43.魔法人形
次回更新は12/22になります。
ジャンナが自分の腕を強く撫でる。この暑い中、寒がってるみたいに。
「公王さまが出て来られるって…なんで分かるんですかぁ?」
聞きながらも、彼女は微妙に立ち位置を変えた。ヴィルフリートさまから距離を置いたわね、今。気付けばジャンナと彼との間に、私が入ってる。
さっきの質問って、ヴィルフリートさまにしたんじゃないの?
「この気配ですよ」
答えたのは、ヴィルフリートさまじゃなくて、従者さんの方。
薄暗い声で行きましょうって離宮の方へ私たちを促しながら、教えてくれる。
「これは、公王さまがお目覚めになられた証拠です」
目覚めたから、気配がダダ漏れってこと? まるでさっきまで眠ってたって言いたげね。
「あ、そう言えば」
歩き出しながら、私は呟いた。
「聞いたことがあります」
すっかり忘れてたけど、従者さんに言われて蘇った記憶があるわ。
「何を、ですかぁ」
ジャンナの声は、少しほっとした雰囲気。食いつくみたいに私に目を向けた。彼女、よっぽど悪魔の血統が苦手みたい。
だけど、見るのも嫌っぽいのは珍しいわね。
見返した眼に、呆れは隠しきれてなかったはず。なのに、逆に助けてって目で見つめられた。
あなた私の護衛よね…?
私は離宮を見上げた。
「今の公王さまはシンジェロルツ家の血統でしょう?」
悪魔ではなく、天使の血統。
頷くジャンナに、私は続ける。
「かの方の本来のお力は、戦闘ではなく」
私は最後尾に大人しく続いたギルさまを見遣った。
「夢見にある。よって、日頃は深い眠りの中にいらっしゃるって話があるの」
大げさな噂に過ぎないって思ってたわ。だって、眠り続けるってことは、食事は摂っておられないってこと。
睡眠以外の生理的欲求はどうなってるのかしら。
ずっと眠ってるのに生き続けることなんて普通できない。
ああ、でも。私の視線の先、ギルさまが微笑む。完璧な造作。
公王さまは、彼と同じ―――――天使の血統。
果たして、ギルさまは深く頷いた。
「事実です」
「それでいて、ばかみたいに強いんだよな!」
ヴィルフリートさまが、元気いっぱい、頭上に拳を突き上げる。ギルさまが困ったみたいに言葉を続けた。
「だからこそ、余計、眠りが必要なんだけど、ね」
力が強大であればあるだけ、どこかに歪が出るってことかしらね。
私たちが会場に戻ったのは、それからすぐだった。
思ったとおり、周囲は公王さまのご登場とあって、浮足立ってる。
でも、公王さまや他の五大公家の方の姿は見えない。遠くに人だかりが見えるばかり。
―――――どう考えても、あの中に巻き込まれてる。
確かに、公王さまは滅多に公の場に現れない。宰相さまならともかく。
久しぶりに公の場に現れた公王さまを一目なりとも拝見しようと動くのは、当然ね。だけじゃなく、挨拶もできればなおいいってとこかしら。
そして人々の対象に五大公家の方々ももれなく含まれる、と。
困ったわね。
私はテツさまと一緒に公王さまにご挨拶しなきゃならないのに、あの中に今飛び込む勇気はないわ。
どうしようかしら。ほとほと悩んでヴィルフリートさまを見遣れば。
…彼の表情は素直だったわ。
私の頭が一瞬で冷静に戻るくらい。うん、今行かなくっていいわね。もう少し後でも。
とたん、ヴィルフリートさまが私の視線に気づいた。深く長くため息をこぼす。やりきれないって気分を、そうやって流したみたい。
すぅと子供っぽい表情が消えた。
おとなびた、貴公子の顔がそこにとって変わる。
「今は近寄れそうにないな…しょうがない、ちょっと落ち着いた頃合いに、ミアは兄上を捜して合流してくれ」
私の身の振り方としては、確かにこの場合、それ以外にない。頷いた、刹那。
「失礼―――――もしや、シンジェロルツ家の公子さまではございませんか」
声と共に、すっと冷気が頬を撫でた―――――そんな心地があった。
団子状態の貴族たちを見ていた私たちは、完全に虚を突かれた。揃って、目を上げれば。
(あ、この方)
北の、人間だ。
目に映ったのは、作り物めいた、陶器みたいな肌。これは、北王国の人間の特徴だわ。その上。
冬の海みたいな暗い青の瞳。
対照的に輝くみたいな金髪。
この色彩は、北王国でも玉座近くに侍る貴族たちに多く見られる。きっと、高貴な方ね。
私は、心地、一歩下がった。
前面に、ヴィルフリートさまとギルさまを置く形で、うしろに控える。ジャンナと揃って。ヴィルフリートさまの斜め後ろには彼の従者さんがいるから、私たちは傍目には、ギルさまのお付きに見えたはず。それか、…貴族同士の交流があるご令嬢とでも映ったなら無難ね。
幸か不幸か、精霊たちと離れてから身長が伸びてきたって言っても、私はまだ小さい。なのに寸前で、用意してたドレスが寸足らずなるかもって騒動があった。今じゃ笑い話だけどね。
この身長なら、ギルさまたちより少し上くらいの年齢の友達とでも思ってもらえるんじゃないかしら。
ヴィルフリートさまが紅玉の目を私に向けた。小さく頷けば、何も言わず、彼もその場にとどまる。
幸い、北方の方と思しき青年は、人払いを、と願い出る様子もない。
そう、声をかけられたのはギルさまだわ。でも、北王国の方が何の用かしら。
―――――そう言えば、最近、北の方が騒がしいと聞くわね。ハイネマンの店舗内での会話を思い出す。
(武器や医療品の要請が増えてたっけ)
とはいえ、他国と戦争って雰囲気でもない。領地内の貴族同士の争いって感じもない。
どちらかと言えば。
一丸となって、共通の脅威に向き合おうとしてるみたいな、緊張が感じられる。
「はい。あなたは?」
ギルさまから、日ごろのおどおどした雰囲気が消えてた。
貴公子然とした対応ね。自然体で、かつ威厳もある。上手に仮面をかぶった。そんな感じ。
でも、日頃の気弱な態度もまた彼の仮面に過ぎないんだろう。
「突然、お声がけして申し訳ございません。わたくし、ヴィクトル・ラキトフと申します」
…北の方にありがちな特徴なのだけど。
どれだけ丁寧に話そうと腰を低くしようと、なんだか慇懃無礼、高慢な印象を強く残すのよね。この方も、典型的な感じ。
言語の問題かしら。北方は、抑揚が少し古いというか…言い方を変えれば伝統的、なんだけど、気取った言い回しの特徴があるのよね。
「北王国の文官の末席を汚す者です」
へりくだった言い方。だからって媚びた感じはない。どこか、余裕を感じる。
今、問題が起こってそうな北王国の…おそらくは高官が、いったい、シンジェロルツ家に何の用かしら。
私は、ちらと会場の騒ぎの中心を見遣る。相変わらず、公王さまの姿は見えない。人だかりは相当だ。だとしても。
(ふつうは真っ先に、あちらに向かうわよね)
他国の人間が、こんな場で、公王さまのいる場所へ向かおうとせず、シンジェロルツ家にわざわざ声をかける。しかも、当主ではなく、公子に。
…公式のものではないか、もしくは公式にしたくない要件が何かあるってことよね。
他国が目をつけそうな、シンジェロルツ家の特徴ってなんだったかしら?
天使の血統。現公王の実家。
そしてベルシュゼッツ公国内で、一番の穀倉地を領地内に持ってるわね。
特筆すべきは、その一部に。
数多の薬草が育つ特殊な土地があるの。
そこは、昔、天使が祝福した丘なんだとか。
ただの祝福じゃない。何を考えたのか、複数の天使が、それぞれに数回、―――――つまり、無茶苦茶に祝福した。
一度だけでもすごいのに、なんでそんなことになったのか、未だに謎は解かれてない。
単純に、面白がってただけって気もする。
結果、その丘にはどんな薬草でも自生するって言われてる。
相性が悪いはずの植物でも隣り合って育ってるそうで、ある意味異界だと、そこに行ったことがある、店の従業員が言ってた。その丘は、いかにも単純明快にこう呼ばれる。
天使の丘。
私も是非、行きたい。
ただ、学院にいらっしゃるユリアーナ・シンジェロルツさまは人の話を聞いてくださらない。
代わりに、意味が分からない説教をしたがるから、全く話にならないのがどうも。
いえ、待って。
いるじゃない。シンジェロルツ家の方なら。ほら、目の前に。
「北王国の方でしたか。…いつもの方ではないので、すぐにわかりませんでした」
丁寧に対応なさってるギルさまのちいさな後姿に、少し私は考える。
すぐ、内心首を横に振った。諦めの気分が、ヤル気を萎ませる。
なんだかこの方にそんなことを言ってしまったら、何かが終わる気がした。
やめよう。
改めて、北の方に意識を戻す私。
「いつもの者が、仕事から手を離せずにおりまして、代わりにわたくしが参った次第で」
ギルさまの声が、少し低くなる。
「よほど急なご用事が入ったのですね?」
うーん。まぁ、おかしな話よね。
外交を担当するなら、前任者が後任者を紹介して回るのは当然。
その段階をすっ飛ばして後任者だけがいきなり現れるのは、貴族相手に悪手だ。分かり切った話なのに、現実はこれ。
北王国の官僚が愚かとは思えない。だとしたら?
目の前の彼が、北王国の官僚を名乗るニセモノか、あるいは。
(まさかと思うけど…北王国でよっぽど切羽詰まった事態が起きてる?)
「ご無礼をお許しください」
恐縮した態度で――――と言っても、ほとんど慇懃無礼に見えるんだけど――――北の文官、ラキトフさんは深く頭を下げる。
「どうしてもひとつだけ、お聞きしたいことがあり、参上いたしました」
笑み一つ浮かべない顔が再び上がったと思った時には、彼は小さな瓶をその手に持ってた。透明で、中身が透けてる。
それを、ギルさまに差し出しながら、尋ねる。
「こちらの植物に、見覚えはございませんか」
―――――植物。
ギルさまとヴィルフリートさまが視線だけを彼の手元に向けた。
ギルさまに見せたってことは、おそらく薬草よね。天使の丘を所有するシンジェロルツ家の方は生まれた時から、その丘を遊び場にして育つって言うから、薬草の知識は図抜けてる。
ただその反動からか、ギルさまの姉たるユリアーナさまは「草なんて授業でまで見たくありませんわ」と文学を専攻なさってた。
植物学・薬学を専攻する私とは、学年が違うこともあって、同じ教室に入ることはまずない方なのよね。
それにしたって、薬草…シンジェロルツ家の方に不躾なのを承知で見てもらいたいほどの。ってことは。
―――――新種っ?
好奇心の勝った私は、内心鼻息荒く、ちらっと覗き込む。どれどれ。
小さな柱みたいな透明の小瓶に入ってたのは、濃い緑。氷漬けになってるみたい。
保管に魔法が使われてるのは明らかね。
あら?
でもこの方、身体の方にも何か、魔法の気配がある。これはどちらかと言えば、魔術ね。胸のあたり…場所からして、胃かしら。そこからも、凍結の魔法に似た気配を感じた。
いえあれは、時間を、止めてる?
少し、顔をしかめる。攻撃性と言う意味では危険はなさそうだけど、人体の中に潜ませるには適さないシロモノに見えた。
私が気付いたってことは、ヴィルフリートさまたちもとうに察してるはず。でも何も言わないってことは。
…プライバシーに関わる領域ってことかしらね。
私はすぐ、意識を植物の方へ戻した。
パッと見、…ありふれた雑草。私、期待してたぶん、眉をひそめてしまう。
嘘よね? 再度見直す。―――――やっぱり、雑草。ついには凝視してしまった。
だって、こんな風に差し出しておきながら、ただの雑草なんてどういうこと。
これ、薬草ですらない。ただ、暑さが苦手な植物だから、北方でしか育たないっていう特徴はあるけど、それだけ。
緑が少ないかの地には、ありがたいもののはず。ただ。
わざわざこんな場所で、ギルさまほどの家格の方に秘密めいた態度で見せるようなものじゃないわね。けど…であるからこそ。
そこまでしなければならない理由が、気になった。
ギルさま本人は、単に見覚えがなかったんだろう。
「いえ。はじめて拝見します」
素直に、はっきり答えた。当然よね。
私と違って、北方に行ったことないギルさまが、地方特有の雑草なんて知るはずないわ。
それにこれは薬草じゃない。例の丘で生えたりなんかしない。
ラキトフさんの表情に、落胆はなかった。むしろ、何か一つ確信が持てた、そんな態度で小瓶を引こうとした、寸前。
「ミア」
それまで黙ってたヴィルフリートさまがいきなり私に話を投げた。わざわざ振り向いて、尋ねてくる。
「あなたは学院で植物学を専攻しているのだろう。見覚えはあるか?」
私、根性で無表情を貫く。でも内心で悲鳴を上げた。
―――――よくご存知で! いえ、そうね、話したわね。私、自分から。
一緒に別荘で過ごした時、聞かれたから隠すことでもなかったから素直に答えた。
でもヴィルフリートさま、今、それはないわ。
ほら、ラキトフさんの目の色が変わった。幸い、敵意じゃない。でもこれは、警戒? 小瓶を差し出したままの格好で止まってるけど、さっさと引っ込めて、早々に立ち去りたいって雰囲気ね。
丁度、私の左右に立ってたジャンナと、ヴィルフリートさまの従者さんが、場の空気の奇妙さを察して、気の毒そうに私を一瞥。
でもその…ヴィルフリートさまは、察しが悪い。
ラキトフさんの微妙な空気に気付かず、というか、気にも留めずに私を促した。
「さ、良く見てくれ」
…善意。そう、これはヴィルフリートさまにとって、あくまで善意に過ぎない。
見覚えはないかと聞かれた以上、答えを知ってそうな相手に投げるのが一番いい。でも、ヴィルフリートさま。
現実は、そう単純ではないのです…。
ご指名はありがたいけど、これはたぶん、―――――安易に答えていい問題じゃない。
今まで数えるのも嫌になるほどモメ事に巻き込まれてきた私の本能が告げる。
答えるな。
正確には、答えても答えなくても厄介になるけど、答えない方が、数段危険は和らぐ。
要するに、何も知らないふりをして、相手の事情を何も知ることがないように仕向ける必要がある。
一番いい答えは一つ。
―――――不勉強なため、あいにく見当もつきません。
よし、これだ。
それでも一応、小瓶を覗き込むふりくらいはしないと。
「…失礼します」
ご丁寧に、ギルさまとヴィルフリートさまが私のために、場所を開けてくれた。
絶対、きっちり見て、納得いく発言をしなきゃいけない雰囲気(強制)。
ままよ、と思い切って近づけば、ラキトフさんの表情が厳しく張り詰めた。
この方もしかして、単純に、さっきのギルさまの言葉が聞ければそれで良かったのじゃないかしら。
薬草に慣れ親しみ、自然と詳しい知識を身に着けているはずのギルさまはこう仰った。―――――はじめて拝見します。即ち。
これは―――――薬草じゃないって。
ラキトフさんが欲しかったのは、きっと。その、確信。裏返せば。
北方でありふれたはずの雑草に、この程度の確信も持てなかったということ、よね。
興味はあるけど、踏み込むのは危険。私は最初に用意した言葉を口にしようとした。刹那。
「あら、なんてひどい方」
ひそやかな煙みたいに、すぅとその場に割り込んできたのは。
疲労しきったような、憂鬱な響きの声。
私は一瞬、分からかなった。その声がこちらに向けられたものだって。
火にでも触れたみたいな反応をしたのは、ラキトフさんだ。たちまち、硬い緊張が分厚く彼を鎧った。
彼は、小瓶を持ってた手を引っ込める。ひったくるみたいな勢い。
同時に、私たちから一歩距離を置いて、振り向いた。
そこにいたのは、古風なドレス姿の女性。
あまりに激しいラキトフさんの反応に、自然と私たちも彼女を見遣ってた。
古風なドレスは逆に印象的なのに、どうして今まで目につかなかったのかしら。
デザインは少し流行から外れてるけど、不自然じゃない程度だから?
美しい女性だった。薄い藤色の瞳に、髪は白に近い、輝くような銀。―――――一見、なんの違和感もない。のに。
…どうしてかしら。
彼女には、肉体の中央が歪な亀裂で引き裂かれてる印象があった。
女の形をした化け物の口そのもの、と言ったほうが本質に近い気がする。
「約束を、破るなんて」
口調は、何かを嘆くみたい。そのくせ、北王国特有の、お人形めいた美しい顔立ちに浮かぶのは、愉悦の笑み。
繊手に握られた扇が広がる。とたん、弧を描いた赤い唇が視界から隠れた。
優美な彼女の仕草。それこそがむしろ鬱陶しいとばかりに、ラキトフさんは敵意も露な視線を向ける。
「きさま、…どうやって入り込んだ」
じりじりと焦燥が滲む声。目の前の存在が危険だと、告げずとも響きで語ってる。
どうしてかしら、自然と彼の立ち位置が、私たちを背後に庇うところに移動した。
ヴィルフリートさまの従者さんとジャンナの表情が厳しい。彼らも自然な態度だったけど、揃っていつでも動ける場所で身構えてる。
古風なドレスの女性は、ただラキトフさんだけを見てた。けど、彼の言葉を聞いてる風でもない。
あらかじめ決めていた台詞を舞台の上で語るように、言葉を続ける。
「残念です…とても」
ぱちんっ。
音を立てて、扇が閉じられた。一度、目が伏せられる。同時に。
すいっと泳ぐように彼女の手が動いた。
扇の先が、とんっとラキトフさんの身を小突くように触れる。
胸とも腹とも言えない場所…胃、かしら? 直後、面白くもなさそうな表情で、彼女は身を引いた。
刹那。
(あ)
さっきからラキトフさんの身体に感じてた魔術の気配が幻みたいに掻き消える。直後。
「…ぐっ」
ラキトフさんの唇から、苦し気な息が鋭くこぼれ落ちた。よろめいた、と思った時には。
彼はその場で膝をついた。片手で、強く胃の腑辺りを掴みしめて。
(止まってた時間が、動き出した…?)
だと、して。そこに、果たして何があったのかしら。
ジャンナと、ヴィルフリートさまの従者さんが間髪入れず、私たちの前へ出た。守護の姿勢。
ギルさまは事態についていけず、ぽかんと成り行きを見守ってる。
ヴィルフリートさまは、強く眉をひそめた。
きらめく紅玉の瞳には、周囲の状況を意に介した様子もなく悠然と佇む女性の姿が映ってる。
ヴィルフリートさまの唇の端が、つり上がった。笑みの形に。
「女、お前は」
恐ろしいほど低い声で、警戒と言うよりも、面白がる表情で彼は尋ねた。
「人間か?」
背中に氷でも流された心地になる台詞に、果たして、彼女は。
真っ直ぐ悪魔の少年を見て―――――夢見るように微笑んだ。
「そういう、君こそ」
人間なの?
幼子めいた微笑。芯まで、無垢な。虫も殺せない雰囲気。そのくせ。
「…ねえ、迎えが来ているのです」
老人のように疲労し、息をするのもつらそうな態度で、ふらり、夢遊病者みたいに、その身が揺れた。
「逃がしてくださいませんか?」
「できんな」
ヴィルフリートさまの声に、容赦はない。
彼は正気に戻そうというように、隣のギルさまを強く小突いた。天使の少年が目を瞬かせた、刹那。
「ああ、なら。…仕方、ありません」
女性が悲し気に目を伏せるなり、―――――それは起こった。
バンッ!!
いきなり、彼方で料理を乗せた円卓がまるごと天井目掛けて跳ね上がる。
それは、一か所だけでとどまらない。向こうでは人が複数跳ね飛ばされ、あちらでは貴婦人方の悲鳴が上がる。
突如生じた異常に逃げ出そうと会場の人間が、いっせいに動き出した。
だが、どこへ向かえば正解なのか。咄嗟に正確な判断が下せたものはいない。
ぶつかり合って、転倒し、踏みつけられ、さらに混乱は膨れ上がった。
何が起こってるのか。顔を上げ、周囲をぐるり、見渡せば。
右往左往する人々、その、隙間から。
―――――垣間見えた、光景に。
(え)
私の思考が一瞬止まる。
人込みの中、不思議と全く動かない人影がぽつぽつと見えた。こういう場合だと、不動の影の方が目立つ。
一見それは、夜会の参加者。会場ではありふれた、紳士淑女の影。ただし。
自然に見えた身体の輪郭が、不意に、木偶人形めいた歪さを宿す。
私は目を瞠った。見覚えがある姿だったから。
(あれは)
―――――魔法人形!
かつて、学院の地下で見た姿が脳裏に蘇る。覚えてる。
アレは、私に跪いた。私に手を伸ばした。そして、誘った。震えながら。
楽園へ。
けど、おそらく――――違う。あの時の魔法人形と、今垣間見えた魔法人形たちは。完全に別物だ。
手足にかかった操りの糸に、突如意思が宿ったかのように、彼らは動いた。
それぞれの場所で、光が爆発したみたいな衝撃が起こる。咄嗟に目を閉じた。慌てて、目を開いた時には。
そこには、巨大な剣を手にした無骨な鎧があった。ただし、その足先は床に触れてない。空に浮いてる。
こんな、子羊ばかりの会場内で、それをふるえばどうなるか。
きらびやかなこの空間は、一瞬で屠殺場に早変わりだ。
確信するなり、
「騎士が誘導致します!」
焦りを吹き飛ばす、凛とした声が会場に響き渡った。これは…シルヴィアさま? 声に、何かの魔法がかけられてるみたい。
悲鳴も怒号も彼女の声は、一瞬で打ち払った。耳に、不思議とよく響く。そのタイミングを逃さず、
「皆さん、こちらへ!」
続く、野太い声。ああ、この声は分かる、騎士・バルヒェットさんだ。
とたん、私の中に不思議な信頼感が生まれた。
そうよ。ここには、騎士さまたちがいる。なにより、五大公家の面々と…―――――公王さままで揃ってるじゃないの。
魔法人形が幾体どんな目的で出てこようと、問題じゃないわ。それにけがをしたところで、死ななきゃあっという間に治療できちゃう方たちなんだし。
よし、問題ない。だったら、私は―――――目の前の問題に対処する。
ただ、目を戻せば、古風なドレスの女性の姿はもうなかった。
ヴィルフリートさまが舌打ち。ギルさまは警戒も露に魔法人形たちを睨みつけてた。
なら、私がすることは。
いきなり膝をついたラキトフさんがいた場所を見下ろせば。
「え…、ちょっとっ」
彼は、外へ向かって移動してた。苦悶の表情で。ふらふらと、人やものにぶつかりながら。咄嗟に追えば、
「お嬢さまぁっ?」
びっくりした声と共に、ジャンナがすぐ後ろについてくる。
振り向けば、ヴィルフリートさまと目が合った。
大丈夫、と頷けば、こっちについて来ようとしてたギルさまの襟首を引っ張って、魔法人形の方へ駆け出す。
「放っとけないでしょう? 待ってください…ラキトフさんっ」
身を屈めるみたいに移動する彼には、すぐ追いついた。背を押し、壁の方へ誘導。
「ご気分がすぐれないのなら、隅で大人しくしてた方が」
「いけません…離れてっ」
言いながらも、よっぽど弱ってるのか、抵抗らしい抵抗もできず、彼は私に従って動く。
それが悔し気にラキトフさんは唇を噛んだ。
「そんな状態で下手に動けば、倒れて踏み潰されますよ」
諭す気分で厳しく私は言った。ラキトフさんは首を横に振る。
「これから身に起こることを考えれば…死んだほうがましです」
見上げれば、顔は蒼白。浮いた脂汗は、顎先から滴るほど。
―――――これは、時間がないわね。なんの、かは想像もつかないけど。
聞きたいことは山ほどある。私が立ち入っていい問題じゃないのは分かり切ってるし、手にも負えないだろうけど。
今目の前にある苦しみなら、なんとかできるかもしれない。
「さっきの女の人は、あなたの身体にあった魔術の痕跡を解除した、ようですが」
ラキトフさんが苦く笑う。
「…魔法や魔術に接する方には、丸見えだったのでしょうね」
自覚もしっかりしてた、と。なるほど。余裕そうに見えて、ラキトフさんは、かなり追い詰められてたわけね。
「胃の中にあったのは、何です」
ラキトフさんの身体が、たちまち強張る。でも、戒めを振り払うように、毅然と顔を上げた。私を睨むようにして、告げる。
「…人間を、魔物に変える薬です」
一瞬、言われた言葉を理解できなかった。あり得ない。でも。
―――――こんな場合に、悪趣味な嘘をつくわけがない。
「この夜会へ参加する事前に、飲むよう強制されていました」
そんなものを、どうやって。
腹に時限爆弾を抱えてろって言われてるようなもんじゃない。
おぞましさと怒りを半々に抱えながら、私は呟く。
「先ほどの方に、ですか」
ラキトフさんは頷いた。
「秘密をもらさないために。ですが今、その一端を明かしてしまった」
いったいどれほどの苦痛が身に起きてるのかしら。ラキトフさんは、倒れ込むみたいに、ようやくたどり着いた壁に背を預けた。
ジャンナは黙って成り行きを見守ってる。
「ですが、あれは雑草では」
「やはり」
私の指摘に、ラキトフさんは苦く笑う。
「お気づきですか」
ですが、と信じられない言葉を続けた。
「アレが、人間を魔物に変える薬物の原料となったのです」
あれは雑草。薬草ですらない。それが、なんですって?
―――――…いいわ。諸々、気になることはあるけど、それ以上に。
今は、話してる場合じゃない。
目の前で、ラキトフさんの血管らしき場所が、青黒く染まり始めてた。
人間が魔物になる。
つまり、根源から存在が変わるってこと。姿かたちどころじゃない。
薬程度でどうにかなるものとも思えないけど。
少なくとも、ラキトフさんの身体は今。
「薬、なんですね?」
私は念を押した。しつこく確認。
「この異常は、少なくとも、薬が起こしていることに間違いないんですね?」
ラキトフさんは、諦めたみたいな表情で、頷いた。
「信じられないでしょうが、アレを飲まされた者が目の前で次々と魔物になるところを見せられては、我々も信じるほかなく」
彼の目の焦点が、合わなくなってきてる。全身が、震えはじめ―――――、
「分かりました、黙って」
私は、彼の胸の中央に手を伸ばした。掌を、そこに押し当てる。
狂った勢いで疾走してるラキトフさんの鼓動を意識の一部で感じながら、私は意識を集中。
「お、お嬢さま。まさか、時間を操ることができるんですかぁ?」
ジャンナが驚いた声を上げた。私は苦笑。
「まさか。この間魔法を学び始めたばかりよ、私は」
そんな高度な術式は組めないし、知らない。
「でも、異常を起こすのが薬だ、って言うなら」
方法は、ある。
読んでくださった方ありがとうございました~。




