前編
三十年前のあの夜、通った道はあまりにも歪で暗すぎて、あの夜成人したばかりの私はあまりにも若すぎた。
部屋一帯を覆う暗闇の中、目の前で小さな火の玉が五つ、横一列に並んでいる。灯り達は白いテーブルをうす橙に染め、ゆらゆら揺れていた。向かい側からは、記憶に深く根付いた異国の歌が聞こえてくる。
「はぴばーすでーとぅーゆー、はぴばーすでーとぅーゆー」
到底ネイティヴの足下にも及ばぬ発音で、中学生の娘が楽しそうに歌う。家内と大学生の息子は、やや小さめの声で歌いつつ手拍子で合わせている。亭主の好みに沿わない随分子供じみた、とでも思っているのだろう……特に、伏し目がちに手を叩く息子。私には奴の気持がよくわかる。
ほのかな嬉しさと気まずさを悟られないよう、私は青や黄色の棒を滑り落ちる、蝋のしずくをしげしげと見つめていた。青いのが一本、黄色いの二本、赤が二本。一本で十年分の蝋燭は、細いくせに中途半端に長い。命の蝋燭とはよく言ったもので、臆病で中途半端な人生のメタファーに見える。
「はぴばーすでーでぃーあ、お父さーん」
最後にもう一度、誕生日おめでとうと外国語で言うと、娘は一息に蝋燭を消すよう促した。心に念じた私の願いが叶うらしい。
消すのか、命の蝋燭を。そんなら相当気持のこもった願い事にしなけりゃなるまい。ううむ、と首をおもむろに回す。
「決めたー?」
「あぁ。え-、お父さんの願いは、と」
「親父、そこ言うもんじゃねえだろ」
私は半分くらい溶けた蝋燭に向けて、深い吐息を長く長く吹きつけた。
夜釣りに行きたい。
二十歳の誕生日を数週間後に控えて、若き日の私は叔父に電話口でそう頼んだのだった。
夏の終わり、雲一つ無い新月の夜――私の誕生日が近くなる頃、叔父と二人の従兄弟は年に一度夜釣りに出かける。本来は叔父が一人で行くべきものらしいが、十五を過ぎた二人の息子は例外だという。
竹の釣り竿と草で編んだ魚篭を抱えて出かけ、残った叔母達に布団と飯を用意して迎えてもらう。そのくせ、行き先は男衆だけの秘密だ。魚篭の中身すら見せてくれない。
何度聞いても「お前が大人になったらな」とはぐらかされ、私はその事でずっと黒いもやを抱えながら幼少期を生きてきた。
この申し出に叔父は驚いた。高いカメラや洋服か何かだと思って、その為の予算まで準備していたからだ。二十歳のお祝いに家族から海外旅行や高級な食事のプレゼントを貰った、と友人達が報告してくれたように、世間一般では良い贈り物をするのが常識というのは理解していた。それに比べれば夜釣りなんて――だが郷里の秘密を知る事ができるなら、旅行も食事会もなくたって私はいっこうに構わなかったのである。
「頼むよ叔父さん。今度田舎に帰る時だよ、それに、大人になったらってよく言ってたじゃないか」
昔の口約束が一番の脅し文句になったようだ。叔父の声が電話口から離れ……一分半ほどの沈黙。
どうする……い……にしても……あいつがいるから……あの子はまだ若いから……スピーカーの向こう側でひそひそ話が聞こえた。
その後若い私に許しを与えた叔父の声は穏やかだったが、今思えばあれは諦めに近い感情によるもの……だったのかもしれない。同い年の従弟も5年前から毎年出ているからという、安心感だったかもしれない。
偶然か必然か、夜釣り行きが決まったのは十代最後の日だった。
テーブルの向かい側で娘達が拍手した。5本の細い蝋の柱から立ち上る煙で目が少し痛む。今となっては懐かしい、昔の思い出をたどっていたのだ。
「お父さん、ケーキ分けるわよ――そんなに見られてちゃやりづらいじゃない」
家内が包丁を目の前に降ろし、さく、さくとクリームを塗りたくった菓子に切りこみを入れていく。息子は「親父いよいよ更年期か?」と冗談交じりに言い、母にたしなめられる。
「どうしたっていうんだよ。ぼけーっとしちまってさ」
「夢を見たんだ。二十歳の誕生日の記憶だ」
「二十歳、ね。俺と1コ違いか」
親父も今日みたいに楽しく祝ってもらったんだろうな。切り分けられたケーキの苺を息子がフォークで取り、口に運ぶ。
息子は思い違いをしている。叔父の贈り物は特別な日に相応しいものだったが、実際の所それは楽観的な形容詞をつけるべきものではなかった。
ケーキを食べたらリビングに来なさいと私は彼に言った。
「後で話したい事があるんだ」
「進路の話か、親父? ある程度目星はつけてるよ……志望業界の短期インターンも受けてきたんだ」
息子は心底面倒臭そうな顔で、携帯につけた縫いぐるみの頭を揉んでいる。
息子は三日後、通学先の街へ帰る。バイトと友達との遊びで埋められた夏休みの合間を縫って、私達家族の元へ帰省してきたのだ。大都市でただ独り生きてきた息子は、嘗ての何倍も精悍な顔で、たくましく見えた。これから話す事も落ち着いて聞けるだろう。
幸い娘は母と食器を洗っているらしい――台所の奥で、どうどうと上から下へ流れる強い水の音。私の十代最後の思い出を、聞かれる心配はなさそうだ。
何、都合が悪くなったら続きは私の部屋ですればいい。
叔父の家から車で十五分も行った所、地元の大人達によく知られた、いわゆる裏道がある。山の近くにあって葉の厚い木が茂る、半ば森と言うにふさわしい道だ。人通りが少ないぶん市街地の大きな道よりも使いやすいが、いかんせん狭くて昼でも暗い。
叔父と従兄弟達二人の兄弟と夜釣りに行った日、後部座席の窓から見た「森」は、暗いわお化けめいているわ、オマケに車のエアコンが効かないわで気味が悪かった。がたん、がたんと車が揺れる度に、座席から転がり落ちた魚篭がちくちくする繊維で私の足首を刺した。
気をつけろよ、その篭壊したらどうなるかわからないからな――歪な道を選んで走っている癖に、叔父ときたらよくいったものだ。車のトランクに収まりきらなかったらしいが、ならもっと安定させておけという話だ――下手に触るのが怖くて、体育座りで窓際に寄りかかった。兄弟二人がくくくと笑う。私より長く夜釣りを経験したからって、いい気になりやがって。特に下の従弟、お前が脚を広げて座るもんだからこっちは身動きとれやしないじゃないか。
お化けの森も従兄弟達の顔も見たくなくて、私は両膝の間に顔を埋めて、ぎゅっと目を瞑った。いつの間にかガタガタの道は抜けていたようで、低いエンジン音だけが背骨の内っ側を響かせていた。
起きろ、もう着いたぞと肩を叩かれた。いつのまにか眠っていたらしい。重たいまぶたを擦り擦り、私は座席から身体を起こした。足元に魚篭が転がっていないか確かめる。あった、傷も歪みも無い。予め車のドアを開けておいてから、全員分の魚篭を抱えて出た。
今でもはっきり覚えている――車を降りるとそこはもう一面闇の世界だった。空の黒と森の黒で覆われていて、ぽつ・ぽつと申し訳程度に空に打たれた白い星がなければ、自分が履いていた靴の先すら見えなかっただろう。
叔父達三人とひとかたまりになって歩いた。歩く度に、どこにしまわれていたのか、薄黄色の提灯がゆわっふわっと揺れた。出かける段からいつになく厳めしい顔をしていた叔父も、車の中で冗談を飛ばしあっていた従兄弟二人も、勿論私も、それをじっと見てものも言わなかった。何の変哲も無い提灯だったが、深い夜には思った以上に効いた、気がする。
案内されて行ったのは、確か茅葺き屋根の大きな家だった――時代劇なら由緒ある武家か商家にでもされていそうな家だ。
先ず我々を迎えたのは枝か何かで編まれた塀で、門柱に大きな提灯が下げられている。そこを一列になってくぐると(しんがりは上の従兄が務めた)、砂利道、雑多な植物や植木鉢のある庭の一角、そして邸宅がある――いや、その奥に鳥居みたいなものもあった。あんまり暗くて気づかなかったが。
「雑多な庭?」
息子が不思議そうに聞く。どこぞの外国の宮殿みたいな、トピアリーとか池のあるやつを想像していたのだろうか。それとも芝生と、垣根の所には植え込みがあって、家のお父さんが草むしりや剪定にかり出されるやつか。
「お前、義母さんの家のガレージってどんなだったか覚えてるか。それか……ユリおばさんのところでもいいな。あそこんちにあっただろ、自称・西洋式のやつ」
「あぁ、はいはい。あの何だかごちゃごちゃと、プランターやらブリキの花かごやら置いてあるやつだろ」
「そうそう。でかい植木鉢にヤシの木みたいなでかい木置いてなかったか?」
目によさそうだからと、季節の花もレモンの木も、はたまた大きな葉っぱに厳つい幹の南国の観葉植物まで、とにかく何でも置いて並べた、庭のようなものである。陶器の小妖精や、ブリキを曲げて作った篭に植木鉢を見張らせ、最低限の秩序をもたらした気になっている、あの密林めいた植物園である。
真夜中の武家屋敷に到底不釣り合いな、田舎の年寄り特有のセンスで彩られた「庭」の姿を、若き日の私は見たという訳だ――息子はあり得ねえと言いたげに首を軽く左右に振ったのだった。
「何があり得ねえのよー?」
食器を片付け終えた娘が、ケーキのお代わりを持って居間にやってきた。
「男と男の約束だよ。親父、部屋行こうぜ」
私は頷いた。普段の言動とは似ても似つかぬ言い訳でごまかした兄の背に、娘は次々質問をぶつけた。