15.かくして、天魔は奈落の悪魔と契約を
テツさまが、なんでもないように応じる。
「いや、ある意味、これは仕方がない」
蹲ってた体勢から、テツさまが立ち上がった。抱えるようにされてた私も、同じように立ち上がる。とたん。
私の頭が、テツさまの胸の位置から、いくらか下がる。
…身 長 差。
大木にくっついているセミってこんな気分かしら。
差があり過ぎる。身長だけじゃなくすべてにおいて。
いえ気にすべきはそこじゃなくって。失態って仰ったわね。さっき、騎士さまが。
失態。氷月の騎士さまが?
あの場に残った、というか、イケニエに捧げられた騎士さまが、いったいどんな失態をしたら、こんな状態になるって―――――。
「あなたは、ミア・ヘルリッヒ、って言うんだって?」
大人しそうな少年の声が、私の名を紡ぐ。
けほ、せき込む気配があったのは、周囲の粉塵を吸い込んだからだろうか。
聞いた声だ。しかも、ついさっき。間違いない、これは。
(ギル・シンジェロルツさま)
声がした方から斬りつけるような空気に、私は背中が寒くなる。
同時に、失態の意味を理解した。
氷月の騎士さまは、店に残ったのよね。その席にいたのは。
イェッツェル家のご兄妹と、シンジェロルツ家のご姉弟。
問題となるのは、―――――シンジェロルツ家。
シンジェロルツ家は天使の血統。それなら種族の特徴として、公明正大だろう、と思う方もいるかもしれないけれど。
ゆえにこそ。
起こる問題ってものも、あるわけで。
「騎士たちが来たのは、宰相閣下の命令だって聞いたよ。あなたを、迎えに来たって」
ぼそりと呟く、ギル・シンジェロルツさま。気配が、おそろしく陰気。さっき、はにかんで微笑んだ少年と同一人物とは思えないくらい、淀んだ雰囲気が濃密になる。
なんにしろ、そう聞いたのなら、言葉の意味をよくよく考えてほしい。
彼らは一応、私を連れて帰ろうとしているのよね。殺そうとはしていないの。
なのにさっきの、ギルさまの一撃。
―――――私一人だと確実に死んでいたんですけど。
そんなこと考えもしていない様子で、ただ断罪の眼差しで、ギルさまは私を真っ直ぐ射抜いた。
「なのに、逃げるなんて…どうして、従わないの?」
夜空の色の瞳に、今、輝く星はなく、恐ろしく暗い。
シンジェロルツ家の後継、ギルさまの為人なら、耳にしたことがあるわ。ばかりでなく。
(拝見したことも、ある)
遠目に、罪人への、容赦ない断罪の仕方を。
だからこそ、理解できた。この方ご自身が、特大級の厄介ごとだって。となれば。
「まあ、そうだったのですか? はじめて聞きました」
まるで罪のない声を上げれば、ギルさまはきょとん。毒気を抜かれた態度。
「ですが、宰相閣下が? 私がお世話になっている旦那様なら、交友関係があるようですけど、旦那様関係で何かあったのですか?」
今度の台詞は、石黒の騎士さまへ。
いっとき、惑うようだった騎士さまだけど、すぐ、応じてくれた。
「いや別件だよ。ちなみに、お嬢さんがお世話になってる旦那様ってなんて名前だっけ」
「ジャック・ハイネマン」
遠回しに、状況が簡単にすみませんよって先に告げておく。
「そうそう、ハイネマン商会のトップ…―――――勘弁してくれよ…」
飄然と頷いた騎士さまの声が、後半でいきなり沈んだ。
理解してくださったようでなにより。
そちらの調査不足の件までは、私、責任取りかねますから。今伝えたんだから、いいでしょう?
ギルさまが、おろおろと声を上げる。
「す、すみません、そっか、ヘルリッヒさんはご存知なかったのですね。ええと」
いきなり引っ込み思案の大人しい少年に戻ったギルさまが、おどおど私を見遣った。
「あ、では、今知ったのでしたら、その、従って、くださいますよね?」
この、遠慮がちな態度に、安心しちゃいけない。
ギル・シンジェロルツさまという方は、公国の権威や法に絶対服従の姿勢を貫く。
彼の特質って言うより…シンジェロルツ家は代々、そういう方針を貫いてきた家系なのよね。公国の麗しき守護天使、そんなふうにも呼ばれてる一族よ。
呼び名だけは、聞こえがいいかもしれないけど。
姉君のユリアーナさまを見たら、想像つくでしょう?
浅慮で迂闊、自分の頭を使って考えない、でも下手に権力を持って有能だから手の付けようがないおバカさん、というのが、シンジェロルツ家の正体。
同じ行動をとったとしても、一人一人を見れば、理由は違ってくるわよね。
だけど、シンジェロルツ家は個人の理由や事情なんて慮らない。結果以外は眼中にないの。
故に、今。
私が、騎士さまに逆らう言動を取ろうものなら、この方、いっきに断罪モードに入るわ。
なら? 結論なんか、決まってる。
うんうん、構いませんとも。従いますとも。
この場はそれで治めるのが一番―――――後で事態がどうひっくり返ろうと、それはそれ。
私が大きく頷こうと、するなり。
「なりません」
いきなり騎士さまが厳しい声を上げた。ギルさまが、え? 目を見張る。
「ハイネマン商会関係には基本的に不可侵、の暗黙の了解がわが国にはあります。ミア・ヘルリッヒが関係者なら…」
騎士さまが、きっぱり、断言。
「我らの手には余る。まず、師団長に報告しませんと」
私、内心で叫ぶ。―――――何言ってんですか!
それは確かにお勧めしたいが、今ここで告げるメリットはない。あるのはデメリットだけ。
まっとうな人間が相手ならともかく、目の前にいるのは、シンジェロルツの人間なのよ。
うまいこと誤魔化そうよ。
したたかそうで、変にまじめな騎士さまだなぁ…。
「命令に背くの? …騎士が?」
ギルさまの声が低い。瞳が、また暗くなる。
そらきた。
「そんな騎士はいらないよ?」
私にはもう、言葉もない。それに、今のギル様に私の言葉は届かないって分かってた。
彼の断罪の対象は、騎士さまに移行している。
私の頭上で、大した危機感もなく、淡白に、テツさま。
「あれは周囲の被害など考えんぞ。この失態、どうしてくれる?」
彼の物言いに、騎士さまが、やりにくそうに応じる。
「お力添えお願いします」
言った時には、騎士さまはもう地を蹴ってた。
「僕にも逆らうつもり?」
ギルさまが、暗い声で確認―――――返事も待たず、
「なら、始末するよ」
容赦なく告げ、たいして面白くもなさそうな表情のまま、
「―――――落ちろ」
直後。
―――――バ、リッ
真っ青に晴れた空の彼方から、何かが破れるような音と共に、特大級のなにかが―――――、
「常識覚えるべきでしょ、五大公家は!」
叫びが真横を走り抜けた、と感じるなり、目の端で、刃が水みたいな光を放った。
石黒の騎士さまが抜刀した。弧を描いたその先に何があるか、私が確認するより早く、
「悪いが、こちらの常識に合わせてもらう」
表情一つ動かさず、テツさは、右腕を伸ばし、その掌を空へかざす。次いで、
「掌握」
軽く掌を握りこんだ。
とたん、すぐ真上で、火花みたいな音が連発―――――抱きしめる腕の力が弱まったおかげで、私も顔を上げる余裕ができた、けど。
見上げるなり、顔を戻し、目を閉じる。
見なきゃ、よかった。
裁きの雷って神話の中では聞くけど、現実に目にすると、心臓に悪い。
それは、少なくとも公園一帯を覆う規模で落ちてきてたみたい。空の青が、その輝きに隠されて、見えない。
目を閉じても、瞼の裏に焼き付いた激しい輝きの残像がなかなか消えてくれない。ばかりでなく、あちこちに青い顔でへたりこんだ市民の皆さんの姿も見えて、非常に心が痛む。
そんなものを、今現在、押しとどめているのは私の誰より身近にいらっしゃるテツさまなわけで。
知ってたけど、五大公家って破格。
緊迫に満ちた空間を、飄然とした声が気楽に揺らした。
「ご無礼、平にご容赦を」
「騎士風情が、…覚悟の上だろうね」
不穏の影が消えない恫喝の声が、あのギルさまの口からこぼれると、身が竦む。
おそるおそる見遣れば、騎士さまにうつぶせで押さえ込まれ、首筋に刃を当てられたギルさまの姿があった。
「首を切っても死なないかどうか試したいの?」
やってみろと言外に告げている、物騒な挑発。騎士さまは、涼しい顔で首を横に振った。
「あなたは魔石をネックレスの形で身に着けておいでですよね」
ギルさまは、一瞬、きょとんとなる。それがどうしたって態度。次いで。
「きさま」
物騒に、唸った。
「五大公家直系が魔石を外すことは法で禁じられていますよねぇ。…睨まないでくださいよ、こっちは市民の安全を守るのが仕事なんです」
ギルさまが騎士さまに簡単に確保されたのは、どんな体勢で拘束されたとしても、無傷でいられる自信があったからなんだろうけど…華奢なネックレス一つをその身から外すと脅された程度で動けなくなるとは予想外。
でも、この手段、取れるのは一回きりよね。ギルさまに学習能力があれば、だけど。
そういえば、テツさまはどこに魔石を身に着けているのかしら。
何も言わなかったのに、動いた私の視線で察したらしいテツさまが小声で教えてくださった。
「腕輪、二の腕だ」
ひとまず一難去った、と肩から力を抜いた刹那。
「ミア」
私の頬に、テツさまの手が添えられる。宥めるみたいに輪郭を撫でられた。ひぃ。
気持ち悪いとは思わない。どころか、そわそわ落ち着かなくなる。
どっちにしろ、それだけの動きで意識を根こそぎ奪われた。一瞬、本気で騎士さまとギルさまの存在すら忘れたんだから、すごい。
そんな私の耳に届く、テツさまからの再度の問いかけ。
「もう一度尋ねる。あなたは、国に飼われたいか」
今、ギルさまが動いたことで、その言葉にいっきに現実味が増す。
本音を思い切り込めて答えた。
「いやです」
掌の下にあったテツさまの服を、思わずぎゅぅっと握りこんだ。
「では、何が願いだ」
テツさまは冷静。心強いったら。
でも、いきなりは難しい質問だわ。普段、願いなんて考えないもの。
そこにある毎日を、単に受け入れて過ごしているだけ。ただ、今回起きていることは受け入れがたい。
そうね、この状態で、あえて『願い』というなら、これかしら。
「今まで通りの、生活を…送りたいです」
言いつつも、それはもう難しいって理解できた。特大のわがままだってことも。
今まで通り、が無理なら。
(妥協点が、ないかしら)
これだけ大ごとになったんだもの。何事もなかったようにはならないのじゃないかしら。
もしかすると、すぐに答えなんか出るものじゃないのかもしれないし。
ただそれでも、今みたいに相手の都合を一方的に押し付けられたら、反発しか感じないから、一緒に状況のすり合わせをしてくれたらありがたいのだけど。
(いえ、でも、噂なんてすぐ消えるわ。その時期だけ乗り越えれば)
「それを望むなら、―――――ミア・ヘルリッヒはガルド学院の生徒であり、卒業まではその自治の庇護下にある。学長の言葉だ」
…いつのまに、学長にまで話を通されたんですか?
でも確かに、彼は世間的な地位もあり、尊敬も勝ち得ている実力者だもの。口先だけの約束はなさらないわ。
誰が相手だろうと断言したのなら、まず間違いなく実行する。
「騎士は、国に忠誠を誓った存在だろう―――――宰相閣下のご意思に逆らうのか」
ギルさまの、低い声。まだ、敵意が見える。
ふむ、目を公園の入り口付近へ向け、テツさまは目を細めた。
どう説明すればいいのかって表情で、石黒の騎士さま。
「いやね、シンジェロルツの若様。ちょっと、事情が最初と違ってきてまして」
彼の苦い声にかぶせて、テツさま。
「説明している暇はないぞ、イェッツェルの二人とシンジェロルツの姉まで来た。ついてきているのは、氷月の騎士か」
「うわあ面倒なことになりそー」
うんざり言った騎士さまの言葉に、テツさまが、少し首をかしげる。
片手を私の肩において、少し身を離す。次いで、頭上に目を向け、
「吸い込め」
―――――え?
つられ、頭上を見上げれば。
雷の輝きの中央、闇色の一点が発生。点にしか見えなかったそれが生じるなり。
幻だったかのように、雷の輝きが頭上から失せた。さすがに、唖然とした心地になる。
周囲に、呆気にとられたような沈黙が落ちた。
頭上に広がるのは、先ほどまでと何ら変わらない、蒼空。
あの黒点すら、どこに行ったか、見事になにも魔法の気配は残っていない。
その沈黙を割いて、公園に響き渡る、ユリアーナさまの声。
「騎士さまっ? 弟に、何をなさっているの!」
収集つかないことになりそうな一波乱の予感を運んでくる甲高い声に頓着せず、
「ギル」
テツさまは呼びかけた。返される、暗いまなざしにも構わず、
「今きさまは、ベルシュゼッツ公国の貴族として、禁忌を犯した」
それこそ、ギルさまが十八番とするような断罪の台詞を口にする。
ギルさまは目を瞬かせた。
「…どういうこと、です」
「証明してやろう。―――――アンガス・バルヒェット」
テツさまは、石黒の騎士さまを呼んだ。
「そいつに自殺する自由を許すな」
自殺? きっと、騎士さまは私と同じく、内心呆気にとられたはず。
「…は―――――」
でも、問いかけは許されなかった。
「ミア・ヘルリッヒ」
真正面に立ったテツさまが、一歩下がる。改まった態度に、妙な不安が頭をもたげた。
「俺は、あなたの強さを知っている」
声は、穏やかに凪いでいる。
ただ、黄金の目にだけ、緊張が―――――いえ、ひどく頼りなく揺らぐ不安が見て取れた。
「あなたは、俺より、ずっと強い」
本当に小さな子供みたいで、大丈夫だからって寄り添って励ましたくなるような、そんな揺らぎ。
だから、かえって、どんなわがままでも聞いてあげたくなって、しまうような。
「それでも、役目をくれないか」
だけど、くらりと酩酊しそうな感覚に、踏みとどまれって、本能が叫ぶ。
テツさまは、何を言っているの。何を伝えようとしているの。
頼られているようで、この態度は、その実。
「いかなる危険からもあなたを守り抜く役目を。そのために」
―――――無造作に、己の心臓をゴミ箱へ投げ捨てようとしているような、悪い予感があった。
「これから伝える言葉を、そっくりそのまま、繰り返してほしい」
淡々と告げているのに、拒絶を怖がっている態度、だったから。
思わず、右手を伸ばす。対面の、テツさまの左手を握った。
勇気づけた、わけじゃない。
私の顔色は、悪かったはず。黄金の目に映った私の表情は、いつも通り、だったけど。
私は、首を横に振った。押しとどめるように。
でも、何がそんなに不安なのか、私自身にも分からなかった。…正体が、見えなかったから。
態度は、曖昧になってしまう。
テツさまは、淡く、笑って。
告げた。
「リュウランテッツ」
…古語、かしら。きれいな響き、だけど。
私、尋ねる目でテツさまを見上げた。彼は、いつも通り。とてもしずかに、凪いでいた。
得体の知れない不安は、私の中で最大限に膨らんで―――――それから逃げるように、私は口を開く。
言えば、答えがでるのなら。
解答を先に得てしまおうと、…短絡に。そして、テツさまの望み通りに―――――、
「リュウランテッツ」
繰り返した。その言葉を。
刹那。
見えない大きな手が、私の腹の底からごっそりと、何かを掻き出した、―――――感覚、に。
「あ、…っ」
ほとんど声も出せずに、膝から力が抜けた。ぐわん、頭が揺れ、視界が回る。
貧血に似た感覚。地面に倒れこむ、直前。
ふわり、掬い上げられる感覚。
身近に感じた体温と香りは、この数日で、もうなじんでしまった気さえする。
「テツ、キミはまさか」
驚いた様子の、ゼンさまの声が近くで響いた。続いて、テツさまを責める。
「真名を捧げたのか…っ? ばかだ、証明するにしたって、これは」
「手っ取り早い」
対するテツさまは、淡々。だけど、少し、―――――嬉しそう?
無邪気な歓喜、というより、愉悦、に近い感じがする、けど。
「こうするべきだった。もっと早く。ミア、よく覚えておけ」
どうにか薄目を開けて、私はテツさまを確認した。
思ったとおり、微笑んでいる。でも、調子が悪いのか、顔色が悪い。
少し、汗ばんで、いるようにも。
ともすると、私と同じ気分の悪さが、テツさまにも生じているのかもしれないわ。
私と、視線が合った。とたん、テツさまが、目を細める。
先ほどの言葉が、真名というなら。
それを理解する他者に明かすなんて、命をなげうつ行為だわ。ただし。
真名を理解できるのはこの世で、…天魔のみ。
確かに、これで証明された。少なくとも。
私が、真名を聞き取れる人間だってことは。
命を投げ出すようなことを、簡単にやってのけながら、…こんな、表情をするなんて。
テツさまが、浮かべた表情、それは。
気に入ったモノを、ようやく自分しか場所の知らない檻の中へ閉じ込められた、そんな、暗い達成感に近いものだった。
―――――なんでかしら。
望まず真名を掌握した私の方が、首根っこを掴まれた気分だわ。
私の方が絶対優位のはずなのに、隙を見せたら魂を奪われそうな気がする。
私の怯えを感じ取ったか、テツさまは、宥めるように囁いた。
「一番に、あなたの可能性を押し開いたのは俺だ」
ねえ、聞いてくださるかしら。
こういうことを言うのね。悪魔の契約って。
誤字脱字報告ありがとうございます。助かります、本当に。
読んでくださった方ありがとうございました!