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39.かくして、楽園の住人は死の遊戯を

次回の更新日は10/20になります。

あまりに残酷な仕打ちが実行されようとしてる。


私は思わず顔をそむけた。

でも、一方的な蹂躙と言える光景が嫌と言うほど目に映るのに―――――いっさいの、音がない。



当然だ。これは、影。



―――――闇は、光があれば消える。光と闇が同時に存在することはあり得ない。それは即ち、闇は決してこの世に存在しない幻、とも言える。

…ただの幻想。

ならば、影とは。本体が地上にないなら、単に光を浴びせれば消える。でもただ、消すんじゃなくて、滅ぼしたい、なら。

私は一度唇を噛んで。静かに、言葉を紡いだ。


「影には、影を、…ですか」


幻想には、幻想を。

殺す、と言う言葉を、こんな場面で私は口にできない。…影なら、命はもたないのかも、しれないけど。

影を奪われ、破壊された時、本体には、どんな影響が出るのかしら。


「そうだ」

退屈そうな表情で影をちぎりながら、テツさまは平然と頷く。

「こちらの方が、効率的だ」



―――――効率。



…底が見えないくらい深いわね。私たちの感性の間に横たわる溝は。


テツ・アイゼンシュタトさまは悪魔。

魔石で過剰な魔力を抑え込まなければ、五大公家の血統の者は、人間の殻を破り、本性を現す。今、床の上に広がる歪な影は、彼の本性の一端。



でも、だからこそ私はこの方を―――――放っておけない。危なっかしくって。



私は全身を使って大きく息を吐き出す。ひとまず、命の危機は去った。落ち着かないと。

「もう危険はないのなら、鍵を探しませんか」

建設的な提案を、私はしたつもり。


テツさまは腕から力を解き、少し首を傾げた。すぐ、ああ、と頷く。

軽く足元を蹴った。


なんだか、その事実が心底どうでもよさげな態度で、言う。




「鍵は、アレだ」




台詞にまで、やる気がない。

親指が示す先には、…獣の影。あまりの素っ気なさに、すぐには意味を理解できなかった。

首を傾げる。



―――――理解が追い付いたのは、すぐだった。



腕を伸ばす。力の限り、テツさまの胸に両手でしがみついた。身長差のせいで、子供がしがみついてる感じにしか見えない気がする。


「こわさないでください」

強く訴える。渋面になってたはず。だって、あれが鍵って言うなら、壊れたら、



「ここから、出られなくなっちゃいます」



鍵と聞いたなら、扉を開けるために使う道具ってイメージがある。壊しちゃったら開けられないじゃないの。

私の訴えに、テツさまは少し考えた。…その間に、何を理解したのかしら。


「…自力で答えを得たいんだろう? 考えろ、ミア」

テツさまは、微笑んだ。とびきり優しい顔で。魅了の力に満ちた表情だけど。


私、さらに唇をへの字にしてしまう。だって、そうでしょ?

さっきは、聞きたくないのに教えられた。今度は、聞きたいのに、教えない、なんて。



―――――この、悪魔。



でもそれが取引っていうなら。

「分かりました」

いいわ、考えようじゃないの。正しい開錠の仕方を。


不貞腐れて返したのに、テツさまは子供みたいに笑った。

身を屈める。私のこめかみに、こめかみを押し付けた。…ありがたいわね。顔が見せなくなれば、のぼせた気分もおさまる。次いで。


耳元で、囁き。



「答えは目の前にあるだろう」



―――――え。…つまり。


私は、鍵って聞いたから、『道具として使うもの』って認識でいたけど。…そうじゃないってこと?

おそるおそる、私は足元を見下ろした。



要するに、異空間から、私たちが抜け出せればいいわけで。その鍵が、テツさまはこの獣の影だと断定したわけだけど。もしかして。



「―――――異空間から抜け出すためには、獣の影を破壊する必要が、ある?」

テツさまは、喉を鳴らして低く笑う。


私の早とちりだったみたいね。気が抜けて、半分脱力したけど。




獣の影を始末しなきゃ出られないだなんて、ほとんど不可能な話よね。テツさまだからなんとかなる話だけど。




「すぐ、片付く」


テツさまの態度は、ちりとりからごみでも捨てるみたい。

慣れと…致命的なくらいの、飽きを感じるわね。


直後、テツさまはまた頭上を見上げた。



「向こうも、片がついたようだな」

向こうって。


「デーニッツくんと、リタですか」



彼らは確か、これを仕掛けた相手を捕まえに行ったんじゃ。テツさまは頷いて、褒めるみたいに言葉を続けた。

「こちらへ逃げ込むしかないほど、この短時間で追い詰めたようだ。やはり有能だな」


事実、あの二人が標的を取りこぼしたことなんて、過去に一度もないわ。

思うと同時に。




「ぅわあああぁぁっぁぁぁああぁ!」




頭上から、悲鳴が降ってきた。近づいてくる。どちらからともなく身を離した私たちの足元に。

「ぶっ!」

男子生徒が落ちてきた。顔面で着地。

私は彼を見下ろした眼を、次いで、頭上に向ける。


冷静に判断した。結構な距離があるけど、深刻なダメージはないみたい。

異空間だから、現実とは結果が食い違うのかしら。なんにしろ。




「あら」


額を押さえながら上半身を起こした彼の前に、私は膝を落とす。

「さっきは、素敵なプレゼントをありがとう」




顔を覗き込んで、確信。うん、この人だわ。そばかすの散った童顔。


私の本に、しおりを挟んだ図書委員。平民じゃないわね。どちらかと言えば、貴族の印象。


彼は蒼白になった。座り込んだまま、ぴょんと後退。器用ね。

「た、頼まれただけだ、ぼくは!」

咄嗟の叫びに、私は目を瞬かせた。後ろに立つテツさまを見上げる。彼は頷いた。


「だが、結果がどうなるか、知ってはいたな?」

男子生徒は、テツさまを見上げ、蒼白になる。震える声を上げた。





「…ア、アイゼンシュタットさま…」


彼の視線は、あっさり私の頭上を通り越す。唖然。ぽかん。

間髪入れず、頭から床に飛び込むみたいに土下座。


「お許しください!」


無謀に突っ込んでくる勢いで、謝罪が飛んでくる。





とたん、拾った違和感が叫んだ。



あ、このひと、真犯人じゃない。手伝ったかもしれないけど、それだけ。



だって、こうまでお膳立てした以上、仕掛けた相手の肝は相当据わってると思うの。でも彼は、怯えてるわ。心底。テツさまの存在に。

案の定、言い訳みたいに言葉が続く。



「ただあまりに、彼女が不憫で…っ」



嘘じゃなく、事実と思うわ。


そもそも、図書館に入った時に聴こえた、あの怨嗟の声。あれは。




―――――女の子の、声だった。




このそばかすの男子生徒は、単なる協力者。…それなら。


その『不憫な彼女』とやらが企みごとの張本人と考えていいのかしら。

目の前で土下座する男子生徒を利用して。


えげつないくらい手の込んだ罠を仕掛けて。


「で? 『不憫な彼女』はいったい、どこにいるのかしら」


頭を下げたままの彼にもわかるくらい、私の声は物騒だったみたい。

びくっと男子生徒の肩が揺れた。でも。


私の視線の先で、床についてた掌が、ぎゅっと握りこまれる。



「彼女なら…覚悟は、決めてる」


―――――答えになってないわ。とはいえ。不穏な台詞ね。覚悟って。



どんな種類のものを、どの程度。

気にはなる。ただ、今はまだ、必要な情報じゃない。私は『彼女』の動向に、それ以上の言及は避け、

「そう。なら、テツさまを狙った理由を教えて」



どこから斬りこむべきか、私には判断がつかなかった。ただ、私の中で唯一引っかかってたそこに、まず言及する。果たして、彼は言った。



「狙ったのは、…テツ・アイゼンシュタトさまって言うより…アイゼンシュタット家そのものだよ」

自棄なのか、勇敢なのか。不貞腐れた物言い。

その答えは、ある程度は予想通りね。テツさまは、と言えば。


「―――――ほう」

背後に立つ彼の声に、面白がるみたいな響きが宿る。男子生徒は、亀みたいに這い蹲ったまま、さらに身を固くした。もう、岩ね。

顔を上げる勇気はないみたい。


気の毒だけど、仕掛けたのは彼だわ。逃げる手助けは悪いけど、できない。



「聞こう。話せ」



テツさまは律儀に促した。誠実そう、ではあるけれど。これは、おそらく。





歯牙にもかけてなかった相手が牙を剥こうとした、その挑戦が楽しかったから、褒美として話を聞こうとしてる…そんな感じじゃないかしら。





「…っ」

男子生徒は、弾かれたみたいに、顔を上げた。びしっと正座。そのまま、声を張る。




「彼女の家は、乗っ取られたんですよ、アイゼンシュタット大公さまの紹介でやってきた成り上がりものにね!」




顔色は悪い。でも。ひとまず、よくやったって褒めてあげたい。


テツさまを前に、なかなか、思い切れるひとはいないと思うの。




それでも彼の言葉は震えて、よくつっかえてたから、私が要約するわね。











男子生徒が言う『彼女』は、彼の幼馴染のことみたい。話は、『彼女』の家のことからはじまった。


数ヶ月前、『彼女』の家に、事業の取引相手が一人、訪れたそう。はじめての相手だったけど、アイゼンシュタット大公さまご紹介の新興貴族、ってことで、すぐ信用されたみたい。


事業、と言っても、やってるのは、貴族。領地にある金脈や特産品の取引のことね。

取引は、最初はうまくいった。確かな成果と、広がる人脈。

家族ぐるみの付き合いになるのに、そう時間はかからなかったようね。ただ。


本当に信頼が深まった、その頃から。




ボタンを掛け違えたように、何かが少しずつ狂い始めた。




確かに確認を取った取引の場所が違ったり。品物の数が違ったり。事業のみならず、貴族同士の社交においても、おかしな噂が知らないうちに広まってたり。

曰く、あの地の金脈は枯れている。彼らはそれでも、体面を取り繕おうと必死だ。

曰く、ふもとの村では伝染病が流行っている。あの地のものは口にしてはならない。

曰く、玄関口に飾られている有名な絵画は盗品。


外聞が悪い話ほど、面白がって人の口にのぼり、尾ひれがついて、やたらと広まるもの。

そんな中でも、件の新興貴族だけはよくしてくれた。

仕事を代わりに引き受けたり。社交の場で庇ったり。その内に。


お疲れでしょうから、と重要な取引にも、彼が代理として顔を出すようになった。

そんな、ある日。

かの貴族が、へらへらと笑って告げた。



―――――申し訳ありませんね、これがアイゼンシュタット大公さまのお望みで。



気付けば、土地のすべての権利は、件の新興貴族の手にあった。

それまでの誠意ある対応が嘘のような軽薄な態度で、彼はとどめの言葉を口にする。


不名誉な噂のある貴族の代わりに、彼が立つ、それが大公さまのお望みだ。


ベルシュゼッツで、それほど五大公家の発言は絶対だった。

それきり、彼の幼馴染一家は屋敷を追い出され、行方知れずとなる。



けれど、数日前。



行方知れずだった幼馴染の少女が彼の前に姿を現し、最後のお願いだ、と頭を下げた。


決死の顔で。











彼が受け入れた結果が、…今。


―――――よくある話だわ。残念だけど。

そして、気付かない方が間抜け。言い方がキツいって分かってるわよ。


だからって、現実は、そう単純で簡単な話ではなかったのだろうけど。





でも、第三者から見れば、おかしな話だわ。

事態の成り行きって言うより、こんなことにこんな形で、アイゼンシュタット家が関わったってことが、よ。なにせ。


アイゼンシュタット家も含め、五大公家は、そんな形で弱者をいたぶる趣味を持たない。

気に食わなければ直接言う。正面からぶっ潰す。絡め手は使わない。


そうする必要が、そもそも―――――ない。

もうひとつ。真理を身も蓋もなく断言すれば。



―――――彼らは弱者に興味を持たない。



敵に回しても、手応えのない相手は逆に彼らのストレスを増やす。倍に。

彼らが退屈極まれば、他の五大公家へ喧嘩を売るのはそのため。


対等に全力を出し合って戦えるのは、同じ五大公家以外にないから。






なにより、話を聞いた限りでは、アイゼンシュタット家に敵意を向けるのは、明らかに。

…完全に無意味な逆恨み。厳しいけど。


テツさまは、この話をどう判断なさるのかしら。思いつつ、背後を気にしてるうちに。

そばかすの図書委員は口を閉ざした。



「それで、終わりか」

テツさまは律儀に確認し、





「なぜだ?」


仰った。



「今、これほどの罠を仕掛ける情熱があるのなら、なぜ、取り返しがつかなくなる前に、行動しなかった?」





テツさまは心底不思議そう。責めてるわけじゃない。



でも正論過ぎて刺さる。



「でも…いえ、ですが!」


半ば挫けた表情で、それでも男子生徒は声を張った。






「あなた方大公家なら、なんとかできたんじゃないですかっ? あの新参者は、未だアイゼンシュタットさまの名を笠に着て、好きにしている。気付いて、おいででしょう! なぜ未だ、捨て置かれるのですか…っ」






今更だわ。すべて。


その上、復讐の方向性を間違ってもいる。

復讐したいなら、乗っ取った相手にすべき。アイゼンシュタット家に向けるべきじゃない。

それも、大公本人へ直接向けず、息子のテツさまを対象にしてる。


取り返しはつかない。それでもまだ、言い訳ができる安全地帯に自身を置いているように見える。




なにもかもあべこべ。致命的に、ズレてた。




「なるほど」


不意に、テツさまが、独り言みたいに呟く。





「他者の裁きを頼り、待っていたのか」


…直後、私もようやく察した。だから何もしなかったアイゼンシュタット家を憎むんだわ。





つながりはしたけど、脱力するほかない。

完全な逆恨みとしか思えない。けど、男子生徒側からすれば、そうじゃないみたい。

―――――堂々としたものだわ。


テツさまはそれ以上何も言わず、その目を床に向けた。




「―――――あぁ。終わったな」




私もそちらを見遣る。と。

歪な異形の形をしてた影が、テツさまの足元で、普通の人間の形を取ってた。


その、周囲に。

黒い靄みたいなものが漂ってる。それは、たちまち、薄れてった。刹那。

にわかに、足元に小刻みな振動が走った。不気味さに、パッと立ち上がる。

元の場所に戻る―――――すなわち、異空間から出るには、鍵がある、とテツさまは仰った。その、鍵、と言うのは。あの、神獣の影。


それを壊すことが、異空間からの脱出につながる。

では、この振動は。

「ミア」

落ち着き払った声で、テツさま。掌を上向きにして、私に差し出す。


「手を」

その手に、手を乗せるのを、私は一瞬ためらった。


…気になったからよ。目の端に映る、蹲ったまま動かない、男子生徒が。


テツさまに噛みついたことで、色々尽き果てたのかしら。

考えてみれば、彼も身勝手な復讐に巻き込まれた側と言えなくもない。


燃え尽きたみたいに無気力な表情になってる。


このままだと。

思いながら、テツさまに向き直った。


テツさまの目に、男子生徒の姿は映ってない。私の安全を、最優先にしてるのが分かった。

このままだと簡単に、テツさまは彼を置き去りにする。いえ、その意識すらないはず。


もし私がいなかったなら、気紛れで拾って帰るかもしれないけど、今は。

…それなら。

手を乗せる、寸前。―――――一歩、踏み出す。テツさまに向って。



「テツさま」



手より先に、身体が接触しそうになる。予測してなかったのかしら。テツさまは、目を瞠った。

そこへ畳みかける勢いで、力強く言葉を紡いだ。



「彼も一緒に、外へ連れて行ってください」



テツさまは、目が覚めたみたいな表情になる。男子生徒を見遣った。

すぐ、私に目を戻す。とたん。


どうしてかしら、望みが叶えられた態度で、微笑んだ。嬉しそうに。



「…承った」



返事と同時に、私はテツさまの手に、手を乗せた。

こういう時、思う。もしかしてテツさまは、こうして私が言い出すことを、わざと待ってらっしゃるのかしら。


疑念に答えが出る前に。

テツさまの手が、蹲ったままの男子生徒の首根っこを引っ掴んだ。我に返ったみたいに彼が瞬く。刹那。






―――――ガラガラガラガラガララ…






土砂が崩れ落ちるみたいな、と言うには、軽い―――――そうね、せいぜい、おもちゃの山が突き崩されたみたいな音が周囲に響き、壁が、床が、剥がれ落ちてく。

崩壊する空間の中で、テツさまが宣言。


「では、行く」

…本当に、鍵がなくなれば、この異空間は維持できなくなる仕組みなのね。思う端から、



(う、わっ)



また、頭からどこかへ落ちてく感覚に襲われた。息を詰め、目を閉じる。直後。








「ミア!」



リタの声。そこには、肌に刺さるみたいな緊張が宿ってた。

なにごと。私は、大きく目を瞠る。


まずリタの姿を探そうとした、けど。








―――――真っ先に目に映ったのは、宙に浮かんだ栞。そして、魔法陣。






…そう言えば。

さっき見た光景を思い出す。


魔法陣は三つ、展開してたわね。


内の二つは、もう消えてた。おそらく、効力が切れたのね。異空間が崩壊して、設定されてた座標が喪失したから。

残ってるのは、ひとつ。…どうやらこれも、召喚の魔法陣、みたいだけど。


「気をつけろ」

唖然とした私に飛んでくる、デーニッツくんの、鋭い警句。言われるまでもなく私は、




「やあやあ、はじめまして」




魔法陣を背景に、傲然と立つ人影が放った陽気な挨拶を聞きながら、警戒を最大限まで上げた。











いたのは、見慣れない青年。腰には、古びた剣を佩いてる。

顔に張り付いてるのは、投げやりな笑い。なぜかしら、どこか歪んだ印象があった。


にやにや、こっちを観察してる。


年齢的には、教師陣に属してた。生徒じゃない。でも、見ない顔。先生じゃないわね。

部外者? なぜか、自然と、第三の魔法陣と彼がつながった。

アレを通って、やってきたの?


…でも、―――――なにかしら?

私はつい、胸をおさえた。彼を、見るなり。私の中にいる、あの巨大な存在が、身動いだの。たちまち、妙な衝動が湧いた。



―――――引っ叩け。黙らせろ。



咄嗟にやりかけ、寸前、ぐっと拳を握りこんで堪える。

初対面のはずの相手に、なに、この衝動。


根拠もないのに、それは正しいって力いっぱい肯定する気分が刻一刻と膨れ上がってく。











戸惑いながら、私は青年を見つめた。このひと、いったい何者なの。


「やっぱり、悪魔相手に、影じゃ役不足だったみたいだな」

彼は、テツさまに向かって、話しかけた。


悪魔の血統と真正面から相対し、呆気にとられる気安さ。度胸のすごさを讃えるべきか。象なみの鈍さと呆れるべきか。


その上、返事も待たず、

「ざーんねーん」

足元に蹲った男子生徒に、ばかにしきった声を投げた。げらげら笑い声を上げる。


顔をしかめたリタが呟いた。

「下品」

思わずって感じのそんな言葉も、濁った笑い声はかき消してしまう。



「あそこまでしたのになあっ! 報われなかった!」



青年は、空を抱くように大仰に腕を広げた。弾かれたみたいに男子生徒が顔を上げる。

「アンタが!」

叫んだ。




「そうすれば、悪魔にさえ一矢報いる武器をやるって言ったから…っ」




怖い怖い、と青年は嘲る態度で肩を竦めた。


彼を見ながら、テツさまとデーニッツくんが立ち位置を微妙に変える。足元の男子生徒を庇う位置に移動。


それが気に食わないって様子で、青年は針みたいに目を細めたけど、口に出しては何も言わない。



「自ら命を絶った家族の前で壊れかけた女の子がいれば、ちょっとは同情するさ」



なんにしたって、口にしたのは、これっぽっちも真心のこもってない台詞。

「こ、の」

そばかすの男子生徒が言葉に詰まるのを楽しそうに見下ろす。


ただ、それもすぐ飽きたのか、私たちを見遣った。下種そのものの笑いを浮かべる。



「なあなあなあ、神獣の影ひとつを呼び出すのに、あの小娘、どうしたと思う?」



「神獣…まさか、南の」


デーニッツくんは呟き、私を一瞥。慎重に頷き返す。

「テツさまが…対処してくださったわ。それを呼び出したのが、彼の」

私は男子生徒を見遣った。彼はふらふら立ち上がる。

それでも、正気に戻ってはいるみたい。



「幼馴染の女の子、らしいけど」


「そう、そのオンナノコ、な」



青年は、やたら癇に障る口調で繰り返す。

教えるのが楽しくて仕方がないって態度で、彼は言葉を続けた。



「自分の命も含めて、家族を受け入れてくれた村丸ごとの命を捧げたんだぜ。なのによ。かっわいそうになぁ!」


悪魔は生き残った! 物語の一節でも読み上げるみたいに、彼は告げる。



…やっぱり。あれは、外法の類なのね。


「いやぁ? 話を真に受けて乗ってきたときは、オレ様もすっげえバカだって思ったけどよ」

一瞬、彼の口の端が、耳まで避けたように錯覚を覚えるほど、邪悪な表情。


「小娘は必死だし? できることはできるし? まあ手伝ってやるのも親切だろお?」


「…御託はいい」

不意に、テツさまが口を挟む。




ふ、と青年が目を上げた。何かに飽きた眼差しをテツさまに向ける。まるで、何度も同じ場面を繰り返し見てきたって言いたげに。




構わず、テツさまは鋭く尋ねた。

「何者だ」

びりっ、と。

皮膚が痺れるくらいの緊張が、テツさまから感じられた。驚いた。


テツさまが、緊張なさってる? はじめてのことだけど…これは、間違いない。




―――――あのひと、強いんだわ。


テツさまが、警戒するくらいには。



「アイゼンシュタット家には、オレ様についての書物があるんじゃねえか?」


にやにやと、腰に佩いた剣に彼は手をかけた。








「オレ様は、楽園の住人―――――かつて天魔の従者だった者だ」








寝耳に水。


テツさまを除いた全員が、一瞬思考を止めたんじゃないかと思う。だって。


楽園の住人。天魔の従者。




つまり、青年は、天魔の楽園の住人だと名乗ったわけよね。嘘でしょ。




緊迫した空気の中で、いきなりおとぎ話が飛び出して来た心地に、強い違和感がある。

なんにしろ、おとぎ話ではよく聞く天魔の楽園。でも、そこで生活してる人間がいるなんて物語は聞いたことがないわ。いるとしても。


この間、学院の地下から飛び去った魔法人形みたいな、厳密に言えば生命とは違う存在だけのはず。

でもこのヒトは、…生きてる。それとも。




人間じゃ、ないの? 思うなり、なぜか、それが正解だって確信が、胸の奥から返った。




名乗りの一瞬、青年は騎士みたいに凛々しい表情を浮かべる。

…そのわりに、

「この時代によ、また天魔が現れたんだろ?」

どうでもよさそうな態度で、



「魔法人形の報告もあり―――――目覚めの兆しを感じたんでな」

言い放った声は、奇妙に消極的。



「探しに出たついでに、ちょっと遊ぼうと思ってよ」



探しに出た。

…不思議ね。言葉の割に、やる気や意気込みを感じないわ。それに。


―――――寂しそう?




小憎たらしい悪戯小僧が、いつになくしょげ返って、なんだか調子が狂う感じ。




だからつい、

「お遊戯にしては」

私は叱りつける口調で言った。


「度が過ぎてるわ」

リタが、「あ、おバカ」って額を押さえる。デーニッツくんが、処置なしって感じで、首を横に振った。なによ。

刹那。


ふぅ、と暗い彼の視線が私の姿を捕らえた。唇だけで、薄く笑う。




「なんだぁ? …威勢のいいお嬢ちゃん、が 」




言葉が。

突然刃物でぶった切ったみたいに途切れる。



ゆっくり。…本当に、ゆっくり、私を映した彼の目が見開かれた。



彼の周囲だけ、一瞬、時間が止まったみたいだ。

射抜くような凝視の中、愕然とした呟きが、自然とこぼれおちた。





「…嘘だろ」


―――――いったい、なんなの。





この態度、私がなんなのか、分かったんだろうけど。

天魔がいるって承知で、報告も受けてて、その上で探しに来たって割には。


彼の驚きようは、何か不自然。

瞠目した目を私から離さない彼の喉奥から、不意に。



「は、ははは、…ははははははっ」

ひきつったみたいな笑いが絞り出された。直後、











「はははっ、すげえ…すげえ、すげえ、―――――すっげえ!」



発狂でもしたかと思う勢いで、前のめりに叫んだ。声が割れるほど大きくなる。





「きっちり自我を保った天魔なんて、何百年ぶりだ!?」











それは、ほとんど咆哮に似た言葉だった。


どうにか、聞き取れはしたけど。はい? 意味が理解できない。

私、なんとなくテツさまを見上げた。テツさまはしずかに頷く。


「三百年ほど前から、見いだされる天魔はことごとく」

男子生徒の方から青年の意識が逸れたと判断したんだろう。

楽園の住人の青年、彼の視線から、今度は私を守る位置に立って、テツさまは低く告げた。





「狂っていた」





「だろだろぉっ?」


どういうわけでか、心底嬉しそうに、青年は何度も頷く。ちょっと引いた。


「ああ、嘘だろ、反応してるよ。嫌がってるな。まあ昔からオレ様を嫌ってたもんな!」



それすら嬉しいって感じに、目を輝かせた。



あ、この人の目。明るいオレンジ? 眠そうに目を閉じて、暗い印象があったんだけど、そうしてるとちゃんとした色が判別できた。




「しかも今生は女か! 小さい。可愛い。どうしてそんな姿を選んだ?」




生まれ持った容姿なんて、選んで何かになれるものじゃないわよ。

突っ込む間もないくらい、怒涛の勢いで、彼は言葉を続ける。

「聞いてほしいことがあるんだ」

言った傍から、


「いやなんでもいいから話してくれよ」

と来た。立て続けに、


「でも一番は」


続けようとして―――――不意に、寸前までの調子を断ち切って、独り言めいた浮かれた声で呟く。

「どうしよう? どうしようか? …ああ、なんて」

喜悦、と言うには不穏な響きで、その言葉は紡がれた。






「奇跡だ」






―――――ドッ!


刹那、私の頭上から、何か重い音が聴こえる。

「…アイゼンシュタットさま!」


リタが、悲鳴に近い声を上げた。次いで、デーニッツくんの警句。



「逃げろ、ヘルリッヒ!」



その時には。

私は、顔を上げてた。何が起こったかを、目に映す。


庇うように前に立ってくださってたテツさまの、右肩付近で、何かがひかった。




―――――刃、と理解するのはすぐ。




食い込んでる。でも、切り裂かれてはいない。とはいえ、私の全身から血の気が引いた。


だって、テツさまは、わざと受けた。避けなかった。私が、背後にいたからだ!


「はははははっ、すげえ、さすが悪魔だ、…腕を落とすつもりでいったのに!」

私は奥歯を食いしばる。何か、ないかしら。何か、方法は。


このまま守られっぱなし、やられっぱなしは、真っ平よ。




「そちらも、さすがだな」

テツさまの声は冷静。冷静に、―――――青年を蹴飛ばした。いえ、でも。


寸前で、彼は後ろに飛んでた。そのことで、幾分か、勢いが殺される。構う様子もなく、テツさま。




「この身に傷をつけられたのは、何年振りか」




いつ抜刀したのか。


剣をだらしなく下げ、青年は、栞の魔法陣の向こう側で、にやり、笑う。



「こっちも、身体に攻撃が通ったのは、何年振りかねぇ」



愉し気な呟き。すぐ、恫喝みたいな声で、






「邪魔すんなよ、天魔は楽園のモノだ。連れて帰る」






一度も言ったことのない場所を、故郷なんて言えないわよ。


私の反論より先に、彼は自分勝手な言葉を続ける。

「いいだろ、オレ様が幸せにしてやる」

嘘だってはっきりわかる顔で言うものじゃないわね。

「…確かに、ミアは幸せになるべきだ」

いきなり、テツさまは首肯。

「だろ?」

青年は上機嫌に、だったら、と続ける。その言葉にかぶせるように、

「だが」

テツさまが言葉を続けた。



「幸せにするのは、俺だ。他には許さない」


断言。厳格に。






冷静になって思い返し、とんでもないことを言われたと自覚が追い付いたとたん顔の火照りがしばらく抜けなくなるのは後の話だ。






今は目の前の、肩の傷が気になった。どれだけ深いのかしら。

指には細い血の筋が伝ってた。やがて、指先から、結実した赤い雫がこぼれ落ちる。


―――――五大公家の人間が傷つくなんて光景、滅多に見られるものじゃない。


これは、私に責任の一端がある。そもそも、逃げ隠れなんて性に合わない。

なら?






「…誰も、行かないなんて、言ってないわ」



私は静かに声を放つ。


聴こえてるかしら?






「ミア?」

どうするつもり、ってリタが私を一瞥する。私はただ、頷き返した。


答えになってないって、顔をしかめられる。でも仕方ないじゃない。今は。





―――――すぐ、見せてあげる。答えなら。





私はテツさまの後ろから出る。必要なのは。

自信に満ちていること。悠然と。


「おい、ヘルリッヒ」

デーニッツくんが咎めるみたいな声を上げた。構わず、テツさまの横をすり抜ける。

通り抜けざまに、誰にも気づかれないよう、彼の手の甲にそっと触れた。


私が何かを決めて動く時、テツさまは決まって何も言わない。




黙って見送る。意識を凝らして。何かが起こった時、真っ先に正しく動けるように。




私はまっすぐ、青年を見遣った。


とたん、彼はわずかに肩を引く。動揺したみたいに。明るい色の瞳が、揺らいだ。

その動きに、怯えが見て取れた。怯え。何に。すぐ、答えが閃く。




彼は、疑ってるんだ。夢を見てるんじゃないかって。


私と接触することで、その、夢が。


…破れることを、恐れてる。




付け入る隙があるなら、そこだわ。私は歩を進めた。

「悪いけど、私に記憶はないわ。天魔としての記憶は」

試す気分で、告げる。


「それでも、連れていきたい?」

青年は唇を引き結んだ。何かをこらえるみたいに、顎を引く。



「…そういう、言い方」

彼は、私から目を逸らさない。彼だけじゃない。皆の視線を感じる。その中の、果たして何人が気付いてるかしら。


私がこれから、何をしようとしてるか。


「間違いない、アンタなんだな」



彼はまだ、この現実を夢とでも思ってるのかしら。対話が成立してない。

私の質問に、彼は答えなかった。


それくらい、大きな隙があったからこそ。


私はこれからの自分の行動に、成功の自信があった。もちろん。

油断は禁物、だけど。



「天魔である以上、楽園には行く必要があるわね」



私は何気なく、手を伸ばす。指先は、彼に向かった、と見えたかもしれない。

でも、私と彼の間には。


―――――魔法陣。





「ちょっとミア!」





危ない、と警句を上げたのはリタ。仕方ないけど、ほんとは黙って見守ってほしかった。

青年のオレンジの目が瞬く。

夢見心地だった眼差しに、いっきに冷静が戻った。時間がない。


「でも、それは」

私はもう装う余裕もなく、がむしゃらに魔法陣へ、正確には、栞に向かって手を伸ばした。


背伸びして、両手で左右から二枚を包み込むように。






デーニッツくんの指先は、仕掛けに届かなかった。だから皆、思いこんだ。なら、他の誰も無理だって。私も含めて。でも。


―――――…本当に、そうなの?






栞に伸ばしたわたしの、手は。指先は、…弾かれなかった。

ごく自然に、栞に触れる。


「今じゃないわ!」


何をどうすればいいか。

言われるまでもなく、私には理解できた。






―――――これを与えたのは、天魔の楽園の住人。


なら、私にも見覚えのない、この魔道具はおそらく楽園のシロモノ。即ち。




天魔の、玩具。




いつの時代のかは、分からないわ。でも何を考えて製作者がこれを作ったか、私には手に取るように分かった。

これは天魔の記憶。


それが促すまま、栞を掴み、私は。

間髪入れず、捻るように、左右の上下を逆向きにする。

もともと。




一方の魔法陣は正しい向きにあったけど。

もう一方は、逆向きだった。その上で、真ん中にあった第三の魔法陣が展開したのなら、どうすればいいか。


―――――単純な話よね。




間近で、青年の目と私の目が合った。

彼は声なく笑う。唇の端がつり上がった。怖い。だが、これは単純な恐怖と言うより。




正気を失った飼い犬に、どう理性を取り戻させたらいいか。


その道が見えない困惑と言ったほうが近いかもしれない。




「ああ、そういうところも」

たまらない、と言いたげな掠れた口調。つい、叱りつけるように睨みつける。

頬に彼の手が伸びてきた。



「隅から隅まで、アンタだな」



間近で、バツン、と繊細なものが複雑に弾けた音。

と思った時には、私は背中から誰かに引き寄せられてた。そのまま、腕の中に包み込まれる。テツさま。



姿勢が崩れる寸前、私の掌の内で、栞が青白く燃え上がった。



熱くはない。でも咄嗟に手を離した私の目に。

青い炎を通して。

青年の顔が、見えた。


目の端で、彼の掌の肉が裂けてるのを捕らえる。

それを横目に、見て。なにもかも嘲るようだった青年の顔に、はじめて。




「―――――…忌々しい、悪魔が!」


憤怒が燃え上がった。




けど、彼が動く寸前。唐突に、彼の姿は消えた。鼻先で扉が閉じたみたいに、いきなり場の空気が切り替わる。

…しばしの沈黙。



「あ、ちょっと悪いけど」



真っ先に、間の抜けた声を上げたのは、リタ。たまりかねた、って勢いで、その場に座り込む。

「アタシはしばらく図書館で休んでくよ。…すぐには動けそうにない」


デーニッツくんは脱力したみたいに、大きく息を吐きながら、降参するみたいに両手を挙げた。

「右に同じ」

二人の間で、件の男子生徒は、虚ろに立ち尽くしてる。逃げる様子はなかった。

私はぼんやりと、でも無視できない赤色を見つめながら呟く。


「…テツさま、治療を」


どうやら危機は去った、けど。

上の空で、低く、テツさまは仰った。


「どうやら、楽園が機能を始めたようだ」









ねえ、聞いてくださるかしら。


楽園って言葉で天国を想像してた私の憧れを今すぐ返してほしいわね…。








あ…げす男さんの名前…。


読んでくださった方ありがとうございました!

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