……にぃ……
その日、フィルは夢を見ていた。それは記憶の片隅をくすぐられる、とても懐かしい"思い出"だった。
◇
少女はパタパタと足音を響かせて走っていた。肩口で切りそろえられた綺麗な銀髪が、さらさらとなびいている。肩まで捲り上げられた服の袖から伸びる白く細い腕に、うっすらとF-11という文字が見える。
少女は、謎の機械の散らばる薄暗い部屋に駆け込んだ。部屋にいた一人の老人が、ギョッとした表情で少女に注意する。
「危ないから走るなと言っておるだろ」
「はかせー! あのね、イチねー!」
舌っ足らずな口調で興奮したように飛びかかってきた少女――イチを、博士と呼ばれた老人はフラリとして受け止めた。そして再び注意する。
「自分のことをイチ、と言うのはやめるんだ」
「……わたしー?」
「そうだ、偉いぞ」
わしゃわしゃと頭を撫でられて嬉しそうなイチは、ここに来た理由を思い出してハッとした。老人から一歩離れ、あのねあのね、と跳ねる。
「あのねー、イチ……わたしがねー、ボールで遊んでたらねー、マルゴにぃがねー、割っちゃったのー!」
「またか……」
はあ、とため息をついた老人は、部屋を出る。薄暗い部屋に長時間いたためか、外の日差しに目を細ませた。玄関から外に出ると、周りは何もない森の中だ。老人はその森に声を響かせる。
「マルゴ! マルゴ!」
「なんだよ」
呼ばれたマルゴは、ガサゴソと音を立て離れた所から歩いてきた。目つきが悪く、ひょろりと背の高い青年だ。こんがりと焼けた黒い腕には、M-205と書かれている。彼は面倒くさそうに前髪をかき上げ、老人の後ろに隠れたイチをのぞき込んだ。
「イチ、告げ口か?」
「マルゴにぃが悪いもん!」
「ちょっと力入れたら割れただけだろ? 俺は悪くないね」
「はかせー!」
口では勝てない、と、イチは老人に助けを求める。ため息をついた老人に、マルゴはキツい目を向けた。その視線に臆することもなく、老人は優しく口を開く。
「お前たちは兄妹なんだから、もっと仲良くするんだ」
「はあ? 妹つったって、じいさんが勝手に作っただけじゃねえか」
噛み付くように言い返すマルゴに、老人は口をつぐんだ。その隙に、とマルゴは厳しい口調で続ける。
「俺の使命は人間たちの支配、そうだろ? 妹と仲良くすることじゃない!」
「ちがう、お前たちは二人で戦うんだ」
「そんなこと言って……何人失敗してんだよ!」
そう言って激しく地面を踏む。柔らかい落ち葉が粉々に砕けるだけで、より一層頭にきたマルゴは地団駄を踏み続ける。その姿に、イチは老人の脚の後ろから心配そうな顔を覗かせた。
「マルゴにぃ?」
「お前だってそうだぞ! こいつのおもちゃにされて死んでいくんだ!」
マルゴは老人を指差し、早口でまくしたてる。イチはマルゴの言葉に体を固まらせ、それから怯えた表情で老人の顔を見上げた。
老人はイチの頭にポンと手を乗せ、まっすぐな視線をマルゴに向ける。
「これまでの二一四回の失敗で学んだんだ。お前たちは必ず成功させる」
「この間のマルシにだって同じこと言ってたんだろ!」
「そ、それは……」
口ごもった老人に、バカにしたように鼻で笑ったマルゴはクルリと背を向けた。ヒラヒラと後手に手を振って、歩き始める。
「イチ、ついて来い」
イチの方は一切見ず、マルゴは冷たい口調でそう言った。早足で遠ざかるマルゴの背中をと老人を見比べ、イチはオロオロとする。それでも、再び心配そうな表情で老人を見上げた。
「……イチ、死んじゃうのー?」
「そんなわけないだろう」
優しくそう言って頭を撫でる手に、イチは肩の力を抜く。えへへ、と笑って老人の手の温かさを感じていると、遠くからマルゴの声が聞こえた。
「おい、イチ!」
「はーい! はかせ、いってきまーす!」
老人に手を振り、マルゴの声のした方にパタパタと走り出す。落ち葉を踏み鳴らし、マルゴを見つけて駆け寄った。
「なーに、マルゴにぃ?」
木に寄りかかって座っているマルゴの前にしゃがみ、イチは首をかしげる。さっきまでボールを割られて怒っていたことは、もう頭にない。この兄妹はいつもこんな調子なのだ。決して仲が悪いわけではなく、よく喧嘩をするだけでむしろ仲は良い方ですらある。
マルゴはイチの目をジッと見つめ、真面目な口調で伝える。
「俺たち、二人でここを抜け出そう」
「はかせはー?」
間の抜けたイチの発言に、マルゴは首を横に振った。
「イチは小さいからわからないんだ、あいつは良い奴じゃない」
「はかせはやさしーよー?」
「この間までここにいたマルシ、覚えてるか?」
「シーにぃ? はかせがとーくにお仕事に行ったって言ってたよー?」
イチは、マルシ——腕にM-204と書かれていた青年——を頭に浮かべ、答えた。マルゴはイチの両肩をがっしり掴んで首を横に振る。周りには誰もいないが、静かな口調で、いつもより低い声で小さく囁く。
「嘘をついてるんだ。マルシは……あいつに殺されたんだ」
その言葉にイチは顔を引きつらせ、じんわりと目を潤ませた。みるみるうちに涙が頬を伝い、わんわんと泣き出す。
「う、うそだもん! はかせ、そんなことしないもんー!」
「そっか、そうだよな……」
諦めたように呟いたマルゴは、ボロボロと涙を流すイチの頭を撫でた。あぐらをかいた上にイチを座らせ、落ち着くまで撫で続ける。そこには先程まで老人に見せていた表情はなく、優しく柔らかい兄の顔があるだけだ。
しばらく頭を撫でたり、背中を優しく叩いたりしているうちに、イチは落ち着いた。安定した呼吸を聞いて、マルゴはホッとする。それから、落ち着いたイチを立たせ、自分も立ち上がる。上に座らせていたせいで少し脚が痺れるが、パチパチと叩いて紛らわせた。
「なあ、イチ。こっそり町に行ってみないか」
「はかせが危ないからダメだって言ってるよー?」
真っ赤な目のイチは、マルゴを見上げて首を傾げる。それでもマルゴは諦めず、誤魔化すように首を振った。ポンと肩に手を置いて、フッと優しく笑う。
「ちょっとならバレねぇって。さっき割っちまったボールも買ってやるから」
「行くー!」
イチがピョンと跳ねるので、マルゴは、現金なやつめ、と苦笑いした。ニコニコとした表情でマルゴの手を握ったイチは、彼が何を考えているのかなんて知らなかった。
◇
隣で寝ていたリタが目を覚ました。窓の外はまだ暗く、大きくあくびをしたリタは再び目を閉じる。
「……にぃ……」
むにゃむにゃとそう言ったフィルに、リタは小さく笑った。口元を緩めているフィルを見ていると、楽しい夢を見ているのだとすぐにわかる。寝返りを打ってリタの手をギュッと握ったフィルは、再び夢の中へ戻っていった。




