2.逃げられない
私ですか?
申し遅れました。私、ミア・ヘルリッヒと申します。
貴族と騎士の国、ベルシュゼッツ公国の市民権を有しております。
公国のみならず、大陸の流通の大半を握っていると噂のジャック・ハイネマン邸宅で、下働きからメイドの仕事、果ては旦那様の仕事のお手伝いという名の雑務までこなしております、
有態に言えば、一般人ですね。
以後、よしなに。
なので、堅苦しいことは抜きでお願いね。
そうね、本当に単なる一般人なら、伝統を重んじる、格式も学力も学資も天高く届くガルド学院に通うには、いささか資格に欠けるわね。
よく言われるわ。教師からも生徒からも。彼らからの評価の影響ってわけじゃないけど、場違いよねって実感ならしているわよ?
けど、そもそも、ガルド学院に通うなんて選択肢、かつての私の中にはなかったの。
通って数年経つけどまだ夢みたい。なのになんでここにいるのかって言えば。
…そうねえ、問題があったから、かしら。
私が何かを学びたくとも、街中の学び舎では、難しかったっていう…あえて言うなら、それっぽっちの問題…支障がね。
そして、ジャック・ハイネマン―――――旦那様は『それっぽっち』を見過ごさなかった。
これが、一番の問題…と言うか、障害、だったのよ。
学び舎に行かないのはどうしてだい、っていう気遣わし気な旦那様の質問に対して、軽い気持ちで市街の学び舎に行かない理由を正直に答えた私もそりゃ悪かったわ。
でも、本音を言うなら、旦那様。
私、望んでいなかったのよ。ここまでのこと。
正直言うと、やり過ぎよ?
もちろん、旦那様が私の将来性を先買いしてくださったことは、嬉しいし、ありがたい話だけれども。
…だから「今日から学院に通えるよ」って嬉しそうに言った旦那様が、私の喜びを望んでいた以上、ありがとうございますって以外の言葉なんて口にできなかった。
あのとき。
―――――こんなことになるって知ってたら、どうしたかしら。
校舎の陰に隠れるようにうずくまった私の耳に、始業のベルの音が聞こえた。
隣に同じようにうずくまったお姫さまが、わくわくした顔で囁く。
「どうしましょう、ミアさま。授業をサボったのなんて、はじめてよ、わたくし」
ベルシュゼッツ公国の社交界で、白き花と称えられる最高の淑女、シルヴィア・イェッツェルが何も塗らなくても健康的な桃色の唇の前で両手を合わせた。
私も同じです。言いたいけど、同調してたらこの方に呑まれて終わりだわ。自制。
授業をサボるなんて、学費を見てくださっている旦那様に心の底から申し訳ない。
内心流れる血の涙は量を増すばかり。溺れそうになりながら、私は真っ直ぐシルヴィアさまを見た。
あの場からの命からがらの逃亡に巻き込、いえ、連れ出して来られたのだもの。
何も言わずこの方が私についてきてくださった思惑は察せないけど、今はその気紛れにすがる外ないのよね。
「単刀直入にお聞きします。お許しくださいますか」
面白がるように、シルヴィアさまの大きな空色の瞳が笑う。
「なにかしら」
聞いてあげるから、言ってごらんなさい、と促された。
輝く長い金髪が、さらりと肩から流れた。
正しく天使の美貌でありながら、態度は上に立つことに慣れた者特有の傲慢さがある。鼻につく態度ってわけじゃない。
この方は、どちらかって言えば、無垢な気高さが際立つ。
時間をくださるだけ、ありがたい話だわ。一蹴されて終わりってパターンも私は予想してたもの。
シルヴィアさまは単にきれいなお人形さんじゃない。野心家の父上を持つだけあって、なかなかにシビアな現実家。その上、才女。
まだどこか片隅に求婚を受けた熱が残ってる頭で、私ははっきり申し出る。
「先ほどの茶番を笑い話に変える知恵をお貸し願えないでしょうか」
この方相手に腹芸なんて、始める前から敗北は見えてるもの。
真正面から頭を下げるのが、一番の近道。たとえどんなに愚直でも。
「そんな、茶番だなんて、ミアさま」
大きな空色の瞳をさらに大きく見張るシルヴィアさま。その右手の薬指には、婚約指輪。
今はそれがすごく気になってしまうわね。
「テツさまの求婚を受けたばかりじゃないの。そんなの、テツさまが気の毒だわ」
つい、胡乱な目になる私。この方は、知ってるはずだわ。
あの求婚が、シルヴィアさまに向けられたものだって。
なのに、私への求婚って話を押し通すつもりでいらっしゃる?
いえ、かわそうとしているのね。話したくないことがあるのかしら。
その態度のせいで。
深刻な事情の影が垣間見えた気がするわ。
内心、舌打ち。聞きたくないわね、そんなの、頼まれたって。
貴族の、やんごとなき事情なんて、古今東西、厄介ごとに決まってるもの。
それをどう伝えたらいいかしら。
「アイゼンシュタットさまとシルヴィアさまは、婚約者であらせられます」
まだ両掌でつかんだままの花束が、再度目に入る。
そう、お二人は既に婚約なさっているのよ。
言葉に悩み、言いよどむ私に、助け舟のつもりかしら、シルヴィアさまはやさしげに告げる。
「安心なさって、ミアさま」
胸をおさえ、シルヴィアさまは可憐に微笑む。それだけで、周囲の光が増した心地になる。すごい。
「わたくしとテツさまとの婚約は、互いに貴族の責務でしかございませんのよ。ですから、わたくしたちの婚約は、先ほどの求婚の壁にはなりえませんわ」
諭す物言い。言い含められませんからね? それとも、言い含められたふりをする方が利口なのかしら。
どちらが保身の道か、…悔しいけど、読めない。
迷ったけど、結局私は、初心貫徹を選択。
「それでも、婚約は婚約ですわ」
二人の結婚は当然の成り行き。黙って待ってれば、二人は夫婦になる。
でもアイゼンシュタットさまは、わざわざ人目につく場所で、求婚って手段に出た。
断れないように。逃げられないように。冷静になれば、わかる。
腑に落ちないわ。
「今すぐに結婚、の勢いで求婚なさいましたが、お二人はまだ学生。卒業なさるまで、結局は現状維持となるはずです」
お二人が、それが分からないほど愚かとは到底思えない。揃って、聡明すぎるほど聡明だもの。
恋の熱情に狂って、なわけもないわね。私はたまにシルヴィアさまの取り巻きの一人と化して、お二方の並んでいる姿を見る機会もあったのだけど、彼らの間に流れる空気は、いつも理性的だったもの。
敬意はあっても、恋情とは程遠い感じ。
今、退学してまで結婚を強行するつもりも、どちらにだってないはずよ。
だったら、出る結論は一つしかないわ。
「何か、ご事情がおありなのでしょう?」
色恋沙汰とは、もっと別の、―――――貴族らしい泥沼な何かが。それこそ、
「厳格とはいえ、聡明でお優しいアイゼンシュタットさまがあのようにせざるを得ない事情が」
本来、賢明である方が、道化を演じてでも、ああしなければならない理由なんか、私には想像もつかないけど。そのほうが、きっといい。
泥沼に、頭のてっぺんまで浸かる覚悟なんか、私にはない。
「お話しされたくないなら、その理由はお聞きしませんから、どうか」
ご協力を、と私。
シルヴィアさまは、類稀な才女。この方なら、先ほどの出来事だって、覆す知恵を持っていらっしゃるはず。
なんなら、私が悪者になっていいから。
シルヴィアさまは、私を、じっと凝視。でも、長くない。ふっと肩の力、抜いた。
そのときには、なぜか。
まるで、私を始めて見たって感じで不思議そうに見つめていて。
「…あの?」
「お許しくださいな」
いきなりの謝罪。面食らう。首を傾げれば、シルヴィアさまは薄く微笑んだ。独り言みたいに続ける。
「わたくし、ミアさまを、ただ、可愛いらしい、おとなしいだけのお人形さんだと思っておりました」
私は単なるチビなのであって、可愛いというのとは違うはずだけど、中身の棘を外見という甘味でくるんだ小娘、と評されたことはあるわね。
シルヴィアさまは、まさに今、そう仰ったのかしら。
なんとなく警戒心が湧いてきたわ。私、何か失敗したかもしれない。
侮られていたほうが、うまくいくことも多いもの。
シルヴィアさまからはじめて、対等の相手を見ているような眼差しを向けられ、落ち着かない。
今までは、小動物相手って感じだったものね。
身を固くした私に、シルヴィアさまは安心させるみたいに微笑んだ。
「風よ」
すっと虚空に手を伸ばす。誰かをさしまねく動き。たったそれだけなのに、すごく絵になる。優雅さに、一瞬、見惚れた。
「わたくしたちの声を、隠してくださいな」
え?
思った時には、一瞬で私たちの周囲に結界が成立する。
嫌な予感しかないわね。
「あの」
私の言葉を遮るように、シルヴィアさま。
「少し、花束を貸してくださる?」
逆らう理由…ないわ。
命綱みたいな心地で掴んでたそれを、微笑むシルヴィアさまに無言で手渡した。
「光の中に、輝く姿を現して…そうね、器として」
シルヴィアさまが、左の人差し指にはめていた指輪の宝石…いえ、あれは魔石ね。
それが、きらと輝いたのが、その時ばかりは確かに見える。たちまち、花束の根元に、小さな器が顕現。水晶みたいに透明なそれは、
「水?」
「寮に戻るまでは保つはずよ」
口の小さな器と化した水は小揺るぎもしない。ただし、中の水は、ちゃぽんと音を立てた。
手渡されたそれを受け取りながら、内心舌を巻く。
相変わらず鮮やかな魔法の手並みだわ。その隙に、シルヴィアさまは一言。
「ねえ、聞いてくださるかしら」
懇願の形をとった命令を、口になさったの。命令、しかも、形は懇願だから、余計断りにくい。
いえ、本人にそんなつもりはないのでしょうけど。
是と答える以外、道はなかったわ。遠い目になる、私。促されるまま、表向きは平然と、
「はい」
冷静に応じた私に、シルヴィアさまは愛くるしい笑顔を向けてくださった。
生じた私の中の後悔をいっきに軽くしたくらいだもの、恐ろしい魅力よね…。
「実はわたくし」
ペットの不始末に悩むような態度で、頬に手をやり、ため息をつくシルヴィアさま。
「公王さまに求婚されましたの」
幸運にも、間抜けをさらしたのは、顔だけで済んだわ。私はシルヴィアさまを無言でみつめる。
公王って、あれよね。
我がベルシュゼッツ公国の最高権力者。
五大公家から選ばれる、最も魔力が強いとされる怪物…失礼。それよりも。
「御年、四十八とお聞きしておりますが」
「正解よ。よくご存じね」
シルヴィアさまが、可愛らしく拍手。あ、ありがとうございます…じゃなくて。
シルヴィアさまは私と同学年。つまり、十五・六歳。―――――全力で気になる年の差。
「もちろん、公王さまご本人の意思ではないのだけれど」
シルヴィアさまの声は、冷静。あ、左様ですか。ホッとした。
イイ年した自国の頭が少女にお熱なんて居たたまれないもの。
「強い要望があったの。お父様のね」
咄嗟に、私は目の前にいる高貴な少女の名を呼んだ。引き留めるように。
「シルヴィアさま」
断固と首を横に振る。権力争いの一環なんて、一般人が耳にしていい話じゃない。
シルヴィアさまは、私の無言の訴えを理解しなさった。のに。言葉を止めなかった。逆に後押しされたって態度で。
「お父様はね、公王さまの周囲に、イェッツェルの影響が欲しいの」
耳を塞ぎたい。もちろん、ありきたりの話ではあるけど、生々しさが段違いというのかしら。
既に公王さまには妃殿下もいらっしゃるし、ご側室も数名控えている。でも確かに、その中にイェッツェル関係者はいなかったと記憶してるわ。
本気でもうそこまでにしてください。私、苦い顔は隠せてないはず。なのに。
シルヴィアさまは、さらに聞きたくない情報をくださった。
「でも、お兄様は反対なさってるわ。女として使い捨ての駒にするより、イェッツェルの領地の繁栄にわたくしの頭脳が役立つ、と」
家族間の話なのに、天秤にかかっているのが利ばかりで、私は聞くのが辛い。
それ以前に、マズい。
知ってしまった以上、―――――逃げられないじゃないの。
「板挟みで望みも言えなかったわたくしに、テツさまは同情なさってた」
他人事みたいに仰るのね。たまに、シルヴィアさまはこんな態度を取られる。
心配だけれど…実のところ、これ以上、何の反応も返したくなかったわ。
本当に本当に、心の底から。
だって、返事をすれば、それで終わりよ?
共犯者にされる。秘密を知った以上は…ってね。でも。
「それが、先刻の求婚につながるのですか?」
どうもこれは、私も無関係じゃない。
「おそらくね? もしわたくしへの求婚があの場で成立したならって、結果を考えてみて」
シルヴィアさまが私の方へ身を乗り出してこられる。
キラキラした空色の瞳に覗き込まれた。近い。眩しい。
つい顔をしかめ、身を離したのは、仕方ない話と思うの。
シルヴィアさまの寂しげな表情から目をそらし、私。
「アイゼンシュタット家が黙っていません」
「そうなの。お父様も公王さまも、立ち止まらざるを得ないはずよ」
うわあ、問題が大きい。大公さまと公王さま、双方の行動に待ったをかけるなんて。
え、アイゼンシュタットさまは、さっき、それをしようとなさっていたの? つまり。
私、邪魔をし た ?
愕然となった私を捨て置いて、シルヴィアさま。
「ただ、今回の求婚、計画なさったのは、おそらくお兄様よ。それだけ、家にわたくしを残したいのね。テツさまは同情してくださっていたとはいえ、積極的に何かをなさろうとは考えないはずだもの。お兄様がテツさまを巻き込んで、テツさまはそれを受け入れたってところかしら」
求婚時のあの態度からして、アイゼンシュタットさまの本意ではなさそうな気は、確かにするけど。
うん、でもちょっと待って。その計画、ついさっき、ぶち壊しになっちゃいましたよ?
あら、もしかして私。
シルヴィアさまのお兄様、―――――ゼンさまの不興を思い切り買っているのではないの?
どうしたらいいのかしらこれ。
冷や汗が止まらないわ。
「ですが。シルヴィアさまの公王さまへの輿入れの件、アイゼンシュタット家側も織り込み済みなのではありませんか? シルヴィアさまのお話ですもの、婚約者のお家をないがしろにするわけにはいきませんよね?」
シルヴィアさまは微笑んだ。冷めた目で。
「アイゼンシュタット家側は、わたくしの公王さまへの輿入れの件をご存知ないわ」
「シルヴィアさまのお父様たちは、黙ってそのお話を進めていらっしゃったということですか?」
まさか、そんな不義理な。あり得ないわ。
思いながら尋ねると、シルヴィアさまは噛んで含めるように言った。
「テツさまはご存知だったけど、アイゼンシュタット家からは何の問い合わせもなかったもの、―――――お父様の方へもね」
事実みたいな顔してシルヴィアさまは仰ってるし、嘘とは思わないけど、だから逆に。
なぜそんな裏事情、ご存知なのですか、なんて…ちょっと聞けないわね。
家族間で密偵のやり取りしてそうな根深い闇が見えるもの。
他人の家の布団はみだりにめくってはいけないのよ、とおっとりした母の言葉が脳裏に蘇った。
なら、別のことを尋ねましょう。
「…アイゼンシュタットさまは、ご実家へ報告なされないのですか? ご自身のことですのに?」
「もう一つ、テツさまはご存知なの」
天使のように麗しい少女が、嫣然と微笑み、己の秘密を口にした。
「わたくしが、誰とも結婚したくないってことを。だから、ご実家にも報告を上げなかったのよ。テツさま自身は…結婚なんて、してもしなくても同じと思っていらっしゃるわ。ただ、今は…どうかしらね」
聞かなかったことにします。言えたら、どんなにいいかしら。
「とりあえず、わたくしの本心は、お兄様もご存知ないのよ。知っているのは、テツさまと、…今は、ミアさまだけね」
ふふふ、と微笑み、シルヴィアさま。
「だからね、協力を乞うのは、わたくしの方。選ぶ権利があるのは、ミアさまなのよ」
自身の唇の前で両手を合わせ、彼女は小首をかしげた。
「お父様もお兄様も勝手をなさるんですもの、わたくしも全力で勝ちを取りに行きますわ。そのためにも、ミアさま」
さっきの求婚は、運命の分岐点だったのかもしれない。
シルヴィアさまにとっての。
よくよく見れば、彼女の瞳に炎が宿ってる。
シルヴィアさまが、私の名前を繰り返すたびに、冷や汗が増すわね。
今の短い会話の中で、私はいったい、どれだけの間違いを犯したのかしら。
眼だけはやたら真剣なまま、シルヴィアさまは軽く言った。
「ミアさま、知恵をお貸し願えませんか? 結果がどうなろうと、それが叶うならば、天法に誓って、シルヴィア・イェッツェルは生涯、ミア・ヘルリッヒさまを裏切りませんわ」
ねえ、聞いてくださるかしら。
私、逃げたい。
たった今、逃げ道全部塞がれてたって察していても。
読んでくださった方ありがとうございました~。