏多の直上へと。
「うおっ、やべぇ!」
それに彼が気付いた時には、タコの足はすでに風切り音と共に振り下ろされていた。
躱す間もなく迫る危機に対し、咄嗟に身構えた彼の前に真冬が躍り出る。そのまま手にした剣を上方に払って受け流し、攻撃を逸らしたのだった。
「さっきの奴らより、よっぽど骨がありそうね……軟体動物のクセに」
「すまん助かった、けど……誰が上手いこと言えと!?」
助けられたことには礼を言いつつも、しっかりとツッコむ奏多。
「なんかヌメヌメするー!?」
そこに陽富の騒がしい声が響く。真冬が払いのけたタコの足から飛び散った海水でも浴びたのか、彼女は妙に粘ついた水を滴らせながら不快そうな表情をしていた。
「ヌメヌメ? 粘液でも出しているのかしら、あのタコ?」
「まさか服だけを溶かす、あの粘液!?」
「だからさぁ」
シエルが考察すると、すかさず食いつく咲姫に呆れる奏多。そんな緊張感の欠けた場にさらに声が上がった。
「陽富ちゃん!?」
千夜の叫び声で皆が振り向くと、その傍らで陽富が倒れ伏していた。
「ま、まさか、今のでどこかやられたのか!?」
奏多がすぐさま駆け寄り、陽富を抱き起こして声をかける。
「おい、大丈夫か!?」
呼びかけに反応した彼女はいつもの元気が微塵も感じられないほど、静かに口を開いた。
「もうダメ……お腹すいた……これ以上動けない……」
「一人だけ朝飯あんなに食っといて、お前!?」
陽富の力無い返答に、奏多は別の意味で衝撃を受けていた。
「いや、まあダメージ受けてるんじゃなければ良いか――」
嘆息する奏多の頭上に再び影が伸びる。
「先輩、危ない!」
「って、良くないわ! この状況で貴重な戦闘力が!」
千夜と共に陽富を抱えて飛び退きながら、吐き捨てる奏多。
「しかもほんとになんかヌメヌメするな!? めっちゃ抱えにくいわ!」
「何ですって!? 文句があるなら代わりなさいよ、あんた!」
愚痴っぽく言う奏多に対し、咲姫が鼻息荒く主張する。
「それはあらゆる観点でもっと危険な気がするから却下だ!」
即座に一蹴しつつ、奏多はどうにか陽富を一行の元に合流させた。
「にしても、あの足……やたらヌメってるせいか、なかなか叩き切れないし」
それとほぼ同時に真冬が苦々しげに口を開く。
「今は散発的だからとりあえず凌げるけど、こんなのいつまでも続けてられないよ」
「そうデスね、早めに決着をつけてしまいたいデス」
戦い通しの命奈と真冬も、さすがに疲れの色を滲ませていた。
「そうは言っても……あんな化け物、どうやったら倒せるんだ?」
そんな二人に奏多が不安そうに問うたその時。
「そうだ、牽制射撃を放って突撃……これだ」
しばし沈黙し熟考していたシエルが、妙案が浮かんだとでも言いたげに呟いた。
「命奈! 作戦を練るわ、こちらにいらっしゃい。あなたはしばらく持ちこたえてなさいな」
「は? 何よそれ、ちんちくりん」
命奈に手招きをして呼び寄せると同時に、真冬一人に防御を押し付けるように言い放つシエル。それには当然、真冬は反発するのだが。
「あら? できないとでも言いたいのかしら? 仕方がないわね、じゃあ援護してあげるわ」
「いや、いい。やる」
殊更に嘲るような物言いでシエルが助力を申し出ると、すぐさま意固地になったように断る真冬。
そんな彼女の様子をシエルは狙い通りとでも言いたげに、意地の悪い笑みを浮かべて見やると命奈を伴って一時その場を離れたのだった。
作戦を練る、と言って後退した二人はそれほど時間を要さなかったのか、すぐに戻ってきた。
「さあ、皆はさっさと私の下に集まりなさい」
続けざまにシエルは尊大に呼びかけると、右手を天に掲げた。その先に集まった光が宙に浮かぶと、瞬く間に薄くドーム状に広がり一行の姿を覆った。
そこへやはり足が叩きつけられるが、光の壁が難なく受け止める。
「……こんなんできるんだったら、最初からやっとけっての」
強固な防壁に包まれ安堵する一行の中、愚痴る真冬。
「最初からやらなかったのには、それなりの理由があるのよ」
対してシエルは諭すようにそう言った。
「理由?」
怪訝そうな表情の真冬が問い返すとほぼ同時に、奏多が気だるそうに呟く。
「うわ、暑……!」
障壁によって遮断された空間。ただでさえ炎天下なそこは今、とてつもない暑さになっていたのだった。
「今こそあなたの出番よ。もちろん協力してくれるわよね?」
自身も大粒の汗を流しながら、有無を言わさぬ口調でシエルは真冬に問う。
そんな環境でも涼しい顔をしていた彼女も、皆の様子を見て渋々ながら承諾する。
「私はエアコンか、っての……ったく」
やはり愚痴っぽく零しながら真冬は剣を浜に突き立て、柄を強く握る。すると耐え難いほどの暑さが少しずつ和らいでいったのだった。
「いやいや、すげぇ助かるぞ雪村、ほんとマジで」
都合の良いように使われて憤る真冬を宥めつつ、奏多はシエルに聞く。
「ところで……随分と早かったけど、作戦って一体何なんだ?」
「簡単よ。あのままでは埒が明かないから、突っ込んで潰す。それだけ、シンプルなものよ」
「そんだけのために、わざわざ引っ込む必要あったわけ?」
事もなげに言い放ったシエルの言葉尻が癪に障ったか、真冬が噛みつく。
「はぁ……これだから陰キャぼっちは」
「誰が陰キャぼっちよ、ちんちくりん」
こんな場面でも罵り合う二人。奏多が頭を抱える中、気にした風も無くシエルは続ける。
「いいかしら? 先ほどあなた自身も言った通り、敵の主な攻撃手段たる足を無力化するのは困難」
呆れたような表情のまま、前提条件から丁寧に説明していく。
「そこで接近して胴体を潰す、ということを次の目標にしたわけだけど……相手は海上。この中で容易にそれを達成できるとすれば、おそらく私と命奈くらいでしょうね」
そこまで聞いて奏多は納得がいったようにその先を継ぐ。
「で、どっちがより向いているかを考えて、命奈に任せた……と」
「そういう事よ。皆は私が完璧に守っておくから、あなたが奴を始末してきなさい、と」
奏多の結論を聞いて満足そうに言うなり、シエルは唯一障壁の外に立つ命奈に声をかけた。
「さて……いいわね、命奈? では、手筈通りに頼むわよ」
「任されたデス!」
シエルの問いかけに意気軒昂といった様子で手を上げて応えると、命奈は翼を広げてその場から浮かぶように軽やかに飛び立つ。
「まあ近づくまでもなく、ここから私が最大出力で吹き飛ばしてもいいのだけれど……それだと、他を巻き込まない保証がないものね。万が一、躱されても面倒だし」
だんだんと沖へ向けて海面近くを滑るように加速していく命奈を見送りながら、シエルは補足するように採用しなかった対案を語っていた。
その間に命奈は、今まさに次の攻撃を繰り出そうと足を振り上げているタコの目前にまで迫っていく。
勢いをそのままに鎌を後ろに大きく振りかぶり、まっすぐに斬り抜けようとする彼女に、ふと影が落ちた。
今までで一番大きな水音と共に、雨のように降り注ぐ飛沫。
まるで虫を追い払いでもするかのように、タコは振り上げていた足を捻り、命奈に向けて叩きつけたのだった。
「篠神さん!」
珠声が悲鳴じみた叫びをあげ、絶望に目を覆う。
「……大丈夫、当たってない」
落ち着かせるように真冬が呟き、目を凝らしながら指を差す。その先、タコの体の頂点よりも少し上空に命奈の姿はあった。
そこから改めて距離を詰めようと試みる彼女に対し、癇癪を起こしたようにタコはその場で足を振り回し始めた。
海上を複雑に暴れ回る八本の足。まともに受ければ無事では済まないであろうそれは、迂闊な接近を阻む壁としては十分であった。
ひらりひらりと空中で躱してはいるものの、刃の届く位置まで近づくことができず、攻めあぐねる命奈。その間にも巨体が巻き起こす嵐のような大波が、止めどなく島まで押し寄せる。
「それに、こうなった時には援護も必要でしょう?」
この状況において、何事も無かったかのようにシエルはそう呟いた。
彼女が右手を天に掲げたまま左手を手繰ると、光の障壁の表面が一部泡立つように盛り上がり、球状に分離していくつか浮かび上がった。
続けて左手を前方、海へ向けて指し示すように大仰に突き出すと、光が呼応し次々とその場を離れていく。
なおも暴れ続けるタコの至近まで、荒波を掻き分けて飛来する光球。その先頭の一つが明滅したかと思うと、タコのまさに眼前で強く発光しながら破裂した。
その刺激に怯んだか、タコは僅かに硬直したものの、すぐさま残った光球に向けて足による攻撃を集中させ始める。
見事に光球が囮となっている隙に命奈はさらに高度を上げ、タコの直上に位置を取った。
未だ海面へと苛烈な連打が放たれる様を、彼女は眼下に見下ろしつつ「ふぅー」と大きく息を吐く。
直後、目では捉えられない程の速度で、おそらく死角だろうと思われる場所からの急降下。
時折頭上にまで振り回された足を掻い潜り、ついに命奈は必殺の距離まで辿り着いた。
そして……一息に振り下ろす。
「――はあぁーーーっ!!」
海面から突き出た巨大タコの丸い胴体、その頂点に鎌の刃を突き立てたのだった。
「これで、トドメ……デスッ!」
気迫のこもった叫びと共に再加速し、体表のラインに沿って飛びながら巨体を切り裂いていく命奈。
勢いをそのままに海面まで突き進み、派手な水音を残して彼女は海中へ姿を消した。
ほぼ同時に、それまで縦横無尽に暴れ回っていた足の動きがピタリと止まり、力なく投げ出される。
足が海面に着水する音がまばらに響き、風にあおられた張りぼてのようにゆっくりとその巨体が崩れていく。
その僅かな後、ひときわ大きな水音を立てて、タコはその巨体の全てを海面に浮かべた。
それによって生じた波が島まで届こうかという頃、命奈は海面から頭を覗かせた。
「獲ったどー!」
拳を突き上げて、大きく勝鬨を上げる命奈。
「えぇ……?」
どこか緊張感に欠ける言い回しに、奏多は困惑した声を漏らした。
「まさか……大海獣でも手に負えないなどと……!? ええい、撤退だ!」
その頃、遠く離れた沖合から事の次第を見届けた魚人は、ついに諦めたのか撤退の号令を出すと、海中へと姿を消したのだった。
元通りの静寂が、一行の佇む島を包む。
「終わった……?」
「勝って兜のなんとやら……ね。まずはしっかりと休憩しましょう」
呆然と呟く珠声にシエルが声をかける。
「はぁ……力使い過ぎた、寒い……」
自らの腕を抱いて肌寒そうに震えながら、奏多へと近づいていく真冬。
「おーい、いつまで倒れてんだー?」
当の奏多は倒れ伏したままの陽富の体を起こしながら、声をかけていた。
「んぁ? 何、先輩……ご飯?」
「だから飯はねーよ!?」
まるで寝起きのように力なく答える陽富に、しっかりツッコむ奏多だった。
そこに悠々と泳いで命奈が島に戻ってくる。
「し、篠神さん、水着は?」
その姿を見て、珠声は困惑した様子で問いかけた。
「む? おぅ!?」
言われて自分の身体を見下ろした命奈が、素っ頓狂な声を上げる。
「無くなっちゃったデス!」
おそらくは着水時の衝撃で外れてしまったのであろう。が、恥ずかしがる様子も無く、露わになった胸を隠しもせず命奈は続けた。
「まあ……あれだけ派手に動けば、上が外れてもおかしくはないでしょうけども」
「冷静に言ってる場合じゃないですよぉ!?」
特に気にした素振りも見せず分析するシエルに思わずツッコむ珠声。
「ん? どうかしたんですか、先輩?」
にわかに騒がしくなったため、何かあったのかと奏多が振り向こうとする。
「!? な、七生君は見ちゃダメです!」
彼の動きに気付き、慌てて叫ぶ珠声。
「……え? うお、冷たっ!?」
彼の視界はちょうど近くまで迫っていた真冬が即座に、的確に塞いだのだった。
「え、何? 何事!?」
「いや、冷えちゃったし、暖を取りたいなーって」
突然の事に焦る奏多に、真冬はとぼけたように返す。
「なんで目!? しかもちょっと圧強くない!?」
「べ、別にいいでしょ」
奏多がどことなく感じた違和感を追及するも、真冬は強引に誤魔化しながら目隠しを解かない。
「せっかく遥香サンからのプレゼントだったのに――」
名残惜しそうに、先ほどまで水着を着けていた胸を撫でて呟く命奈。
「いいから、流される前にさっさと取ってきなさいな、全く……」
シエルに呆れながら促されると、命奈はようやく水着を拾いに再び海を泳いでいったのだった。
「あー良かった、助かったみたいよ千夜ちゃん!」
一行の様子を横目に眺めながら咲姫が隣に立つ千夜に声をかけるも、反応が無い。
「……千夜ちゃん?」
不審に思った咲姫は改めて顔を覗きながら呼びかける。
「千夜にももっと……戦えるような力があれば――」
「ど、どうしたの、千夜ちゃん?」
深刻そうな表情でうわ言のように呟く千夜。咲姫は慌てて彼女の正面に回り、肩を抱いて続ける。
「気にしなくていいんだよ! ほら、どっちかって言うと、あいつの方が役に立ってなかったでしょ!?」
(そんなこと、ない)
奏多を引き合いに出し、当然のように扱き下ろながら慰める咲姫だったが、千夜の表情は変わらず暗いまま。
(千夜より先にこの場に居た。身を挺して魚住先輩を守っていた。陽富ちゃんに指示を出したりもしてた)
そんな彼女に咲姫が慰めの言葉をかけ続けるも、まるで耳に届かない。
(千夜は……本当に何もできず、皆に守られながら、ただ見ていただけ……)
皆が安堵の表情を浮かべる中、千夜は一人思い悩むのだった。
「…………全く、えらい事しでかしてくれますねぇ、あの人たち……」
高台になった岩場で双眼鏡を覗きながら、軽口を叩く調査員の若い男。
「そうぼやくな。大事に至らなかっただけ、まだマシだろう……有門の御令嬢に何かあれば、我々ももちろんタダでは済まなかっただろうし」
「まぁ、そうなんですけど……はぁ、何事も無かったように取り繕うなんて、無駄な仕事まで増やさないで欲しいですよ、全く……」
片割れの男が宥めるが、なおも愚痴を言い続ける。
「もしかして、始めからこうなることも予見してて……? だとしたら相当な食わせ者ですね、あの人」
「……出資者というのは、えてして無理難題を言うものだ。必要以上に悪く言うのはあまり感心せんな」
「とはいえですねぇ、これじゃ割に合わないと――」
「いいから口より体を動かせ。作業が終わらんぞ」
僅かに語調を強めて促されると、若い男はわざとらしく大きな溜息をつきながら岩場から下り、その後に続いていった。
こうして、人知れず一つの戦いが幕を下ろしたのだった。
その後。
「なんですか、この馬鹿でかいタコは!?」
「皆で捕まえたデス!」
島に戻ってくるなり吃驚した乃菜に、さも当然のように命奈が答えた。
何か語弊があるような気がしないでもないが、他に言い様もないので誰も訂正しなかった。
「しっかし、どうするこれ……?」
「食べるデス?」
途方に暮れる奏多に命奈が平然と提案する。
「……食えるの、このタコ?」
「さ、さぁ……?」
それを受けて奏多が誰に聞くでもなく確認するも、自信無さげな声が上がるばかり。
「んー……食えたとして、タコねぇ……どう調理したもんやら」
「たこ焼きとか!?」
「ネギならある」
陽富が例えに出した直後、そう言って真冬が追従する。
「そのネギ食えるの!?」
当たり前のようにどこからか、おそらく先ほど使っていたのと同じネギを取り出した真冬に、奏多は激しくツッコむのだった。
結局、その日の昼食にはたこ焼きが添えられたという――。