イカロスの失墜
翼の話をしよう。
あまたある種の中で、翼を得た種というものは僥倖である。翼はその目的に応じた、非常に合理的な器官である。誤解なきように言えば、すべての種族が、其の目的に適った合理的な器官を有している。その中で最も魅力的であるのが、翼と言う器官である。ここで翼について話すのは、主観的な好奇心の内を出ない。そしてこの物語に、翼が必要だからである。
翼と言う器官は、主に三つの種によって、これまで独占されていた。翼竜類、鳥類、蝙蝠類の三種である。とくに我々が親しんでいるのは、自然界が生み出した芸術品ともいうべき、あの鳥類の翼であろう。
長らく、この種の動物たちによって独占されてきた翼ではあったが、人類文明の技術的な進歩によって、まさに翼をもつ第四の種が生まれ始めている。人間も、翼をもつようになったのである。いまだそれは特権的なものであったが……。
先に記した通り、翼は或る目的に応じて発達した、合理的な器官である。種の存続を目的として、獲物を他よりも効果的に得るために特殊な発達をした。この翼と言う器官は、人類文明にとっては、直接的に種の存続に反映するわけではない。むしろ人類文明にとって無駄な器官と言えなくもない。
その翼に有用性を付与した契機がある。
それは戦争である。効率的戦争計画を推進するために、先の大戦、膨大な質量作戦の教訓を踏まえ、人類文明は飛躍的に進歩した技術で、様々な兵器を開発するに至った。その中で、翼の開発は、大戦期におけるもっとも芸術的な発明品であった。
異教には、翼を備えた「イカロス」という男がいたそうである。彼はある場所に幽閉されていたが、蝋によって生成された翼で見事その場を脱出した。
しかし彼は知的な好奇心からか、それとも太陽に対する敬慕からか、ついにその太陽によって彼の翼は融け、転落死した。神話における事実や真実の確認は愚問であるとしても、我々はこうして「神話」への道行きに達したと言える。
しかしながら神話の世界への第一歩を踏み出す、その役割を果たしたのは、我らが人類文明を前進させる、科学的「技術」の飛躍的進歩の面に依存している。科学文明の発達はあたかも神話と兄弟のように発達したのである。
人体と無機物による無機的かつ合理的機械運動とを融合させる技術の発達は、高名なエディソン博士の不断の努力と、彼曰く「一パーセントの汗」によって、人類の技術史のただなかに躍り出た。骨組みは、鳥の骨を模した、軽くて丈夫な合金でできており、それらを包む筋組織は、人体からその生成に成功した、いわば生きた筋肉であった。
翼は人類にとって、誠に有用な器官となった。生物と無生物との融合を加速させ、日増しにその需要は大きくなり、万国の交易との間で重要な役目を果たした。物流は日増しに加速し、我が国においても国民経済に潤沢な潤いをもたらし、神話の効用も相まって、翼はまさにそれ自体が神格化されるような風潮すらあった。
しかし、或る一つの失墜が、そうした人類の幸福に降りかかり、翼が町々に、大きな、暗い影を落とすようになったのは、そう遠くない未来のことであった。……(エアハルト・ローゼンベルク『皇女大神国史』)
ひとりの孤児がいた。彼は周囲からアビと呼ばれていたが、彼はなぜそう呼ばれていたのか、見当もつかない。家族を知らない。ひょっとすると、つい先ごろ、汚泥の中から生まれたのかもしれない。
まさに、彼は汚泥の中から生まれた少年であった。彼の記憶は裏さびれた、煤煙と蒸気によってじめじめした、泥濘の中から始まっていた。
地獄であった。両親を知らない、頼るべき人間を知らない、この一個の生命は、生きるために様々な事物に従事せねばならなかった。
汚らしい身なりでは、そうして常に栄養失調を訴えている体では、職などにはつけよう物がない。物乞いになるにほか手はなかった。彼は見よう見まねで、残飯をあさったり、時に虫やネズミを捕まえたりして、これを食らった。こうした技術は誰に教えられるでもなく、アビは周囲にあふれる、膨大な失業者や物乞いたちの姿を見て学んだ。彼が認識するものは、実際生活に基づいた貧困の中にあった。
恐慌は世界を覆いつつあった。恐慌は日増しに人間を圧迫した。機械運動が人間にとって代わり、町には失業者があふれた。そうして人間の生活は、この急激な機械運動によって、次々と縮小を余儀なくされた。喉につく煤煙、水蒸気のじめじめした煙、繁殖する害虫、腐臭を漂わせる汚水に、凶作といった様々な要因が、文明に一挙に押し寄せた。その世界の只中に、アビはいた。
不穏な空気は全体に立ち込めていた。機能不全に陥った議会制度は、間もなく強権的な戦争計画と労働計画とを併せ持った軍事機構によって掌握された。
アビの住む島国は、大陸間との緊張状態に突入した。これには大人たちの様々な思惑が複雑に絡み合っていた。帝政と議会制度はたがいに相手を蹴落とそうといがみあっていた。
そうした権謀術数渦巻く世界、アビは片隅にひっそりとしていた。
彼は煤煙によどんだ空を長い間眺めることがあった。
空腹で、それでもどうしても今日の食事にありつけなかった時、そうするのである。
ついこの間、そのよどみの隙間に、何かが青く映えているのを発見した。認識からは程遠い、混濁とした、それは世の始まりの光であった。
空色―そう教えてくれたのは、彼を泥濘の中から救い上げた、一人の軍人であった。
アビは、航空少年隊の寄宿舎に入れられた。彼を泥濘の内から救い上げた、若い士官の助力によって。
アビにとって、この士官の説く皇軍精神であるとか、国家の存亡といったものは、よく分からなかった。天子様の御言葉と言っても、訳が分からない。
困ったこの兵士は、彼を納得させるために神話を用意した。異教のイカロスである。アビは目を輝かせて、この神話に耳を傾けた。アビが熱心なものだから、この兵士も喜んで話をした。
この士官は「神話」に精通していた。それは研究の範囲を超えて、彼自身の脳髄が、古代と「神話」の世界に直結していた。
「そこでだ」
と、兵士はちょっと居住まいを正して、こう提案した。
「君も翼が欲しくないかい?」
アビは一瞬呆然とし、そうして次の瞬間にはその目を輝かせて、大きく頷いた。
こうしてとんとん拍子に、寄宿舎へ、そうして航空少年隊への入隊が進められた。この若い下士官は良心の内に、もっと上級の将校たちは、戦争参加への暗い欲望に、アビの入隊を認めた。人手不足は深刻であった。情勢が成熟に至らぬうちに、この島国は航空少年隊を形成した。
寄宿舎には、実に様々な階級の少年たちがともに暮らしていた。貴族出の子もいる、労働者階級の子供もいる、資本家階級の子供もいる。そうしてアビのような孤児たちも、複雑に絡まりあって暮らしている。
出生の瞬間に与えられた階級は、ここでは何の意味もなさなかった。ここにあるのは軍隊における階級であった。彼らは平等に扱われた。今後兵士になる身として。
確かに、其処には外の階級の、いわば残り香のようなものがあった。高飛車なものもいれば、優しい心根のものもい、意地悪なものもいれば、慈悲深いものもいた。
しかし、アビはその階級の残り香に、外の世界のような強烈なまでの差別は感じなかった。残り香は残り香に過ぎなかった。彼らはひとえに、これからの戦士の、強靭なまでの共同体であった。そうして常にきれいに整えられた愛らしい制服も、温かい食事も、柔らかな寝具も、およそ平等に配給されていた。
その場所で、アビは〝彼〟と出会った。
銀色の髪を持った、貴族出の子である。女性のような、細い咢を持っていた。世の中にはこんなにも美しい子供がいるのかとアビは思った。アビの周りにいた子供たちは、誰もかれも、皆煤けて頬のこけた、同じような汚らしい顔をしていた。いったいどれが自分の顔か、アビ自身にもわからなかったくらいだ。
〝彼〟は、アビを気に入ったらしかった。何を思ったのか、何を感じたのか、アビにちょくちょく話しかけるようになった。アビにはその理由がわからなかった。もっと似合いそうな人間は、いくらでもいる筈だ。
ある日、好奇心に負けて、〝彼〟に尋ねたことがある。
「なんで僕だったの?」
〝彼〟はちょっと思案したのち、
「君がきれいだからだよ」
と、こともなげに言ってほほ笑んだ。
「きれいだからさ!」
そんなことを、生まれてこの方ついぞ言われたことのないアビは、顔を真っ赤にした。
いっぺんにこの短い会話の中で、アビは〝彼〟のことを好きになった。
不思議な少年であった。〝彼〟は人々を惹きつけた。
アビは〝彼〟の峻厳なまなざしを、気高い(それはアビが一度して持ったことのない)微笑みを、美しい銀髪を、弓弦のようなその背中を、その体につりつけられるだろう翼を、愛していた。
愛していたことを証明するために、ここに一つの挿話を入れておこう。
訓練漬けのある日、慰問団がこの寄宿舎にやってきた。主に女性によって構成された一群である。彼らより幼い子供たちも見物としてやってくる。町の少女たちもいる。この日ばかりは、少年たちは厳しい訓練を忘れることが出来た。慰問団に、離れ離れになった母性の匂いを直に嗅ぐことが出来たのである。
食事が供された。こまごまとした遊び道具が供された。催し物が彼らを笑わせた。少女たちに手を触れた。等々……。
〝彼〟は一人の少女に付きまとわれていた。美しい少女である。アビと同じ寮室の子供の姉で、平民の出であった。平民出のくせにずいぶん高飛車な性格で、何か異様な嗅覚で階級を嗅ぎ分けているらしく、一直線に、他には目もくれず、〝彼〟にすり寄った。アビは胸が苦しくなった。彼のそばにその少女がいるのは、なんだか不快であるし、そうした少女は先ごろ彼の顔を指さして、
「あなたの髪は、まるで泥のような色をしているわ。あなたの顔はまるでなまっちろくて、死体のよう。それで航空兵が務まるかしら」
と、言った。
アビは怒りに顔を真っ赤にした。その髪は〝彼〟に
「豊かな栗色の髪だ」
と、褒められた髪だったからである。
あたりが暗くなった頃、この二人はいつともなく彼らの視界から姿を消した。アビは、少女が〝彼〟の手を引いて、木陰に隠れるのを確かに目撃した。
アビは追った。その秘密の逢瀬を垣間見た。驚愕した。唇が触れ合っていたのである。人の気配に気が付いたのか、少女は足早に去った。〝彼〟は雑木林にしばらく残っていた。そうして顔をしかめて、先ほどまでふれあっていた唇を、手の甲でグイと拭った。
「そこにいるんだろ。覗きとは感心しないねぇ」
アビは驚いて姿を現した。
「……あの子、気に入ったの?」
と、恐る恐るアビは尋ねた。
「まさか」
「でも、その……あの……」
「あれは彼女がやったんだ。僕は嫌だった。……じゃあ聞くけど、君は彼女のこと、気に入ったの」
そんな筈はない。アビは激しく首を振った。
「君の好き嫌いにケチはつけないけど、あんな子はやめときな。気持ち悪いったらないよ。綺麗な顔をしているのに、まるで唇は、油でねばねば張り付くみたいだったし―」
「ちがうよ、僕、あの子のこと、きらいだもん」
「じゃあ、どうして気に入ったなんて聞くんだい?」
アビは答えに窮した。どんな感情か、解からなかったのである。
「僕、わからないけど、君とあの子がその……キスしていた時、いやでいやでしょうがなかったんだ。すごく、いやだった……」
〝彼〟は少し驚いた様子で、何事かを小さくつぶやいていた。そうして急にひらめいたように、
「僕なのか!」
と、叫んだ。
〝彼〟はにこりとした。次の瞬間に、アビのほほに柔らかな感触をうけ、驚いて飛びのいた。
「やっぱりアビは面白いなぁ」
〝彼〟はくすくす笑いながら、一散に雑木林をかけていった。
――〝彼〟はいつもつまらなそうに、心ここに非ず、といった風で、窓辺の景色を見つめていた。その容貌は心持斜め横を向いていたがために、アビはそれをもどかしく感じた。
アビを充足させたのは、窓辺に映る〝彼〟の姿であった。
ここでは青空が見える。窓辺に映る〝彼〟は、さながら空に浮かんでいるようである。
――座学の時間は飛行力学といった、そんな類の物理法則や方程式が氾濫していて、大変に忙しい印象をアビは感じていた。しかし〝彼〟のノートはいつみても真っ白だった。それでも、〝彼〟は常に主席を保っていた
彼らの寄宿舎には、座学と訓練の両方を統括する「教官」という武官の職が存在した。この一番の長たる「教育統監」が、これまたひどく醜い男であった。そして、少年たちにひたすら無慈悲であった。
〝彼〟はこの太った、醜い「統監」を蔑視し、見下していた。
「ほら、彼はあんなにも醜い。でも僕たちは美しい。(そんな時からかうように〝彼〟はアビのほほに触れた)なんでだと思う。僕たちには翼があるからだ――今は僕も持ってない。でも、少なくとも与えられる余地はある。だから、僕は彼のような醜さを軽蔑する。侮蔑する。これは僕たちに与えられた特権なんだ」
故に、その「統監」に目をつけられ、何かにつけぶたれているのを、多くの少年たちが目撃した。「統監」は少年たちにとって憎むべき存在であった。
その醜さが、憎悪をいっそうに加速させた。厚ぼったい唇と、水膨れしたような餓鬼のような腹を持って、歩くときにはいつもぜいぜいと苦しそうに息をしていた。ガマがなくような怒声が特徴であった。美というものから、こうして徹底して排除された人間も珍しい。
少年たちを、特に美しい者たちをいじめるのが、彼の楽しみであった。彼は美しいものを愛していた。それにしても彼自身が美しくなる法はないし、心にまでカビのように繁殖した己の醜さが育てた、その毒々しいまでの悪意を、とどめ置けるような男でもなかった。彼の考えた策は、美しいものを自分の手元にまで引き寄せることであった。醜いものを美しく見せるのには手間がかかるが、その逆はたやすい。
少年たちは抵抗した。時に「統監」の妾になって利を得ようとする少年がいた。そんなものは特に軽蔑の対象であった。〝彼〟のもはや教理問答に近い考えが、この軽蔑を加速させた。妾らは、それから長く寄宿舎にはいられなかった。そうした少年はほかの寄宿生たちから辱めを受けるからである。去った彼らは、その後、アビが倒れていたような汚く、臭く、薄暗い貧民窟の中で、「統監」によって、いかがわしい商売をさせられているという噂が立つことになるのである。醜くなった少年たちの消息は、誰にもわからない。それを少年とするかどうか、妙に計り兼ねる。
―ある日、アビは、〝彼〟になぜ航空少年隊に入ったのか、尋ねたことがある。
彼はそれを「僕が神話になるため」といった。それが〝彼〟の本心からの言葉であったかどうか、アビに証明する手立てはない。
何故ならその真意を聞く前に、アビがぐずぐずするうち〝彼〟は飛び立ち、そうして二度と戻ってくることはなかったからだ。
しかし、アビはその言葉を、強く信じたいと願った。信じるべき理想が喪われたこの場所で、アビや〝彼〟のような少年たちの死をひといきに「神話」に化身させる―それがたったひとつの方法に思われたからである。
神話や物語の中で、英雄になった者たちは、人々の心に焼き付けられた。何故ならその多くが死んでいたし、時に生き残った少年たちは、死んだ者たちより悲惨な予後を過ごすことになったものだから、ほとんど語られることはなかった。後々になって戦いに敗れたのち、人々の心を慰めるのは、死者を踏み台にした、戦争と裏返しの平和主義であり、あるいはそれゆえ現実と断絶された英雄譚であった。戦後は、混乱と偽善と欺瞞が、仲良く手を取り合っていた時期であった。
それらは、戦前から徐々に形成されていた、新しい価値観であった。それらはごくごく若い人々の心の内によって、戦前戦中を通して芽を吹き、戦後敵軍の占領政策によって開花した。
その萌芽の裏腹に、少年たちは「神話」に、語り継がれるべき物語の主人公になりたがっていた。そのために、彼らは戦時中、その幼さの残る背中に翼が取り付けられる日を、刻一刻待ち望みながら、現実的な飛行訓練と退屈な座学の授業にいそしんでいた。
ある日、突如として、戦争は起こった。不安という壁への、大きな一撃であった。そうしてそれは、少年たちの住む田舎町に、ひょっこりとやってきたサーカスのようなものであった。この盛大なサーカスの開幕に、国民は目を輝かせ、そうしてこれを熱狂の内に迎え入れた。それは命のやり取りが過激で、時に観客さえも、当事者として巻き込まれかねない、ひどく切迫したサーカスであった。このサーカステントは、茶色の布を張り合わせたような、ひどく汚らしい風体をしていた。
例えば、突撃歩兵たちは敵前五十メートル、味方の援護射撃がやんだところで、指揮官の一声に塹壕から泥を蹴立て、敵陣に突進する。屍が其処彼処に転がる。皆々泥人形のような風体をしている。サーカスのテントは、黒ずんだ血と、泥染みで汚れた、ありあわせの包帯で作られた。
ところがこの寄宿舎に集められた航空少年は、それと無縁であった。何故ならこの戦争には、一つ特別な演目があったからだ。
彼らこそ、この戦争における主役であった。そうして彼らは、機械の翼を、あの世界に巨大な影を落とした翼を、大人たちから与えられていた。
なぜ、少年たちに翼が与えられたのであろうか。人手が極端に不足していたのであるなら、大人たちが航空兵として活躍していてもよかったはずである
答えは、そのほうが美しいから。
国々はこぞって、幼い、滑らかなその背中に、有機体じみた―まるでそれそのものが、飛ぶという意思を持ったような――機械の翼を取り付けて、戦場に送り出した。科学文明は進歩しつつあったが、それを運用する理念は、中世の騎士道精神や、封建制度の風潮から抜け出すには至らなかったのである。
少年らに、まるで本物の翼が生えたようになって、悠々と空を飛び回る姿や、時にそのもろもろの翼が砕かれて、陽光にぎらぎらとすさまじく反射するのを見て、翼をもたぬ見物人たちは、すぐ近くに天国があることを錯覚するのだった。「あぁ、豆粒みたいだが、でも天国というものは、どうやら目に見えるところにあるらしいぞ」。
戦火の中で、少年らは永遠の語り草となる道を、互いに模索しあい、アビにおいても例外ではなかった。彼らは無邪気が過ぎた。彼らは死を、かすり傷のようなものだと思っていた節があった。
では、元孤児であるアビなら、死というものをよく知っていたであろうか?
彼にとっての死は、垢や蚤にまみれたぼろをまとい、煤煙の泥水に体をつけ、じとじとした水蒸気の靄の中で、自分が何者かもわからず、飢えて死ぬことであると思っていた。あまりにも死の情景がかけ離れすぎていたがために、アビは双方が同じく死という結果に向いていることを理解できなかった。同じ死とは、到底思われなかったのである。
そうして、〝彼〟は栄えある最初の「神話」の一人となった。美しい翼を、その少年らしい緩やかなカーブを描く背中に取り付けられて。翼の躍動は、その内に大気を抱き込み、一瞬膨らんで、赫奕たる日輪の中に飛び立った。それは、異教の神話のそれを暗示するような光景であった。蝋の翼をもち、太陽に焼かれて、失墜した男。それは死の暗示に他ならなかった。
〝彼〟一人だけの出撃ではもちろんなかったが、渡り鳥がちょうどそれを先導する鳥に付いて行くかのごとく、美しい曲線を描いて飛んで行った。それはまだ翼を授けられていない、少年たちの胸中に、強烈なまでに焼き付けられた。少年たちは、その日が自分にやって来ることを夢想した。
洋上にて、〝彼〟は初陣で灰褐色の敵の翼を二十ばかり堕とした。武器は騎士道よろしく、剣であり、斧であったりした。そうして彼らは、空で無邪気に、敵の翼を叩き割るのである。〝彼〟もそうであったに違いない。
だが、栄光はそう長く続かなかった。〝彼〟は撃ち堕とされた。皇国の白い翼は、洋上によく映えたが、なかんずく敵に見つかりやすかった。それでもなお人々は、皇国の白い翼の躍動を、大空に望んだ。
〝彼〟もそしてその翼たちも、その後見つかることはなかった。戦争の終結に至るまで、あのまばゆい落日の日まで、あまたある出撃と戦闘が繰り広げられたが、遺骸やその翼たちの残骸が発見されるということは、ほとんど皆無といってよかった。翼が見つかることは、ほとんど奇跡に近い事であった。
これは不思議なことであった。何故あんなに空には美しく映える翼が、地上に墜落した途端に、正体を失ってしまうのだろうか。
ただ、アビはそのことを幸福に思った。血まみれでぼろぼろの〝彼〟の死骸が、あるいは無残な翼のかけらが、もし見つかったとしたら、彼はいつか自分にやった来るその日を、今と同じ気持ちで迎えられるか、自信がなかったからだ。
戦況に陰りが見え始めた。初戦の快進撃は、長くは続かなかった。高射砲台の機甲部隊が、郊外に駐留した。歩く砲台が、町に本当の影を落とした。
町にも空襲の火がやってきたのは、戦争も終わりに近づいたころのことである。
――爆撃の音が、すぐそこまで迫ってくるようであった。アビは窓枠によりかかるようにして、カーテンの隙間から、町が焼かれてゆくのをじっと見守っていた。
アビは、爆弾が破裂する瞬間や、ちりちり肌を焼くような熱波の感覚や、崩れゆく建物の音や、それらを呑みこむ火の荒波を創造した(想像ではない!)。彼にはそれが美しい光景に思えた。すぐそこにある現実のこととは、どうしても思えなかったのである。こう云えば、彼は万人の誤解を免れないであろう。アビはその美しさが、なぜに自分を魅するのか、考えた。
燃え行く街の景色に、アビは安堵を憶えた。もうあの場所に帰らなくてもいいのだ。残飯をあさり、絶え間なく工場から吐き出される煤煙と蒸気に、肌がすすけたように真っ黒にならなくて済む。そうして、自分が何者であるかは、ここには用意されている。
――アビは確かに見た。彼は、燃え盛る街のあちこちを、上空からつぶさに見て回っていた。これは彼の為に創造された世界だ。
光った。なにものかが、光った。猛烈な光を発した。
生命だ! 生命の火が、あの恐るべき人工的な破壊の中で、猛烈な光を放っているに違いない。それらはいくつもの螺旋の筋を持っており、花火のように、上空へ次々打ち上げられるごと、一つになって燃え盛っている。あれは確かに生命の火だ。人々は等しく焼かれている。使い物にならなくなったからだから、命は放たれ、一つに睦み合っている。あの場所には日常生活の中では容易に見つからなかった尊さがある。
命の尊さは、決してその命事態に付与されているわけではないのだろう。極限の中に初めてその光は輝きを放つのだ。丸裸で突進するのだ。
……同室の少年の姉は(この女については、先に述べた)この爆撃によって、顔の片方を失うこととなった。赤く、妙に生々しい皮膚が、重力に逆らえずにどろりと溶けたようになって、世の美というものから、その片方のみが、切り離された形になった。
アビはその少女が、美しい様相をしていたのを知っていたし、またそれによるものか、ずいぶんと高飛車な性格であることも、知っていた。アビは本来の姿に戻っただけだと感じた。おそらく神様が、そんな彼女を怒って、その美しい顔を取りあげてしまったに違いない。
彼女はそれでも生きている。死ぬことが出来たなら、その心の醜さまで、この世にいつまでも現わさずに済んだであろう。
ただ現実は、そんな顔をこれ見よがしに、皆々に見せて回っているらしく、それによって人々の同情を引き出そうとしているという事であった。人々はそれを気味悪く思って、また怖いもの見たさの好奇心に、同情をするようなふりを見せて、時々わずかばかりの金を与えては、養生しろよと言うのだ。アビは、幾分失望を禁じ得なかった。死に際してはあれほどまで鋭い光を放っていた生命が、ここではくすんで黒ずんでいる。心ではその醜さに恐れを抱いているというのに。その醜さを嘲笑しているというのに。……丸裸の生命であったならば、こんな状況が発生し得たであろうか。
そうした醜さが、自身に降りかかる前に、何としても空に散らねばなるまい。と、アビは思った。そのための翼は小道具であり、空は天然の大舞台であった。上手から下手までの距離は無限に存在した。そうして主人公は、何としても人間なのだ。
(この僕なのだ)
アビは自身の考えに、半ば憑りつかれたように思えた。
彼は想像した。雲の向こうには少年たちが待っている。たくさんの少年たちの命だ。天国はきっと美しい少年たちの住処となっているであろう。〝彼〟もそこにいるに違いない。
――戦況は次第に絶望的な様相を呈していた。軍の公式発表は勝利を連日伝えたが、公式発表など、本当のところ誰も信じていなかった。
だが、アビは絶望していなかった。むしろ戦火の中に幸福であったと言えた。翼の存在が、幸福を小止みなく補てんした
それは長くは続かない、幸福の季節であった。
………………………………
すべての物事の始まりと終わりが、最初から仕組まれていたような精巧さで、しかし単なる偶然の発露に過ぎないように、その日は突如やってきて、人々が気付くころには、手遅れになっていた。
寄宿舎の残り組は、敗戦が濃厚になって後も、日夜訓練を続けていた。
同室は次々と出撃していった。そうしてほとんど帰ってこなかった。アビは一向に、自分に翼が与えらないことを不思議に思っていたが、その日が近いことを、内密に若い士官から知らされていたから、大して気にはならなかった。少年たちはいつ出撃が来たところで一向にかまわなかったのだが、大人たちには、精巧な戦争計画があった。だから時間がかかるというのだ。アビは安心して、死ぬための訓練を続けることが出来た。
そんな彼らのもとに、ある日ひとりの少年が息せき切って駆け寄ってきた。町のほうから来た少年らしく、煤けた頬に、汚いぼろをまとっていた。
「戦争がぁ」
と、この少年は薄い紙きれのようなものを広げて、こういった。
「戦争が終わったぞぅ!」
「なんだって?」
アビには信じられなかった。彼は少年に詰め寄った。嘘をついていると思ったのだ。
ただ別の少年たちは、その少年の持つ紙切れに、我さきに群がった。この子供の、震える手に握りしめられた文字を、彼らは一心に読み取ろうとした。
「皇国――ついに無条件降伏を受諾」
少年たちは唖然とし、またその次の瞬間には、次々と歓声を上げた。
「もう戦わなくていいんだ!」
「やったぞ!」
口々に生き残りの少年たちは声を上げた。アビはその中で、呆然としながら、この熱狂の渦が、周囲を回転してゆくのを眺めた。
――ちなみに残酷なようではあるが、すべての少年が「神話」になりたがっていたわけではないことを伝えねばなるまい。翼を欲しないものもいたことは、事実である。
彼らがそれでも寄宿舎にいたのは、死の恐怖を刻々と待ち受けながらも、ひとえに配給不足の中にも、毎日供されるパンの為であった。戦争が終結したことで、死の脅威から解放された彼らは、自分たちが生き残ったことを喜んだ。
(戦争が終わった。戦争が終わった……)
アビは反芻した。するうちに恐怖に変わった。
戦争から解放された、このひとりの少年の中で、それが決して解放でなかったことを注意していただきたい。断じて解放などではなかったのである。
(僕はどうなるのだ! 地上に残された僕は?)
周囲は回転を続けている。彼は出口を見出そうと周囲を見まわした。どこにも出口がない。そうして途方に暮れて空を見上げた。
ここには翼がない。
………………………………
――終戦の詔勅が、巨大な蓄音機械を介して、大気を震わせている間中、アビは微動もしなかった。その声は何を言っているのか、まるで分らない。
醜い「統監」が死んだ。部下のあの若い士官が、ピストルで彼を撃ったのである。そうして士官自身、自分のこめかみの部分を撃ちぬいて死んだ。
それを若い兵士が、寄宿生に知らせに来た。
「統監」は「敗戦責任を皇帝に帰し、皇軍の前途を誹謗し、皇国精神の滅亡を説いた」ために、これに激怒した士官に殺されたとした。はっきり言って、アビたちには、何を言っているのか、よく分からなかった。
また、その士官は、その場に居合わせた同僚士官に向かって「これでいい」と、一言つぶやくと、今度は恐ろしい正確さで、自らに引き金を引いた。
……大人たちには大人たちの世界があった。若い士官は「神話」に向かって突き進んでいた。現実と対峙した時、彼は憎むべき現実たる「統監」を拳銃で持って殺害し、そうして今度は、自分の脳髄に――古代と「神話」に接続された世界に――引き金を引いた。現実界と想像界に、何者も入ってこられないように、道を遮断したのだ。
それは事件の翌日になってわかったことであった。
――最低でも、二回銃声が聞こえたはずである。相手を撃ちぬくので一回。自分のこめかみを撃ちぬくので一回――といった具合に。
アビには全く聞こえなかった。ただ他の少年たちは、聞いた、確かに聞いたとしきりに興奮して語り合っていた。しかし、その証言には、各々どうも差異があり、信ぴょう性に乏しいものであった。それもそのはず、それは皇軍の基地内部で起こった出来事であり、寄宿舎の少年たちが、その銃声を聞けるはずもなかった。遠く離れていたのである。彼らは、大人たちからの受け売りで、そうして半ば自分たちもその音を聞いたように錯覚していたのである。誰も銃声など、聞いていなかったのだ。
ただ、アビ以外の少年たちは、その幻の銃声について自慢げに吹聴するものだから、彼は自分だけが銃声を聞かなかったものと思い込んだ。そうしてそれを深刻に受け取った。確かに、物理的な弾丸の発射とその破裂音は、彼の内部で芽生え始めた感情と、直接的には関係しない。しかし、その幻の銃声が何を意味していたのか、何が「終わり」そして「始まった」のか、アビには解かっていたのである。
戦争が終わった。
そして膨大な平和の時間が始まった。
彼を残して。彼だけを敗北の中に置き去りにして。皇軍の敗北は、アビにとって痛恨事ではなかった。彼にとって、平和の時間に置き去りにされたことが、最も痛恨事であった。
もうあの勇壮な蒼穹に、その有機体じみた翼の躍動と同時に、栗色の柔らかな髪がなびくのを垣間見ることは出来ない。
膨大な平和の時間が始まりを告げる声が、其処彼処から聞こえてくるようである。
泣き出すもの
歓喜を上げるもの
叫ぶもの
笑うもの
抱き合うもの
つかみ合うもの
アビはその渦中に放り出された。彼は確実に遅れてきた少年であった。彼は残されたものたちからも、また先に行ったものたちからも、疎外されていた。そんなアビをかえりみるものは、誰もいない。現実としてやってきた平和は、彼を不安にした。人々は不安な面持ちでいる彼のそばを、次々と通り過ぎてゆく。
人々が、茫漠とした時間の中に、その身を埋めようとしている。破壊の後、残された焦土の中に、すでに営みは再開されようとしている。
その眼には、確証のない希望がみなぎっている。煤に汚れた、真っ黒な顔をしているというのに、その眼だけが、生命の躍進に異様な光を放っていた。
アビはそれをひどく恐れた。翼が与えられるからこそ、彼はその浅ましい光から逃れることが出来た筈なのに。
しかし、時局はそうではない。残った翼は悉く破壊され、わずかに残った翼は、格納庫奥深く鎖につながれて、直に占領軍が接収しにくる。
大人たちは積極的に翼を破壊した。それが彼らの罪の刻印とでも言う様に、子供達の憧憬を破壊した。大人たちは自身の暗い欲望に満ち溢れた戦争の只中に、少年たちを抛り出したからである。そうして少年たちに与えられた勲章は、長く彼ら大人たちの心を傷つけた。勲章は少年たち自身のもとには届かなかった。悔恨はもはや遅く、多くの少年たちは還ってくることがなかった。
だがそれは身勝手というものである。アビにとっては、翼がすべてであったのだ。貴賤は翼をもつことによって中和され、皆々等しく死ぬことが出来たというのに。そして、それがアビの憧れであった〝彼〟のそばに行ける、たった一つの方法であったというのに。その方法はいよいよ狂乱の中に喪われた。
戦争が統制的な悪夢であったとしたならば、この混乱は、無秩序な悪夢に他ならなかった。戦時というものは、戦争計画に基づいて、同じ悪夢を全体行動でもって一身に夢見ることである。
混乱の中に、人々は身の処し方を考え始めるようになった。それにしても混乱は混乱であった。戦犯人が次々に逮捕され、昨日の敵が今日の庇護者になり、昨日の見方が今日の敵となってつかみ合いを繰り広げるといったように、大人たちはひどく混乱し、子供たちはその滑稽な姿に半ば呆れていた。
子供たちはとにかく大人たちの勝手で死ぬわけにはいかず、占領軍が上空から撒く食料品を得るために、飛行隊を追い掛け回したり、蒸気を噴き上げる戦車群からなる機甲隊に、火傷しながら群がったりした。子供たちはそうして群衆としての素養を、生活の中で徐々に身に着けるだろう。こうして、戦争計画の次には、大規模な労働計画がこの国土全体を覆い、そうしてまた、戦時に起きた統制的な悪夢が、この子供たちが次に大人になることによって、実践されることだろう。
アビはひどく戸惑い、それが一向に理解できずにいた。これから始まる、生き残った人々の前に長々横たわる日常は、決してなにも、彼らに保証していない。
彼には死ぬことの権利も保障されていない。そこには翼がなく、大空の舞台も用意されてはいない。あんなに近くにあったように感じられた空が、今は遠い。
数日の後、軍は解体され、少年たちは追い出された。残された少年たちは、ことごとく裏切りだと叫んだ。戦争が終わったことが、決して解放にはならないといったのは、こうした観点からである。混乱が大人たちを許した。そうして皆々自分が生きることにかかりきりであった。これからはもっとつらくなる。今日のパンと水すら、その詳細は明らかでない。
目の前には、人の作った多くのものが焼かれ、そうして灰と瓦礫になったのちの、平安をなみなみと注いだ大地が、のっぺり広がっている。
アビは途方に暮れた。しかしどうしても歩き出さねばならなかった。生きるより他に、術がないのだ。
べたべたした生の感触を肌に感じながら、彼は頬の汗をぬぐった。煤が線を引いた。それはアビにつけられた傷に他ならなかった。
「了」
テキストの作成日時を見てみると2014年と書かれてあるから、おそらくその時期に作品になると思われる。翌年の創元SF短編賞に応募して、何の音沙汰もなかったから、そういうことだろうと別に気にも留めなかった。
長野まゆみ『月の輪船』とユンガーの『労働者』の影響を受け、以前から私の頭の中を飛び回っていた、つくりものの翼で飛び回る少年たち、を書いた。子供の夢は子供同士の全体的共有感で夢見るものだ。そこにファシズムの萌芽もあるだろう。
作品自体は以前のままだが、ブログ版の読みにくさと誤字等を鑑み若干の訂正を加えてこちらにも再掲する。