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32.かくして、精霊は望み、天魔は




―――――聞いたことがあるわ。

天法に作用する力のある石板が、<塔>管理下にある遺物の最上階に保管されてるって。


それに刻まれた知識はこの世から永遠に奪われる。


レティシア女史の両手首にあるブレスレットが微かに振動。―――――キィン、と音を合わせた刹那。

ジスカールさんが慌てたように腕を伸ばした。

「ま、待って! 知識が奪われたら、現状に対処する方法が」


「っと、あっぶね!」

横からエクトル少年がジスカールさんの腕を掴んで止める。ジスカールさんがレティシア女史に触れる、ほんとにぎりぎりのタイミング。



「アンタ何してんだ!」

「なぜ止めるのですか!」



意外。怒鳴られたら身を竦ませるかと思ったけど、ジスカールさんは真っ向から怒鳴り返した。エクトル少年は、これだからお嬢さまは、ってやりにくそうに頭を掻く。

「これは途中で止める方がやばいんだよ、脳の領域――――記憶に干渉すんだから、失敗すりゃ廃人だぞ!」


って、そんな危険なこと、仕掛けたわけ!?


レティシア女史…まともそうだけど、この方も大概だわ。ジスカールさんは蒼白になった。その、間に。

レティシア女史の指から力が抜けた。チェンバースさまがその場にへたり込む。呆然とした顔で、女史を見上げた。

彼女は冷静にチェンバースさまを一瞥。チェンバースさまに異常がないか、さっと確認したって雰囲気ね。


彼女は、表面上は何も感じてない様子で、すぐ大精霊さまを振り向く。

「いかがでしょう」

落ち着き払って、尋ねた。すぐ、言葉を重ねる。



「これで二度と、精霊たちに危険な香が作られることはございません」



言い放つ女史は、傲然と、構えているようで。

「人間に危害を加えることは、…もう、これ以上はおやめ頂けませんか」


肩が震えてた。…彼女にしても、これで大精霊さまと交渉できるなんて、確信は持てない賭けなんだろう。


でも、想像もしなかったことだけど、レティシア女史が今したことは、確かに大精霊さまの望みに添うんじゃないかしら?

チェンバースさまの知識が天法の石板へ禁忌として転写されたなら、もうこの世の誰もそれを扱うことはかなわない。


今回みたいな方法で、精霊たちが害されることがないのは、大精霊さまの望みの一つであるはず。…だけど。


―――――それで許せ、と?

応じた大精霊さまの声は、まだ底知れない何かに満ちてた。応じるだけの心の余裕ができたようなのは、僥倖だけど―――――きっと、ここに現れる前に、誰かが宥めてくれてる気がした―――――これじゃ取引以前の問題。



―――――傲慢よな。もうなにもかも、…取り返しはつかぬわ!



跳ね上がった声に、私は直感。来る。


でも、へたにテツさまやシルヴィアさまに助力を乞うことはできなかった。

彼らじゃきっと、大精霊さまを叩き潰してしまう。完膚なきまでに。


それは困る。だって、大精霊さまと交渉したいって言うのは、私も<塔>と同意見。


ひとまず、私の希望は、話し合いができるまで、大精霊さまを落ち着かせること。

その助力を、テツさまとシルヴィアさまに求めたい。



そのためには、何をすればいいか。…何もしないで、私の希望通りに動いてもらうのは、無理ってものね。だったら。




意を決し、私はテツさまの影から飛び出した。


「どうか、お願いします!」




私は、声を張った。何人かが、びっくりして私に注目する中で、全力で駆け出す。

ためらわず、攻撃態勢に移った大精霊さまへ向かって。


大丈夫。




ベルシュゼッツ公国から、魔導大国グランノーツまで、わざわざ私を引っ張りこんだのは大精霊さまだわ。この方は、私を殺したりしない。で、あれば。




―――――な、何をしておるか!

飛び出した私に、大精霊さまが泡を食った声を上げた。


テツさまの背後にいた私に気付いてなかったみたい。意表を突けたわ。身長差、万歳! はじめて感謝した。

棘だらけに練り上げられた大精霊さまの魔力が、危うく引っ込められようとする。


「次に続く道を、叩き壊すんじゃなくって!」

でも、うまくいかないみたい。破裂しそうになる。それでもぎりぎり、踏ん張った。…ふんばった、けど。―――――いくつか、取りこぼした。



―――――逃げよ!



いえ、その必要はないわ。だって。

それは私に触れる寸前、





「消えろ」


一瞬で『分解』された。…この、とんでもないことやってるのに、とことん目立たないやり口は、テツさまで間違いないわ。

さらには、私を通り越してった魔力の矢は。


「まあ、―――――…ぬるいこと」

盾みたいに展開されたシルヴィアさまの魔力で、ことごとく下方へ弾き返された。地面を穿つ。


この、穿たれた地面の深さをあとで確認した時、血の気が引いたわ。


直撃してたら、全身穴だらけだったわね。





仮にも、大精霊さまのお力。それを簡単にいなしてしまったテツさまとシルヴィアさまが規格外なだけ。


レティシア女史は唖然。エクトル少年はなぜか、目を輝かせて興奮気味。

でも、このときはそんなこと、意識の外にあったわ。


大精霊さまらしき、金の鱗粉に向かって、私は手を伸ばす。


大精霊さまが、人からされた仕打ちを許せ、なんて言わない。もちろん、許さないままでいい。何があったのか、私は知らないけど。




でも一部が壊れたからって、全部を壊すなんて、まだ早まらないで。




「未来への道を作る方法を、一緒に考えてください!」


壊れたとしても、なおすことはできるわ。それを行う意志さえあれば。

私の精霊たちが、楽し気に笑ってる。なんだか私を肯定してくれてる心地になった。背中を押された気分で、私は。


大精霊さまに、飛びついた。


冷静に考えれば、鱗粉を抱きしめるなんて、できっこない。

でも、なんとなく感じ取ってた。この、中に。一つの形が隠れてる。―――――案の定。


確かに質量がある何かを、ぎゅうと胸の中に抱きしめた感覚が、腕に返った。と感じた刹那。



『むちゃを、するでない…っ』



霧が晴れるみたいに、黄金の鱗粉が霧散する。あとに、残ったのは。

『…いや、これが、そなたか』

私にされるがまま抱きしめられてる幼子が一人。


髪は、白銀。長いそれは頭の左右で丸くまとめられ、その端々に花が飾られてた。

…ううん、これ、もしかして髪に根付いて咲いてない? しかも、身体のところどころから葉っぱや枝が生えてる。その姿は。



恐れるべき異形、というより、―――――気高い神秘に満ちてた。



腕の中から見上げてきた顔は、本当に、愛くるしい。ふわふわの小動物みたい。

『一緒に考える、と言うても』


人間とは違う、不思議な虹彩の目が、じっと私の目に焦点を当てた。



『眠った同胞は、もう目覚めぬ』



不思議なことに、私たちは水の上に立ってる。足元には、金色の魔法陣が輝いてた。

『その魔素を吸った同胞もな』

言われて、思い出す。さっき、言えなかったこと。




そうよ、私は聞きたかったことが二つあったの。




ひとつは、チェンバースさまが使用した薬草の生産地。

そして、もうひとつ。


「そのことで、お聞きしたいことがあるんですが」


私は大精霊さまを腕から解放した。とりどりの色をまとう幼子を前に、膝をつく。

目の高さを合わせ、不思議に思ってたことを尋ねた。




「なぜ、私の精霊たちは、眠らないんですか?」




この国に入ってしばらく経つんだから、問題の魔素はしっかり吸ってるはず。

なのに、この子たちは至って元気だ。わちゃわちゃ賑やか。どうなってるの。


そう言えば、私の精霊は元気だ、と最初に言った時、大精霊さまは何かを言いかけたっけ。途中で邪魔が入ったけど…。


この質問を後回しにしたのはね、問題解決の役に立つものというより、個人的な話に過ぎない気がしたからよ。

でも、あとから思えば。



これを、真っ先に口にすれば、問題はもう少し早く片付いたかもしれなかったわね。



『それは』

言いさした大精霊さまは、一瞬口を開けたまま固まった。何かに気付いたって風だけど。


慌てて両手を胸の高さに上げ、見下ろす。かわいい眉間にちいさなしわが寄った。



『…これは、どうなって。いやまさか』



ひとりで、何を理解したのかしら。脱力したみたいに、その場で座り込んだ。






『即ち、そなたの魔素が、すべての魔素を上回るということか』






はい?

「あの、大精霊さま」


小さな体がさらに小さくなったように感じながら、心配半分、私は尋ねる。

「もう少しわかりやすく説明してくださると助かるのですが」


できるかなー、とつい小さな子供に話しかける感覚で声をかけた。とたん、ぷっと頬を膨らませた大精霊さまが顔を上げる。



『そなたが規格外とは知っておったわ、だがここまでとは思わなんだ!』



何か怒ってらっしゃる。ごめんなさい、でも、だから何の話?




「へー、あれが大精霊?」

エクトル少年の物言いに、私は内心、さらに首を傾げた。彼、精霊は見えないはずよね。

でも、今の大精霊さまは見えてるのね? もしかして、今の大精霊さまのお姿なら、誰にでも見えるってことなのかしら。


テツさまとシルヴィアさま、騎士さまとそれぞれ視線を巡らせれば。



見えるって意思表示が返ってきた。すごいな、大精霊さま。



「もしかして、あのちびっ子も五大公家なのかよ?」


忘れるな、エクトル少年。聴いてるキミも、この場でちびに含まれてる。


でも今、彼が上げたちびって私のこと?

レティシア女史が失礼よ、と前置きして、


「詳細は聞いてないわ。<塔>が把握してる情報は」

少し、安全が目に見えてきたせいか、深いため息をこぼす。



「残された転移門を通じて、ベルシュゼッツから大精霊が奪った何かを追って、五大公家の子息が三人も動いたってことよ」



…三人? テツさま、シルヴィアさま、―――――それから?

本当に、素で疑問に思った直後。


少し前の記憶が、私の脳裏をよぎった。


たちまち、私の全身から血の気が引いた。弾かれた気分で立ち上がる。

「そ、そう言えば、シルヴィアさま」

さび付いた人形みたいな動きで、私はその場にいるだけでまばゆい淑女を振り返った。




「ゼンさまは、転移門の…維持を?」




まさか、今、この時も? シルヴィアさまは、にっこり。


「もちろんですわ、真名を通しての命令ですもの。やり遂げますわ。撤回されるまで」

頭を抱えて蹲っても、いいかしら。その欲求を、根性で堪えた。

命令って。―――――難しいぃ…。

私は魂まで抜け落ちそうなため息をついた。


大精霊さまは、その間にも私をもの言いたげにじぃっと見上げ、




『…我が何を言いたいか、分かっておるかの?』




そんなふうに仰る。これ、素直に答えていいのかしら。悩む私に、大精霊さまは半眼になった。

『…これ、チェンバースの小僧』

疲れたような声を出し、頭を振り振り大精霊さまは立ち上がる。


「あ、は…はい!」

力なく座り込んでたままだったチェンバースさまが、呼びかけに、反射みたいな動きで跪拝の姿勢を取った。びっくりの素早さだわ。

『樹海の精霊たちが元気になってきた様子から、あらかたの推測は立っておろう』

元気になってるようなのは、いいことよね。また追われるのは困るけど。


大精霊さまが、周囲を確認するみたいに顔を巡らせる。




『説明せよ』




「…あ、し、しかし」

眼鏡の奥の目に、未だ冷めやらぬ混乱が見えた。それに、大精霊さまはお怒りだったはず。

何より先ほど真っ先に、彼を始末しようとした。…そんな、大精霊さまがチェンバースさまに声をかけ、説明を、と求めたわけで。


混乱も、当然よね。でも、



(私にはさっぱりだけど、チェンバースさまには、精霊の状態の理由が推測できてるのね?)



「僕には肝心のところが見えません。なぜ」

臆したような目が、私を映した一瞬、燃えるような好奇心で輝いた。




「彼女―――――ミア・ヘルリッヒ嬢が連れている精霊がここまで影響するのか」




言うなり。

「―――――…ミア・ヘルリッヒっ!?」

レティシア女史が叫んだ。最初の絶叫もかくやの声量。両耳をおさえ、エクトル少年が叫ぶ。

「うっせーぞおばさん! みゃーがなんだってんだっ」

みゃーじゃなくて、ミア…いえ、いいわ。


私のツッコミより、レティシア女史の拳―――――平手じゃない―――――の方が早かった。

「その脳みそに情報を記憶させるのは直接書き込んだ方がいいのかしらねっ!?」

拳骨の落ちた頭を両手で抱えたエクトル少年の耳元で、レティシア女史は驚きの声量を叩きこむ。

そばて見てたジスカールさんが、怯えてびくっと肩を揺らした。対してシルヴィアさまはなにやら興味深そうにしげしげ双方を見つめてる。

…どこかで実戦とかなさらないでね?


「数日前の朝礼で聞いたでしょう、ベルシュゼッツ公国が公表した、当代の天魔の名」

彼女は頭痛を覚えたみたいに、眉間を押さえる。

「それが、ミア・ヘルリッヒよ」

聞くなり。



チェンバースさまの顔が、霧が晴れたみたいに晴れやかになった。




「それだ…それが、鍵だ!」




立ち上がって叫び、いきなり駆け出す。私に向かって。

なに…っていうか、何かわかったなら先に教えてほしいんだけど!

「お願いだ、助けてくれ、虫のいい願いだと、わかっている、がっ!」


助ける? 意外な台詞に、私は面食らう。


その視界の先で、こともあろうに。―――――騎士さまが反射みたいな動きでチェンバースさまに足を引っかけた。

はい?



たまらず、チェンバースさまは顔から地面に突っ込む。さすがに、今度は眼鏡が割れる音が上がった。それを見たジスカールさんが悲鳴みたいな声を上げる。



「無体をなさらないでください、騎士さま!」 

チェンバースさまに駆け寄る彼女を横目に、騎士さまはバツが悪そうに頭を掻いた。

「いや、こっちとしちゃ、…チェンバ-スの坊ちゃんを守ったつもりなんだがね」


騎士さまはちらとテツさまを見遣った。テツさまは、感情のない目で、ジスカールさんに助け起こされるチェンバースさまを見下ろしてる。



私、冷静に思った。あ、これは、危険ですね。



騎士さまをつけてくださったんだろう宰相さまに、感謝します。見返りは怖いけど。


とにかく、今は。

私は、深呼吸。落ち着くのよ、私。



「チェンバースさま、何に気付いたかは分かりませんが、先に説明をお願いいたします」



鼻をおさえ、不思議そうに顔を上げたチェンバースさまに、私は根気よく言った。

「先ほど大精霊さまに言われたじゃありませんか。説明せよ、と」

とたん、チェンバースさまはあまりにはっきり、表情で語る。忘れてた。って。殴っていい?


「…すまない、そうだな、それが先か」

それとも、彼にとってはここまで聞けばあまりに自明で、説明の必要を感じないってことかしら。

たとえば、魔導大国の、それも精霊が見える方には簡単にわかるけど、そうじゃない人間には理解できないってことが、ある?


もしかすると、私には、その手の情報が欠けてるんじゃないかしら。

でも見た感じでは、ジスカールさんも私の精霊が元気な理由は分からないみたい。

そもそも、最初にそれはどうしてって聞いてきたのは、彼女だわ。



なら、チェンバースさまにしか分からない何かがあるってこと…そうよ、彼は。





精霊医。





ある程度、疑問点に察しはついてたみたい。

チェンバースさまは真っ先に、その点を口にしてくださった。



「キミの精霊たちは、キミの魔素を吸ってるんだ」



…へえ。そうなんですか、私の、魔素、を。―――――うん? ちょっと、待ってください。

「魔素を人間が生み出せるんですか…?」

聞いたことないけど。チェンバースさまは何をいまさらって顔で、首を傾げた。






「キミは天魔だろう」






―――――…ん゛ん…っ?


確かに、天魔と言えば魔素だけど、え、天魔の魂を持つ者の身体って、『そう』なの?







「大地は魔素を生む。そして、この世の大地は、天魔の肉体に見立てられている。即ち、神話の時代の天魔の肉体は、魔素を生んでたんだ。なら、代々の天魔もまた同じ」







チェンバースさまは確信をもって断言。…言われてみれば筋は通るような…?

だけど、私に実感はないわ。だいたい、


「最近まで、私には魔力がないと言われてたくらいなんですけど」


つまりそれは、魔素を取り込む力がないってこと。

魔力の根源は魔素だから、魔素を変換して魔力に変える力がなければ、魔術も魔法も使えないってことなのよ。


でも身体が魔素を生むなら、また話は別よね? …無敵な気がする。


「それは精霊が、魔素を消費してたからだろう」





魔素を、消費…あれ、でもそれって、問題、あるんじゃない?

魔素は魔力に変換され得るものだけど、働きはそれだけじゃない。この世の人間の成長にも欠かせない一部であって。


いえでも、生み出してるのが私自身の身体だとすれば問題、無いのかしら。

待って…なんだか重要な話じゃないの、これって?



魔導大国にという以前に。―――――私にとって。





「ええと、精霊たちは、私の魔素だけで大丈夫だったんですか」

「もちろん、キミの周囲の魔素も取り込んでたろうね」

ひび割れた眼鏡があると逆に視界の邪魔だったのか、チェンバースさまは困った顔で眼鏡をはずした。



「そのせいで、キミの成長がどこか阻害された可能性はある」



まさか…―――――身長?


い、いえなにも、すべてが精霊のせいなんて、そんなわけないけど。


そうよそれは、今重要なことじゃないわ。


今…今は…くっ…すごい落ち込むし、気にはなるけど!


私は根性で、チェンバースさまの話に耳を傾ける。

「精霊にとって、魔素は人間にとっての食事と同じ。ただ、そうだな、精霊が…グランノーツにしか生息しない理由は知っているかな」

私は首を横に振った。と、シルヴィアさまが手を挙げる。


「代わりに、わたくしが。グランノーツ以外の場所の魔素が精霊に合わないからと書物で読んだ記憶がございますわ」


「仰せの通りです」

チェンバースさまが深く頷いた。

「グランノーツ以外で、精霊が自然発生するわけもないから、キミの精霊はもともとグランノーツの精霊に違いない。なのになぜ、ベルシュゼッツでキミと共にあるのか? 気にはなるけど、今そこは後回しだね」


彼は、仕方なさそうに肩を竦める。




「なんにしろ、彼らに他の地の魔素は合わない。苦肉の策として、キミの精霊はキミから魔素をもらい始めたんだろう」




…そう言えば。

この間、ジスカールさん、変なこと言ってなかったかしら。確か私の精霊が増えてるって。

それって、まさか。


「そして適合した。即ち、天魔の魔素に。キミの周りの魔素も、キミが触れたものなら、摂取しても大丈夫だったんだろう」






一時、回りにくくなった頭で、情報を整理。

今のチェンバースさまの言葉と、さっきの大精霊さまの言葉を合わせて考えると、…自ずと道が見えてくる。

私の精霊たちは、私の魔素で構成されてる。即ち、天魔から直接魔素をもらい続けたってこと。さっき、大精霊さまはなんて仰ったかしら。


―――――天魔の魔素は、すべての魔素を上回る。

「…つまり、もう香が使用されないのなら」

私の精霊は、魔素からの感染の影響を受けない。逆に、他の魔素に干渉できるってことよね。それなら。


「私の精霊たちは、眠ってしまった精霊たちを起こすことが、できるのですか」


「可能性が、ある。いや、樹海の精霊たちの状況を見るに、…おそらくは」






ただ、チェンバースさまは、絶対とは言わなかった。


「だから、協力を頼みたい。キミの、…いや」

その場に膝をつき、チェンバースさまはいっさいの躊躇なく、頭を下げる。






「ここに、ギデオン・チェンバースが、心よりお願い申し上げる」


もう、ほとんど土下座だ。






傍から見ていたエクトル少年が、ギョッと息を呑む。狼狽えたように声を上げた。

「お、おい、貴族が、なにもそんな」

自分勝手な少年だけど、基本的に、人はいいのかもしれないって反応。

「しっ」

すぐ、隣にいたレティシア女史が鋭く嗜める。

「邪魔しない」


「けどよ」



「…必要な儀式、みたいなものよ、これは」



そうね、だから。

私も、狼狽えるわけにはいかないわ。内心、どれだけ、止めてほしいって思っててもね。





「天魔。あなたの精霊たちを、魔導大国グランノーツ全土にはなって頂けないだろううか」


平たく言えば、チェンバースさまはこう言ってるのよ。

私にくっついてる精霊たちを、この国にくれって。





でもこの子たちは、私のモノってわけじゃない。

他と区別をつける意味で、便宜上、『私の』って呼んでるけど、精霊たちは本来、自由な生き物だわ。束縛はしない。


つまり。

「チェンバースさま」


私は彼の願いを受け止めた上で―――――重くて、すぐにも放り出したいけど、そうもいかない―――――間違いを指摘する。




「乞うなら、私ではなく、この子たちに直接お願いします。私は彼らを束縛していません」




チェンバースさまはびっくりしたみたいに、顔を上げた。すぐ、表情を歪める。

「そうだ…そうでした。僕は、基本的なことすら、忘れていたみたいだ」

精霊は、所有できる存在じゃない。彼らが寄り添ってくれるのは、彼らの好意からだ。


チェンバースさまは改めて、頭を下げた。

「お願い、します。どうか、…助けて、ください」

その隣で、我に返ったみたいに、ジスカールさんも、頭を下げる。

「どうか、力をお貸しください!」


…そうよね、彼女は最初から、精霊を、この国を、案じていたわ。解決策が見えたなら、そこに全力を注ぎ込むでしょうね。


精霊たちは、…どうしたのかしら。私を窺ってるみたい。




―――――もしかして、私を案じてくれてるの?




思えば、彼らの存在に私が気づいたのは最近だけど、この子たちは、…おそらくは、母が魔導大国を出奔するときから、一緒にいたわけよね。

誰も言明しないけど、聞けば聞くほど、そうとしか思えない。


見えなくても、小さな頃から一緒だった…魔素に関しては、思うところはあるけど。


「ねえ」

私が存在に気付いていなくても、見えなくても、ずっと寄り添っててくれたのね。



「あなたたちは、どうしたいの? 協力、したい?」



感謝してる。離れるのは、寂しいとも思う。でも、もう私は大丈夫よ。

ありがとう。


グランノーツでしか存在できない精霊が、国を出る母についてく覚悟を決めるなんて、どれだけ重い決断だったのかしら。私たち母子についてくる。それが、彼ら自身の判断だったのか、他に理由があったのか。そこまでは、分からないけど。



…もしかして、セルラオ卿が頼んだ? …まさか、ね。



私が尋ねると、精霊たちが、めずらしくもじもじと返事をした。



―――――はーい。



最初は小さかった肯定の声が、だんだんと大合唱に変わってく。

何が楽しいのか、樹海の精霊たちまで意味も分かってないのに肯定の声を合わせてきた。


チェンバースさまが目を瞠る。顔を上げ、周囲を見渡した。さっきと似た反応。でも今回のは意味が違う。

彼と目を合わせ、私は頷いた。


「では」

毅然と背を伸ばし、私は言葉を続ける。




「大精霊さまをはじめ、魔導大国グランノーツの貴族、シャーリー・ジスカールさま」




一人ひとりに目をやりながら、私は名を挙げていく。

「五大公家のテツさま、シルヴィアさま」

すべてにいっさいの興味がない風情で佇んでいたテツさまが、私を見た。シルヴィアさまがにこにこと顔を上げる。


「及びベルシュゼッツ公国の騎士アンガス・バルヒェットさま、―――――加えて、<塔>のお二方」

なかなか、そうそうたる顔ぶれよね。しかも、多様な立場の方たちばかり。これならかえって、成り行きを偏った視点で見られる心配はないわね。


「全員を見届け人として、お約束します」

片手で胸をおさえ、最後に真っ直ぐチェンバースさまを見つめた。



「私の精霊たちを、グランノーツ全土へ放ちましょう」



と、格好つけて頷きながら―――――どうやるのかしらね、それ。分からないわ。

それに、この場でそれを決定しちゃったとしても。…大きな問題が一つあるわよね。



―――――国の重鎮から許可を取らなきゃ。でしょ?



精霊たちを放つにしても、やるって言ったからには、まずはそこからだわ。

言ったはいいものの、内心、私が頭を抱えた刹那、大精霊さまが大きく声を張る。



『見事な見立てだ、ギデオン・チェンバース』



褒め称えるようで、その瞳は厳しかった。とたん、得心が行く。ああ、そうか。

『さすがは、魔導大国グランノーツの精霊医。今後も一層、精進せよ』


説明せよ、と大精霊さまは仰ったわね。…試したんだわ。チェンバースさまを。


精霊医としての技量は本物か。精霊たちを苦難から救いたい熱情は本物か。あらゆる点で。

結果、―――――チェンバースさまは合格、だったみたいね。

不合格だったら、どうなってたか。あんまり、想像したくない。


「では、ミア」

テツさまが、私をエスコートするみたいに、手を指し伸ばしてくださる。

「転移門の前へ戻るぞ。そこに、王をはじめ、国の重鎮が勢揃いしていた」



あ、もしかして。

あの、五つの塔のことかしら。転移門って、塔に設置されてたのね。はい、と私はテツさまの手に自分の手を重ねた。互いの指輪が一瞬重なり、カチン、と音が鳴る。



「ですわね。おそらくまだ、あの場から動いていらっしゃらないはずですわ」


シルヴィアさまが頷いた。騎士さまが剣の柄に手をかけ、唇だけで笑った。

「随分、もめてましたからね。確かそこに、チェンバース卿もいましたっけ」


『…きちんと片を付ける必要がある。そこの、悪魔と天使』

何を察したか、大精霊さまがいやそうに手を横に振る。


『そなたらの力は強すぎる。否、正確には、――――異端すぎる。ゆえに、手出し無用。我が全員を転移させよう』


言い切るなり。

―――――いきなり、肌に当たる空気が変わった。

森の中特有の、湿気に満ちた青臭い空気が、冷たく乾いた風へと。




「やあ」




顔に当たった風の強さに、咄嗟に目を閉じた私の耳に、優し気な声が届いた。

「おかえり」

気さくで温かだけど、どこかに棘を隠した気配のある呼びかけ。

誰の声か、振り向かなくっても分かる。


「…ゼンさま」

顔が引きつるのを必死にこらえ、表向き平然と私は言った。

「もう少しだけ、お願い致します」


「ああ、こっちを気にすることはないよ? …なにせ、残念なことに」

ゼンさまが、珍しく不満そうに言葉を紡いだ。



「誰も転移門を壊そうとしなかった。なんでだろうね?」



五大公家の方々は、基本的に好戦的よね。


こちらで何事もなかったなら、結構なことだわ。

おそるおそる顔を上げれば。


はじめて見る方たちが大勢、こっちに注目してた。…当然よね。


大精霊さまの転移で現れた上に、五大公家の人間が二人も混ざってるんだもの。

素早く目で確認すると、あの場にいた全員が連れて来られてた。あれ、でも。


「…大精霊さま?」

私のすぐ足元で立ち尽くしている小さな子供に呼び掛ければ、愛くるしい顔がこちらを見上げてくる。

「私の精霊たちは」

そう、精霊たちがいない。そんな気がするのよ。見えないけど。


『…この場にはの』

大精霊さまがほとんど唇を動かさず、小さな声で応じた。




『まだ、あるのだ』




何が、と問うまでもない。そうだ。ここにはまだ、あるのだ。―――――いる、のだ。

問題の香を持った、人物が。


すぐそばでその言葉を耳にした<塔>の二人が身構える。




「これはこれは、大精霊さま」




向こう側の集団の中で、真っ先に進み出てきたのは、

「交渉は成立と考えてよろしいですかな」




<塔>の黒い制服を着た壮年の男の人だ。

無精ひげ。

眠そうな垂れ目。

よれよれの制服の上に、よれよれの外套を羽織ってる。



目の下のクマから漂う濃厚な疲労感に、真っ先に、大丈夫ですか、と心配が浮かぶ。



「いえ官長、それが」

応じない大精霊さまに、レティシア女史が戸惑いの目を向けた。

大精霊さまは無言で私のそばに立ち、私のスカートを小さな拳で握りこんでる。


「件の一件は天法の石板に間違いなく転写致しましたが、それのみでとどめることはかなわず」




「―――――ギデオン!」




レティシア女史の台詞に、実際に鞭打つより鋭い声が割り込んだ。そばにいたチェンバースさまが身を竦める。

「すべて聞いたぞ。とんでもないことをしでかしたものだ。命をもって贖え!」


向かいの集団の中に、片眼鏡の男の姿が見えた。

とたん、彼のそばにいた従者らしい青年が一人駆け出し、抜刀。それを無視する勢いで、目を輝かせたエクトル少年が高らかな笑い声を上げた。




「見―っけ! 燃えちまえ!」


この子、天性の放火魔だわ。




いきなり、片眼鏡の男の人の外套の中に火炎が発生―――――怒声、悲鳴、呆れ、そのすべてを含んだ声が、そこここから上がった。

彼を含めた周囲で、咄嗟に、複数の鎮火の魔術が展開する。


即ち、水の魔術が彼目掛け、いっせいに放たれたわけで。


当然の結果として、晴れ渡る空の下、チェンバース卿がずぶ濡れになる。その足元に、焦げた小さな香炉が転がったのと同時に、



「まあ落ち着きなって」



騎士さまの飄然とした声と共に、甲高い、鋼がかみ合う音が蒼天に跳ね上がった。直後、私たちから離れた場所に、一本の剣が突き立つ。

その時には、チェンバースさまの前に立った騎士さまが、手にした剣の切っ先を、さっき馳せ寄ってきた従者の青年の首筋に突き付けてた。




「<塔>はいったい、子供にどういう教育をしている!?」




片眼鏡の男性―――――おそらくはチェンバース卿の怒声に、エクトル少年は悪びれた様子もない。

官長と呼ばれた<塔>の職員の方は、さして恐れ入った様子もなく両手を上げた。彼は眠そうに、


「同じ言葉をお返しします」


痛烈な、一言。



いや、ちょっと、待ってください。落ち着いて。



出会い頭に、ここまで混沌状態になるとは思わなかったわ。驚いた直後、






『静まれ!』






大精霊さまが上げた声に、打たれたように全員が口を閉ざした。


「なあなあギデオン」

一人、空気を読まないエクトル少年が、チェンバースさまを平然と呼び捨てにしながら見上げる。

「あれでラスト? もしかしてまだあんの?」

一瞬、何のことかと思ったけど…あの、お香のことね。


さっきはそれを燃やした、と…いや、でももう少し、方法は考えてほしいところ。


唖然とした隙を突かれたチェンバースさまが、狼狽えたまま素直に答えた。

「まだ、ある。…だろう。おそらく、父上の、部屋に」



「よっし、チェンバース邸だな、任せろ!」



誰も何も任せてないと思うわよ? 誰かが止める間もなく、エクトル少年は駆け出した。

彼の姿が屋上から消えて、ようやく真っ先にレティシア女史が我に返る。



「あああ、官長が、アレならいくらでも燃やしていいって合法許可与えるからぁ! だからって調子に乗んな、まて小僧!」



彼らは、風のように消え去った。

えぇと…うん、彼らに任せておけば、香の方は、始末が完璧につきそうな勢い。放っとこう。


その、さらに後始末が大変そうなことは、考えない方がいいわ。


「さて。我々<塔>の仕事は、均衡の守護のみ。裁きの権限はございません」

<塔>の官長さんが、億劫そうに頭を下げた。大精霊さまに向かって。


大精霊さまは一度、大きなその目を伏せ、―――――向かい側の集団の中にいる一人に声を放った。





『王よ。人間は人間の手で裁け』





「…承った」

「王よ!」

王が振り向いた先にいたチェンバース卿が、この期に及んで、断罪するような声を放った。


「部外者の言葉を信じるのですか!」

チェンバース卿にも大精霊さまは見えてるはず。でも、単なる子供としてしか認識できないみたいな態度ね。


「そなたには、聴こえんのだろうが」

落ち着き払った声で、王は告げる。




「我らグランノーツの民は、精霊の声を信じる―――――捕らえよ」




それはおそらく、大精霊さまだけのことを言ってるんじゃないんだろう。


王ともなれば、すべての精霊の囁きが聴こえてるに違いない。

チェンバース卿の拘束は、手短に済んだ。もちろん、抵抗する手勢がいなかったわけじゃないけど、状況はもう、決してたんでしょうね。


と、向こう側から、思わずって感じに上がった声がある。

「シャーリーっ? お前、なぜここに…」

向こう側で、優し気な風貌をした男性が、驚いた顔をしてた。もしかして。

「お父様」

居心地が悪そうに、ジスカールさんがそのひとにひょこんと頭を下げる。


でも、彼にジスカールさんをそれほど心配してる様子はないわね。ってことは。


どうやら、あらかたの状況は皆、認識できてるみたい。

<塔>の職員二人も分かってたみたいだから、もしかしたら、この場にいた官長って方が情報のすり合わせをしてくれてたのかしらね。


「だが、捕らえたとしても」


「精霊たちは、もう」


グランノーツ側の人間の視線が大精霊さまに集中する。


私たちの側にいらっしゃるチェンバースさまは覚悟を決めた顔で、父親が犯罪者として扱われる様子から目を逸らさない。

そのまま、一歩踏み出し、訴えた。

「どうか僕も、捕らえてください。罰を、頂けないでしょうか」


「そうだ、きさまだ!」

粛々と両手を差し出した息子に向かって、チェンバース卿は叫んだ。



「貴様があの香を作ったりしなければ、こんなことにはならなかったのだっ!」



国王陛下が不快気に眉根を寄せる。

捕らえられてるのに、叫ぶ元気をなくさないチェンバース卿を見もせず、取り押さえてた衛兵に顎をしゃくって見せた。

「連れていけ」


そうですね、悪いけど、うるさい。

けど、陛下が彼の退場を急いだ理由は、それだけじゃなかったみたい。テツさまたちを、常に意識の中に入れてる気がするもの。



…そうよね。他国の人間に、あまり情報を知られたくはないはず。



徹底的に無関心に見えて、皆、しっかり見て、聞いてるのはよくわかるもの。


引きずられて退場しながらも、喚く片眼鏡の紳士を尻目に、陛下はチェンバースさまを見遣った。

「そなたのことは保留とさせてもらおう。聞いた限りでは、…即断しかねる」

「いいえ、僕が愚かだったから」


「許すわけではない」

首を横に振ったチェンバースさまに、陛下は気休めを言わない。この様子だと、捕らえないってことは、温情処置なんかじゃないわね。

「骨の髄まで、愚かさを刻め。愚かさから学べ。そうでなければ、できぬこともある」

きっとチェンバースさまは生涯、今日の罪から逃げることはできないだろう。


陛下や君主たちの顔は、覚悟を決めたようでいて、まだ暗い。察したか、大精霊さまが口を開いた。



『子らよ、狼狽えるな』



もの言いたげながら、皆が口を閉ざす。

…ここにいる方たちって、王をはじめ、君主とか、お偉方たちよね。そんな人たちを、子ども扱いする小さな子って絵面は違和感が甚だしいわ。


『精霊たちは目覚める』


力強く断言して、大精霊さまは私の手を握った。ん?




『天魔と共に過ごし、天魔の魔素により、他国で生き抜いた精霊たちが今、グランノーツに帰還しておる』




あ。大精霊さまの言葉に、私は我に返る。


状況に気を呑まれてたけど、そうか、今こそ許可をもらわないと。

後押しするみたいに、チェンバースさまがここぞとばかりに主張した。



「天魔の魔素は、他の魔素すべてを上回ります。かの精霊たちがいれば、病んだ魔素は一掃されるでしょう」



そこで、気づく。あれ、なんだか、精霊たちが集まってきていない?

なじみがない雰囲気で弱々しい気配だけど、確かに…来てる。香がなくなったからかしら。


彼らの存在を感じながら、私は大精霊さまの隣に、真っ直ぐ立つ。すっと息を吸った。




「私の精霊たちを、グランノーツに放っても、よろしいでしょうか」




陛下を真っ直ぐ見る勇気はなかったわ。なので、大雑把に全体を視界に収めた。

誰にともなく尋ねた感じになったけど、真っ先に陛下が頷いてくださる。



「むしろ、こちらから頼みたいくらいだ。…構わないのかね?」



本来は、グランノーツにいた精霊だもの。

なんで精霊と共にいたのか聞かれたら困ったけど、幸か不幸か、そんな場合じゃなかったみたいね。


…本当に、お別れなのね。寂しくなるな。でも。





「お役に立てるなら、光栄だと、精霊たちも申しておりました」

まあ実際、精霊たちがなんて言ってたかって言えば。



―――――役に立つー。嬉しい、いっぱい。ありがと、いっぱい。たーのしーぃ。



…気が抜けるのよね…。





『…ああ、もう、よいな』

疲れた声と共に、私の手を握ってた大精霊さまの手から、いきなり力が抜けた。

嫌な予感に足元を見遣れば、小さな身体が重いと言いたげに、大精霊さまはそこに座り込んでた。


「だ、大丈夫ですかっ? どうなさったんです?」


咄嗟に膝をつき、寄り添う形で細い肩を抱く。

ジスカールさんも、逆側で膝をつき、心配そうに大精霊さまの顔を覗き込んでた。俯いたまま大精霊さまが言葉を紡ぐ。




『我は、殺した。人間を、殺した。怒りに任せ、正気を失い』




…え?

予想もしなかった懺悔だ。

呆気にとられる。すぐには何も考えられない。


「それは、攻撃されたからだ」

思わぬ声が間近で聴こえ、私は思わず肩を揺らした。だって、グランノーツの王が。

すぐ、そこに。

遥かな玉座に座す、見上げるべき存在が間近に存在することに、私は思わず身を固くする。


でも、陛下のこの態度。知ってたんだわ。この方は。


「身を守るためには当然だろう。連中は、あなたに火をつけようとしたとも聞いた」

それでも、と大精霊さまは言葉を紡ぐ。




『我は樹木である』




正面に跪いた王の言葉に、大精霊さまは首を横に振った。

『木はただ空へ向かって幹を伸ばし、枝葉を茂らせるもの。雨を受け、風にさらされ、太陽を浴びる。嵐が来ようが、地震が起きようが、そのすべて、何が起きようと、受け容れるだけ』


肩を抱いてたせいかしら。すぐ、異変に気付いた。





…枯れていく。大精霊さまの身体に咲いた花が。瑞々しい葉が。枝が。





『受け入れるべきだった。それが正しい姿だった。だが我にはできなかった』


火をつけられるのを? 傷つけられるのを? …でも、そんなのって。

「待て、大精霊」

座り込んだ大精霊の小さな手を、引き留めるように陛下が両手で握りこんだ。


どこまでも、優しく、労わるように。




「抗しなければ、あなたはこの場にいなかった。あなたがいなければ、鍵となる天魔はこの国にやってこなかった。事態の収拾はつかなかった。違うかね」




冷静なようで、それは、懸命な説得の言葉だった。それ以上、陛下にも打つ手がないんだわ。


いい加減、私にも分かる。大精霊さまは、自らの存在を放棄しようとしてた。

命、というものと、似て非なるもの。彼らの場合、『意志』になるのかしら。それを。



捨て去ろうと、してた。



大精霊さまがしたことは、人間から見れば、正当防衛だわ。でも精霊から見れば、きっとそれは違うのね。

大精霊さまが言いたいことは、そういうことかしら。


人間と精霊の法は違う。だから、人間は人間の法で裁け、と冷静さを取り戻した大精霊さまは仰ったのだわ。


でも、大精霊さまを裁けるものなどこの世に存在しない。ゆえに。




大精霊は、自らを自らの手で…裁こうとしてるんだわ。




…そう言えば、大精霊さまは最初に仰ったわね。―――――裁きが必要だと。


そうか、大精霊さまは。




―――――裁かれたいんだわ。




…なら。

私は、大精霊さまから手を離した。


立ち上がり、一歩、下がる。背を伸ばし、大きく深呼吸。

周囲の視線を感じたけど、そっちに意識を向けてる余裕なんてないわ。


この時、私が感じてたのは―――――テツさま。斜め後ろに佇むその気配。


目を向けなくても、確かに支えてくださってる彼の存在が、私に勇気をくれる。




「大精霊さま」




私は、精いっぱい厳かに呼びかけた。


さあ、私の言葉を、いやでも聞いて頂きましょうか。


勝手に私を連れてきたのは、あなたなんですから、最後まで、私の行動に対して、責任は取っていただかないと。




「では、天魔たるこの私が、今ここであなたを裁きます」




周囲がざわつく。でも知ったことじゃないわ。


大精霊さまが力なく顔を上げる。何かを懇願するように、目を細めた。


「あなたの罪に相応しい罰を与えましょう」

…本音で言えば。こんなの、ガラじゃないわ。小娘は小娘らしく狼狽えて、地位ある大人たちに全部投げたい。でもね。


大精霊さまの認識じゃあ、私は天魔ってことになってる。ゆえに、天法を求めた。



それを利用すれば、何となるかもしれないなら―――――やってみない手はないでしょう?



あー、逃げたい、気絶したい。


でも時間がないわ。大精霊さまの様子からして。もう少しでこの方は、消えてしまう。

「生きなさい」

私は結論から言った。

言葉だけだと、なんて軽いのかしら。告げた私自身が、その軽さに絶望したくなる。


それでも、静かに言葉を続けた。



「生き続けなさい。―――――罪を抱えて」



それが、罰だ。この場で消えてしまうより、はるかに重い罰。そう、チェンバースさまに与えられる罰と、これは、ある意味同じだ。

「私には、あなたが感じた痛みは分かりません。分かるとすれば」

私は、正直に告げた。




「残される側の痛みだけ」




刹那。淀み始めてた大精霊さまの双眸に、痛みが走る。

すべてを投げ出し、終わろうと望む大精霊の意識を、私の言葉は鞭打ったみたい。


「もし、あなたがここで消滅すれば」

言葉を続けなきゃならないのは、すごく辛かった。でも、言わないと。



「残されたものはどうなります。未だ、眠り込んだ精霊たちは目覚めておりません。今ここで大精霊さまが消えれば、今あなたが抱いている以上の罪悪感を抱くものがどれほど現れるでしょう。目覚めた精霊たちは、どう思うでしょう」



あえて淡々と、私は言葉を紡いだ。

大精霊さまが聞く耳を持ってくれたのは、私が天魔だからかしら。それとも。




少しは、…私の思いが届いたって、考えてもいいかしら。




「あなたは」

あ、しまった。一瞬だけ。

ほんの一瞬だけ、制御できなかった感情が声ににじむ。





「責任を投げ出し、逃げるのですか」





これは、大精霊さまの行動の一面の事実だわ。自ら決着をつけようとするのも責任の取り方かもしれないけど。

それは、逃げ、とも言える。


大精霊さまは口を閉ざした。そのまま、俯いてしまう。でも。




―――――その身が、枯れ落ちる気配は、もう止まってた。




…ここまでね。これ以上は、私には何もできないわ。


あとは、大精霊さまの身内みたいな陛下に託すしかない。

一線を弁え、私は引いた。腰を折り、丁寧に頭を下げる。

「生意気を申しましたこと、お許しください」




「…いいや」




頭を下げた私の顔に、そのとき、影がかかった。はじめて聴く、声。同時に。



―――――リイィン…



耳を打ったのは、涼やかで、優しい、音。

いつか、どこかで聴いた。でも、―――――どこで。



どうしてか、目を瞠って。


私は跳ねる勢いで、顔を上げた。



とたん、仰け反りそうになった背中を、テツさまが支えてくださる。

目の前に、いたのは。




―――――長身の、男。




翠の目。

端正だけど、びっくりするくらい、表情がない顔。

漆黒の髪が、塔の上の風に乱されているのが、妙にしどけない。



間違いない。この方は。…この方が。







悪名高い、君主。かのガヴィーノ・セルラオ卿。







「どうやら、我が国の被害は最小限にすむようだ。天魔」


その、強い眼差しが、真っ直ぐ、私を射抜いた。



「あなたに感謝を」



遠慮がちに周囲に響く、共鳴石の音を聞き、その源らしい彼の耳元を見るなり。

どっと私の全身に冷や汗が流れる。


―――――あの、ピアス。


もう一つの音は、テツさまから聴こえた。そう言えば、先刻、手渡したきり、だものね。持ち歩いてるのは当然だわ。…なんにしたって。




まさか。そんな、嘘でしょ。


(どうしてまだそんなもの、あなたが身に着けてるのよ…っ)




そんなはずないって、思ってた。というか、確信を持ってた。セルラオ卿の噂を聞いて。


だって、この方の、行動を見てると。






―――――まるで、自分自身の血をこの世から消そうとしてるみたいだもの。


自殺する代わりに、肉親を殺して回ってる。そんな、気が。






この方が、母と、どのように離れたかは知らないけど。


きっと、あのピアスを、母に手渡したのは、いるかいないかもわからない子供のためじゃないわ。

純粋に、母に、生きていてほしかったんじゃないかしら。

二人の関係の形見のため、じゃなくて。


自由にできるお金がない代わりに、お金に変えられる何かをこの方は母に、手渡したのだわ。




セルラオ卿は、ロマンチストじゃない。現実的な方。なのに。それでも。




…一方のピアスは、こんな時にも身に着けてるなんて。


目の前の事実と、噂との折り合いがつかないわ。どういう方か、心底分からなくなった。それに。



うるさいくらい、共鳴石が鳴ってるのに、それについては何も言わないのね。


…ああ、そうか。そういう、つもりなのね。



「一日でも早い復興を、お祈り申し上げます」


私はにっこり、微笑む。営業スマイル。とたん。

セルラオ卿は、一度、目を瞠り。


小さく、…本当に小さく呟いた。




「―――――顔立ちは、彼女に似たのだな」




それを最後に。

彼は、踵を返した。褐色の肌の従者が二人、その背に続く。


共鳴石の音が、小さくなっていった。

テツさまが、私に手を差し伸べる。



「ここは、慌ただしくなりそうだ。戻るぞ」



はい、と私は頷いて―――――もう、大概、自然にテツさまの手に手を乗せる感じが出来上がってきたわね…。




「あ、もう戻るの? …ま、それがいいかもね」


「ではわたくしが、ご挨拶申し上げてきますわ」




騎士さまがそばについたゼンさまとシルヴィアさまが貴族らしい口上を述べ出すのも、私はもうほとんど耳に入ってなかった。

あとは、私の精霊たちのことを大精霊さまに頼んでおかないと。


もちろん、このまま放置なんてしないわよ。仕事を押し付け…いえ、頼んで帰るわ。


終われば、心底思うことは一つだけ。



―――――…つ、疲れた…っ。
















ねえ、聞いてくださるかしら。


五大公家の三人が来てくださったのは、助かったわね。

だって、おかげで私の印象なんか、絶対薄くなったはずだもの。




…よ、ね?








長くなりました。

次の更新は一回お休みします~。

読んでくださった方ありがとうございました!

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