後編
三日後、私達一家は最寄りの中華料理店で食事をしていた。数時間後には旅立つ息子を見送る為だ。
「さっき従兄のおじさんから電話があったよ。土産の菓子が大層気に入ったとさ」
「そりゃ良かった。直接渡しに行って正解だったな」
親父と『同じ事』話してたし。息子はレンゲで掬っておいた麻婆豆腐を、ぱくっと口に入れた。
「同じ事、ねぇ。勉強とか、進路とか、その辺の話かしら」
「まぁ、母さんのいう通りだろう。『その辺』だ」
息子は昨日、私の従兄を訪ねた。夜釣りの話の真相を確かめたかったのだという。家内と娘に怪しまれないよう、大学生活の報告にいきたいと嘘までついていた。
「良かったわね。従兄さん、うちの子を実の子みたいに可愛がっていたもの」
「ああ。……弟の事を、思い出していなければいいが」
家内には「夜釣り」とそこで従弟に起きた事は話していない。よくある怪談話に比べれば生易しい方なのかもしれない。それでもあれは部外者に語るにはどこか後ろめたい禍々しさを孕んでいた。
食べ終わって店を出ると、傾いた陽はすっかり沈んで、青と黄色の混じった夜が空を支配していた。半目を開けた寝起きの白い月は、道行く人々に、私達にすら気づく風もなく空に浮かんでいる。
道すがら息子と、従兄から聞いた「夜釣り」の話をした。家内達にできるだけ小声で、所々は曖昧な名詞を使って誤魔化した。
「やっぱり本当だったんだな――作り話にしたって、即興であそこまでは答えられないだろうよ」
どうやら息子は随分入り組んだ質問もしたらしい。屋敷の外観はどうだとか、どんな舟だったかとか、云々。私と従兄が口裏を合わせていたとでも思ったのか――寧ろ、そうであったなら良かったのだが。
あれから叔父は誰も夜釣りに連れて行かなくなった。従兄すらもだ。叔父が若い頃は私の祖父と行っていたらしいが、今では二人とも鬼籍に入っている。系譜でいうと従兄が「夜釣り」に行っている筈だが、息子曰く、そのありかは判らなかったと。
「話しぶりから嘘じゃないみたいだったし、単純に俺の興味だから良いけど……夏休みの最後に、面白い経験ができたよ」
良い事じゃないかと私は言った。怪談の類いは胡散臭いと一蹴するかと思ったのに、何故ここまで興味を持ったのか。ともあれ、息子の滅多な事では働かない好奇心を、満足させる事になったのは、願ってもない誤算だった。
「なぁ、親父」
駅のホームで列車を待っていた時、息子がぽんと膝を打った。それが彼の考えをはき出すスイッチであるように。
私の耳元に顔を寄せて囁く。
「あんたの叔父はずっと従兄弟達のそばにいたんだろ。なんで声があんたの後ろで聞こえたんだ?
そもそもよく紙の舟を無事に釣れたよな? 水吸ってぐずぐずになってただろうに」
私は短く強く鼻から息を吸い上げ、顔を上げる。ちょうどその時、わざとらしく線路を踏みつけて、向こうからガタゴト急行列車がやって来た。家内と娘はとっくに立っていて、お目当ての列車を迎える準備にかかっていた。
――長い事水ばかり見た所為で、凝り固まった首をぐるりと回す。相変わらず、右も左も空でさえも夜で塗りつぶされている。
三十年前、私達は池に沈んだ紙の舟を釣っていた。型崩れもなく、新品……よりも少し時間が経った程度には、形が整っていたのを覚えている。
だがあの舟も紙だ。長い間沈んでいれば、その通り水を吸ってふやけ、破れやすくなる。水に溶けて舟とは思えない形になっていたかもしれない。
それにしては、私が釣った舟達は丈夫なままでいたものだ。まるで、ついさっき沈んだばかりのように――でもどうして?
頭に疑問符が一つ浮かんだと同時に、釣り竿に引っかかった紙の舟が、ぐにゃりと歪み、破れ、水に落ちた。
一陣の風が断末魔の絶叫と共に、頓に背中を強く押した。
〈おしまい〉
どうも、沙猫です。今回は夏だということで創作怪談に挑戦してみました。
不気味さを残しつつも、叔父さんの声とか、紙の舟とか、意味がわかると怖い要素を混ぜるのは中々骨が折れましたよ。それでいて現在の話は逆に明るくして、怖さを引き立てなければならない。
こんな七面倒臭い構成にしたのは自分なのですけど、タイプの違う話を二つ書いているようで楽しんで書けました。
なお、登場人物は過去作のものを一部流用しており、「夜釣り」は実在する風習とは一切関係がない……といいのですが。