42.北王国の医師
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―――――使徒や赤い車輪も必ず混ざっているだろうね。
アイゼンシュタット大公さまは、事前にありがたい忠告を私にくれた。いえこれは。
脅しね。
避暑地の離宮、その会場内。
陽が落ちたにもかかわらず、真夏の日差しがそこかしこで乱反射してるみたいな煌びやかな会場内。
私は眩しい気分で目を上げた。
行き交う、紳士淑女の影。
交わされる機知に富んだ会話。
右に左に花咲くドレス。
色彩豊かな光の粒を生む宝石の数々。
立ち働く使用人たちにすら、その振る舞いには品格がある。
気分自体がもう鎧って感じで、私は相当身構えてたけど。
今はちょっと、脱力してた。こうして壁際で、周囲を観察する余裕すらある。
「これ、拍子抜けって言うのかしら…」
なにせ―――――ないのよね。なにも。本当に、普通の状況。会場入りから、時折交わされる挨拶に至るまで。
私は単にそこらのお嬢さん扱い。
物珍し気にみられるわけでもなく。飛び掛かって来られることもなく。
もちろん、それが一番いいんだけど。…なんか、おかしい。安心しきれない。
私は既に、テツさまの婚約者として幾人かに紹介をされてる。もちろん、ハイネマン商会の人間として。
上流階級にも通じやすい立場は、それくらいしか私は持ってない。
貴族ではなく、商家の人間、と驚かれたけど、そのていど。
注目されてるとしたら。
時折、交代で私と一緒にいてくださる五大公家の方たちの方ね。
先ほどまで、共に談笑してくださってたのはシルヴィアさまなのだけど…。
「イェッツェル令嬢、どうでしょう、少しこちらの席にもお付き合い頂けませんか」
物柔らかに微笑んで、声をかけてきたご令嬢がいる。
ああこの方は、と私でも分かる貴族のご令嬢だわ。彼女が示す方向を見れば、これまた幾人かのご令嬢の姿が見える。
一緒にいらっしゃるのは、なるほどって納得の面子。どこでもグループってできるものなのね。学内のみならず。
「まあ。光栄ですわ、喜んで」
間髪入れず、シルヴィアさまは満面の笑み。嬉しくってたまらないって表情。
同じ女性から見ても、魅力的で、守ってあげなきゃって思わせるその笑顔を真正面から見せられた彼女は、分かりやすく赤面した。
シルヴィアさまは誰にでも微笑んで対処なさるけど、こう、この方が無邪気を装った態度を取られるときは、結構、決まって。
…虫の居所が悪くていらっしゃるのよね…。
自身の笑顔が魅力的って分かった上で見せて、するっと主導権を握るのだわ。
この場合のシルヴィアさまの笑顔は、さながら光の弾幕。
「それではお二方」
相手のご令嬢の視界から私たちを遮るように立ち位置を変え、
「少し、席を外しますわね」
では参りましょうか、と相手を誘い、颯爽と会場の中へ消えていかれる。
その背をぼんやり見送ってた私は、それなりに気が抜けてたみたいで。
拍子抜け、って独り言を言っちゃったのよ。
聞き咎めたのは、私と共にその場に残ったもう一人。
「拍子抜け、ですかぁ?」
肉を口いっぱいに頬張ったジャンナ。斜め上から榛色の瞳で私を見下ろしてきた。
彼女は、私の護衛。
赤茶の長い髪を、大きな三つ編みにして左右に垂らした、凡庸でいて特徴的な姿。
さっきは馬車の外を走ってた彼女だけど、今じゃドレス姿。そばかすが散った顔は幼い。
けど、出るとこ出てる体型で、そばを通り過ぎる男性の目線が無意識みたいに吸い寄せられては、我に返って前へ戻る。
顔立ちから、十代半ばかと思ってたけど―――――二十代半ばだそうで。なのに。
紹介された時、なぜか床の上に正座してたジャンナに、テツさまは無慈悲に告げた。
「夏季休暇が終わってからも、学院内で学生としてミアの護衛を担ってもらう」
「とっくに二十歳過ぎたあたしに制服着て十代の子たちに混ざって過ごせって言うんですかあっ!?」
ジャンナは悲鳴を上げてたっけ。けど、テツさまから返された視線に涙目で震えあがり、
「光栄です! ありがとうございます!」
手のひら返した良い子の返事を返した。
気の毒だけど、テツさまの決定には逆らえないわ。
それにしたって、なんであれだけジャンナはテツさまに怯えてるのかしら。
微妙な気分を振り払い、現在に意識を戻す私。
会場は、ほとんど別世界。日常生活じゃあり得なくって、なんだか作り物めいて見えた。
私は、この雰囲気に竦んだり呑まれたりする余裕もないほど、別の意味で緊張してたわけだけど。
「そうよ。もっとこう、嫌な注目浴びるんじゃないかって思ってたのよね」
天魔は、テツ・アイゼンシュタトの婚約者。
そんな風に、情報は出てるはずだから。それなのに。
―――――この状況をどう判断すればいいのかしら。
とたん、ジャンナは複雑な表情を見せた。
あー気付いてないんですねーじゃ言わない方がいいかなー的な。
案外と、この護衛さんは表情豊かだ。私、にっこり。彼女のドレスの袖を掴んだ。
「理由、知ってるの」
教えて。
「んあー…」
説明が難しいって感じに、ジャンナはぼやけた声を上げる。
口の中の肉を飲み込み、ちょっと耳を澄ませた。ひとつ頷く。
「では失礼ながら、お嬢さま、横へ三歩、歩きましょぉ」
さ、あたしに続いて。言われるまま、私はジャンナに続いた。
足を止めたところで、彼女は自分の唇の前で指を一本立てて見せる。
そうやって、黙って、と指示されれば、耳を澄ませるくらいしかできない。
周囲に満ちるのは、上品に笑いさざめく声。その、中でも。
一番近くの集団で交わされる会話が、真っ先に耳に飛び込んだ。
「それにしても、天魔とはどのような生き物なのでしょうか」
…はい?
私は目を瞬かせる。…どのような生き物って、どういう。
「さあ、姿は想像もつきませんな。大体、天法によって、資料の大半は秘されるか、失われておりますゆえ」
「あら、今日紹介されたアイゼンシュタット大公のご令息とご婚約の成ったご令嬢が『そう』であると聞き及んでおりますけれど?」
ご婦人の言葉に、私は内心大きく頷いた。うん。その通り。なにひとつ、事実は隠されてないわ。
なのにこれはいったい。
「まさかまさか」
彼女の言葉は、軽い笑いで打ち消された。私の疑問ごと。
「かのご令嬢は、とても無力そうな、愛らしいお嬢さんでしたよ。話に聞く天魔とはとうていつながらない」
いかにも、ごもっとも。
放たれた断定。続く、同意の言葉。つらなる笑いさざめき。
私は唖然。
一瞬だけ、ジャンナを上目遣いに見上げた。彼女は顎先を軽く引いて、頷く。
「公表された情報が、どこかでねじ曲がってしまったのでしょう。これは、きちんと確認しなおす必要がございますな」
―――――このときの私、無表情に磨きがかかってたはず。
納得した。理解した。すっと一歩後退、集団から離れる。
壁伝いに移動、十分距離を取ったところで、ジャンナが囁く。
「…ええっと。ご理解、頂けました?」
「あれね、人間、望むものしか見ないって、そういう話ね」
世間一般において『天魔』に関する情報は、秘され続けた。
結果、正体不明の尾ひれが数多くっついて、さらに理解不能なものになってる。
その山みたいな巨大な影の方がいつの間にか真実になって、現実の方が負けたってわけね。
内心、私は頭を抱えた。
こうなれば無関係な存在って顔をしてたい。押し通せばできそうな気もするし。
でもいつか必ず、ケジメはつけなきゃいけない場面がきっと来る。
ケリをつけるなら、この会場が一番適してる。なら逃げたくても逃げるわけにいかない。
どうするのが一番いいのかしら。
テツさまを捜して視線を巡らせる。
けど、挨拶に来た大人に攫われるみたいな格好で離ればなれになってから、一度も姿を見てないのよね…。
他の大公家の方も、大概そんな感じで現れては攫われて、の繰り返し。
かと思えば、シルヴィアさまみたいに同年代の派閥争いに組み込まれたり。貴族って大変。
あの気儘な方たちがよく我慢してるなあと思うわ。
社交として切り替えをきっちりしてらっしゃるってことかしら。
大公家の方でまだ会ってないのは…そうね、シンジェロルツ家の方と、リヒトフォーフェン家の方ね。
私は、ちらと会場の奥へ視線を流した。
そこでは、多くの騎士が、身じろぎ一つせず立ってる。厳重な守りの体勢。居並ぶ、謹厳な表情。おそらくは。
あの向こうに、公王さまがいらっしゃる。
でもまだ、その守りの壁がほどける様子はない。
公王さまが現れたなら、招待された側としてテツさまとご挨拶に向かわなきゃならないのだけど。
この様子なら、まだ当分は、平気ね。
「ジャンナ」
私は隣の護衛を見上げた。
「私、少し外の空気を吸って来るわ」
「お供しまぁす」
手近な揚げ物をこんもり乗せた皿を手にして、彼女は私の後ろからついてくる。
ジャンナの空気は、とたん、解放されたみたいに少し軽くなった。
周りのきらびやかさなんてものともしてない様子だったけど、ジャンナもそれなりに苦手みたいね。それに。
ジャンナは他人事、みたいに言ったけど、実のところ、彼女も私が天魔って部分はあまり信じてない気がするわ。
できれば今日、この場で証明…したくはないけど、しておいた方がいい私としては、どうすればいいかしら。
第一、私自身が簡単に信じられなかったことだもの。これをどうやったら他人に伝えられるって言うのかしら。難しいわ…。
すこし頭を冷やそう。私は足早に、離宮の中庭へ向かった。
移動して、気付く。目から飛び込む煌びやかな世界と、たくさんの人の気配に、けっこう自分が消耗してたって。
会場から遠ざかり、静けさが近付いてくるたび、身体から力が抜ける。
外に出れば、少し冷えた空気がむき出しの肩に触れた。ドレスの裾に気を付けながら中庭の土の上に一歩踏み出す。
陽が落ち、群青の夜空に瞬く星を見つけた瞬間。
「よっしゃ、これでラスト!」
元気いっぱいの声が上がり、私の前方、左から右へ何かが吹っ飛んでった。
ソレは木の幹にぶち当たり、止まったはいいけど、根元にずり落ちたきり動かない。
闇に目を凝らしてみれば、気のせいかしら、夜会の出席者らしい格好の男性に見える。
「あちゃ、容赦なしですねぇ」
私の背後で右方向を見遣ったジャンナが呟くと同時に、
「え、ミア?」
左側から、聞き慣れた声。繁みから、小さな王様みたいに堂々と現れたのは。
「ヴィルフリートさま」
漆黒の髪に、紅玉めいた瞳の、お人形みたいに端正な悪魔。でも脆弱さは欠片もない。
放射される底抜けの活力は、どこまでいっても男の子だ。
テツさまの弟君は、どこまでも静かでうっかり目を覗き込むと呑み込まれそうな兄と違って、触れれば火傷しそうな膨大な熱量を感じる。
兄弟どちらも、その場に現れるだけで目を奪うというのは、同じ。
ヴィルフリートさまは、いたずら小僧めいた天真爛漫な笑顔で、胸を張った。
「そいつは赤い車輪の暗殺者だ」
向かい側で倒れた男性を指さして、にっと笑う。
ええっと、どこにそんな証拠があるんでしょうか。見た目は普通なんですが。
私には判断できない。なら玄人だったら? 私、ジャンナを一瞥。彼女、まずいものでも食べたって顔で、囁く。
「…あたりですぅ。でも普通じゃ分かりません。…何と申しますか、あの方は直感がすごいんでしょうね、野生動物並みと評しましょうか…もう詐欺」
ジャンナは私の後ろに隠れるみたいに、こそこそ。
対してヴィルフリートさまはあっけらかんと続ける。
「こいつら、外で密会してたから、ギルとの勝負ついでに始末しとこうって話になったんだよ」
ギルって…ギル・シンジェロルツさま? え、一緒にいらっしゃるの? 周りを見渡すなり、
「ヴィル、ひどいよ」
弱り切った声が、不意に頭上から落ちてきた。
私の真正面にある噴水の前。ふわり、羽があるように空から降りてきたのは。
「一人で先に飛び込んだ後で、やっつけた数の多さで勝負なんて言い出すのは、ずるいと思…ミアさまっ!?」
天使の血統の少年。
目が合うなり、驚愕の声を上げる。『さま』て。気のせいかしら。胃が痛い。
同時に、夜目にも鮮やかな、白金の髪が、ふわりと舞った。瞠られた、夜空の色の瞳がはずかしそうにはにかむ。
直後、天使の血統たる手に掴んでいたモノを持ち上げる。その後ろに顔を隠すような動きなんだけど、
「お、おおおおおひさ、お久しぶりです、この度はご婚約、おめでとうございま」
「まずはその手に持ったものを捨ててくださいギルさま」
それ、生首ですから。しかも…獣かしら? いえ、あれはおそらく。
獣人。こっちも赤い車輪の暗殺者かしら。
その生首の後ろで表情を隠す天使。背後のジャンナが、呻く。引いてるわね。
でも残念、私は逃げられない。
ゆえに彼女も逃げられない。
妙な危機感に、現実逃避なんて贅沢もできない。
ただ…なぜかしら。
こう感じるのが、もう一人じゃないのが少し、救いだわ。
ジャンナには心底申し訳ないけど。
なんにしたって。
―――――外に出たのは間違いだったわ。ここまでくると、回れ右もできない。
「はい、仰せの通りに」
ギルさまに、一瞬の躊躇もなかった。
血濡れたそれを、何の感慨もなく背後の噴水へ放り投げる。暴虐の行動とは裏腹に、もじもじした態度でギルさまはその場に佇んでおられる。
自身の行動の全権を、迷い一つなくまるごと私に預け切った彼の態度に、胃の腑がどんどん重くなってきた。
おそらく、だけど。
ギルさまは基本的に私の全ての言に従われるんだろう。
それが私には心底怖い。真名を掌握する恐怖と、それは似てるみたいで、ちょっと違うけど。
反応に困る。扱いに困る。この方が、お行儀のいい危険物だと知ってるからこそ。
「なに気持ち悪い態度取ってるんだ?」
ヴィルフリートさまは、横からギルさまのこめかみを小突いた。
「別にいいでしょ? テツさまの弟のキミと違って、ミアさまと僕はお会いする機会がほとんどないんだから」
唇を尖らせたギルさまの態度に、ヴィルフリートさまは難しい顔になる。
「相変わらず極端だな、全肯定か全否定か興味がないか」
それね。
ご友人なのかしら、ギルさまのことを言い当ててらっしゃるわ。
「まあいいや。ところでさ、お前、人数ちゃんと数えてたか?」
こだわるなら、今、まあいいやって切り捨てたところにこだわってほしい。
物騒な勝負はどうでもいいから。
「…あ、ごめん、途中から忘れてた」
「ちぇ。僕もだ。またか」
途中から勝負が抜けて、物騒さだけしか残ってない。楽しく会話なんて内容じゃないわ。
よし、話題を逸らそう。
そう言えば、二人とも、単独行動みたいだけど。私は首を傾げた。
「ところで、お二人とも、パートナーのご令嬢はどちらに」
いくら抜身の刃物みたいでも、大公家の人間だもの。幼くとも、パートナー同伴のはず。
会場入りするとき、ヴィルフリートさまの隣には愛らしい少女が一人、立ってた気がするのだけど…。領地内の貴族の娘さんだと紹介されたっけ。彼女は今どこに。
聞けば、どこかに相方を置いて来たのか、ギルさまは忘れてたって顔になったけど。
ヴィルフリートさまに至っては、呆れた顔で私を見上げた。
「ミアこそ、兄上はどこだ」
…あぁっ!? しまった、他人事じゃなかった。私も彼らと同類だわ。気付くなり、
「ヴィルさま」
やたら乾いた生気のない声が、ひそりと囁かれる。
今までここにいた四人とは、また別の。でもどこに。弾かれたように顔を上げ、周囲を見渡せば。
―――――思わず悲鳴を上げそうになる。
いつの間にか、ヴィルフリートさまの目の前に、顔色の悪い青年が立ってたんだもの。
気配のなさに目を瞠る。目に見えてるのに、今にも透き通っていきそうな幽霊じみた青年。
よくよく見れば、彼は、確かヴィルフリートさまの従者さんね。
「片付け、終わりました」
何のことかしら。一瞬、眉をひそめたけど。まさか。
思いついて、私はさっき目の前を真横に吹っ飛んだ男性が崩れ落ちてた木の方を見遣る。
案の定、そこは何事もなかったみたいに誰の姿もなかった。何これ怖い。
「おう、ご苦労」
それを当然みたいに受けるヴィルフリートさまの得体が知れない。
え、待って。まさかこの方、やっつけた敵は自動的に消えるとか、思ってないわよね。
「警備は、騎士に任せて、お戻りを」
ふんぞり返る主に慣れてるのか、淡々と、諭す従者さん。ヴィルフリートさまはむくれた。
「連中の守りを抜いた奴らがいたから、こうなってんだろ」
むしろ感謝しろって言いたげ。
そう言えば、離宮周辺は、騎士が守りを固めてるって聞いたわね。
五大公家には敵が多いから、公の場に出るこういう機会はこぞって狙われるからって。
―――――一種のお祭り騒ぎだぞ。
悪意を隠さず笑ったのは、レオさまだ。その上、ヴィルフリートさまの今の言いよう。もしかして。
「今もまだ、騎士さまたちの守りの外に、暗殺者たちがいるってことですか」
一人、二人の、話じゃないの?
ヴィルフリートさまとギルさまが顔を見合わせた。すぐ、揃って私に向き直り、
「ちょっと間違えば戦争の勢いだ」
ヴィルフリートさまは満面の笑み。
「あ、あの、ごめんなさい。ミアさまにはナイショねって姉に言われてたんですが」
ギルさまは申し訳なさそうに小さくなった。
存在感ある宝石みたいな容姿の方なのに、そうしてらっしゃると不思議と庇護欲をそそられる。
「いえ、大丈夫です。怖いとかじゃなくって…」
だからつい、言い訳めいたことを言ってしまう。
「あんまり静かだから、想像もつかなかっただけで」
周囲の静寂は深い。離宮の中の方が賑やかなくらいなのに。
「だからって、お嬢さま。見てこようとはなさらないでくださいねえ?」
何を考えたのかしら。ジャンナが、しないでもいい念押しをしてくる。
なんなの、私はそんなに危なっかしく見えるの。自分から危険に近寄ることはしないわよ。相手からくるだけで。
「目と鼻の先の空気は、えらく殺伐としてるんです。ほんとは、すぐにも中へ戻ってほしいんですけど」
…そんなに? 私が闇の彼方を透かし見た、刹那。
「はてさて、こりゃどうなってるのかね」
まさに、私が見遣った場所に、飛び抜けて大柄な身体の青年が、投げやりな足取りで現れた。
え、誰。思う間もない。頬に、風を感じた時には。
ヴィルフリートさまの従者さんと、ジャンナが揃って、私たちに背を向けて立った。
私たち―――――私を含め、ヴィルフリートさまとギルさま、―――――と相手との間に割って入る格好で。
「外から見れば、まるでここは、魑魅魍魎の巣窟みたいな有様じゃねえか」
大柄な青年は、のんびり、謡うように声を張った。
その場で仁王立ちする雰囲気で、堂々と立ち、噴水の向こう側から、
「ああ、こりゃぁ…誰かと思ったら」
いい加減に伸びたくすんだ金髪の前髪の隙間、暗い褐色の瞳が、うっそりと上げられる。その瞳に、私を映した。
「お嬢じゃねえか。支部長は元気かぁ?」
穏やかな熊みたいな印象の彼は、太い首を撫でて首を傾げる。
目は真っ直ぐ私を見てた。
私をお嬢さま、って呼ぶのは、ハイネマン商会の関係者か、もしくは。
―――――医療組合<白陽>の医師。
この方は、…後者。見覚えがあるわ。でも。
「あなたは、北方の…」
昔、一度だけ会ったことがある。そのとき彼は、まだほんの少年で。
寒村で、老いた医師に師事してた。名を、確か。
「イサーク・レノヴァ見習い…?」
言えば、彼は片方の眉を上げる。驚いたみたいに、困ったみたいに。次いで。
苦い、笑い。
「覚えてんのか。まだほんの子供の時分に、一回会っただけの人間をよ」
出来が違うってこのことかね、とやりにくそうな声。
「お知合いですかぁ?」
ジャンナが、口早に小声で確認。私は頷く。
「小さな頃、少しね」
そう、知りあい、ではあるわ。でも。危険があるかないかまでは、読めない。
鼻を鳴らしたジャンナの身体から、警戒が抜けた様子はない。もう一方の、従者さんも同じだ。
「一緒に過ごしたのは半日くらいだったろ。よく覚えてんな」
彼はがりがり頭を掻いた。でもそれを言ったら、よく覚えてるのは、彼も同じじゃないかしら。
「ただ、今はもう見習いじゃねえよ。医師だ。れっきとした、な」
「では跡を継がれたんですね。おめでとうございます」
自然と口にした言葉に、返されたのは曖昧な微笑。何か、おかしなことを言ったかしら。
今、想像がつくことと言えば、当時寒村を担当してた老医師に不幸があった。その程度。
詳しく聞きたいところだけど、状況的に話し込むことは難しそう。
いずれにせよ、確かなのは。
彼は、この夜会の出席者じゃないってこと。
北方の寒村の住人が、どうしてベルシュゼッツ公国の避暑地の夜会と縁が持てるっていうのかしら。
せめて格好でも出席者らしくなさってれば、そんな風に考えずに済むのだけど。
「ふん?」
何をどう尋ねるべきか。
悩み、言い淀んだ隙に、彼は私を上から下までざっと見遣り、
「お嬢はドレスか。女らしくなったもんだ。子供の頃は男みたいだったのによ」
一度、遠くを見る目をして、すぐ私に目を戻した。
「なんだ、出席者側か。いらねえ心配だったな」
私、内心、唖然。心配って。何かしら。思う端から、気付く。あ、そうよね。
こんな夜会、彼だけじゃなくって、商家の娘が出るようなものでもないわ。主催が公王さまって言うのが問題よね。これだけで、もう格が爆上がり。
どうしよう、私の感覚は最近、鈍くなってるみたい。当たり前みたいにテツさまと一緒に過ごせるから、身の丈ってものを忘れそうになる。
でも心配ってどんな心配かしら。…攫われてきたとでも思ったのかしら? 権力を笠に着た貴族さまに?
身分の上下には公国以上の厳しさがある北王国では、けっこう、そういうことがあるらしいし。
「はい、少し、縁がございまして。ご心配頂き、ありがとうございます。わたしなら、大丈夫ですので」
はー、とイサーク医師は、大きく息を吐きだした。
その、気が抜けた、と言うか、呆れた、と言いたげな態度には、覚えがある。
そうそう、この方、昔会った時も妙に面倒見が良くて。
私を置いてふらっといなくなる旦那さまを、きちんと面倒見ろよ、と叱り飛ばしたりなさったのよね。そのお叱りをなぜか嬉しそうに、うんうん聞いてた旦那さまの態度に、呆れたってため息こぼした時も、こんな感じだったわ。
彼は、あの時と変わってない。なら。
―――――場違いなこの場所に、いるのはどうして?
「まあ、折角だ。知ってるなら教えてくれねえか。支部長は今、どこにいる」
ベルシュゼッツ公国の本店にはいなかった。その言葉に、私は首を横に振る。
「現在は、北方へ出張に出られている頃合いかと。それこそ、移動の最中です。伝言があれば、承りますが」
「なら…ああ。いや―――――自分で聞くわ」
「では、イサーク医師は旦那さまを捜して、こちらに?」
旦那さまなら、確かに。
この手の夜会にもよく顔を出してらっしゃる。
でも、イサーク医師は首を横に振った。
「知りあいが、会場にいる」
独り言みたいに呟き、イサーク医師は疲れたみたいに目を閉じる。
「そいつを迎えに来た、だけだ」
「ですが、その恰好では」
彼の格好は、清潔だが、貴族たちも参加する社交の場に現れるには相応しくなかった。どうでもよさそうに、彼は手を横に振る。
「中に入る予定はない。外で待ってるだけだから、よ」
自然体で、彼は、ふ、と一歩後ろに下がる。とたん。
「見逃してくれ」
冗談めいた声が聴こえたのを最後に、イサーク医師の姿は見えなくなった。
ヴィルフリートさまが感心したように呟く。
「魔法か」
「いや、これは魔法じゃない」
ギルさまが首を横に振った。ただ、確信が持てないように自信のない声。
代わりに答えを口にしたのは、
「魔道具ですね」
ヴィルフリートさまの従者さん。彼は警戒を解きながら、少し咳込んだ。病弱っぽい。大丈夫かしら。
なんにしたって、彼の言動から、ある程度は信頼できる人物と判断されたみたい。
誰も、イサーク医師を探しに行こうと動く様子はなかった。
「…そうなんですかぁ?」
いつもの呑気さを取り戻したジャンナが振り向くのに、私は頷く。
「多分。イサーク医師は北方の医師で、…あっちは魔物が多いから、咄嗟の時に姿隠しの魔道具はあったら便利だから、持ってる人は多いわ」
ただし、濫用を避けるために、町から出るとき以外は、長にあたる人物の家に預けておくなり、地域によってそれぞれの対処が取られてる。
「ってことは、アレだな、ずっと隠れてることもできたはずだ」
ヴィルフリートさまが、あっけらかんと言った。
「それでも姿を現したってことは、…彼なりの、誠意、ということ、…なんでしょうか?」
ギルさまが、伺うみたいな態度で続けるなり。
―――――一瞬、頭の中から全部の思考がすっぽ抜けるみたいな衝撃を受けた感覚があって、私、思わず離宮を振り向いてた。
夜、なのに。
いきなり、真昼に切り替わったみたいな感覚がある。周りは、確かに暗いのに。
どうして、そんな風に感じるんだろう。
視界の端で、いきなり引っ叩かれて目を覚ましたみたいに、ヴィルフリートさまが目を瞠る。
対照的に、その隣ではギルさまが小さくなって離宮へ向かって頭を垂れた。
「まあ、今は追及してる場合ではないな」
ヴィルフリートさまが言って、離宮を親指で示した。
「公王さまが出て来られるようだ」
読んでくださった方ありがとうございます~。




