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24.かくして、異端の大公は

彼らに、一応、ひらり、手を振った。無事をアピール。必要もないけど。

タイミングを見計らう。あんまり時間をかけちゃ奇襲にもならないから、そろそろ、



―――――せーのっ!



私、相手の逞しい肩を思い切り突き飛ばした。

もちろん、それでどうにかなる相手じゃない。微動だにしなかった。となれば、逆に、動きが起こるのは、私の身体。


私は膝裏を固定されて、相手の肩に担がれてる。ゆえに。

相手を突き飛ばした結果、私は膝裏を視点に、前触れなく思い切り仰け反る格好になった。

相手は、絶賛全力疾走中。リヒトフォーフェンさまから距離を取るのに傾注してた。

要するに、私に注意を払ってなんかない。この、私の見た目から、抵抗するようにも考えてなかったはず。



相手の注意が向いている方向。


それから、私への油断。


ひっくるめて、一番いいタイミングを狙った結果。



私の体勢が崩れたことで、不意を突かれた相手の腕から力が抜ける。

私の身体は、相手の腕からすっぽ抜けた。地面の上に投げ出される。


掴みなおされる寸前、私は積極的に身を丸めた。結果、完全に相手の腕から逃れ去る。


完全に意表を突けた格好。でもこれ、危険だからお勧めはしない。攫われ慣れた経験がないと、タイミングだって測れないしね。


視界が回る。けど、この程度なら、―――――受け身は万全。


間を置かず、身体に走る衝撃。地上で、ころり、一回転。でもこれなら、平気。

五体満足、無事に立ち上がる。守護の指輪も働いてくれたのかしら。痛みもほとんどない。


あ、でも。


指輪の力が動いたってことは。



―――――テツさまが、来られるんじゃないかしら。



期待か、困惑か。私自身にも判断しかねる考えが、脳裏をかすめた、刹那。

「そう言えば」

間近から落ちた声に、胃の腑が凍った心地になる。反射で心臓が竦む、酷薄な声。



いる。カイ・リヒトフォーフェンさまが、すぐそこに。




「お前は曲芸が得意だったな、ヘルリッヒ」


立ち上がった私の、右隣。体温を、感じた。




校舎側を向いた私の隣にいるその方は、私と逆方向を、向いていて。私を見てなんか、なかったんだけど。


本能が叫ぶ。すぐさま全力で逃げ出ろって。なのに。


棘だらけの蔦に絡め捕られた感覚に、迂闊に動けない。

蛇に睨まれた蛙ってこんなかしら。他人事みたいに考えるのが精いっぱいの現実逃避。二進も三進もいかず、私は立ち尽くした。

直後、背後で。



――――バ、ツン。



何かが、粉砕された、軽い振動を感じる。…風船が、割れたみたいな。

すぐさま連想したのは、オアシスでモンスターが四散した様。

重く濡れた何かが、ぼたぼたと地面に落ちる音が続く。…振り向けない。


校舎の中にいるリタとヒルデガルドさまが顔をしかめて横を向いた。

デーニッツくんが無表情で口笛を吹く。

オイレンブルクさまの冷めきった目が痛い。


隣にいたその方は、向こうを向いたまま、大きな掌を私の頭にのせる。

「こうして話すのは、子供の頃以来か、なぁ?」

じんわり、体温を移すみたいに軽く掌を置いた状態で、髪に指先を潜らせた。


触れられる感覚に、全身から血の気が引く。総毛立つ。頭を潰される自分を垣間見た気がしたからよ。




いえ、冗談でなくてね?




リヒトフォーフェンさまの行動は、先読みができないのよ。

にこやかに話してた相手を次の瞬間には半殺しにしてるなんて、彼にとっては普通だもの。


ただでさえ歪な彼の精神は、どこに傾くか分からない、常に揺らぐ天秤。


この方を前にして、最小限、貫き通さなきゃいけないことは、ただひとつ。




「お久しぶりです、リヒトフォーフェンさま」


平常心。揺らいじゃ、いけない。腹の底に支柱をがっちり据える。




頭から退かない手が気になるけど、私はすまし顔で、ぎゅっと唇をへの字に固めた。強がりと分からないように強がる。

とはいえ。


…この方、小さな頃より落ち着かれたみた、い?


だって一か所にこれだけ長い間手を置いて、何もしないなんてありえない。

昔なら髪を束で引っこ抜こうとするとかシャレにならないことしでかしてたはず。


まだちょっとしか頭に手を置いてない、長くない、短いって言うかもしれないけど、この方相手に舐めた判断は厳禁。


子供の頃は、目を合わせるだけでこれヤバイって即断するくらい尋常じゃなかった。




リヒトフォーフェン家に出入りして命をつなぎ続けることができる商人なんて、旦那様くらいだったから、必然と私も一緒について回っていて、それが縁で、私はこの方と小さな頃は頻繁に顔を合わせていたのよ。


正直言えば―――――怖かった。

この方のみならず、リヒトフォーフェン家自体がね。当時は必死過ぎて怖がる余裕もなかったけど、あとから思い出すたび、涙がにじむ。




小さな頃のこの方の印象は、とても鮮明。


泣いていたと思ったら、笑って。笑ったと思ったら、怒って。暴れて。かと思えば、疲労しきった様子で地べたで伸びてる。

部屋は常に無茶苦茶。本人は、それ以上に無茶苦茶。


前触れなく平手打ちなんて常だったわ。


ただしあの頃は、身体は私の方が大きかった。

この方は、食事もまともにとっていなかったせいで同年代の女の子より小さかった。


だから、どうにか耐えられたのね。

けど、毎度屋敷を出るたび、生き残った奇跡を噛み締めてたわ。

身に着けてた守護の魔道具が壊れた回数なんて、心の安定のためにも口にしたくない。


そう言えば、テツさまも子供の頃は小さかったわね。あの方も食が細かったのかしら。


リヒトフォーフェンさまとの記憶は忘れようったって忘れられないものばかりだけど―――――もう一種の心的外傷だもの―――――ことさら鮮明なのは、子供の頃最後に会った日のことだわ。


私は、翌日から、旦那さまについて、旅に出る予定だったの。


リヒトフォーフェンさまは何か感じるところがあったのかしら。


この方は、最初から激高してたわ。


挨拶の間もなく、凄まじい力で襲い掛かられた。

侍女たちや侍従たちの引き留める声も打ち消す勢いで、何度も何度も絶叫した。




――――――連れて来い、おれが絶対かなわない相手を連れて来い、商人なら何でも用意できるんだろうが! できないならもう死んでしまえ!!




殴り床に押し倒した私の真上から、死に物狂いってこのことかしらって思うくらい必死の怒声を浴びせてきた。






―――――今にも心が裂けそうなんだ、と。


真逆のことを心が叫んで、どっちも事実だから、どっちも選べない。

だから何を選択しても、間違いで、正解なんかない、満足したことが一度もない。満たされない。

心にかちりと合うものがない。

すべて中途半端で物足りなくて、もどかしさに暴れずにいられない―――――。






半分壊れかけてたこの方が、私を引っ掻きながら言う言葉の半分も、意味は分からなかったけど。

辟易しながら、私は彼を強く抱きしめた。

不敬よね。分かってる。

でもそうでもしないと、この方、本当にバラバラになってしまいそうだったのよ。

暴力をふるう腕を閉じ込めるって言う意図もあったけど。


私は、彼の耳元で囁いた。



―――――満足が必要ですか。



今思えば、私だって必死だったわ。この方の暴力から逃れるのに。でも、暴力に暴力で返すのは、なんだか違う気がした。

どうせ殴ったって負けるし。だからいつも、言葉で返した。



―――――満たされることが必要ですか。ならひとまず、満足できないことに満足なさったらいかがですか。



この方の無茶苦茶に対し、私は無茶苦茶で応じたのよね。

でも、その言葉の何かが、リヒトフォーフェンさまに響いたみたいで。


きょとんとした顔で、リヒトフォーフェンさまはおとなしくなった。


じっとしてる彼を見た、それが子供のこの方を見た最後の記憶。腕の中でリヒトフォーフェンさまが眠り込んだ、それを見届けて、私は旦那様の後ろに続いてすたこら屋敷を後にした。


…分かるかしら? 私がリヒトフォーフェンさまを避けても仕方ないわよね。


今となっては、身体の大きさ大逆転だから、あの時みたいに遠慮なく殴られたら命に関わるのよ。

「相変わらずつまらんが、確かにこれがお前だな…ふん」

…気のせいかしら。声の響きに、笑いが宿った、みたいな?


「まあいい、テツから話は聞いている」


何の。咄嗟に思った私はバカだったわ。テツさまから話となれば、アレしかない。

刹那、身を強張らせた私の耳に、

「ものは試しだ」

リヒトフォーフェンさまの呟きが聴こえた。試す。何を。



いえ、待って。この話の流れ。そして、相手はリヒトフォーフェンさま。



嫌な予感に、私の身体が突き動かされるように逃げを打つ、寸前。







「―――――シュラカレイドル」


耳朶近くで為された囁きは、歌みたいな不思議な響きを宿してた。







私は思わず両方の耳を押さえる。兎みたいに跳ねて、リヒトフォーフェンさまから距離を取った。

彼の手が頭から離れる。


今。…あ、今、聞いたのは、まさか。




真名。




確信を抱くなり。


一筋、針が通ったみたいに脳内に痛みが走った。

私は、愕然。でもこの方の前で動じるのは愚策。根性で堪えた。…きっと、ものすごく不快そうな顔になったわね。


実際、ひどい痛みが頭を揺らした。吐き気を必死で呑み込む。



(あ…、でも)

頭痛はすぐ、収まる気配を見せた。テツさまの時みたいに、長引く感じはない。



私の反応をじっと見てたリヒトフォーフェンさまは、どう判断なさったのかしら。

不意に。



生来の華麗さより冷酷さが際立つ面立ちに、狂的な笑いが閃いた。




「お前…聴いたな?」




それを確認するために言ったの? そのためだけに、―――――真名を?


なんて方だ。自身の命の根っこを握るものを、玩具おもちゃでも投げ渡すみたいに扱うなんて。


いえ。この方のこと、だから。…もしか、して。

胸のうち、小さな泡みたいに弾けた予感に、いっきに全身から血の気が引いた。とたん。


「なら、分かるよなぁ?」

お前だったら。


言って、リヒトフォーフェンさまは笑った。

子供みたいに素直に、…楽しそうに。

思い出すのは、子供の頃、離れる寸前にこの方が言った言葉。





―――――おれが絶対かなわない相手を連れて来い。





「おれの望み」


ええ、知っているわ。でも。




かなわない相手が欲しいと仰った、あなたの真意までは、私は知らない。




刹那。

悠然と、私に向き直ろうとしたリヒトフォーフェンさまの身体が。


―――――校舎側へ、吹っ飛んだ。跳ね飛ばされた。何かの力で。


一瞬、何が起こったのか分からなかった。

気づけば、校舎側の繁みの中に、リヒトフォーフェンさまの身体が、仰向けに倒れこんで、いて。

代わりに。

私の目の前には。



―――――肩から千切れた、腕が一本。



見えた、赤い轍に、オアシスでの出来事が蘇る。今、一体、何が。自失しそうになる。

刹那。





「ねえ、これなら楽しめるでしょう、若君」





はじめて楽しそうな声を上げたのは、オイレンブルクさま。


目を輝かせ、校舎の中から、外の繁みを覗き込む。正確には、そこにいるリヒトフォーフェンさまを。

「どうせ、暗殺者なんて、あなたに殺さるだけの雑魚なんですから、折角ならそれを利用したらどうだろうってわたしは思って、ですね」


こう…、はっきり、『命』を利用するって普通に言える神経が、私には理解できない。

こういう方だって知っていても、嫌悪をうまく打ち消すことは難しい。


腕に立った鳥肌をこすった私の視線の先で、オイレンブルクさまは、功績でも自慢するみたいな口調で告げた。




「連中の死体を糧に、北の魔物を召喚してみました。どうです?」




西方のモンスターは、狂った生態系が生み出した怪物。


北の、魔物は―――――歪んだ魔力が世界にひねり出した異界の化け物。


そんな風に、言われてる、ものを、…この方は。




学院の庭先に呼び出したって、言うの。




直後、私の視界を、巨大な影が掠めた。刹那。

―――――鼓膜がキィン、と張り詰める。思わず耳をおさえるなり。

目の前を、横切ったのは。



さ、かな?



魚だ。象の子供くらいの大きさはある巨大な魚が、大気の中を泳いでる。

そんなものが、もちろん、ただの魚なわけがない。


表面は、鱗の代わりに、ごつごつした岩で覆われてた。背びれ尾びれははがねみたい。目がない代わりに凶悪なむき出しの牙が、激しく危険を自己主張してる。



そんなものが、八体。



逆を言えば、八体、暗殺者の死体がここに転がってたってこと。消えた一人は、罠にかかったって言っても見方を変えれば命拾いしたわけだわ。




ゴミみたいに暗殺者を始末したリヒトフォーフェンさまと、その死体を召喚に利用したオイレンブルクさま。


怖さの方向性が違うけど、どっちも危険ってことは同じ。




学院の庭を浮遊する内の一体の牙には、鮮血が付着してた。リヒトフォーフェンさまのものね。

魔物特有の、生臭さが鼻をついて、我に返る。


北の古王国―――――北方の国は、かつて神人が住んでいたという太古の古王国の文明が色濃く残っていて、今もその名を継承している―――――では。


魔物に対する対策は万全だわ。

なんと、魔物の身体は魔道具の材料として高く売り買いできるものだし、捕縛できれば解体のノウハウもあったりするのよ。

だけど、…ベルシュゼッツにおいては。


魔物に対する危機管理は構築されていない。


当然よね。通常なら、国内には発生しない存在だもの。

恐怖に息が乱れそうになり、寸前、私は空気ごと怯えを飲み込んだ。


落ち着きなさい。

魔物たちに襲う気があるなら、私の命はとっくに尽きてる。いえ、まず、守護の指輪が発動するはず。


でもそうなっていないわ。なぜ?


私は慎重に、視線を巡らせた。下手に動けば魔物を刺激する。でも。

どういうわけか、魔物は私に注意を払ってなかった。それらが一心に注目しているのは。



―――――リヒトフォーフェンさま。



(あ、血の、匂いが)

大量の赤い痕跡に、ぞっとする。魔物たちは、この匂いに、惹かれているのかしら。

いえ、待って。オイレンブルクさまは召喚したと仰ったわね。


でも、どういう条件で? 召喚には、条件設定が不可欠。魔物の反応は、その条件設定次第よね。


「ほら、早く対処なさってください」

先ほどの楽し気な様子が一転、オイレンブルクさまが、面倒そうに促す。

「あなたを殺せば自由にしていいって条件で、こっちに呼び出したんですから、後片付けはお願いしますね」

…とんだ召喚条件だ。

この方が、まともじゃないのは知ってた。けど、イカレっぷりがぶっ飛んでる。その勢いでお空に消えてくれないかしら。


これが、さっきヒルデガルドさまが仰ってた、『お遊戯』。確かに、学院で気軽にやってほしいものじゃない。


オイレンブルクさまが仰る通りなら、魔物は、リヒトフォーフェンさまを殺さない限り、他には攻撃しないってことだけど。


「ほぉ」

興がる声を上げたのは、リヒトフォーフェンさま。茂みから、上半身を起こしてる。

いつ起き上がったのかしら。気づかなかったわ。私も大概混乱してるわね。

左腕を肩からもぎ取られているって言うのに、痛みの一つも感じてない顔で、八体の魔物を見渡した。とたん。


寸前まで喜色を浮かべていた顔が、すっと冷める。





「…興覚めだな」


「…いま、何と?」


オイレンブルクさまのこめかみが、神経質そうにひきつった。





リヒトフォーフェンさまが浮かべた表情。それは、侮蔑に近い。

大量の血が失われ、顔色も悪いのに、間違いなくこの方こそが、場の支配者だった。


魔物を召喚したのはオイレンブルクさまだったとしても、彼はどうとでも動かせる駒という印象がある。対してリヒトフォーフェンさまは動かせない。決して。


あっさり熱が失せた青灰色の瞳が、風景画の中の雲でも見るように魔物を映してる。退屈そうに呟いた。



「図体の割に、…怯えているようだが?」



言葉通り、魚型の魔物は、リヒトフォーフェンさまを威嚇するみたいに狙ってるけど、攻めあぐねてる感じがした。でもその慎重さは正解と思うわ。

食べようと思った相手がむしろ捕食者で、目算が狂ってるはず。


でもこの膠着状態も良くない。ここは、学院だ。他にも生徒がまだ残ってる。

思った端から、



「おいっ、そこの!」



連鎖した悲鳴と驚愕の叫びを、うるさいと怒鳴り付ける勢いでかき消し、デーニッツくんが校舎から身を乗り出した。

「校舎へ入れ! はやく!!」

刺激されたか、魔物が身を震わせる。

ただ、幸い、それきり、リヒトフォーフェンさま以外のものには意識を向けた様子がなかった。


それでも、あんまり悠長には構えていられないわよね。

いつも笑ってる気配の精霊が、戸惑ったみたいに私のそばから離れない。


だって、魔物に常識なんか通じないわ。なにが刺激になって標的をいつ変えるか、分かったものじゃないでしょう。

生徒たちを安心させるみたいに、リタが言葉を付け加えた。


「校舎の中は安全だよ、魔法陣が発動してるから!」


部外者を排除する罠は、魔物の類にも有効だわ。というか、学院に仕掛けられた魔法陣の有効範囲が広いのね。生徒を守ることに特化してる。

ただ、さすがに学院の生徒ね。逃げることにおいて、反応はピカイチ。

デーニッツくんとリタの声に応じ、間髪入れず、校舎へ駆け込んでく。


彼らに手助けはいらないだろうけど、あんまり時間もかけられない。魔法陣の効果は絶大だけど、その分、時間制限もあったはず。


意識の端で、リヒトフォーフェンさまの様子を窺う。

彼からは、すっかりやる気が消えてた。億劫に立ち上がる。片腕がないのに、気にした様子もない。

バランスを崩すこともなく、悠然となさってる。


下手するとこの方、そのまま帰っちゃうんじゃ? …自身を狙う魔物を引き連れて。


有り得る。

召喚者のオイレンブルクさまはと言えば。無言のまま神経質に窓枠を叩いてる。目を見るまでもなく雰囲気が、常軌を逸した怖さだ。


この二人に声をかける蛮勇を発揮しようとしたデーニッツくんを、私は目で制した。同時に彼の腕を引っ張ったのはリタだ。


リヒトフォーフェンさまたちに何とかしろって言うのは、間違いを起こせって言ってるようなもの。むしろ面白がってさらに面倒なことが起こる結果になる。ぜったい。


でもせめて、リヒトフォーフェンさまをこの場から動かすのは避けたい。


…だったら?





―――――あの方に、興味を持たせる何かが起こればいい。


あとは、せめて、魔物の数を減らせたら。





なにかないかしら。周囲を見渡すなり。


(あ)

私は校舎内に目を止めて、思った。

―――――あったわ。


そうよ、あれを使えばいいじゃない。そうと決まれば。


私はおもむろにリヒトフォーフェンさまの腕を拾い上げた。魔物の合間を縫って駆け出す。

踵を返そうとしたリヒトフォーフェンさまの動きが止まる。私を見て、目を細めた。青灰色の目に、興がる光が躍る。


その冷酷さに、ぞっとした。


でも、あの方が止まってくれたのは僥倖。始末はこの場でつけられたら一番いいもの。

それにしたって、この魔物、大きな壁みたいで、邪魔だわ。


でもぶつかるのは怖い。表面に毒があるかもしれないし。変に刺激になるのも嫌だ。

走るにしても、慎重になるしかない。幸い、リヒトフォーフェンさまは立ち止まってる。


私が拾ったものを見て、リタが目を剥いた。



「ミア? なに持って来てんだいっ」



…ええ、分かっているわ。私は今、リヒトフォーフェンさまの腕を抱えてる。ってことは。

この腕も、魔物の攻撃対象かもしれない。


私が地面を蹴って、前へ出るたび、というか、リヒトフォーフェンさまに近づくにつれ、魔物が続々と意識を向けてきた。危機感に、ざわざわ、総毛立つ。けど。



魔物たちの意識より、リヒトフォーフェンさまの視線の方が怖いってどういうことかしら。



「なにをなさっているのです、死にたいのですか!」

ヒルデガルドさまにまで怒鳴られた。けど、大丈夫、魔物の反応はまだ鈍い。

次第にロックオンされてる気がするけど、それだって、―――――狙い通り。


抱えた腕の感触にはあまり意識を向けないように、校舎脇の繁みまで駆け寄った私は、



「落とし物ですよ」



冷静に、すぐそばのリヒトフォーフェンさまに腕を投げつけた。

「…ハッ」

そこらの棒切れでも受け止めるみたいに無事な手で腕を受け止めた彼は、


「何を見せてくれる? ヘルリッヒ」


珍しく、弾む声で尋ねてくる。でも喋ってる暇なんかないわ。

ほら、魔物が動いた。一体。こちらに向かってくる。いえ。狙いは。


リヒトフォーフェンさま。


そのまま校舎に駆け寄る私を引き上げようとしてくれたのか、窓から身を乗り出したリタの手から、

「貸して!」

例の袋をひったくる私。


呆気にとられた彼女を置き去りに、身を翻した私は。

「…何?」

―――――面食らったリヒトフォーフェンさまの声を聴きつつ、彼の前に陣取った。そして。






両足を踏ん張って。


迫りくる一体の魔物に向けて。


開けた袋の口を向けた。


やったのは、それだけ。




それだけ、で。






――――――――ッポン。


妙に間の抜けた音を立て、魔物が一匹、その場から消失した。正確に言えば。


…袋の中に、納まっちゃったのね。


周囲に満ちる戸惑い。落ちる、沈黙。残った魔物たちもひっくるめて。

そんな中で、私は素早く袋の口を閉じた。

真っ先に我に返ったのは、袋が魔道具って知ってるリタだ。


「何すんだいっ、もうそれ、開けらんないじゃないか!」

「中身は選んで取り出せるでしょ」


「そういう問題じゃないよ…」

信じられない、と顔を押さえたリタが俯く。

収納用の魔道具って言ったら、私の腕輪もそうだけど、これは時間経過の影響を受けるのよ。

対してこの袋は、


「この中、時間が止まってるのよ。腐らないから安心して」

「何それ初耳。ってか、安心の方向性が違う」

顔を上げたリタに、私はにっこり営業スマイル。


「それにね、魔物って高く売れるのよ?」


新鮮なら、高く買い取ってもらえるはず。生きたままって言うのは滅多にない案件かもしれないけど。



「―――――魔道具か!」



いきなり上がった明るい声が、いったい誰のものか。

一瞬、皆が理解し損ねたはず。私だって、すぐにはわからなかった。けど、これは。


心底楽し気な笑い声が上がったと思えば、私の頭に大きな掌が乗った。また。

「なるほど、相変わらずだなヘルリッヒ」

…リヒトフォーフェンさま。

褒めるみたいに撫でてくる。…本当に、この方は。

とびきり厄介で、意味不明なのに、―――――たまに認めるみたいな行動を取ってくると、変に誇らしく嬉しい気持ちにさせるから、手に負えない。


もちろんこの方の要求に応え続けるなんて単に頭おかしいひとになりそうだから、そんなの、気のせいで終わらせるけど。

嬉しいかも、とうずうずする気持ちを張ったおした私に、低い声が届いた。


「デーニッツとパージェとくれば、三人組トリオ、の認識は、誰にでもあるが…」

これは、オイレンブルクさまだわ。声だけじゃ何を考えているか読めないのに、ひたすら物騒。

私が目だけを上げて、せいぜい見ることができたのは、口元だけ。


何を仰りたいのかしら。


「だが、『三人目』の名前を挙げることができる人間は、ほとんどいない。このわたしでさえ、ふと言葉に詰まるほど記憶に残っていないとは驚きだ」

これはどういうことだと思う、とオイレンブルクさまは唇だけでわらった。

「ユージーン、今はそれどころではないでしょう」

ヒルデガルドさまのたしなめる声も、彼には届かないみたいだ。


「その無害な容姿を、見事に使いこなしたものだな、ミア・ヘルリッヒ嬢? ハイネマンの名とつながる君は本来、誰も無視できない存在だ。こんな風に不自然に目立たない、自然と意識にのぼらない、そんな存在であるはずはないのに」


…わざとそうしていたつもりはないわね。

ただ、リタとデーニッツくんの間にいれば、自然と目立たなかっただけで。おとなしく、と心がけていたのは事実だけど、実際できてたかどうかは怪しいわ。


オイレンブルクさまには、どうも、とすまして応じ、私は唇をへの字にしてリヒトフォーフェンさまを見上げた。主従共に面倒ね。

でも彼らに対して、あまり慎重に対処もできない。


なにせ私は表面余裕ぶってるけど、膝ががくがく笑ってて、今にも座り込みそうなのよ。

つまり、余裕はないの。


「…腕は戻されないのですか」


あろうことかリヒトフォーフェンさまは、私が持ち帰った片腕を足元に投げ出していらっしゃる。

また、それも玩具みたいに。


出血は、止まっているようだけど。

元に戻るだろうって言う不思議な信頼もあるけど。


この状態は見た目がきつい。


リヒトフォーフェンさまはうるさそうに一言。

「面倒だ。しばらくこのままでもいいだろう」

私は、唖然。リヒトフォーフェンさまは唇だけで哄笑った。


「これなら、見た目から、きちんと異形らしいではないか」



―――――ああ、そう仰るんですね。自分の身体がどうなっていようと構わない、と。



刹那、脳内を呆けたみたいな空白が満たした。拍子に膝の震えも止まる。直後。




そこに、煮えくり返るような怒りが、どっかんと噴火の勢いでふき上がった。


…いい加減に、してくれませんかねええええぇ。




分かりたくないけど、なんとなくオイレンブルクさまの気持ちが理解できた。


何をやっても暖簾に腕押し。

言うなりになってほしいわけじゃないけど、力ないものに対する配慮が欲しい。

そう、なるほど、…そういうつもりなら。


こっちにも、考えがあるわ。



ガチガチガチガチガチ。



私の行動で、臨戦態勢に入ったか、魔物たちが威嚇するみたいに歯を打ち鳴らしはじめた。

それらを背景に、あまりの怒りにいっさいの恐怖が消えた私はリヒトフォーフェンさまに向き直る。


面白そうに私を見下ろしてきたリヒトフォーフェンさまと目を合わせ、はっきり告げる。

その、名を。







「シュラカレイドル」


とたん。







私の中から何かが抜け出た。いえ、これは、…つながった? そんな感覚がある。でもそれは力が失われる類のものじゃない。


視線の先で、青灰色の目が瞠られた。間違いない。今、私たちは。



―――――つながって、いる。命が。



だけど。

私はその感覚に、慎重に加減セーブをかけた。

精霊たちが騒ぎ始めたからよ。


―――――ぜんぶを掴んじゃいけない。すべてを暴いてはいけない。


私も本能的に、その意識に同意。礼儀正しく距離を取る。

残ったのはか細い糸が一本。でもそれで十分。


糸みたいに細い、それを伝って、私は。



カイ・リヒトフォーフェンさまに――――――シュラカレイドルに。

彼の魂に。

いのちに。

直接。



命令オーダーを下す。




「速やかに、あなたのかたちを取り戻しなさい」




何を感じたか、シュラカレイドルの口元が、引き結ばれた。直後だ。

足元で、投げ出されてた腕が、灰となって四散。代わりに。

シュラカレイドルの、何もなかった肩から。


――――――メ、キ。


異形の腕が。



生えた。



もはや、校舎内からは悲鳴も上がらない。残るのは沈黙のみ。

「く、はは」

異端の大公が、嘲笑わらう。愉し気に。

「なるほどなあ。掌握される、とは」

呟きは、心地よさげで。


「こういう、ことか」


もっとやってみろ。煽る視線を無視して、私は。

あえて、淡々と命じた。




「ここにいる魔物たちをやっつけて」




「どうせなら―――――もっと難題が良いのだが」


笑みを含んだ声が、ちょっと白けた声を上げる。

…魔物七体の排除命令が、容易いと仰る?

「ふん、だが」

シュラカレイドルの青灰色の目が、ちらと空を向いた。とたん、


――――――――ッ!


たちまち跳ね上がった魔物たちの咆哮とも遠吠えとも取れる、大音声の怪音が響く中、シュラカレイドルは歯を剥いて呟いた。



「―――――確かに頃合いか」



風が動いた、感覚があった。

でもどんな風に動いたか、私程度じゃ知覚できない。

気付けば、シュラカレイドルの姿は、目の前から消えてた。真横を疾駆した影がそれだと遅れて察するなり。


…ド、ゴン!


見送る間もなく、地が揺れた。比喩でなく、身体を襲った突き上げる感覚に、右方向を見遣る。何事。


「なあ、誰がはじめた遊びだ、こいつは?」

地にめり込んだ魔物の一体、その上に立つ生徒が、魔物の身体に埋まっていた足を無造作に引き抜いた。あれは。


校舎内で、ヒルデガルドさまが呻くようにその名を呟いた。



「レオ…」



黒金の髪を持つ、レオ・マイヒェルベックさまが、魔物の上から冷めきった眼差しを私に向ける。

「…公王さまの意向が告げられるって日に、お遊戯たぁ余裕だな?」


こうおうさまの、意向? なにそれ私、聞いてない。いえ、それが伝えられるってことは知ってるけどいつかは聞いてない。今日なの?


そう言えば、さっきデーニッツくんが、学長が呼んでるって。


「はい、だめだよレオ」


前触れなんか、なかった。

私のすぐ隣に、いきなり誰かが、立っている。

「きみ、しばらく発言禁止ね」

ゼン・イェッツェルさまが、にこやかに言った。

マイヒェルベックさまは面倒そうに口を閉ざす。


その間にも、庭先に数多の破壊音が響いてた。

魔物たちが上げる怪音が連鎖してるけど、魔法が使われてる感じもないわ。…まさかレオさまが今やって見せたみたいに、肉弾戦の状況なの? それに。


もしかして、動いているのはリヒトフォーフェンさまだけじゃないのかしら…他にもいるような…。

でもそっちを見たところで、私の能力じゃ何が起こってるか視認できない。


どうなってるの、尋ねる気分でゼンさまを見上げると。


相変わらず輝かしい紺碧の瞳が、笑みを含んで私を見下ろしていた。

「やあ、親愛なるおチビさん。そんなにかわいいのに、どうしてきみは常に物騒な出来事の渦中にいるんだろう?」

人聞きの悪い。


応えてくれる気がないらしいゼンさまを無視して、無言で庭先に目を戻せば。


―――――魔物の最後の一体が地に沈んだところだった。でも、魔物たちの周囲にある人影は、…よくよく見れば、やっぱり、リヒトフォーフェンさまだけじゃ、ない。


他に、二人。




「ご、ごめんなさい。生き物を振り回すなんて、本当はしたくないんだけど」




気弱に謝りながら、大きくて硬そうな尾びれをぱっと手放したのは、


「…え、―――――シンジェロルツさま…?」

ギル・シンジェロルツさまだ。どうして学院に。いえ、答えなんて分かり切ってるわね。

「もしかして、あの方が?」


「うん、メッセンジャーだよ」

私は思わず視線をそらした。いえ、なにもシンジェロルツさまが悪いわけじゃないんだけど。

国が下した結論を受け止めるのは、一介の女生徒には難しいのよ。


現実逃避する私の目に、リヒトフォーフェンさまが映った。

(あ、腕)

異形だったものが、もとの人間の腕に戻ってる。彼は、腕を軽く振って感触を確かめてた。

同時に、私は察した。


―――――あ、つながりが…。


真名でできたつながりみたいなものが、もう、途切れてる。

その時には、私にも周りを見渡す余裕も生まれてた。怒り心頭だった心地も下火になって、心に落ち着きが戻ってくる。

同時に。


冷静になった私の視線の先、倒れた魔物たちの合間を縫って、ある方があらわれた。

漆黒の髪、黄金の目。魔物たちをあとにする彼に、ゼンさまが片手を振った。


「テツ」


テツさままで、いらっしゃったの? ということは。

今気が付いたけど、どうやらこの場には、五大公家の真名持ちが全員、揃ってるみたい。


…見た目からして、かなり壮観。目の保養ね。関わりさえ、しなければ。


他人事みたいに思ったのは、私だけじゃなかったはず。

ゼンさまはテツさまに呼びかけ、ゴミの片づけにでも誘うように続ける。


「もう、掃除しちゃって構わない? …こいつら、醜いよ」


言葉に、冗談を言うような余裕の響きがなかった。



ゼンさまの態度に何を思ったか、肩を竦めたマイヒェルベックさまが魔物から飛び降りる。慎重に距離を取った。


同じく、聞いてたんだろう、シンジェロルツさまが猛烈なスピードで、こちらに駆け寄って来てた。


彼らを目の端に映したリヒトフォーフェンさまは、退屈そうに、校舎へと踵を返す。



それらを見渡し、テツさまが私たちの方へ戻ってきながら片手を挙げた。

「やれ」

テツさまの声に、ゼンさまがホッと息を吐く。


「息苦しいなぁこの匂い、この視界…消えてね」

優し気な口調で、有無を言わせない力が一息に、場に満ちた。

刹那。




野太い炎の柱が、校舎の間に出現。




そう言えば。

ゼンさまは、魔法の行使の加減が不得手と仰っていたわね。細かい調節が苦手だって。

ただし、こういう分かりやすい大魔法は…別ってことね。


はじめて目の当たりにしたけど、規格外だわ。


本でも差し出すみたいに気楽に行使された特大の魔法に、生徒たちが気を呑まれた刹那。









「天魔さま!!」


爆弾並みの勢いと大きさで、ギル・シンジェロルツさまが叫んだ。









この方は、引っ込み思案で、人見知りの、大人しい少年のはず。それが。

(……………………………はぃ?)


今、誰に、何つった。


い き な り 。

ソレ禁句。

同時に、きゃあきゃあ精霊たちが嬉しそうにはしゃぎだす。


ざわり、見守ってた生徒たちの気配が揺れる。

くらり、眩暈に似た衝撃が、私を襲った。


いえ、まだよ、まだ誤魔化しはきく。取り返しはつく。

ちょっとシンジェロルツさま、そこで待て、お座り!


私の心の叫びが通じることはなかった。



シンジェロルツさまは、私の懇願の視線を意に介さない。というか、気づかない。


すぐ、思い出す。そうだったわ。シンジェロルツ家は、基本、―――――おバカちゃん。



駆けてくる勢いをものともせず、シンジェロルツさまは急停止。

転がるみたいに、私の足元に正座。次いで。


「先日は」


額を地面にぶつけた。華麗に披露されたのは、それはそれは見事な、―――――土下座だったわ。


諦念に満ちる私の視界の端で、マイヒェルベックさまが、シンジェロルツさまの様子に思い切り引いてた。

立ち去ろうとしてたリヒトフォーフェンさまは向こうを向いて、肩を震わせてる。…どうやら、笑っていらっしゃる。


ゼンさまの輝く笑顔が固まった。これはあとでお説教コース。

炎の柱を背景に、テツさまが気遣わしげに私を見た。

はい、ダイジョウブです、テツさま。


炎獄の中で、魔物の身体が一瞬で灰に変わるのを尻目に、



「申し訳」



とうとうその場に座り込んだ私が聞いたのは、




「ございませんでした!!」





日常が壊れる音だった。













ねえ、聞いてくださるかしら。


大公家の方は、どうしてみんな、逃げ道を塞ぐのが得意なのかしら。




ああ、気絶したい。





読んでくださった方ありがとうございました~っ。

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