25.身勝手
…一応、怖い提案があったわ。
責任を取って、聞いた生徒全員の記憶操作を行う、と。
まるで悪びれなく、私の望みを押し通すことこそが正義と言わんばかりに、今すぐ実行する勢いでシンジェロルツさま…いえ、ギルさまが。
名前を言い直した理由? 名前で呼んでくれって言われたからよ。…うん、ギルさまにカイさまとレオさまが便乗したことなんて、それこそ記憶から抹消したいわね。ギルさまはともかく、他二名には悪意しか感じない。
それはさておき。
私はギルさまの申し出を丁重にお断りした。なにせ、今までのわずかな経験から、察することは容易だったもの。ギルさまはゼンさまの同類だって、ね。
つまり、魔法の細かい調節ができない。要するに、雑。
大人数の記憶操作なんて繊細な作業、失敗して壊れちゃいましたじゃ取り返しがつかないのよ?
よしんば無事為されたとしたって、かならずどこかに歪は生まれるわ。
あのとき、圧を持ってたギルさまの、本気に。
彼の言葉を耳にした生徒全員が、必死の形相を、私に向けてた。
や、デーニッツくんは他人事の風情だったし、リタは状況に引いてたけど。
…ああ、うん。あなたたちの気持ちは、分かった。
要するに、―――――私が腹をくくれば済むこと。
逃げ隠れできなくなった、追い詰められたって状況だけど、取り返しがつかないなら、もうやるしかないじゃない。
結局、ギルさまのフライングのために、当初、公王さまがどういう意向を持って天魔の問題に対処しようとしてたのかは、謎のまま。
あれから既に、一週間。
「忙しいところ呼び出してすまないね、ヘルリッヒさん」
ガルド学院、学長室。室内は、ひどく静謐。むやみに騒げない荘厳な雰囲気に満ちてる。その中央付近に誂えられた来客用のソファ。
その端っこに腰掛けた私に、立派な黒檀の机の向こうで立ち上がった初老の男性が、にこやかに両腕を広げた。
「オアシスでのこと、アイゼンシュタットくんから報告は受けていたけれど、本人の口からも聞きたくてね」
とにかく、『巨きい』って印象の強い男性よね。
背が高い、手が大きい、体格もご立派。もっとも、人間の規格の範囲内で、だけど。
この方こそ、ガルド学院学長。
かつて、魔導大国にて宮廷で筆頭にまで昇りつめたヴィクス・ラキルさま。
過去、そこまでがつがつした鎬を削る地位にあったなんて思えないくらい、穏やかな容貌と性格をなさった男性。…表向きは。
素直で善良な普通の方が、魔導大国グランノーツに籍を持ちながらもベルシュゼッツ公国の、問題が山積した学院にスカウトされるはずがない。
それに。
私は視線を不自然に動かさないよう、意識して学長に視線を固定する。
…精霊たちがね? 相変わらずきゃっきゃうふふ、とはしゃいでいて、…どうも学長の周囲を飛び交ってる気がするのよ。
私と学長の間を行ったり来たり。気紛れに、消えたり。なんだか、はしゃいでる雰囲気。
やっぱり、魔導大国の関係者って、精霊たちにとって、何か違うものなのかしら。
もっとも、学長が精霊に気付いた様子はないけど。
「いえ、学長、どうかお気遣いなく」
座ったまま、私はわずかに頭を下げた。忙しいというなら、学院の中ではこの方が一等のはず。
そんな中で、私に時間を割いてくれたのだもの、感謝すべきは私の方ね。
簡単な質問を受け、私はいくつか答えを返しただけだけど、これで終わりかしら。
安心が強いけど、拍子抜けでもあるわね。
「そうそう、肝心なことが、もうひとつだけ」
万年筆を片手に持ったまま―――――この方の手にあると玩具みたい―――――何かのついでみたいに言うから、ちょっと油断してたら、
「―――――きみには本当に記憶がないんだね? 天魔の記憶が」
そらきた。丁寧に距離を取った質問の後に、ひょいと内面に踏み込んでくる。
計算か、自然体か。やりにくい大人には違いないわね。
でも、隠すことじゃない。素直に答えた。
「はい」
「ふむ」
何かを書き加え、手帳をぱたりと閉じる。
「ではあの話は信憑性が高いね」
「…あの話、ですか」
首を傾げた私に、学長は陽気な仕草で片眼を閉じて見せた。気楽にさせようって気持ちあっての態度なんだろうけど、私はどうもこの方相手だと油断できない。
「天魔に関する伝承さ」
それは世界に数多存在するわね。どの伝承の話を仰ってるのかしら。
記憶に関するものなんてあった? 考え込む私に、さらりと学長は答えを告げた。
「天魔の魂にかけられた呪いは、既に解けかけている、とね」
「呪い」
私は目を瞠った。天魔は魂に呪いを受けている。呪いって言われて思いつくのは、ひとつしかないわね。
「永劫の転生、というのは、呪いの産物なんですか」
でもそれは、枯渇した魔素を復活させた代償の産物だったはず。
まるで呪いね、と思いはしても、ただしく『そう』なんて、想像もしてなかった。
それが、…解けかけている? その状態は、何を意味するかしら。
呪いが解けるならいいことのように思えるけど、この場合にはなんだか不吉に感じられた。
第一それが、天魔の記憶とどうつながるのかしら。
「なに、単なる伝承の一端に過ぎないのだけどね」
学長は肩を竦める。…そうでした。つい鵜呑みにしそうになったけど、伝承、なのよね。
でも変に私の胸の内を噛んでくる。なぜかしら。
「ですが、いったい誰がどうして天魔に呪いをかけたんですか?」
気になって、私は尋ねた。対する学長は言葉をまとめるためか少し考え、口を開く。
「天魔は唯一だったんだろうね」
淡々と、学長は続ける。
「当時の誰もが、天魔の存在とかの方の膨大な知識の喪失を恐れ、―――――恐怖は呪いになった」
分かるかい、と学長。
「『始原の御使い』たる天使たちと『原初の禍』たる悪魔たちがこぞって永劫の転生の呪いをかけたのだ。さぞかし、強力なものだったはず。転生を繰り返したところで記憶だって保たれ、天魔の知識はそれによって保存がきいたはずだ。だが、きみに記憶はない」
知識を保存…それも魂ごと? どれだけ規格外の発想かしら。
今ですら強力な大公家の力を思い返し、私はお腹が痛くなった。
「ゆえに、伝承は言う。天魔の記憶はほとんどない。もう、呪いは解けかかっている、とね」
なら天魔の力は、もっと規格外って話になるわね。本当にそれ、私に関わる話ですか?
学長は穏やかに問いかけてきた。
「…天魔について、ヘルリッヒさんはどの程度知っているかな?」
まるで授業みたいね。
試されてるようなのは居心地が悪いけど、学生である以上、授業には慣れてる。私が慣れてる形式で、学長は対応してくれてるのかしら。
私は手短に答えた。
「歴史にあるのは通り名のみで、詳細は意図的に秘されている感が強いですね。ただ、天魔が、かつて枯渇した魔素を大地に蘇らせた救世主って言う見解は、どの国でも一致しています。その方法が謎って言う点でも」
どんな秘術だったのか、興味は尽きない。
永劫の転生が必要だなんて罰みたいな代償が必要だったのなら、外法の類だった可能性は強いけど。
でも、そうじゃなかったのなら。
天魔は成功させたってこと? なんの代償もなく―――――まっとうに、世界の軌道を破滅の運命から逸らしてのけた。
もし本当にそうだったなら、天魔って存在はどれだけ強力なのかしら。
超人というか―――――もう、神そのものよね。
学長は大きく頷いた。
「よろしい、正しく一般的な知識だ」
…私の知識量を探ったのかしら。じゃあ、及第点も取れてないわね。案の定、言われた。
「ただし、ヘルリッヒさん、きみは天魔のことをもう少し学ばなければいけない」
けどそれは、私自身ずっと気になってたところだわ。
天魔と言われてはいるけど、私は天魔のことを知らなさすぎるし、記憶があるわけじゃないもの。
「天魔はベルシュゼッツの柱だ。これをきちんと理解しなければ不幸の元となるし、大勢が回復できない火傷を負う。天魔を調べることは禁忌とされるが、本人ならば問題あるまい」
柱。
そう言われても、この時の私は、上面だけしか理解できてなかったわ。木の幹だけを見て、根っこを理解していなかったって言うか。
やがて真相を察した時―――――血の気が引く羽目になる。
「天魔が学院に通うというのも歴史上はじめての話でね。ここには多くの血気盛んな若者が通っている。心無い言葉を耳にすることにもなるだろう。そもそも今のきみには公の実績もほぼない」
学長は正しいわ。天魔と言われる私自身が、天魔の実在を疑っているもの。
周囲に何を言われたって仕方がない。
「記憶がないというなら、きみは少しでも天魔の事実を知るために、各大公家の蔵書を見せてもらうといい。なにせ、天魔の守護を謳うベルシュゼッツ公国のもっとも古い家系だ。門外不出の古文書も、きみになら公開してくれるだろう」
問題点を見つけ出し、解決の糸口を与える。学長は根っからの教師ね。
「助言、感謝いたします」
「大丈夫、きみは聡明だ」
学長の声は、力強い。しずかに断言してくださる。
「きみなら、誰に言われるでもなく、正しい答えを見つけるだろう」
…勇気づけられてしまったわ。私はそんなに、不安そうにしてたかしら。
ただ、右も左も分からないのは事実よね。自身が天魔だ、と言われても、為すべきことが何なのかすらはっきりしない。だったら、私が決めてしまっていいんじゃないのって気もするけど、以前も思ったように、天魔だからしたいことって、思いつかないのよね。
「さて、質問ばかりも悪いな。きみから何か、聞きたいことはないかね」
思わぬ提案。でもそれは、幸運って意味で。ちょっとワクワクした。だって。
この方と一対一で話す機会なんて、滅多にない。ちょっと悩んでしまうけど、緊張の方が上回っていて、賢い質問が出てこないわ。
いえ、まぁ、賢いふりをする必要もないわよね。
だったら、…そうね。
オアシスの話をしたからには、それにまつわって気になっているところを聞いてみようかしら。
「件のオアシスの地で、私は知り合いの医師に一泊させて頂いたのですが」
ジネッティ医師の元で起こっていたことを、私は手短に話す。
彼が襲われた理由まではいくら学長だって分からないだろうけど、おそらく、テツさまも報告は上げているはずだし、対策がきちんとされる問題なのかどうか知りたかったのよ。
もちろん、使徒の活動については、昨日今日でどうにかなる問題じゃないわ。
けど、ジネッティ医師が襲われた件についてはなんとかできないものかと思ったのよね。旦那さまからの返事には対応するとあったから、大丈夫だろうけど。
「ジャックからは何も聞いていないのかね」
学長はわずかな沈黙をはさみ、そんなふうに仰った。
旦那さまから、何を聞くって言うのかしら。思ったけど、私は咄嗟に何も言えなかった。
だって、ジャックって。
旦那さまを気軽に呼び捨てにできる方って、あまりいない。
それができるってことは、もしかして、この方。
「…そうか。まあ、養い子にはあまり聞かせたい話ではない、ということかな」
私の沈黙から、正しく疑問を拾い上げたらしい学長は、端的に説明してくださった。
「原因は、医者と術者の対立だ。これは、昔からあるはなしだよ」
私はわずかに眉を顰める。
「…お言葉ですが」
つい、片手を挙げて口をはさんだ。
「今回の相手は使徒だったのですが」
医者と、治癒術にすぐれた魔法使いや魔術師の対立の歴史は長いが、今回の相手は使徒だった。
これまで使徒は、理不尽な行動を取るものの素直に言うことを聞くなら、暴力に訴え出ることはなかった、なのに今回に限ってジネッティ医師に対しては違っていた…今したのは、そんな話だったはず。
「例の医者は、医療組合<白陽>の関係者だったのだろう? 町で、ただ一人の。もし他の医者は無事なのに、その彼だけが暴力を受けたのなら、思い起こすのは、歴史的構図だ」
学長の台詞は、理路整然としていて、隙が無い。私は説得されながら、力なく言った。
「医療組合<白陽>が創設されて以後、目に余る対立はなくなっているはずです」
「十分理解しているだろうが、水面下に潜っただけだよ」
学長は、さらり。気休めは言わない、厳しい方だ。
「今回の話は、おそらく、術者側が使徒の活動に目を付けたんだろうね。それを隠れ蓑に医者を襲った。想像だが、件のならず者たちにかかっていた息は、使徒たちの者だけではなかったのではないかな。きみたちからの報告によって、現在調査の手は入っているはずだから、真実は報告待ちになるけどね」
『おそらく』『想像』。
学長は曖昧な言葉を使ったけど、きっと彼の言うことが真実ね。独り言みたいに彼は続けた。
「現在、医者と術者は公に潰し合いができなくなっている。そういった禁止の圧力がかかればかかるほど、物事は陰湿化する。そういう話だよ、これは」
びっくりするくらい、しっかりした答えが返ってきたわ。
口調から、その場しのぎの答えじゃないのは察せられた。…そう、問題は、そこにあったの。
私は唇を引き結ぶ。
医者と、治癒の魔法が得意な術者。手と手を取り合えば共存共栄、素晴らしい結果が生まれそうなものなのに。
それは、子供でも分かる理屈だわ。翻って。
自分たちの領域を、利権を守りたいって気持ちも、分からないでもない。
要するに、お互いがお互いを信用できないのよね。
奪われ、取り上げられることばかり考えて、与え、歩み寄ることができなくなってる。
…理屈じゃない、のよね。
「ジャックは手を打ったのだろう? ならばヘルリッヒさんは安心していい。むしろ、きみの素早い報告が当の医師を救ったのではないかな」
だと、いいんだけど。私は曖昧に、ぎこちなく頷いた。
「さて、他に質問は? …ないのかね?」
「はい、答えて頂き、ありがとうございました」
言ったはいいけど、きっと、あとでこれを尋ねればよかった、とか、いっぱい質問を思いついて後悔しそうね。
でも今は本当に思いつかないもの。仕方ないわ。
「よろしい、では、まとめに入ろう」
学長は頷いた。…本当に、授業みたいね。
「最初に告げたように、本日ここで交わされた話は、公国の公的機関に報告を上げる」
それ正気、いえ、本気だったんですか?
今ここで交わされた会話が、まさか国庫の中で代々保管されていくなんて、…不出来な冗談としか。
「大公家の皆から聞いて知っているだろうが、先日、公国は、天魔の存在を公表した」
学長は、淡々と言葉を続けていく。
その話はシルヴィアさまから聞いているけど、傍から聞いてれば、なんだか眉唾な感じが強かったわ。いったいどれくらいの人が、天魔の実在なんて信じてるのかしら。
へたをすればベルシュゼッツ公国内でも、胡散臭いって思われていそうよね。
「きみは、記憶はなくとも、オアシスの一件から、天魔の力は健在としらしめている」
…………はい?
え、あれって、そんな風にまとめられてたの?
確かに誰にも口止めとかする余裕はなかったけど、聞いた話じゃ使徒たちが天魔の御業って広めてるみたい。つまりは、使徒側の天魔がモンスターの暴走をどうにかせき止めたって流れにしたがってるってことよね。
使徒側が。
…まさかそれを逆手に取ったの、ベルシュゼッツは?
―――――公王さまはともかく、宰相閣下ならやりかねないけど。
「その力を頼り、各地から相談事がさっそく舞い込んでいるようだ」
てきぱき話をまとめていく学長に、私はもう言葉もない。達観した目で学長を見返すだけ。
「知っての通り、昨今、各地では天魔の恩恵が消失していると囁かれている。それらが危機的状況と判断されたなら、出向いてもらう必要が出てくるだろう」
でも。事前にこうして話を通してもらえるのは、ありがたい、かも。
何も知らないより、ずっといいわ。
「有力候補は、隣国の魔導大国グランノーツだが…きみはまだ子供だ。各国の要人たちは、できれば、子供に頼らず問題に対処してほしいものだとわたしは思っているがね」
以上だ、と締めくくった学長は、何にしたって大人だと思う。
内心のよろめきを根性で覆い隠し、私は表向き冷静に立ち上がった。
何にしろ、腹をくくるしかないって話よね。詐欺師呼ばわりも覚悟の内で。
だいたい、ことここに至っても、私の意識はただの平民。地位らしい地位って言えば、表向きテツさまの婚約者ってことくらい?
実際、身分ある方の前での自己紹介は、…こうなると、テツさまの婚約者の何某、くらいしか残らないわ。公の場でジャック・ハイネマンの名前を出すのは、色々な意味で危険なのよ。そもそもハイネマン商会の従業員です、って自己紹介は、普通の場ではともかく貴族の社交の場では相応しくないわ。
たとえそれが嘘偽りなく自信のある事実だったとしてもね。
天魔です、なんて自己紹介は、さすがに却下。どこの阿呆よ。
―――――それにしたって、魔導大国ですって? できれば行きたくないわね…。いえ、それともいい機会と捉えるべきかしら。
実の父親と顔を合わせる、っていう。まあ向こうは、私の存在なんて知らないけど。
それに、魔導大国は広いわ。呼び出されるのがセルラオ卿の領地だなんて決まったわけでもない。
失礼しました、と学長室を出た時点で、授業終了のベルが鳴る。
私の授業はこの時間、自習だったのよね。だから、学長も呼び出しをかけたんだろうけど。
それにしたって、学長は旦那さまを呼び捨てになさった。
…二人に交友関係があるなんて、はじめて知ったわ。
もしかして私が学院に入学できた背景には、学長の力も作用しているのかしら。
なんにしたって、もう昼休みね。食堂に行かないと。
テツさまと合流して、魔法を教えて頂く前に一緒にごはん、の流れなのよね、今日は。
あの方のそばにいるのは未だに落ち着かないけど、物静かな空気にはホッとする。
まずは教室に、と階段を降りる私の耳を、また精霊たちの笑い声が掠めた。
でもいつもとは違う感じがある。さっき、学長と会ったせいかしら?
顔を上げ、笑い声の行方を追う形で視線を流せば。
階段下の廊下、五・六人の女生徒が集団で移動していくのが見えた。その中の、一人。
きれいな金髪を腰ほどまで伸ばしたおとなしそうな女の子と目が合う。
知った顔だ。というか、地味に有名人。
控えめで上品な所作と、優秀な成績、穏やかな性格の、文学少女―――――名前が、そう、シャーリー・ジスカール。確かこの子、魔導大国グランノーツの出身。位階持ちではないけど、有力貴族の娘だったはず。
同じ植物学の授業を取ってるのよ。話したことはないけどね、顔見知りなのはそのせい。
階段を降りながら目が合ったら軽く会釈して通り過ぎる―――――単なる知り合いならその程度で終わるわ。なのに。
ジスカールさんは、私を見上げるなり、眩しそうに目を細め―――――いきなり、その大きな目を瞠った。
びっくりしてる…何に? 目は間違いなく私を映してるみたい、だけど。
なんとなく後ろを振り返る。誰もいない。顔を戻した。と。
ジスカールさんが立ち止まったことで、他の子たちも足を止めてる。彼女に呼び掛け、返事がないことで彼女の視線を追った結果。
私に、女生徒たちの視線が集まった。
…『誰?』が大半な感じ、かしら。悪感情も混じってるけど、そっちは少ない。見れば、同じ授業を取ってる子たちね。
よくよく考えれば、名前を聞いたところですぐに私が思い浮かぶ人間なんて、同じ授業を受けてても、そういないし。
今更言うのもなんだけど、私、友達少ないのよ。
公国は天魔の存在を公表してる。名前まで挙げた。でも、全体的な反応は、『誰?』な感じ。戸惑いの反応も結構多いわね。
旦那さまも、一連の流れはもう全部ご存知なのだけど、あの方の答えは「お前のしたいようにしなさい」だったわ。私としても、単純に、旦那さまの迷惑になっていないならそれでいいのよね。
立ち止まってても仕方ないから、私はすまして階段を降りてった。
すれ違いざまにジスカールさんに軽く頭を下げて、当たり障りなく通り過ぎる。
ジスカールさんが、我に返った。大きな目で、小刻みに瞬き。慌てた態度で、ぴょこんと頭を下げ返してくれた。
彼女が持つ優し気で穏やかな空気は損なわれていなかったから、
「うそつき」
鋭く言ったのは、ジスカールさんじゃない、わね。
悪意に満ちた声は、そりゃバッチリ聴こえたけど、聞かなかったフリをしてやり過ごす以外にない。この間はご令嬢方に取り囲まれたけど、最近は、誰も実力行使には出ない。悪口だけならやり過ごすわ。
その点で言えば、かかって来てくれた方が対処しやすいわね。…ああ。
こんな考えだから、ご令嬢方に野蛮って言われるのよね。
直接私にどうこうするって実害はない理由は、ひとつ。五大公家の方々が動いたからよ。
けど、それこそ、不満は水面下に潜って、行き場のないエネルギーをためて行ってる気がした。
…早急に手を打ちたいところね。だけど、逆に実害がないからこそ、何もできないのよ。
「言うだけなら、誰にだってできるわ」
追いかけてくる声がそんなことを告げた。
確かに、「私は天魔です」って言うのは誰にでもできるわ。
けど、…まさか、テツさまたちが口先だけの人間に簡単に騙されるなんて本気で思ってないわよね。
もしそんなふうに思ってるんだとしたら…言った当人の浅はかさが不安になる。危機感の少なさが怖い。
顔を確かめるべきかしら。いえ、逆に煽ることになるわね。止めよう。
…まぁ、迂闊な行動は誰もしないわよね? それこそ、口だけよね?
…変な心配事が増えたなあぁ…。
胸の中の荷物が毎日増えていく心地に、なんとなく動きが重くなった私に、
「今日の講義はやめておくか、ミア」
思索の邪魔にならないようにって配慮する声が、そっと横から届いた。あら、良いお声…じゃなくって。
目を瞬かせれば、私の手元でフォークに巻き付け過ぎて大きな玉になったパスタが見えた。
緊急停止。何事もなかった顔で、私は横を見上げる。横…そう、隣だ。
「申し訳ありません、大丈夫です」
きりっと整えた表情で告げる。テツさまは、わずかに首を傾げた。
彼の前には、栄養バランス良さげなランチセット。メインはお魚。コーヒーだけでいいと言ったこの方に、私が無理やり押し付けたシロモノ。
「…学長から呼び出されたのだったな。どんな話をした? 何か気になることでもあったか」
私たちが食堂で、一緒に食事をするのは、今日がはじめて。
始まってる魔法に関する講義の際、どうせなら一緒に昼食を、という話に、昨日、なったのよね。
本来なら、遠慮したい。
だって緊張しすぎて味が分からなくなるのは目に見えてた。
実際、もうなってる。
それにどうして、座る場所が隣なのかしら。混んではいたし、わざとではないんだろうけど周囲の視線が痛い。それに近い。
緊張は、解けないけど。―――――そう、解けてない、はずなのに、上の空になってたわ。
テツさまはおそらく、最初、さっきの質問とは何か別のこと仰ったのよね。それに対して私が無反応だったから質問を切り替えた、そんなところかしら。
何かを言われた記憶はあるけど、何を言われたか思い出せない。…失礼にもほどがあるわね。
気を抜けない相手だと最低限身構えているのに、…こう、この方の、甘やかしてくる感じというか…何をしても許してくれそうな寛容さみたいなものがいけないんだわ。
そこにうっかり浸ってしまう私はさらにいけない。相手の好意ややさしさに胡坐をかくのはよくない。
自身を戒めながら、今度はきちんと答える。
「先日のオアシスの話です。私からも直接話を聞きたい、と仰られて」
私はフォークから、巨大な玉になったパスタを一旦解いた。
「その話か。確かに、当人から話を聞けたらそれが一番だろう」
くるくる巻き直す。今日の私のお昼ご飯は、ベーコンとアスパラのクリームパスタだ。やわらかいアスパラを端っこに刺して、口に入れる。コショウがいい感じに効いてて、美味しい…はずなんだけど。
隣にいる方の存在で、もうお腹いっぱいって言うか…。
「その量で足りるのか」
スープを飲んで、テツさま。私そんなに大食いを思われているのかしら。
「はい、十分です」
機械的に答える。むしろ、これだけでもちゃんと入るかどうか怪しいわね。
「そうか? 不思議と一口が小さいが…」
不思議ってなんでしょう? そりゃ男の人とは違いますってば。
一緒にいると、たまになんだか、こう、女子に対するのとはズレたワードがテツさまから出ることがある。
私に対して、何というか…年上か同年代の同性に対するような反応がある、というのか…。
完全な男扱いというのとはまた違うんだけど。
この少し無遠慮な距離感も、同性相手と考えると普通、なのかしら? いえまあそこは人によるとは思うけど。
「その、テツさまは…お友達とはいつもこうしてお食事を?」
なんとなく身を縮める。まっすぐ見上げられず、つい、上目遣いになった。
「それはないな。やむを得ない場合以外は不用意に近づけばお互い大けがの元になる…狭いか?」
想像してなかった物騒な答えが返されたわね。
最後の質問は、私が小さくなってることに対するものなんだろうけど。
どう答えるべきか悩む私に、何かに気付いた…というか察した態度でテツさまはバツが悪そうに言った。
「すまない」
謝罪の意図が見えないわね。首を傾げると、
「ゼンが言ったのだ」
黄金の目が横に逸らされた。
「普通、街の人たちは皆食事の時は隣に並ぶものだと」
あの方ろくなことしないな。
そりゃ隣に座るときもあるけど、他に席がないとかいうやむを得ない場合とか、親しい相手の場合に限られるんじゃないかしら。
それだって人にもよるかもだけど、隣は、こう、…近いのよ。
私とテツさまの距離感で、これはどうかと思う。お互いの性格的にも。
もしかして、平然として見えたけどテツさまもやりにくかったのかしら。
テツさまは向こうを向いて、片手でわずかに顔をこすった。少し耳が赤いみた、い?
「知っての通り、ベルシュゼッツ公国から基本出ない俺は経験が少ない。そこからくる無知や無理解があれば、遠慮なく指摘してほしい」
生真面目に言って、立ち上がろうとするから、慌てて止めた。
「いえ、待ってくださいテツさま」
もしかして、席を移動しようとしてらっしゃらない? そこまでする必要はないわよ。それに移動するとしたら私でしょうに。
テツさまのことだもの、食事に誘ったのだって、特別な意味合いはなかったはず。
本気で、ただの『ついで』な雰囲気だった。やましいところがあるなんて欠片も思ってない。
それに私相手にテツさまが、なんてねえ。
悪いのはゼンさま。それで終わり。解決。
「今回はもういいじゃありませんか。それに、経験がないというなら、私だってそうです」
立ち上がろうとしてたテツさまは、ようやく腰を落ち着け、私の方を見てくれた。
「その、逆を言えば、私にはテツさまたちの苦労を、正確には理解はできません。できるのは、想像くらいです」
生まれ育った環境の違いからくる溝ってものはどうしようもないわ。
仕方がないわよ。立場とかで経験しようがないものだってある。
お互い様よね。
大事なのは、生まれ育った環境の違いからくる差異を、分からない、で切り捨てずに理解しようと歩み寄る姿勢だと思うの。それさえあれば、永遠に理解できないことがあっても別にいいと思うわ。
「理解しよう、合わせよう、としてくださるのは嬉しいです。僭越ながら私も、できうる限りテツさまたちを理解したいと思っています」
どうにか気持ちを伝えたくて、一生懸命言葉を紡げば、テツさまは素直に「そうだな」と仰った。
良い方。
―――――まあ、その。だからこそ。
はっきりさせておきたいこともあるわけで。
私は、パスタをくるくるくる。
「…その、婚約に関しては、いつくらいを目途に考えればいいんでしょうか。心づもりなど教えて頂ければ、協力もしやすいのですが」
以前、似たような話をしたときはテツさまの機嫌が悪くなったことを覚えてる。けど、思い切って聞いてみた。つめておかなきゃいけない話でしょう。お互いのために。
私個人に目を当てれば、私には将来、やりたいことがある。
そのために、学院で学んでいるのよ。となれば、アイゼンシュタット家に嫁ぐなんて土台無理。
目標を犠牲にしてまでアイゼンシュタット家に入りたいとは…思わないわ。
テツさまは、もっと真剣に、二人の将来を考えられる女性と婚約すべきよ。
いくら『仮』でも心のない婚約は早急に解消すべきだと、私は思うの。
だいたい、私は断言できる。
―――――私じゃこの方に相応しくない、って。
テツさまは、私の指を見下ろした。正確には、指輪を。
これだって、本来は絆の形でしょうに。
それが私の指にあると、守護の指輪って道具としてしか見られなくなるって…問題、ありすぎるでしょ。
テツさまは冷静に答えた。
「ミアには今後、天魔としての役目も生じる。俺との関係は盾になるはずだ」
それは事実だわ。
以前、テツさま自身が仰ったように、テツ・アイゼンシュタットの弱点として狙われることもある。
同時に、世間に相対した私の盾として、この方の名は機能するはず。
けどそれってどうなの。
私の盾になる、なんて、それは、自身を道具に見立ててるってことよね。
私には、テツさまを道具としてなんて見られないわ。
「あなたの立場が落ち着くまでは、このままの方がいいだろう」
…それっていつかしら。よく考えてほしい。私はこのままでいいなんて思えない。
私、嘘は苦手よ。誰からも目を逸らして話したくないの。だから、誠実でありたいのよ。それにこの方には幸せになってほしい。
事故はじまりに過ぎないのに、流されてゴールインなんて、ダメすぎる。
ケジメは必要だわ。
「テツさま」
私はフォークから手を離した。隣のテツさまに身体ごと向き直る。
ちょっと、大事な話をしましょう。
私を見て、何か察したみたい、テツさまも同じようにしてくださった。
「婚約はひいては結婚を意味します」
いちいちそこから言ったのは、テツさまがその辺りを本当に理解してる風に感じられなかったからよ。
「この婚約に、あなたの気持ちはあるんでしょうか」
気持ちのない婚約―――――ひいては結婚は、不幸しか生まない、んじゃないかしら。
分かってるわ。食堂の片隅でするような話じゃないわね。
けど、今を置いては他に機会なんてないと思ったのよ。それに、周辺の席に人影はない。
それほど大きな声で話さないなら私たちの会話は他人の耳には届かないわ。
「婚約に」
テツさまは表情一つ変えずに、静かに言った。
「気持ちが必要か」
―――――その答えで、全部わかった気がする。一瞬で、私の胸の内が冷えた。
いえ、何もかも見透かせたってわけじゃない。
けど、貴族の方にとって、婚約、ひいては結婚って言うのは。
…幸せいっぱいってものじゃないのね。薄々、察してはいたけど、真正面から言われると堪えるわ。
アイゼンシュタット家のご夫妻は、仲良しのように見えるけど。
私は、すぐには何も言えなかった。ちょっと、ショックだったのね。傲慢にも。
だって今、目の前で、テツさまに、言われたのよ。
私のことは何とも思っていないって。
私との婚約に、テツさまの気持ちなんてない。…分かり切ってたのに、何か、薄っぺらい期待があったのね。
応える気もないくせに。自分の中の『女』って部分がいやになるわ。
でも、そう。そこから、なのね。
正直言って、私だって、愛とか恋とかは分からないわ。誰かを、どんな困難が目の前にあっても欲しいってくらい好きになったことなんかないし。
でもテツさまなら、より取り見取りだと思うの。
このままだと、私がテツさまの幸せを邪魔してしまいそうで怖い。
よし、分かった。つまり。
幸か不幸か、私たちの場合、お互いの気持ちは誰の上にもないってことよね。
それでも当たり前みたいに、自分を盾にしろって仰るこの方が、心から心配になる。
あとから思えば。
私は自分の夢を思うのなら、もっと保身を考えるべきだったわ。
そうして、何も言わなければよかったの。
テツさまに、もっと自身の気持ちに目を向けてくれ、なんて願わなければ。
冷たくとも、放っておくべきだった。
でも、きっと私は。
何かの予感があったとしても、自分自身の未来より、テツさまの自身を投げ捨てるような在り様が悲しくて、寂しくて、何か力になれたらと願ってしまうんだわ。
…身勝手ね。
「テツさま、真面目に訊きますね」
これからの質問に答えが出たら、婚約がどうなるかも自然と決まるはず。
私は、テツさまを真っ直ぐ見上げた。
見返してくれるのは、きれいなきれいな、黄金の目。
どこまでも静謐で。私を映すとキラキラするけど、遠いところを見てる感じがする。
テツさまは、私に憧れるって言ってくれた。…だから、私が進む道を、守ろうとしてくれてるのかしら。
ただ、この方が悪魔の血統って言うのは、忘れちゃいけない。うっかりしてるとテツさまが望む方に誘導されかねないっていうのは、分かってる。
それら全部ひっくるめた上で、この方に、信じられないくらい無防備なところがあるのは事実で。だから、ゼンさまにもうっかり騙されちゃうのよね。
「テツさまは」
できるだけ、誤解が生じないように、尋ねてみる。
「私が欲しいですか」
その、答え如何で、早めに結論を出した方がいい。
私の目の前で、テツさまがゆっくり目を瞠った。表情に理解が浮かんだ、刹那。
私は動けなくなった。
そのくせ、意識を保った自分の図太さを呪いたくなる。
―――――捕食されるってこんな気分なのかしら。
いきなり目の前で、人形が生身の身体を持ったみたいな、感覚に。
思わず胸元を腕で覆って、身体を隠すように小さくなってしまう。した、後で思う。
何やってんのかしら私。
じわり、頬が熱くなった。なんとなく唇を尖らせ、すねた心地で頬をこする。
「すまない」
また、テツさまの謝罪。…今度は何に対してかしら。
伺うように上目遣いに見上げれば、テツさまの顔に表情らしい表情はなかった。
代わりに。目、が。
「少し、考えた」
…お昼を食べたばかりなのに、お腹がすいた、みたいな目をしないでほしい。
今そう仰るってことは、これまで考えたこともなかったわけね。…それはそうか。
ジネッティ医師の家での一晩を考えれば、納得は行く。
もともと私は彼にとって、そういう対象じゃなかった。
でも、テツさまに考えてみた結果を聞く勇気はない。
私の、ちょっときわどい質問の答えを考えたって言うわりに、こういう時に、照れはないのね、この方。
「では、俺からも質問だ」
答える代わりに、テツさまは。
「ミアは」
物静かながら、挑戦するように尋ねてくる。
「俺が欲しいか」
―――――瞬間、私はどんな顔をしただろう。自分では、分からないわ。ただ。
このときはじめて、本当に本心から、…はじめて気づいた。
私はテツさまのことを言えない。私も、彼をそんなふうに見てなかった。
不遜って思考が、感情にブレーキをかける。
―――――これ以上、考えては、いけない。
しばし、私を見つめたテツさまは。
「…なるほど、な」
ふ、と黄金色の目を細め、呟いた。
表情からは、彼がどんな感情を持ったかはまったくわからなかった。
けど間違いなく、見透かされた。
どうするのが、何を言うのが、正解だったのかしら。
あとから考えても、考えれば考えるだけ、迷宮の奥へ突き進んでいく手応えしか残らなかったわ…。
ねえ、聞いてくださるかしら。
自分が仕掛けた罠にかかる気分って、こういう感じかしらね。
読んでくださった方ありがとうございました!




