50話 モロトフですけど、最後の方が聞き取り難かったのですが
1939年8月上旬 東京 秩父宮邸
【帝国陸軍、第7師団と第8師団が、北樺太へ侵攻!】
は……?
ノモンハンでの限定的な国境紛争に止めるつもりじゃなかったの? なんですか、この行け行けドンドンの乗りは?
このままでは、日本とソ連との間で、全面戦争という事態に発展しかねないと思うのですけど?
もしかして、日中戦争が発生してないから、日本の国力が磨り減ってないので、強気な姿勢で事に臨んでいるのでしょうかね?
でも、北樺太は曲がりなりにも、ソビエト連邦の本国プロヴィンスなんですよ?
ソ連の傀儡であるモンゴルの主張する、猫の額を取り合う国境紛争とは、次元が違う話になってくる気がするのですが……
【海軍陸戦隊、北樺太のオハへ上陸! 拘束されていた油田関係者を解放!】
へー、オハの油田って、日本人も働いていたんだ。知らなかったよ。オハの日本人と連絡が取れなくなって、異常事態に気付いたから救出に動いたのかな?
軍にとっては、拘束された日本人を解放するという、絶好の大義名分を得られたと思ったのでしょうね。嬉々として、北樺太に侵攻する作戦を発動させたのでしょう。
日本にとって北樺太侵攻は、日露戦争、シベリア出兵に次いで、今回で三度目になるのですから、自分の庭のようなモノですし、朝飯前の簡単な作戦なのかも知れません。それに、樺太自体が元々は日本の領土でしたしね。
しかしこれは、ノモンハン事件に託けて、日本人を拘束したソ連が悪いということで。
それに、将来的にみたら、北樺太の油田は日本にとって必要となるのは、前世の記憶的にも理解していますので、長期的な戦略で考えれば、北樺太への侵攻は悪手とまでは言えないのかも知れません。
石油もそうですけど、天然ガスも北樺太には大量に眠っていますしね。
【海軍が戦艦長門や陸奥を含む艦隊を、ウラジオストックのソ連領海手前まで進出させ、停戦を呼び掛ける!】
は……?
なんですか、その殺る気満々なのに、停戦を呼び掛けるという矛盾した発想は?
つまりこれは、ソ連がノモンハンの戦闘で停戦に応じなければ、ウラジオストックを艦砲射撃すると、ソ連を恫喝しているようなモノですよね?
なんという、砲艦外交……
でも、これって、逆効果なんじゃね? ソ連の態度が頑なに硬化しちゃいそうな気がするのですけど、大丈夫なんでしょうかね?
1939年8月中旬 ソビエト連邦 モスクワ
「これは、重光大使ようこそ。本日はどのような用件で?」
「モロトフ閣下、顔色が優れないようですけど、大丈夫ですかな?」
「まさか貴国、日本が北サハリンに侵攻するとは思いませんでしたのでな」
「拘束された同胞を救出したにすぎませんよ」
「しかし、このままでは、全面戦争に移行してしまいますぞ?」
「それは、我が国も危惧しております」
「ウラジオストックの近海を遊弋している、貴国の艦隊を下げてもらいたいですな。あれではまるで、砲艦外交だ」
「そろそろ、ノモンハンから始まった一連の戦闘は終わりにしたいとは思いませんか?」
「それは勿論、平和が回復するのが一番ではありますが……」
「その平和を回復させる為に、我が国の艦隊がウラジオストックに睨みを利かせていると、ご理解頂きたい」
「それは、恫喝となんら変わらないではありませんか! 我が国は、けして恫喝には屈しませんぞ!」
「停戦を呼び掛けているのを、恫喝とおっしゃられても、実際にはこうして交渉のテーブルには着いているではありませんか」
「まあ、それは確かに、その通りなのですが……」
「落としどころが問題という事ですな?」
「ええ、まあ。貴国によって、北サハリンも占領されてしまいましたしな」
「今日は、その為にやって来たのですよ」
「ほう? 北サハリンから即時に撤退してくれるのでしょうか?」
「いや、北樺太は日本が頂きますと、申し上げに来ました」
「は……? 今、なんと言いましたか?」
「北樺太は日本が頂きます、と」
「話になりませんな。重光大使はお帰りを希望だ!」
「まあまあ、落ち着いて下さい。話を最後まで聞いてからでも遅くはありません。外交官たる者、人の話を聞かずに門前払いでは、国益を損ないますぞ」
「そうでしたな…… いや、失礼しました」
「話を聞かないというブラフも、戦術としては、時には有効だとは思いますが、大局的に見れば下策でしょうな」
「常にパイプは維持しておけと?」
「その方が、万が一にも両国間に不測の事態が起こっても、お互いに対処しやすいでしょう」
「それは確かに、その通りですな」
「お互いの誤解から、思わぬ大戦へと発展する場合もあり得ますからなぁ」
「意思の疎通は大事でしたな……」
「それで、話を戻しますけど、貴国、ソ連は極東の大地よりも欧州に興味があるのではないのですか?」
「いやいや、どちらも重要ですよ」
「どちらがより重要なのかという比重の問題です」
「それは、不毛なシベリアの大地よりは、ウクライナの大地の方が重要なのは確かですが」
「極東で我が国とじゃれ合っている隙に、欧州ロシアが疎かになっては本末転倒ではないのですかな?」
「それは、まあ大使がおっしゃる通りなのですが……」
「そこで、提案なのですけど、北樺太と満州の一部を交換するのに興味はございませんかな?」
「っ!? そ、それは…… 大変興味深い提案ではありますが、私の一存では決めかねますな」
「ええ、それは理解致しておりますとも。取り敢えず、話だけでもお聞き下さい」
「では、拝聴しましょう」
「地図で言えば、此処と此処と此処でしょうか」
「ほうほう…… しかし、これでは交換する領土の面積的に、貴国の方が有利なのでは? 北サハリンは、4万平方キロ以上あるのですぞ?」
「これでも、現状での進出ラインでの和平よりかは、譲歩しているつもりなのですがねぇ」
「実効支配という事でしたか」
「シベリア鉄道の要所である、チタから国境線が遠くなるのは、貴国の防衛戦略上でも有利に働くのではありませんかな?」
「それは、万が一にも、貴国、日本や満州と戦争になった場合には、防衛上有利にはなりますが、貴国は、それでよろしいのですか?」
「我が大日本帝国が、貴国、ソビエト連邦の極東シベリアの領土に対して野心がないという、一定の担保にはなるのでは?」
「まあ、それは確かに、その通りなのですが……」
「それと、ハバロフスク近郊を、我が軍の重砲の射程圏から外すのは、貴国にとっても重要なのではありませんか?」
「まあ、それは確かに、その通りなのですが……」
「なにか、ご不満か、心配な点でもありますかな?」
「自分の頭越しに、領土を削られる事になる満州国が、それで納得しますか?」
「無論、満州にも飴を与えて黙らせる努力はしますよ」
「逆恨みされるのは御免ですので、貴国、日本の側で満州を黙らせて下さい」
「その代わり、モンゴルは、貴国、ソビエト連邦の側で黙らせて下さい」
「……」
「……」
「多少、満州には同情しますよ」
「ほんの少しばかり、モンゴルには同情しますね」
「……」
「……」
「「ふははははっ」」
「小国や傀儡国とは、大国や宗主国の意向に振り回されるものかと存じます。最近では、チェコスロバキアが良い例でしたな」
「チェコは気の毒でしたな」
「ええ、しかし、力なき正義は、悪となんら変わりはないとも申しますな」
「自国民を守れてこその正義ですな」
「そうですな。では、今日はこの辺で失礼します」
「ええ、また後日にでも改めて」
「ああ、そうそう。言い忘れていたのですけど……」
「なんでしょうか?」
「東トルキスタンには石油がありますよ?」
「は……?」




