6.かくして、娘は悪魔と天使と切り株のお茶会を
もちろん、無策で飛び込んでいったわけじゃないわ。助けに飛び出した側が犠牲になるなんて馬鹿げてるもの。
幸い、そのとき、旦那様の売り物を運んでた私は、荷物の中に結界の指輪があることを知ってたの。その効能だって、流暢に説明できるわ。お客様の購買意欲をそそるようにね。
それを引っ掴んで、身に着けて、悪霊の中に私は飛び込んだのよ。
でないと、悪霊たちが身にまとった闇に触れただけで、私は即死したはず。
夕闇の中、取り囲んだ子供に夢中だった悪霊たちの隙間を縫って走るのは、意外と簡単だったわ。
ただやっぱり、その子を連れて逃げるのに手間取ったのよね。
お屋敷に真っ直ぐ戻りたかったのだけど、悪霊が壁になってかなわず。なにより、助けたいって思った子が、弱り切ってた。
結局、裏手の森に入る羽目になって、その子と木の洞の中で震えながら一晩過ごしたの。
でもそれだって、考えなしに木を選んだわけじゃないわ。
確かそれは、魔を祓う木って言われてて、おとなしくしてれば悪霊に見つかることはなかった。
朝になったら大人が迎えに来てくれて、ばいばいして、その子とはそれきり。
あれ、アイゼンシュタットさまのお屋敷だったのね。そして、女の子とばかり思っていた彼女は、花も恥じらう美少年だった、と。
ただ、そうだったのね、と思っても、私の中であの子とアイゼンシュタットさまはうまくつながらない。
見た目の問題もあるけど、なにより。
あの子は、怖いものは怖い、悲しいときは悲しい。そんな、素直に感情を表す子だった。
でも、アイゼンシュタットさまは違う。
失礼ながら、人間らしい感情を何一つ持っていないようにも見えてしまうの。なにがあったらこんなに変わるんだろう。
ただ。
今、あの子がアイゼンシュタットさまだったって知って、私は青ざめた。
だって、そうでしょ?
アイゼンシュタットさまは悪魔の血統。
でもあの時、隠れていた木は、魔を祓う力を持ってた。
―――――下手すると隠れていたあの一晩で、アイゼンシュタットさまは死んでいたかもしれないわ。
そうならなかったのは、結界の指輪をはめていた私が、一晩中ずっと彼を抱きしめていたから。
それがアイゼンシュタットさまを守ったのね。
思い返せば、迎えに来てくださった大人の中には、青ざめて遠巻きに眺めていらっしゃる方も多かったわ…御曹司を危険にさらして、よく私、生きて帰れたわね。
心臓が嫌な風にはねた。
「あのままでは俺は死んでいた。唯一、気づいて駆けつけてくれたのが、ジャック・ハイネマンに連れられ、屋敷を訪れていたヘルリッヒ嬢だ」
何でもない風に仰るけど、アイゼンシュタットさま?
結果的にあなたを助けた私は、うっかりあなたを殺すところでもあったんですよ? そこに思うところはないのかしら。
怖くて、聞けない。
「ミアで結構です」
さすがに丁寧な呼びかけが居たたまれない。もっといい加減な扱いでいいです。言えば、
「ならば俺もテツでいい」
しれっと、無理難題が返った。
それ、素直に呼んだとたんにばっさり切られるパターンでは?
「畏れ多いお話です、アイゼンシュタットさま」
さすがに身分を考えてください。言うなり。
―――――――おとなげない脅し方するなあああぁっ!
ものすっごい威圧感が、頭上から降ってきた。本当、頭を押さえつけられてる感じ。
現在進行形。
ちょ。く…っ。
切り株に、両肘をつき、うつむいて堪える。けど、たまったものじゃない。
本気ですか、名前の呼び方ひとつでこんな我の通し方なさるんですか。
何事にも感情動かさない方と思っていたのに…!
いえ、それ以前に、興味はないように思っていたわ。自分にも、他人にも。
どうだっていいって思ってそうだ、って。
私、読み間違えたかしら。
仕方ない。こらえながら、どうにか、細い声で、私。
「テツさま、おやめください」
極力何気ない風に言うなり。
すっと威圧が消えた。
唐突な消滅に、突っ伏さないよう耐えてた頭が、がばっと上がる。
…とんでもないわね!
ジトっとアイゼンシュタットさま…テツさまを見上げれば、気まずそうに眼をそらされた。ああ、今の感情は分かったわ。でも、私もすぐ視線を逸らす。あまり長いこと見てると見惚れて思考が消えそう。
「へえ」
驚いたように言ったのは、イェッツェルさま。
「キミが何かにこだわるなんて珍しいね、テツ」
テツさまは沈黙。イェッツェルさまは私を見下ろし、
「じゃ、ぼくのことはゼンで」
便乗したように見せかけて、それ、実はただの嫌がらせですよね?
「でもさ、ミアちゃん」
私が答える前に、先手を打ってきた。こういうやりようが信用置けないのよ、この方。
「求婚を白紙に戻せって言っても、『はい』って受け入れたのはキミだよ。あのときなんで、頷いたのさ」
やり直せることならやり直したい、とも思うけど。
私の処理能力じゃ、あの場あの時あの瞬間、いきなり思いがけなく身分ある立場の方から求婚を受けたら、きっと同じようにするので手一杯。なにより、一番にあったのは。
「目の前の方の名誉を守らなければ、と思いました」
いろいろ思うところはあったけど、結局それが決定打。でもそのことで、
「結果としてシルヴィアさまをないがしろにしてしまったことには、申し訳ないと思っています」
婚約破棄どころじゃない。
シルヴィアさまはアイゼンシュタットさまに捨てられたって不名誉な話になりかねないのが、現状だわ。
あちらを立てれば、こちらが立たず。
結局、あの場面において、すべてをうまく回収しきることは、不可能だった。
「…それが、キミの考え方か」
なぜか、虚を突かれた目で私を見下ろすゼンさま。一度、口をつぐみ、私をまじまじ。
ほっと息を吐きだし、独り言みたいに、呟く。
「ふぅん、格好いいんだね、キミって」
からかってらっしゃるの?
私を見下ろす紺碧の瞳に、面白そうな色が宿った。
「でもミアちゃん、求婚を白紙に戻したら、それこそテツに恥をかかせることにならない?」
「いっそすべてが冗談だったということに、できませんか」
希望的観測で、私。
「できるわけないだろ」
大仰に肩をすくめるゼンさま。わざとらしいけど、面白がってらっしゃるわね。
「テツ・アイゼンシュタットが公衆の面前で、冗談? テツにそんなイメージはひとつもない。誰も信じないよ」
「そんなテツさまの隣に私が立っている絵面がそれこそ、特大の冗談と思われません?」
「待て」
珍しく、テツさまが割って入ってこられた。
特に意識されてないのだろうけど、切り込むみたいな声に、いっとき簡単に、思考が止まる。
「悪いが、そのあたりは、二の次、三の次の話だ」
現状の打破が一番の課題では?
そのくらいにしか考えていなかった私は、貴族二人にとって、呑気に映ってたかもしれないわね。
見上げれば、黄金の眼差しが、情をあまりにおわせない冴えた色合いで私を映してた。
「急ぎの要件があると言ったろう、ミア」
早速、私は後悔した。名前を呼んでくれ、と言ったことを。
身体の奥を、無遠慮に鷲掴みにされた気分。背中を、ぞっと悪寒に似たものが駆け上がった。同時に、芯がとろっとなって。
魅了されたようになる寸前、踏みとどまる。立ち直った。根性で。
この方、無意識に魔力を垂れ流していらっしゃらない?
思わず、身構えた。―――――今、危険なのは、テツさまではないの?
「俺には味方も多いが、敵も多い」
物騒なのは嫌いよ。でもテツさまなら、相手の方が気の毒な絵面になりそう。
他人事の感想を持った私が、愕然となるのは、すぐだったわ。
「今回のことで、俺を敵視する相手が、あなたを狙う可能性がある」
…え? はぁぁっ?
私はテツさまに求婚された、それだけの話でしょ? …あまり考えていなかったけど、まさか、私はテツさまの想い人ってことになってる?
だったら狙われる可能性は…そりゃ高いわ。
って、嘘 で しょ ?
カップを包みこんだ私の右手、その甲に、テツさまが指を、触れるか触れないかの位置で止める。
何かを恐れるように動きを止めた指先を、私は不思議な気分で見下ろした。
「間の抜けた事態を招いた責任は、俺にもある。ゆえに…」
触れたら壊れるって思ってらっしゃるみたいな動きね?
「守護せよ」
端的な、言葉。故にこそ、極限まで魔力が濃縮された魔法がいきなり発動した。
はめていた婚約指輪が、唐突に違和感を消す。サイズがぴったりになった。
…魔法がからきしでも、理解できるわ。今、この指輪がとんでもない魔道具になったって。
「すべては、命あってこその物種だ。意に染まないだろうが、しばらく俺たちに付き合ってくれないだろうか。俺はあなたをこんなことで死なせたくはない」
台詞は、懇願。でも内容は。
テツさまたちから今離れたら、私は死ぬって断言していない?
くらり、めまいを感じた。
「そうだね、ミアちゃんの望みは分かったけど、キミに降りかかる火の粉を考えれば、当面、現状維持が望ましいよ」
ゼンさまの言葉に、私は理解した。
私は甘かった。知ってるつもりで、それでも足りていなかったわ。
ベルシュゼッツ公国の貴族が、その身分が、どれほど危険をはらんだものか。
ゆえに。
―――――私の煩悶なんて、砂粒ほどの問題にもならないってこともね。
当然、ゼンさまは私の返事を待たなかった。
これで話は終わりって感じで告げる。
「逆にさ、こうなったら、とことん巻き込まれた方が安全だよ」
我が道男よね、この方も大概。
でもゼンさまの台詞をそうかもしれないと納得する部分もあって、それがさらに…不服だわ。思うなり、
「テツを気遣えるミアちゃんならわかるよね。ウチのお姫様の件だよ」
ゼンさまの思惑通りと分かっていても、話題転換に、あっという間に、自己主張がしぼむ。
「本当に、どうしようかなぁ。これじゃ、父上は嬉々として公王さまとの話を進めるよ。アイゼンシュタット家には、娘を傷つけたとかって難癖までつけかねない」
そうよね。
先刻の出来事は、一方的な婚約破棄とも見える。
貴族間の婚姻は、家同士の結びつきを重視しているものだし、正当な婚約者を差し置いて、家に何の相談もなくどこの馬の骨とも知れない小娘に求婚したともなれば、テツさまの立場は悪い。
なし崩しにシルヴィアさまの輿入れが決定しそうな流れが、できてしまってる。
確かに。今の状況では、テツさま本人のみならず、家にまで問題が波及するのは、間違いない。
しかも、分が悪い立場で。
最悪、アイゼンシュタット家は後継者失格の判定を、騒ぎを起こした嫡男に下すかもしれない。
テツさまは、他人事って態度でいらっしゃるけど。
「楽しそうなお話ね」
不意に、背後から声がかけられた。
「わたくしも混ぜてくださる?」
「シルヴィアさま」
振り向いた私の呼びかけに、シルヴィアさまは悠然と微笑んでくださる。
イェッツェルさまが頷いて、私との間に空間を開けた。
「どうぞ、お姫様」
「ありがとう」
当然のように私の隣へ収まるシルヴィアさま。私は香茶を淹れ、クッキーごと勧める。
なんというか、こういう日常のことをしているほうが落ち着くのよね。
「まあ、クッキーまで。切り株のお茶会? 外で、立ったまま」
ふふふ、とカップを両手で包み込み、楽しげに、シルヴィアさま。
「秘密の感じが素敵」
行儀が悪いと怒られなくてよかったわ。
一仕事終えた様子で、香茶を飲む兄妹。仕草が同じ。そして、二人そろうと目が痛い。
「遅れてごめんなさいね。でも、きちんと説得できましてよ」
「ああ、なら、婚約の件は大丈夫だね」
…なんの話かしら。シルヴィアさまは、私ににっこり。
「ミアさまに無礼を働いたご令嬢方に、改めて教育をして参りましたの。あとは、簡単な説明を」
なんだか、嫌な予感がするんですが。言葉を続けたのは、ゼンさま。
「テツとシルヴィアの婚約は、破棄されたんじゃなく、解消していたんだ、とね。両家には先に話が通っていたと、ちゃんと言ったかい」
後半は、シルヴィアさまに向けたもの。すました顔で、彼女は頷いた。
なるほど、そうであれば、テツさまにもシルヴィアさまにも、悪い噂は立たないわね。
それに伝えたのがご令嬢方ともなれば。
噂はたちまち学院中に広まる。
でもちょっと待ってください。
それって、テツさまの婚約者って私の現在の立場が、無駄に強化されませんか?
もうそこは、諦めるしかないのかしら…。
「シルヴィア」
テツさまの黄金の瞳が、気怠げにシルヴィアさまへ向いた。
「お前の望みは知っている。だが、婚約解消の話を、父親相手にきちんと持っていけるのか? 公王さまの件への不満すら言えなかったお前に」
「あら、私の望みなんてどうでもいいと一蹴されるかもしれないと思っておりましたのに…テツさまがそんなことを聞いてくださるのは、はじめてですわね」
真っ直ぐ見下ろされたシルヴィアさまは一つも負けず、
「ええ、もう、まっぴらなんですの。してやられるのは。公王さまの件? 逆手にとって、お父様程度、脅して差し上げましてよ。テツさまがアイゼンシュタット側を説得してくださるなら、そちらへ迷惑は決して及ばないようにするとお約束しますわ」
…なぜかしら、ちらと私に空色の瞳が向けられた気がするけど…。
「ぼくも、そう心配はないと思うよ」
イェッツェルさまがカップを切り株の上に置いた。中身は、空。それを見て、思う。
―――――そろそろ、切り株のお茶会は、解散かしら。
「ぼくとシルヴィアが組めば、父上との交渉は、絵図通りに進むだろう。アイゼンシュタット側にすべてを暴露されたら、困るのはあの方なわけだし」
イェッツェル家の親子関係はどうなっているんだろう。
「最悪、時間をかけてのらりくらりと自然消滅に持っていけますわよ。それに時間がかかればかかるほど好都合。新しい婚約の話もうっかり出てこないでしょうしね」
「公王さまとの話は、意外と広まっているからな。よその貴族たちも、うっかりそんな娘に婚約の申し込みはしないだろう…シルヴィアはそれでいいのかい」
「望むところですわね」
シルヴィアさまは堂々と胸を張った。
…少し、心配していたのだけど、兄妹の仲は良好なようでよかったわ。
内心胸を撫でおろした私の向こう側を、ゼンさまは改まった表情で見やった。
「あとは、アイゼンシュタット側への対応として、テツの協力が必要だけど。どんな条件でなら、キミは動いてくれる?」
あ、また。今度は、ゼンさまが私をちらっと見た。もう、なんなの?
でも、そうね。
これでテツさまが動くかどうかは、私にもわからないわ。
基本、自分も他人もどうなったって興味はないってスタンスだものね、この方。
案の定、テツさまは何もおっしゃらない。何を考えていらっしゃるのかしら。
私は上目遣いにテツさまを見上げた。
すぐ気づいたテツさまが、黄金の目を私に向けてくる。
条件反射みたいに、思わず目をそらしてしまう私。本当に、心臓に悪いのだもの。
「…ミアは何を望む」
いきなり、興味もなさそうな口調で、テツさま。私?
…こっちに投げられるとは思わなかったわ。
―――――えぇと、そうね、ゼンさまはともかく、私、シルヴィアさまには恩があるの。
学院に入ってからずっと、親切にしていただいているわ。ほら、私、ただの平民、でしょ。
身分に誇りはあっても、他者との格差を気になさらないシルヴィアさまが、たまにお傍にいることを許して下さったおかげで、私、安全に過ごせた面もあるのよ。
貴族のご令嬢方が、皆、シルヴィアさまのようであるはずもなかったし。
おそれながら、シルヴィアさまの御心も少しは理解できるつもりでいるの。
深入りは、困るけど。でも。
「私にできることがあれば、協力したいと思います」
受けた恩は、返したい。機会があるなら。
とたん、隣に立ってたシルヴィアさまが、一瞬、私の手をぎゅっと握って、すぐ離れた。
何かしら。思う間もなく。
「わかった」
躊躇なく、テツさまが頷く。
「では俺も協力しよう」
直後、シルヴィアさまが、満面の笑みを浮かべられた。
そうなるのは、分かってたって言った風に。
は? 内心、私は呆気にとられる。だって、そうでしょ?
私の気持ちを優先してくださったの? あの、テツ・アイゼンシュタットさまが?
…あ、命の恩がある、から? 一回きりの特典ってことかしら。
それとも、私が危険な立場になったことに、責任を感じていらっしゃる?
なんだかどれも説得力がない気がして、私はつい難しい顔になった。
なぜなら、テツ・アイゼンシュタットさまという貴族の嫡男は、退廃的な見た目そのままに、すべてどうでもいいと思っていらっしゃる感が強いもの。
――――一応、言質を取ったのだから、テツさまの真意は深く追求しないほうがいいわね。
達観した私の耳に、ゼンさまの感心なさったふうなつぶやきが届いた。
「難攻不落の城砦が、こんな形で落ちるとはね」
ねえ、聞いてくださるかしら。
私、諦めない。いつかきっと、元に戻れる…はず、よね?