22.かくして、天魔は紡ぐ、いにしえの名を
ええ、水が。
いけない、咄嗟に、拗ねた答えを返したくなった。その誘惑を私はぐっとこらえる。
頭の中で、しばし言葉を整理。
全力と言えないまでも走りながらのお喋りは舌を噛みそうになるけど、説明なしにテツさまに付き合っていただくのは申し訳ないし。
いえ、そもそも。
この方には、こんな状況に付き合う義理がないのよ。
今すぐ、一人、街を離脱するなんて、テツさまには容易だわ。でも。
私は一瞬、瞑目。
それを、わざわざ口に出して指摘するのも愚かね。
テツさまだもの、そうなさりたいなら、とっくに行動なさってる。そうされていない意味は。
…言うまでもない。
「私は昔、西方を旅していた折に、暴走にも幾度か直面しています」
今より小さな子供だった私は当然、旦那さまと共にいた。だから、隠れる場所にも困らなかったし、逃亡が間に合わない、なんて羽目に陥ったこともない。
ただし、その頃から、確かにあったのよ。―――――逃げ遅れ、または間が悪くやってきていた旅人の死が。
自分で自分の身を守れることはこの地で生き抜くための、最低条件。ゆえに、そうやって招いた死は、自業自得って思われがちになるけど。
目の前で起こる死は、やっぱり悔しいし、辛い。
瓦礫から覗く、色あせ動かない腕が記憶を掠めた。振り払いたくて、声を張る。
「通り過ぎた直後は必然的にオアシスに行く用が増えるわけですけど」
死に足を取られてはいられないわ。生きている以上、必要なものはたくさんある。中でも飲み水の確保は、すごく大切。
そうやって、足しげくオアシスに通っているうちに、気づいたことがある。
「ずっと不思議だったんです。暴走の直後でも、オアシスの水が澄み切っていたことが」
それこそ、底まで透き通ってた。その現象は、どの街でも同じだったわ。
モンスターたちが駆け抜け、街中と同じように蹂躙されたなら、濁っていそうなものじゃない? そうなっていない状況から、導き出される結論は一つ。
モンスターは、オアシスを避けて通っている。
その可能性は、高いでしょ?
余所者の私ですら気づいたことに、地元の住人が気づいていないわけないと思うけど。それとも、当たり前の現象過ぎて、疑問にすら思わないのかしら。
まあ、試すのは、命懸けになるものね。オアシスに逃げ込めば、モンスターたちは避けて行く『かもしれない』実験なんて。
私だって、こんな場合でもなければ試してみようって気にはならなかったわ。
突如、後方から悲鳴が上がった。なにごと。振り向く。後悔した。
後方、いつの間にか人が二十数人くらい増えてる。だけじゃない。
モンスターが、皆の後ろから滑空してぐんぐん距離を狭めてきてた。
…今まで遭遇した暴走と同じだわ。翼持つモンスターが先遣隊として街に飛び込んでくるのは。
でも平気、まだ距離はある。恐れるべきは、自身の恐慌。パニックに足を取られて、いつも通りに動けなくなること。
咄嗟に私は、強くしかりつけた。
「しっかりなさい!」
目を回しかけてた幾人かの眼差しが、泣き出しそうながらも、私を真っ直ぐ見つめてくる。よし。
前へ向き直った。視線を後頭部に感じながら、鋭い声を放つ。
「もうすぐよ!」
平気、生き残るわ。大丈夫、勝算は高いから。賭けだけど!
とたん、鼻をつく水の匂い。
視界が開けた。水の反射が眩しい。
砂と水の匂い、高い気温と濃密な湿度、それらでむせ返るような空気の中、私は声を上げた。
「飛び込んで!」
私は迷わず、オアシスの中へ。
生活に使う水だけど、こんな状況で、構ってられない。躊躇いを放り出し、水を蹴立てる。輝く水しぶきが、宝石みたいだって場違いに思った。その虹色の輝きが、一瞬、一際強くなった気がする。
(…また…?)
不思議には思ったけど、気にし続けられる状況じゃない。濡れた衣服に足を取られながら、続く水音に振り向いた。
その時私は、腰まで水に浸かっている。
続々と人が飛び込んできた。人間、極限まで追いつめられた場面に、指導者がいれば、こんなに簡単に従うのかと驚くと同時に怖くなる。いえ、でも、この場合は好都合と考えた方がいいわね。
遅れた人はいないだろうか。顔を上げるなり。
「姉さん!」
焦る少年に手を引かれ、今にも転びそうな様子で未だオアシスの手前にいるのは、…さっきの、使徒の少女だ。
生命力の薄い暗い目が、オアシスの眩しさに気後れしたみたいに細められた。
二人の背後の地面に、二体のモンスターの陰影が落ちる。息を呑んだ、…直後。
―――――私は、視点が二重にぶれたみたいな感覚に襲われた。
なに、これ。どうなっているの。
視界が、二つある。
ここにいる私の視界と、はるか上空から、このオアシスを見下ろす視界だ。
違和感に猛烈な吐き気に襲われ、棒立ちになる。とたん。
砂漠の彼方から、迫りくるモンスターの群れが、見えた。
たちまち街に迫った大群が、この街の端に踏み入らんとするなり。
バツンッ!!
風船みたいに、破裂した。地面に落ちた脆い水袋みたいに…モンスターの肉体が、そんなに柔いはずはないのに。
透明な壁にぶつかって、衝突した勢いでぺちゃんこになった、そんな感じ。同時に、私の身体に微かな衝撃があった。いえ、手応え、かしら。
上空にある私の視界は、驚愕の状況を伝えてくる。
一本の川の急流みたいだったモンスターの群れが、何体かの犠牲を出しながら、街にぶつかるなり二股に分かれ、周辺を円状に回り込み、何事も起こらなかったみたいに、元の一本の流れに戻り、暴走を続けていく。力尽きるまで、終わらない。
正しくこれは、狂気の沙汰だ。
すぐ、気づいた。モンスターを通さないその形は、いつか見た祭りで、オアシスの住人が練り歩く道が最終的に象るものだ。オアシスにはじまり、オアシスに終わる。その、道に。
いつからそんなに成長してたんだろう、ヴァジュリが、白い花を咲かせて、揺れていた。群れとなって。
やがて上空の私の目に、球形の結界が見えてくる。そう、これは結界だ。
嘘でしょう、と唖然となる。この結界、間違いなく私に反応している。私が張ったって言うの。どうやってよ? 私に魔力はないはずだわ。
びっくりする意識の端に、何かが引っかかった。
くすくす笑う声。楽し気に。嬉しそうに。私の反応を、喜んでるみたいに。ようやく気付いたって言いたげに。
はっきりした思考は感じない。
ただ、私に好意的な意識がそこにあって、何かを求められている気がした。
(なに? 聴こえないわ。…え、名前?)
その意識は、盛んに訴えてくる。
いにしえの名。
たましいの名を唱えてくれ、って。
そんなこと言ったって。いにしえ…古? それから、…魂? なんだかそれって。
―――――真名みたいね。
思うなり。
腹の底から、あたたかい何かが、ふわり、浮き上がってくる。
―――――ルミアファルジュ。
不思議な響きの、確かにそれは名前だと私が感じ取るなり。
はしゃぎ、両手を叩くような明るい気配が沸き起こり、ぱっとひかりが散るように四散。
刹那、自覚した。―――――この結界の中で起きている出来事全部、私は把握できるようになってる。
地下に潜む住人の息遣いから、地上で何も知らぬげに草葉の影に潜む虫の足音まで。
従って。
目の前で起きていることも、正確に感じ取れた。
飛翔するモンスターが二体、少女に迫る。それらはおそらく、結界が生じる前に街に入ってたんだろう。
少女が、自らの腕に力を込めるのが分かった。小さな少年の手を、そのまま、振り払う。勢いを咄嗟に殺せず、たたらを踏んだ彼の喉から、
「姉さんっ?」
悲鳴じみた声が、せり上がった。
慌てて振り向いた、少年の目に、その場で転んでしまった少女が映りこむ。
―――――彼女が最初の死者。
誰もが、そう思ったはず。でも。
―――――運命は、時に、物事の結果をいたずらに掻き回す。
迫る、大きく開いたモンスターの口腔に引っ掛かったのは。
「え」
少年、だった。
転んだことで、少女はモンスターの牙の軌道から逸れたのだ。
呆気ないほどたやすく、少年の身体が攫われた。上空へ。オアシスの縁に、腕一本だけを残して。
理解はすぐだった。彼はもう助からない。
ただし。
肉を得られたのは、モンスター二体のうち、一体だけだ。
残る一体は、近寄れないのかオアシス周辺を飛翔している。少女の姿が見えてるみたいだけど、彼女がオアシスに近いせいか、思い切れないでいるみたいね。
やっぱり、ここに飛び込んだのは、正解。
テロリストみたいにもたらされた死に、呆然とする間もなく、暴走の影響を受けたモンスターがあと三体、オアシス目指してぐんぐん迫ってくるのが感じ取れた。正確には、そこにいる人間を…餌を求めているんだろう。まだ、オアシスからは見えない。
倒れた少女は、残された腕を見つめ、自失したきり、動かない。
他の皆も、薄ら寒い心地になったんだろう。ただ、オアシスに飛び込んだ人たちは、目の前で起きた他人の死より、自分が生き残れた安堵の方が強いみたい。
薄情なんじゃないわ。それが、自然よね。
時間が止まったみたいな沈黙が落ちる中。
頭を振って、私は少女目掛けて進む。周囲でざぶざぶ波打つ水が重い。
彼女自身がどう思っているにせよ、とにかく水の中に放り込めばこの場は助かるわ。
目の前で死なれるのは寝覚めが悪いのよ。大丈夫、私には守護の指輪がある。私なら、他より生き残る可能性は高い。
自分勝手だけど、これ以上の人死にはごめんだわ。生き残ってもらう。
ざぶざぶオアシスの岸辺に迫る私は、よっぽど鬼気迫る表情だったみたい。皆が避けて道を作ってくれる。ただ、幾人かは声をかけてきた。
「モンスターの様子からして、オアシスの中にいれば近寄れないみたいだ」
「それを証明したあんたが、なにもわざわざ水から出なくても」
それらに首を横に振って、私はオアシスから出る。もう時間はなかった。
二重の視界に頭は痛むけど、それどころじゃない。身体に慣れてもらうしかなかった。
水から出た私は少女に駆け寄り、彼女の首根っこを引っ掴んだ。
「自殺は私がいないところでやってちょうだい」
目の前で見せつけられるのは、気分が悪い。恫喝同然の、冷めきった声で言えば。
少女が、のろのろ顔を上げた。満ちているのは、乾いた諦念。
そう言えば、この子、使徒よね。つまりは西方のオアシスを巡回しているっていう…でも彼女には、使徒特有の、上から目線の感じがない。
巡回の中で、一体何をやらされて―――――…思った端から、彼女の指にはめられた指輪が見えた。同時に、一本地上に残された少年の腕が視界におさまる。その指にも、少女と同じ系統の指輪がはめられていた。
それには、見覚えがあった。…魔道具だ。しかも。気分が悪くなる機能の印象が強い道具。
確か―――――他者の魔力を吸い上げ、自身の魔力に還元するって言う…。要するに、単なる道具、使い手次第、なわけだけど。
やり方次第では、吸い上げられる側を殺すわ。
私の記憶が確かなら、指輪の型から推測するに、少年の方が吸い上げられる側で、少女が吸い取る側ね。
ジネッティ医師の言葉が、脳裏をよぎる。
“天魔の奇跡”“治癒”
―――――なんとはなしに、察する。
この子が、天魔ね。
数をこなそうとするなら、二人分の魔力があれば心強いでしょう。
でも、彼女の様子からして。
…無理やり、させられているのかしら。世の中という舞台で、天魔と言う役割を。
そのことに、疲れ果てている…のじゃないの?
ただの、私の想像に過ぎない、けど。
私は、思わずオアシスの中にいる他の使徒たちを振り向いた。
彼らの目は、醒めて、少女と私を見つめている。先ほどまでの命を失うかもしれない危機感にまとわりつかれた狂乱は、ひとつもなかった。
無機物みたいな眼球だ。おぞましい。けどそんな不快感に、足を取られている場合じゃない。
私は大きく息を吸った。危機は、今、目の前にある!
「立ちなさい」
「どうして」
「逃げるのよ」
「…放っておいて」
いっさいを投げ出した声に、私はカチン。
「なら引きずっていくわ」
え、間の抜けた声を上げた少女の首根っこを、両手でむんずと掴む。文字通り、わずかながらも引きずられた彼女が微かな悲鳴を上げるなり。
――――――ッ!
言葉にならない鳴き声が、間近に押し迫る。
来た。
「おい、早くこっちへ―――――…!」
オアシスで成り行きを見守っていた使徒以外が声を上げる中、私は間近にモンスターの息遣いを感じる。
早い。
でも、それが。
「なんだってのよ!」
私は全部、取ってやる。自分の命も、他人の命も。
腕に、足に、再度力を込めた、その時。
「ああ、やはり、憧れる」
私の顔に、影がさした。モンスターと私の間に、何かが―――――誰、かが。
いる。
誰、なんて。
声だけで、分かるわ。嘘。血の気が引いた。
「テツさまっ!?」
振り向いた、私の目に映った光景は。
テツさまの腕が、無造作にモンスターの牙を掴むところだった。巨体がもたらす全力の勢いに、小動ぎもせず、彼は恍惚と呟く。
「あなたの、命が燃えるさまは、実に」
うつくしい。
…いえ、テツさまの、不動の後ろ姿にこそ、美という言葉がふさわしい。
大根でも引っこ抜こうとしてるみたいな体勢の、私では、ないわ。
直後だった。
二重にぶれていた、私の視界が、正常に戻る。急激な変化に、我に返った心地で、認識に対して理解が追い付いた。
暴走が通り過ぎた。もう、街の周辺に脅威はない。残るは。
街中。目の前。結界の中へ逆に封じられたモンスターたち。
テツさまの片腕で無理に押しとどめられたモンスターの身が不自然に撓む。
面白くもなさそうに、テツさまは一言。
「…退場の時間だ」
次いで。
―――――ギャン!
モンスターが、力任せに殴られた小動物めいた哀れな悲鳴をあげた。ただし巨体に相応しい大音声。鼓膜が腫れたように感じる。刹那。
モンスターがいきなり、骨になった。さぁ、と風に流れた灰みたいなものは、肉の慣れの果てかしら。残った骨すら、瞬く間に風化していく。
いったい、何が。
一時、唖然となったけど…すぐ、私は全身、冷たくなった。この炎天下、いっきに流れ出た冷や汗のせいで。
何が目の前で起こったか、理解したからよ。
これは、テツさまの魔法。それは、分かるわ。ただ、こんな結果を引き起こす魔法が一体何か、すぐには理解できなかったけど。
え。あの、これって…まさか。
―――――時間の流れを、操作、した…?
いかなる怪物と言えど、肉体は持ってるわよね。である限り、時間の流れとは切り離せない。その、相手の肉体に対する時間の流れを、テツさまは早めた…のじゃないかしら。たとえば。
私が一秒を感じる合間に、モンスターの肉体に百年の年月を流れさせた、とか。
多分、これが正解。
理解を現実としてどうにか飲み込むうちに、周囲から、肌をぴりぴり刺してた殺意とも食欲ともとれる害意が、煙が消えるみたいに薄くなってく。
もしかして、離れた場所にいる残りのモンスターも同じ末路をたどった…?
見えたわけじゃないけど、おそらく間違いないわ。なんてでたらめな魔力。
巨大な火炎を操ったわけでも、爆風で切り刻んだわけでもない、どちらかといえば地味な魔法の使い方はいかにもテツさまらしいけど、そこが逆に怖い。
「…なんなの…」
白っぽい沈黙が落ちた中、私の足元から、ぽつん、と置き去りにされたみたいな呟きが落ちた。見下ろせば、少女がこげ茶の目を見開いて、テツさまを凝視している。
その顔には、正確な理解があった。
すぐには状況の把握が難しい魔法の行使だったはずだけど、どうやらこの子の魔法に対する造詣は深いみたいね。
それが、彼女にとって、幸か不幸かは分からないけど。
彼女が呆然と、残された一本の腕を胸にかき抱く姿に、私は少し不穏を感じた。
なんとはなしに、テツさまを背にして、彼女から守る立ち位置をキープ。でも。
私は小さいから、身の丈がどうしても足りない。
嘆いている合間にも、少女の可愛らしいともいえる顔に、はじめて激情のさざ波が走った。と見えた時には。
「それだけの力があるなら、なんであの子を助けてくれなかったの!!」
細い喉から、悲鳴に似た声が迸った。自分に向けられたわけじゃないって知っていても、怯むような怒りと憎悪がこもってる。ただし。
真正面から詰られたテツさまと言えば。
「なぜだ」
まったく、少女の怒りの理由を理解していない、と分かる態度で彼女を見下ろした。
後ろめたさなんか欠片もない声で応じる。
「なぜ俺が助けなければならない」
少女は、唖然。でも、私は。
…テツさまに軍配を上げるわ。仰る通りだもの。第一、ね?
この方の力は、安易に頼るには強すぎる。おおきすぎる。過剰なものは、放っておけば無事だったものまで壊してしまうわ。
それが世界の理か、人の心かは、分からないけど。
それに…何かに頼り続けていれば、自力では何もできなくなってしまうでしょう。
私は、自分の未来は、自力で勝ち取りたいの。できうる限り。
運命を、何かにゆだねたくない。
とは言っても、ね。
テツさまを詰りたくなる彼女の気持ちも分かるの。
だいじな相手を失った時、すぐそばにその相手を助けられる力を持った存在がいたなら、やっぱり悔しいし、責めてしまうんじゃないかしら。お門違いって分かっていても。
だからお願い、テツさま。
これ以上、あまり煽るようなことは…。
「あ、なたには、助けられたでしょう、あの子を」
祈るように思う端から、少女は食い下がった。ああ、あなたにもできれば黙っていてほしいの、心から。
私のハラハラした気分が伝わるわけもなく、テツさまはこともなげに頷いた。
「そうだな。では逆に、お前は助けたのか」
「…え?」
「その中の、誰でもいい」
未だオアシスの中にいる人たちを示し、テツさまは尋ねる。
「命の危機にさらされた見ず知らずの者がいた時、迷わず助けられるのか」
少女は言葉に詰まった。一瞬だけよ。でもその一瞬で、十分。
テツさまは彼女の言葉を待たなかった。代わりに、私の肩に手を置いて、
「この人は」
この人って誰…え、もしかして私? 単純に置物と化してた私が、いきなり渦中に立たされてる。驚きのあまり固まった。どういう展開よ?
もう、お互いこれ以上刺激し合わないでくれると嬉しいんだけど。
無事生き残れたね。よかったね。それで終わりでいいじゃない。
「俺がそばにいたが、少しも頼らなかった」
思う端から、煽るテツさま。
それは私が、テツさまの力を怖がっているからにすぎないの!
できれば私だって楽して生きたい。
意図せず浴びた注目に、心底消え去りたくなった。いや、狼狽えるまい。唇を引き結ぶ。
こういう時、唇がへの字になって不機嫌そうに見えるのは知ってるけど、今更どうにもできないわ。
「代わりに、自身の知識と体験と理解から、事態に対処し、ばかりでなく、他人も拾い上げた。…お前が大切な者の死を招いたのは、この人の慈悲を蹴ったお前の責任だ」
痛烈。
しまった。
私は臍を噛む。私はテツさまの言葉を止めるべきだった。
遅れて、私はテツさまの腕を掴んだ。もう、ここまでにしてください。伝わったのか、テツさまが口を閉ざす。
いっきに、少女の顔が、罪悪感に染まった。その上で。
彼女の顔に、奇怪な笑みが浮かんだ。
「あら、…そう、だったら、責任を取って」
残された腕に残っていた指輪、それを彼女は引き抜いた。次いで、
「この子を甦らせないと」
間近にあったテツさまの手首を掴み、その小指に指輪をはめた。早業。
「いけない…っ」
私は思わず少女からテツさまの腕を奪い返す。だってこの指輪、―――――魔道具は。
相手の魔力を吸い取るもの。
「あなた、いきなり何を!」
つい、少女を睨みつけてしまった。
彼女のことは、気の毒に思う。でも、だからって、やっていいことと悪いことがあるわ。
少女はひび割れたみたいな笑みで、私を睨み返してくる。
「それが何か知っているの? そう、でも責められる謂われはないわね」
指輪は、二つセットになっている。
テツさまの指にあるのは、吸い取られる側のもの。もう、ひとつは。
地面に座り込んだままの少女の指に、あった。
「あるところから、もらうだけよ。その人の魔力は、…無尽蔵みたいだし」
暴論だわ。テツさまは道具じゃないわよ!
彼女はさっき、何て言った? 蘇らせる、責任を持って。何を。…あの少年を、だ。
そんな、理の外にある魔法を使わせてはならない。まして、テツさまの魔力を掠め取るようにするなんて、そんなの。
術式を相手が組むより先に、指輪を引き抜けば問題はない。でももし先に魔法が発動すれば。
気が急く私とは正反対に、テツさまは一つも動じず、
「ぶざまな」
少女を見下ろし、淡々と呟いた。刹那。
―――――メキ。
木の枝が折れるのに似た音が聴こえた、と思うなり。
少女の絶叫が、天を衝いた。本能的な恐怖と苦痛に満ちたその声に、ぎょっとして私は彼女を見下ろす。とたん、後悔した。
指輪をはめているほうの、彼女の腕。それが、黒に近い紫色になって、膨れ上がっている。
その部分だけ、皮膚が蛙の体表みたいにてらつき、漆黒に染まった血管らしきものが、繊維をちぎるような音を立てて次々弾けていった。
「つくづく、愚かだな」
実験動物でも見るように少女を見下ろしたテツさまは、
「悪魔の力が人間の回路に合うわけがない」
その声が空虚なのは、徹底した無関心のせいだろう。起きた出来事が当たり前すぎてつまらない、とでも言いたげな退屈すら見て取れた。
…激痛に、暴れることもできず、全身を硬直させ、痙攣し始めた今の少女に、どれだけの判断力が残っているのかしら。
指輪の形をした魔道具の力を、この状態で制御しきれるとは思えない。
放っておけば、死ぬだけ。
たちまち入れ替わる、加害者と被害者。
少女がしようとしたことは同情されるものじゃないのに、つい、気の毒になってしまう。
私は、無言でテツさまの手から指輪を抜き取った。
力いっぱい、オアシスとは正反対の方向へ投げ捨てる。たちまち、悲鳴が消えた。残ったのは、嗚咽と苦悶の声。
「悪魔…とは、まさか、貴方は」
使徒の幾人かが、はじめてテツさまに気付いた態度で食い入るように彼を見つめている。
オアシスにいた他の全員に、その戦慄が感染していく。
こと、ここに至って、彼が、ただ事でないことを為したのに気付いたみたい。
いえ、もうその存在が、普通じゃなかった。
彼ら全員を、厳しい目でゆっくり見まわして、
「俺はテツ・アイゼンシュタット」
テツさまはしずかに名乗りを上げた。
尋ねた使徒のみならず、全員が、息を呑む。唖然とテツさまを見つめた。
アイゼンシュタット。
他の五大公家も含め、世界でもこれほど名の知られた家系もない。
「まさか…かの貴族が、公国を出るわけが」
言いさした言葉は、すぐ、力をなくして消える。
その証明は、常軌を逸した力のみで十分だったろうけど、桁外れなのは、彼の場合、力だけじゃない。そこに立っているだけで、問答無用の説得力があった。
よせばいいのに、使徒の一人が、息苦しそうに声を上げる。
「五大公家は元来の役目をお忘れになったようだ」
興味のなさそうなテツさまの一瞥に、他の使徒が責めるような甲高い声を上げた。
「貴方が傷つけた娘は、天魔の魂を持つ者です」
聞いていて、どうしようもなく、思った。嘘くさい。
わざとらしい口調ではない。とても真摯な態度なのだけど、…どうしてそう感じるのかしら。ああ、何か、伴わない、欠けているものがあるんだわ。
大仰に演じられているけど、薄っぺらい。本物は、真実は、なにもない。
そもそも。
この少女を見れば、分かる話よね。彼女が、望んでその役目をしていないことは。ゆえに。
自ら、生を投げ出そうとすら、したんだわ。
それにしたって、いい度胸だ。テツさまが何者か察しながら、責め立てるなんて。しかも。
蹲った少女が傷ついたのは、自業自得。
テツさまに責任があるような言い方をされるのは、納得がいかないわね。
テツさまは動じなかった。ただ、
「…きさまら、使徒は」
声が、低くなる。たちまち、炎天下にいるのに、極寒の湖にでも放り込まれた心地になった。びしょぬれになった衣服がひどく冷たい。
「どこまで俺を…我ら五大公家を侮る気だ」
私は顔をあげられない。つい俯いて、でもすぐに後悔した。
地面には、傷つき、泣きはらした眼で私たちを見上げた少女がいる。
彼女は怯え切った顔で、唇を紫色にして震え、歯をカチカチと慣らしてた。
その恐怖の目は、ちょっと、堪える。
「たとえ紛い物であっても」
テツさまの声は、冷静。でも、どんな表情をしているのかしら。
「せめて、相応しくあるべく努力すべきだな」
足元で蹲る少女は、天魔に相応しくない。その言葉は、同時に私をも斬り付けた。
「テツさま」
たまりかね、私はすぐそばのテツさまの腕を掴んだ。うつむいたまま首を横に振った。
「…もう、よろしいかと」
テツさまの言葉は、ごく普通のこと、だと思う。台詞のやり取りだけ見れば、私はテツさまの側に立つ。ただ。
テツさまはアイゼンシュタット家の人間。悪魔の血統。
相対し、その感情のわずかな波を浴びるだけでも、普通の人間には猛毒だわ。
テツさまは、強い。その単なる事実のせいで、彼は時に意図せず、虐げる側に回ってしまう。これでは、いらない恨みまで買ってしまうわ。
――――聞いて、くれたのかしら。
それ以上言葉は重ねず、テツさまは私の背中を押した。
街中へ戻るほうへ。エスコートするみたいに歩き出しながら、一度だけオアシスを振り返った。そこにいる、使徒たちを。
「きさまら。公国へ一歩でも入れば、命はないと思え」
それきり、存在を忘れ去ったかのように前へ進む。街へ、戻る道を。
ばしゃり、背後でいくつかの水音が上がった。振り向けば、幾人かが水の中で崩れ落ちている。テツさまの威圧に腰が抜けたのか、命が助かった安心感に膝が震えているのか。
…何にしろ、命はあるのだ。無駄に、してほしくない。
ただ、己の命の扱いはもう、本人の自由、なのだけれど。
私は上目遣いにテツさまを見上げた。表情は、どこまでもしずか。歩調にも、荒れた気配はない。
「テツさま、彼女はきっと、天魔の役を押し付けられているだけで、…望んでいるわけでは」
ないと思う。
言いさし、途中で言葉を止めてしまった。だってそんなの、テツさまなら、言わなくても察していらっしゃるはず。
それでも、あんな厳しい態度を取った理由は。
「望まないなら、逆らうこともできたはずだ」
私はつい、言葉を飲み込んだ。
その通り。テツさまなら、そう仰るわよね。私は諦め半分、口を開いた。
「逆らった場合に待つのが死なら、私はおとなしく従います」
仕方ないじゃない。誰もが皆、強いわけじゃないわ。
「従うことを選択したのが、もしミアなら」
テツさまは真っ直ぐ前を向いたまま応じる。
「その事実をきちんと受け止め、自身の責任のうちに処理をする。間違っても、他人に八つ当たりをしない」
さっきの彼女は、状況を受け入れていながら―――――少なくとも使徒の許にいれば、最低限、衣食住には困らないってメリットがあるし、それと自由を一度も天秤にかけなかったわけがないわ――――それを強いた周囲を間違いなく恨んでいた。
私? そうね、私なら…恨んでしまうかもしれないけど、見栄を張るでしょうね。この程度へっちゃらだって、強いふりをする。
だってたとえどれだけ苦しくっても、半端に揺らいでいる無様な本心を言い当てられる方が恥ずかしいと思っちゃうのよ。
バカでしょ。いいの、バカだって、自分で思うわ。
なんにせよ、あの少女が状況を恨んでも仕方ない、ことだと思うの。
でもテツさまは、そういった半端さを許せないのね。たとえ泥でも、受け入れたからには、底まで飲み干したなら、少しは認めてくださるのだろうけど。
…本当に、厳しいわ。
隣に並んでいるのが場違いな気が強くなって、私はつい、歩調を緩める。後ろに下がろうと思ったのよ。
なんとなく居たたまれなくて、場つなぎの言葉を口にする。
「お腹立ちですか」
「何に対してだ」
「使徒を見捨てなかったことです」
「ミアは」
ふ、と黄金の目が、私を一瞥なさる。
「醜い行いをしない」
…どういう意味かしら。図りかねる。それきり、テツさまは前を向いた。いいとも悪いとも評価なさらない。
内心、困り果てた。テツさまにとって何が正解か、分からなくて。
少なくとも今回は、間違っていない、そういうことよね。
それに、テツさまがどう判断しようと、結局、私は私がしたいようにしかできないわ。
それによってテツさまに見限られたら、…辛いけど、仕方ない話よね。
「テツさま」
街の方へ引き返す道筋に、私は察しながらも問いかけた。
「今からそれぞれの施設へ報告…と言いますか、あいさつ回りに?」
思えばそれが、当初の目的だ。
「ああ。疲れているところ悪いのだが、暴走は終わった。障害はなく、こちらも五体満足なら、約束事はこなして行きたくてな」
基本、律儀な方よね。
ベルシュゼッツからテツさまを引っ張り出してしまったのは私のミスなわけだし、文句はない。…ないんだけど。
気のせいかしら。なんだか、テツさまの歩調もゆっくりに、なって、いらっしゃる?
なんで?? これじゃまた、隣に並んじゃうわよ。
なんとなく私の歩調が、さらにゆっくりになる。
あまりこの状況に触れたくなくて、私は別件で気になっていたことを口にした。
「…そう言えばテツさま、私、先ほど結界を張ったような気がするんですが…」
「そうだな」
返ったのは、真っ直ぐな肯定。迷いも惑いもないわね。
テツさまが気のせいだって言ってくれたら、私、とっても嬉しいんですが。
期待は真正面からぶち壊された…。やけっぱちで、さらに尋ねる。
「なぜでしょう、私、ずっと魔力はないと言われていたんですが」
後天的に、いきなり魔法を使えるなんて、そんなこと、あるのかしら。聞いたことないわ。
もとからないって思って生活してたものが、いきなり、持っているよって言われても、対応に困る。
余計な手荷物が増えた気分。いえ、喜ぶべきかしら? どうしてか、そんな気になれないのだけど。
しかもなんだか私、…真名があるみたい、よね? それこそ、なんで今まで知らなかったのかしらって世界だわ。なにがなんだか。
テツさまは気難しそうな顔になる。
「前から言おうと思っていたのだが」
テツさまは当たり前みたいに告げた。
「ミアは魔法が使えるはずだ。魔力がある」
極めつけに、不思議そうに、仰る。
「なぜ、魔法が使えない、という話になったんだ?」
晴天の、霹靂。
とうとう、私たちは隣にならんだまま、立ち止まってしまう。
内心、ぽかんとしながら、表面だけはきりりと私。
「テツさま、どうぞ、お先に」
ささ、と前方を手で示せば、テツさまは少し考え、首を横に振った。
「いや、ミアが先に行くべきだな」
こういう譲り合いは、いらない。
私は無言でテツさまの背後に回り、その背中を両手で押した。
「何をしている?」
「背中を押しています」
「そうなのか?」
全力で押しているのが伝わっていない現実に、私はちょっと泣きそうになった。
いや、めげてなるものですか。
進みましょう、さあさあ。
こうやって、ようやくテツさまは歩き始めてくださったけど。
最終的に、迷子になってはいけないからと手をつないで歩くことになった。
迷子…どっちが迷子で、どっちが保護者かしら。
ねえ、聞いてくださるかしら。
なんにしたって、婚約者の立場とか距離感じゃないわよね、これって。お互いに。
砂漠のお話完了です。距離が近付いたような、離れたような。
読んでくださった方ありがとうございました~。




