中編
私達全員が門をくぐると、叔父は門で待つように言い、邸宅の中に入った。硝子の引き戸の向こうで明かりがともり、腰の曲がった薄黒い人影が映る。叔父は引き戸を少しだけ開けて、中の人物と話をしているように見えた。
私は、入口から逸らし、小さな植物園の奥を見た。統一感の無いプランターに紛れて、赤い鳥居が寂し気に佇んでいる。神聖なものとの対面を許す為の門は、何故か酷く禍々しい存在に見えたのだった。
――やがて、叔父が戻ってきた。彼は右手を軽く上げ、庭の奥へ行くぞ、とだけ伝え、我々を奥に促した。
ざく、ざくと砂利道を踏みしめて、余りにも広い庭の中を進む。門からは案外と距離があった。育ち過ぎたシダ植物の不揃いな葉が夜風に揺れる。我々はさながら密林探検隊であった――熱帯の密林をカメラを構え夜通し進んだ、幼年期に見たホラー映画の主人公達だ。抱えたカメラはアマゾン川で決定的瞬間を収める為、そしてその川に潜むものは――、
『さぁ、もう鳥居をくぐっても良い』
背中を押されて、私は深くおじぎをして赤い門をくぐる。勢いづいてつんのめり転びそうになった。
ここは森の奥か。そう錯覚しそうな程に鳥居の中はものものしく、静まりかえっていた。ぐるりを背の高い黒い木々が取り囲み、路傍の岩すらうち捨てられた生首や、屍に見える。砂利道を踏む音だけがおおげさに響き渡る。こんな所で転んだら赤っ恥どころではない、何より目の前の大きな池――もはや湖か――に落ちてしまう。ちょうど魚めいた何かの影が、濁った水のなかを泳ぎ過ぎて、水面が揺らめいたところだった。
池の畔では魚篭と釣り竿を持った従兄弟二人が待っていた。私が夢想に耽っている間に、先に中に入っていたようだ。従弟が、私に薄汚れた釣り竿を一本手渡した。
釣れたものは魚篭に収まるだけ入れていい。ただし、色のついた紙を見つけた時だけ、言いなさい。
叔父から私達三人に言われたのはこれっきり。色のついた紙? 成る程こんな所に紙くずなんか落とす輩には、罰が当たりそうだ。叔父が言ったのはそういう事なんだな。若い私は叔父の忠告を何でも無いように受け止めた。
従兄弟達から少し離れた所に手頃な石を見つけて、椅子代わりにすると、釣り竿を振るった。釣りは昔からそこそこ得意分野で、一度ではあるが大きな鯛を釣り上げた事もある。
しばらくすると、くいくい、と先端が僅かな力で引かれたのがわかった。かかったな。私は両腕を使って獲物を引き上げ、糸を目の前までたぐり寄せた。
そして息を呑んだ。折り紙の小舟が、魚の代わりにぶら下がっていた。帆にも舟自体にも、経文だろうか、びっしりと墨で字が書いてある。まだ筆跡や紙の新しく見える舟の姿はまるで耳無し芳一だ。
『小舟は魚篭に入れておけ。後で取りに行くから』
後ろで叔父のものとおぼしき声が聞こえた。私はおそるおそる、その芳一舟を魚篭に入れた。
気を取り直して池をにらみつける。今度は何か生き物をと思い、私は用心して水面をくまなく探した。暗い水の中に悠々と泳ぐ魚影を見つけ、再び池に向かって釣り竿を振るった。
先程と同じように、獲物が再び先端を引っ張る。今度こそ、私はぐっと力を込める。ばしゃ! 水上にその身を曝された哀れな犠牲者が、水しぶきを上げた。すかさず糸をたぐって確かめる。
やはり、草体の文様を記したびしょ濡れの紙の舟が、テグスをかけられ揺れていた。
腰が抜けるというのは本当にあるものだ――わななく脚でやっとの思いで膝立ちになり、魚篭に舟を納めた。
従兄達の話し声が遠くから響く……あったか? うん。今年は酷いな。色の紙は? まだ。だよな。出なけりゃ良いのに……内容からして、彼らの釣果も生き物でないのは何となく察する事ができた。
その後の釣果は全て、経文めいた何かが書かれた折り紙の舟だった。あの湖めいた池の底には、どれほど沢山の紙の舟が沈んでいたのだろう。誰が何を思ってここに舟を沈めたのだろう。
『大分釣れてきたじゃないか』
五艘ほど釣った所で、急にぽんと背中を叩かれた。心臓が口から飛び出す思いだった。最もとうの私は今ひとつ納得がいかない。何のために触るのもおぞましい折り紙細工ばかり釣っていなければならないのか、そもそもこの「夜釣り」に意味はあるのか。長い事水ばかり見た所為で、凝り固まった首をぐるりと回す。相変わらず、右も左も空でさえも夜で塗りつぶされている。
くいくい、と竿が引っ張られた。またあの舟かと糸をたぐり、先についたものを見た――
……うあああああ……
そのとき、一陣の風が断末魔の絶叫と共に、頓に背中を強く押す。私が獲物を見て言葉を無くしたのと殆ど同時だった。
従兄達のいる方だ。魚篭と釣り竿を放り出して、私は池の縁沿いに走った。
果たしてそれは想像を絶する有様であった。従弟は両手両足を池のほとりに投げだし、鯉のように口をぱくぱくさせていた。従兄が背中を支えて介抱し、時折大丈夫かと声をかけていた。自分も従弟の肩を叩き注意を促したが、アーとかウーとかしか返ってこなかった。
もうこいつは駄目だ。叔父が首を横に振る。従弟はとっくに狂ってしまっていたのだ。父親の私がずっとそばについていながらと、叔父は両手で頭を抱えた。
従兄が哀れな青年の握った手を優しくほぐし、中のものを見せた。
それは、血のように朱い紙の舟だった。帆が破れ、書かれた文字が途切れている。色のついた舟を見たら報告するよう言われていたのを思い出した。それが千切れてしまってこうなったのだろうか。
再び夜風が吹く。木々が、水面が、言い知れぬ何かがざわめく。従弟がだらりとしていた身をよじって、怯えた顔で縮こまる。
折り紙は池の水で濡れた所為か、今し方零れた血を拭ったように朱かった。
「で、その後はどうなったんだよ」
息子は冷ややかな目つきを少しも変えず、携帯ストラップの縫いぐるみを揉んでいる。無理も無い、大きな屋敷に紙の舟なんて、まるでホラー小説の舞台ではないか。
「ただで帰るなんて出来なかったんだろ」
「あの時はパニックになっていたし、叔父の車に乗ってすぐ眠ってしまってね。帰り道はわからないままだ」
「じゃ、下の従弟は?」
「隔離病棟に行ったよ――一年後の同じ日に自ら命を絶ったがね。疑わしいなら従兄に確認してみるといい」
「いつもお年玉くれた親戚のおじさんだよな。帰るまでには寄ってみるわ」
それが良い、と私は言った。最も、三十年前の事だから、従兄とは記憶に食い違いがあるかもわからんが。
「なぁ親父……いや、やっぱいいや。風呂行くわ」
ちょっと言いよどみ、軽く頭を下げてから息子は部屋を出た。携帯の縫いぐるみは揉まずにポケットに入れていた。
もうすぐ二十歳とはいえ、親へ礼を言うのに照れるとはまだまだ子供な奴だ。私は無意識に息子の背中へ、彼がまだ幼い日の想い出を重ねていた。