16.夜の砂漠の饗宴
ここは、どこかしら。
夜。屋外。頭上には、月。何はともあれ、寒い。周囲を見渡した。何もない。
寸前まで、寮の部屋にいたのになあ。
寝間着姿でぽつんと立ち尽くし、私は状況を冷静に判断した。どうやらここは。
砂漠ね。
ひとまず、現在において、周囲に危険はないみたい。でも、いつ状況が変わるかなんて分からないわ。ぼさっと突っ立ってても仕方ない。一つ息を吐いて、私は動き出す。
月明かりの下、左手首にはめた華奢な腕輪の魔石部分を回す。
決まった回数を正確に回せば、転がり落ちてきたのは、丸い球。腕輪の魔石部分より大きいからどこから出てきたんだって感じだけど、この腕輪、収納専用の魔道具なの。しかも、周りの魔素を勝手に吸収して機能してくれるから、魔力の補充も必要ない、理想的な永久機関。
ただ、物質の劣化だけはどうにもならないから、手入れはきちんとしないと。
なんでそんなの寝てる間も当たり前に身に着けてるのかって?
そりゃ、昔から波乱万丈だったからよ。あ、私がじゃないわよ。周囲の人がね。そしてなぜかその騒動に、私は絶対巻き込まれてきたのよ。
だから、非常事態に備えて、こういうものを常に身に着けていないと落ち着けないのよね、逆に。
子供の頃、指摘してきた大人に素直に答えたら、可哀そうな子って同情されたっけ。
以後は答え方に気を付けてるわ。
まあ、生きている以上、どこにいても危険はつきもの。今回だって。
自然、眉間にしわが寄った。
学院内で、ノックもなしに部屋に入ってきて、罵声と共に転移の機能が付いた魔道具を、いきなりぶつけられるとは思わなかったわ。
私はいつも通り寮で自習して、さあ寝ようかってところだったのよ。
罵声には、慣れてるけど。
なんとなく、右手にはめた婚約指輪を意識した。
今回のことは―――――絶対、レオ・マイヒェルベックさまのせいだわ。わかってるのよ。
魔道具を投げつけてきたご令嬢の顔だって、はっきり見たし。あの方に、熱烈に言い寄っているご令嬢の一人だったわ。
彼女には、今日の昼間、傍目にはよろしくない場面を見られているもの。
私はその時、マイヒェルベックさま特有の、悪趣味な悪ふざけに付き合わされたのよ。
それだけの話で、私には何一つやましいところがないから、堂々としてたんだけど。
きっとその態度が逆効果だったのね。
私はちいさく吐息。
スリッパを履いたつま先に落ちた丸い球を取り上げ、指の爪で軽く弾く。とたん。
夜の中、微かな明かりの形で、大陸の地図が浮き上がった。
これも魔道具。しかも結構な詳細まで浮き上がる地図。一番重要な機能は、持ち主の現在位置を、赤点で示して教えてくれるってこと。
じっと見つめること、数秒。あった。ぱちり、瞬き。
どうやら私は、大陸の西側の砂漠に飛ばされたみたいね。ただ幸い、大陸中央に位置するベルシュゼッツからはそんなに離れた場所じゃないわ。
…国外、ではあるけど。
居場所は分かった。続いて、地図の端っこに出てくる時間帯も目の端で確認。
あとは、群青の夜空に浮かぶ月を見上げた。
位置から見て、まだ真夜中も過ぎてない。場所は移動したけど、時間はさっきまでと同じみたい。
なら、状況的にはましな方ね。
地図をしまう。また魔道具を操作。今度は着替えを取り出す。動きやすいシャツにパンツ。砂漠を寝間着でうろうろするのは自殺行為でしょう。
堂々と着替えたわよ、外だけど。できれば避けたい行為だけど、周囲には生き物の気配がないどころか、これじゃ、人間だっていないわ。
靴も取り出す。さすがに砂漠でスリッパじゃね?
てきぱき、ブーツを履いて、男性用の分厚い上着を羽織った。
冷えてきた指先を温めるために大きく息を吐けば、大気が白く濁る。なにせ、砂漠の夜だもの。夜になれば、気温は極端に下がる。逆に、日中は茹だるくらい高くなるはず。
立ち止まっていても、身体は冷える一方だわ。私は大股に歩きだす。ただし、音は立てないように慎重に。なにしろこういうところ、変な生き物が多いのよ。
巨大なモンスターが地中に潜んでるなんて普通だわ。
でも身を隠すところがない以上、立ち往生してたって仕方ないじゃない?
ひとまず、夜の間にできるだけベルシュゼッツ目指して歩くほかない。
ある程度歩いて移動して、夜中を過ぎた頃に穴を掘って影を作って、日が出た時間帯はそこで大人しくする、そして日が落ちたらまた移動…ってところかしらね。灼熱の炎天下、日光を遮る場所もなく歩き回るなんて自殺行為だし。
水も食料も武器も、魔石の腕輪の中に入っているから、数日ならサバイバルも可能だわ。
さっき地図で見た距離なら、水が切れる前に、人が住んでる場所にたどり着けそうだから、問題ないわね。
それにしても、あのご令嬢も過激な行動に出たものね。
普通のひとだったら、寝る直前、夜の砂漠に飛ばされたら為すすべなんかないわよ。
ただ、過激な行動に出るご令嬢が現れても、おかしくなかった状況ではあるわよね。
確かに、休日の昨日、私は天魔だと―――――自覚はないし、そもそも天魔って何かがよくわかってないから、私は違うと思うとしか言えないけど―――――証明されたみたいだけど、いきなり公になったわけじゃない。現状、秘匿状態なわけ。
情報は、騎士たちが宮に持ち帰って、それを公王さま初め、お偉方が判断して、方針が決まる流れだけど、結果ばっかりは私にも予想がつかないわ。
現在、国外に出てる旦那様と連絡を取るとか取らないとか。迷惑をかけるのは心苦しいけど、あの方しか、私の保護者はいないし。
一応、私の希望は伝えているけど、どうなることか。
そんなわけで、天魔の情報が公になっていればともかく、今、私はただの平民。
なんにしたって、それが私の正しい在り方だとは思うから、こういった状況になってしまったのは、かえって安心した心地もあるわね。
うん、まあ、…過ぎ去ったことよりも、問題は。
今、現在。
―――――気のせいかしら、背後の砂が、下から突き上げられるみたいに盛り上がってきているのだけど。
気付かないふりしてどんどん歩いて来たけど、そろそろそれも限界ね。
あ、これ、…アレだわ。
記憶の中、思い出したくない映像を拾い上げた刹那、私は大股歩行を全力疾走に切り替える。
砂だから走りにくいって言ってる場合じゃない。
音から判断するに、背後じゃ相手が砂を跳ね上げ、その身を月光の中にさらした。…はず。
地上に落ちた薄い影だけを確認、振り返らず、私は走り続ける。
夜闇に躍り上がったそれは、おそらく。
―――――砂モグラって呼ばれるモンスター。ただし見た目はミミズに似てる。
体格はずんぐりむっくりなんだけど、皮膚がね、こうね。そして、口。
身体の端っこ、前後両方についてるのよ。排泄は身体の真ん中の穴からするとか。唇はない。裂け目の奥に、ぞろっと細かい牙が蠕動している感じ。それらが、とにかく巨大なのが一番の問題。成人男性だって束で一飲み。悪いけど、ああ鳥肌が。
―――――ザンッ!
水に潜るみたいに、砂の中、相手が飛び込む。ばさぁっと背中に砂を被るけど、構ってられない。だってこれ間違いなく、私を追ってる。餌認定受けたわね。
とにかく走る。走りながら考えた。
ええと、コイツに対する対策って何だったかしら!
必死で頭を回転させた。昔、遭遇時に大人たちが取った行動を、記憶の中、全力で追跡。
そうだわ、水。
砂漠は水が少ないから、たまのスコールは巨大な恵み。その恵みを、砂漠の動植物は最大限受け取る。
水が与えられたら、まずはそっちに集中するはず。
水は持ってる。持ってる、けど。
それでどれだけの時間が稼げるかしら。その間に逃げられなかったら…砂モグラはさらなる強敵と化す。これだけ大きいと、私が持ってるナイフぐらいじゃ、奥にまで通らないし。
水で満足して、追ってこなかったら助かるんだけど、希望的観測かしら。せめて水の中に入れる毒とかあったら有効そうだけど、そんな物騒なものまで学院に持ち込めない。
とか思ってる間にまた跳ねた。…決めた。
―――――得られるのが、わずかな時間でもほしい!
腕輪を操作。水の入った革袋がひとつ、落ちる。操作してた手でキャッチ。次いで、足を止めた。砂の上、駆けてきたスピードを殺しきれないまま、振り返る。
おぞましい造形のモンスターはすぐそこまで迫ってた。
視覚へのダメージに血の気が下がる。けど負けてられない。革袋を振りかぶる。
「お礼には、こないでいいから!」
ぐば、と円形に広げられてる口目掛け、おもいきり投げ入れた。あとは、知るか。
飛び上がったモンスターが最初に予測させた軌道が、わずかにずれた。
予測より、もっと向こうでその巨体が落ちる。
よっしゃ、水に意識が逸れた!
見届けるのも後回しに、砂を蹴立て、私は方向転換。
転びそうになりながら、ひたすら全力疾走。いえ、相手が地面の振動で餌の位置を特定しているなら、走らないほうが賢いのかしら。でも今回の場合、もう見つかっちゃってるし。
距離を詰められた時点で、おしまいな気がした。
水に夢中になってください、お願いします。祈った矢先。
前方、身をもたげた巨大な影が見えた。え…まさか。
月光の中、見えたのは砂モグラ。すぐ目の前。近い、どころじゃない。
別の個体が、いたの? いえ、それより。
この勢いだと、しまった、急には止まれないわ。だって、砂って滑る!
これじゃ、自分からご飯になりに行ってる形だわ、嘘でしょ。
眼前に壁なんかない。でも思わず、右腕を突き出してた。咄嗟の動き。直後。
目の前の砂モグラが、急に動きを止めた。おかげで、滑りそうになりながら、その巨体の脇をすり抜けることができた、けど。
いったい、何が。思わず、振り向き。直後、…後悔した。
―――――ボタボタボタッ。
分解された砂モグラの血肉が、砂の上に降った。まるで、巨大な獣の爪で、縦に引き裂かれたみたいな。
すぐに、顔を元に戻す。
あんまり見すぎると、胃がひっくり返りそうだもの。
これもしかして。私、右手を意識した。
テツさまが込めてくださっている守護の力のおかげかしら。
そういえば、結局、この指輪も、外せるかどうか聞けずじまいなのよね。
なんにしたって、逃げおおせるつもりなら、死に物狂いにならないと。
―――――砂モグラが一体、死体になった血の匂いで、砂漠の生き物がぞくぞくと集合してる気配があるのよね。早々に離脱しないと。
幸い、逃げるのは得意だわ。でも。
行く手に小山のごとく現れ出た異形の群れに、さすがに生き汚い私も、逃げ道を見失いそうになる。
いえ、大丈夫よ、ミア。モンスターたちの意識は、大きな獲物―――――死体の方に向いているはず。ちびの私なんて、眼中にないわ。
とにかく踏み潰されない隙間を探さないと!
懸命に視線を巡らせた、そのとき。
「…控えろ」
夜の中でも、濃密な闇を思わせる声が、背後で響く。刹那。
―――――ブチッ。
太い繊維を、無理やり一瞬で引きちぎったみたいな音が夜闇を震わせた直後、前方の小山の群れが一瞬で消えた。とたん、左右からも迫ってきていた群れが、いっきにそちらへ方向転換。
遅れて、鼻先に血臭が届く。
何が起こったのか。…大体、想像はつくけど、いったい、誰が。
あらかた予測しながら、もつれそうになる足を必死に踏んばって、振り向こうとするなり。
背後から、肘を掴まれた。ふらついた身体が、ぶつかる勢いで、壁にもたれかかる。
違う、これ、壁じゃない。
人の身体だ。分厚い。温かい。なんか、馴染んだ感じ。ってことは。
「守護の力が働いたな、ミア」
見上げた先に、黄金の輝きが見えた。テツさまの、目だ。
なんでここに、どうやってここが、あ、そうか。
(指輪の力が働いたってことは)
魔法をかけた当人には、その働きが感じ取れるのかしら。思うなり。
「跳ぶぞ」
それがどういう意味か判断する間もなく片腕に抱き上げられた、と感じるなり。
「え」
―――――本当に、宙に浮いた。
あっという間に遠くなる地上のモンスターたちの阿鼻叫喚の饗宴を見下ろす私の耳に、テツさまの声が届いた。
「相手の事情は聴いた」
これ、もしかして。…怒って、らっしゃる?
おそるおそるテツさまを見遣れば、私と目を合わせてくださらない。そのまま、テツさまはぼそり。
「昼間、ミアがレオと口づけをしていたと」
めまいを覚えた。未遂なんです、それ。
テツさまは、淡々と、一言。
「あなたの弁明を聞きたい」
ねえ、聞いてくださるかしら。
いっそ、地上に戻る方が安全な気がしてきたわ…。
読んでくださった方、ありがとうございました!