1.痛恨のミス
ほんの鼻先に、花束。
小さい。可憐。とりどりの、明るい色合い。
ただし、可愛らしい色彩の向こうに見える姿は。
―――――どっと冷や汗がふきでた。
長身。黒髪。黄金の双眸。精悍な顔立ち。ただし、ぶっきらぼうな態度が厳しい冷たさを際立たせる。
この方は。
テツ・アイゼンシュタット。
神話で破壊の限りを尽くした悪魔の末裔。
原初の天使と悪魔、その血を身に宿す五大公家の一席を占める一族の嫡子。先祖がえりともいわれる強大な力は、この国―――――ベルシュゼッツ公国の騎士団も震撼させる。
その彼が、今は面倒そうに横を向いていた。つまり。
こっちを、見てない。
待って。
とにかく、一言。叫ばなければ。間違いが起こる。
起こる、直前に、私は気づけていたのに。―――――できなかった。
いえ、問題はそれ以前。
敗因は、驚愕。度肝を抜き去った驚きが、私の喉を詰まらせた。
かろうじで、できた動きといえば。
手にした花のつぼみを胸元に引き寄せる動き。咄嗟に、身を守ったのよ。
そう見えなくてもね…身体の防衛本能ってばかにできない。けど今、守るべきは身体じゃない。
目の前にいる人の、名誉だ。
言わなきゃ。早く。
ようやく、喉が震えた。ただ、そのときには。
手遅れだった。
ようやくこちらを見た、彼が言う。
「結婚するぞ」
懇願でもない。依頼でもない。それは、命令。
ますます、血の気が引いた。青ざめる。この時になって。
ようやく、彼が私を認識してくれた。
まっとうな意味で、彼と、目が合ったのが分かる。
彼が、呆気にとられた表情で、私を見つめる。同時に、悟った。事態を。
そうです。痛恨のミスです。どうしましょう。できることなら盛大に頷きたい。ああ。
ひ と ち が い 。
でも。だけど。踏ん張れ、私。
ここで、私が断るのは悪手だ。人違いだって騒ぎ立てることも。
だって。
注目、されてた。貴公子の求婚だ。私だって、他人事なら黄色い声を上げてた。
そのくらい、テツ・アイゼンシュタットは素敵だ。絵になる。
ただひたすら怖いから、近寄りがたいってだけで。誰が荒ぶる虎の牙の間に頭を突っ込めるっていうのかしら。
ここは、学校。大陸でも名高い、知の宝庫、ガルド学院。
その、休み時間。外に出ている生徒の数は多い。それを残酷だと思ったのは、今日が初めてだ。
ゆえに。
少なくとも、ただの平民である私が、ここで彼に恥をかかせるわけにいかなかった。
あ、あとで。
そう、あとで、どうとでもなるはず。というか、してくれる方が絶対、いるはず。
ありえないもの。私と、彼が結婚なんて。ないないない。なさ過ぎて、現実感もわかない。あるのは。
危機感、一択。そうよ、これは危機。死ぬ直前。考えるのよ、私。
生き残るには、どうしたらいいの。
考えるの。まずは。そう。
窮地を脱したい。そのために、ひとまず。
操り人形って、こんなかしら。他人事の気分で、ぎくしゃく手を伸ばす。
花束に。
ぎこちなく、両手でそぅっと掴んで。
私以外の人のために準備されたそれを受け取る。丁寧に、慎重に。
思わぬほどあっさり、彼は手を離した。
コトは私に、預けられた。預けられて、しまった。容赦なく。
次は、私の番。
答えるのよ。さあ。
さあ!
「はい、喜んで」
さすがに、微笑むことはできなかった。だって、言ったら終わり、そんな気分だったもの。
絶望しか、なかった。これから、どうなるのかしら、私。
せめて真っすぐ、彼を見返して。持っていた蕾を一輪、手渡した。とたん。
顔を隠すように、彼が目を伏せる。何も言わない。
動揺…してる風になんか見えない。何を考えているのか、全く読めない。恐怖しかない。
沈黙が怖いです。
…お、怒った、かしら。怒りますよね、当然ですよね?
でもごめんなさい、少しだけ、我慢してください。ごめんなさい。本気で。
対策なら、後で一緒に考えますから! あ、一緒はいやですかね、そうですかっ?
どっくどっく、心臓の鼓動が恐怖のあまり、止まりそうになる。怖い。本気で怖い。
気絶、したい。
刹那。私の、足元で。
落とした書類を取り上げようと屈みこんでいた、彼の本来の求婚相手は。
喜びに満ちた慈母のごとき笑みで、祝福を口にした。
「おめでとう、二人とも」
ちょっと、これ、あなたの婚約者でしょうが!
そんなこと知らぬとばかりに、彼女は賑やかな拍手を始めた。
あまりの無邪気さにつられた周囲が、まばらに手をたたき出す。やがて、それは。
時ならぬ拍手喝采の渦を、平和な日差し降り注ぐ学院の中庭に生み出した。
きっと、皆の心の中にあった疑問は一つだったろう。
―――――あの子、誰?
でも、ねえ、聞いてくださるかしら。
拍手の渦の中心にいる私たちだって、一瞬前までこんな状況、予測してなかった。
読んでくださってありがとうございます。さっくり、軽いよみもの目指します。