虹を見つけて(樹編)
ビルの中へ消えていく野崎清華の後ろ姿を目で追いながら、高井樹は足取り軽く自分の勤める会社へ急ぐ。
彼女の嫌いな食べ物を聞いておけばよかったが、よく行く多国籍料理のあの店なら、お願いすれば何でも作ってくれるし、賑やかすぎず落ち着いているから、丁度いいかもしれない。
すぐさま店に予約の電話を入れ、清華にも待ち合わせ場所と時間、念のため苦手なものがないか連絡し、上機嫌で社内に戻った。フロアの端にある広い机で昼食を食べていた若手女子社員たちが、樹に気付き一斉に黄色い声で挨拶する。お局様グループが外食でいない隙にアプローチを開始した。
「あっ!高井さん、お疲れさまでーす!良かったらクッキーなんていかがですかぁ?こちらで良かったら一緒に…」
「お疲れさまです。これから昼飯食べるんで結構です」
自分に熱っぽい視線を送る女性たちをさっさとかわし、席につく。
「はあ、高井さん相変わらずクールだわ。観賞用イケメンだわ」
「仕事ができて、背が高くて、高学歴で、かっこよくて、でも性格は冷たい。少女漫画かってくらい揃ってるよね」
「学生のときからモテてたんだろうねぇ。彼女とか入れ替わりいそう」
ヒソヒソと聞こえる内緒話は、しっかり樹の耳にも入っていた。
残念だったな。高校三年の初めに身長が伸びる前までは、女子たちから恋愛対象に思われてなかったよ。大学入学の時、成人式の時、女子たちからギラギラとした目で連絡先を聞かれ、その変わりように心底恐怖したけど?
内心自嘲しながら、買ってきたばかりの和風弁当を食べつつ、黙々と報告書をパソコンに打ち込む。薄味だが旨味溢れるきんぴらごぼうを口に運びながら、それを勧めてくれた女性のことを思い返す。
さっきは偶然を装ったが、本当は以前から清華が近くの会社で働いていることに気付いていた。樹は4月から本社に移動になって、ここ数ヵ月昼休みに同僚と外出する清華を時折見かけていたのだ。
しかし、なかなか声がかけられなかったのには二つ理由がある。
一つめは、清華が他の女性たちと同じく、背が伸びて見た目が良くなった自分に対して見る目を変えたら、という不安。
中学生の頃、身長の話題になるたびにからかわれていたとき、男女関係なくみんなが笑う中、清華だけは困った顔をしていた。いじめられていたわけではないが、もちろん気分のいいものではなかったので、とても救われた思いがした。それから高校大学と別れ、成人式でも会わなかったので、どんな態度を取ってくるか予想できなかったのである。
二つめは、清華に声をかけて昔のままだったとき、もし恋人がいたら、という弱気。
女にこりごりしている樹にとって、態度を変えない女性は貴重である。たまに見かける清華は、昔のままの明るい笑顔に大人の色気も相まってとても樹の好みだった。できれば声をかけて仲良くなりたいが、彼氏持ちだと話が変わる。
簡潔にまとめると、清華に声をかけたいが勇気が出ない。ただそれだけだった。
今までの自分の不甲斐なさに地味にダメージを受け、思わずキーボードを打つ手が止まったところで、後ろから声をかけられた。
「高井よ、何で昼休みなのに仕事してんだ?休みはしっかり休めよ」
営業部長の堺がマグカップ片手に自分の席に戻るところだった。樹は立ち上がり、愛妻弁当を食べる堺の元へ行く。
「お願いがあります。今日中の仕事は全て済ませるんで、定時で帰らせてください」
「やることちゃんとやってから帰るなら別にいいぞ。なんだ、デートか?さすがモテる男は違うなぁ」
堺は悪代官のようにニヤリと笑う。
見た目や歯に衣着せぬ発言で誤解されることもあるが、裏表ない性格で責任感が強く、とても信頼できる上司だった。堺のモテる発言は嫌みでなく、思ったことをそのまま言っただけだろう。
二人の会話を若手女性社員たちが耳を済ませて聞いているのがわかり、樹は薄ら笑いを浮かべた。
「いえ、言われるほどモテませんって。女性と付き合った経験も少ないですし。私は高三まで150センチ代しか身長がなくて、同級生の女の子たちからチビチビいじられていたんですよ。なのに途中から急に身長が伸び始めたら、比例して女の子たちから連絡先を聞いてきたり、告白され始めたんです。その変わり身が恐ろしくて、軽く女性恐怖症になりましたね」
「あっはっは!そりゃひどいな!」
堺は豪快に笑い飛ばし、話を漏れ聞いていた他の男性社員たちが同情めいた視線を樹に送る中、若手女性社員たちは今度は一斉に黙りこむ。
おかげで、午後の仕事も煩わされることなくスムーズに進んだ。
定時のチャイムが鳴り、さっさと身の回りを片付け、樹は堺や同僚へ挨拶する。
「ではお先に失礼します」
「なんだ、しっかり髪型まで整えて。本当にデートだったのか。相手は…っと、詮索するのは野暮だな。今日は金曜だし、まあ楽しんでこいや」
堺がヒラヒラと手を振る。男性社員たちは軽く囃し立て、女性社員たちはざわついた。
その様子に、樹は珍しくにっこり笑う。
「ありがとうございます。私がどんな見た目でも変わらない態度だった初恋の人と再会できたんで、その子と食事するんですよ。じゃあお疲れさまでした」
後ろから聞こえる騒ぎ声をさらっと無視して、樹は足早にビルから出る。
まだ雲は残るが、ところどころにぽかりとのぞく明るい青空を見上げ、先日夏至だったことを思い出す。
昼休みに清華と歩いた道を足早に通るときには、頭一つ分低い位置にある彼女のゆるくウェーブのかかった髪の毛がふわふわ揺れる光景が脳裏をよぎる。
中学生の頃は肩の上で切りそろえていたっけ。あれからもう10年経つんだな。
最初は本当に偶然だった。
梅雨時の体育の授業で男女混合になったときのこと。
教師の説明を体育座りで聞いていると、腕にポツリと雫が当たった。
『あ、雨だ』
『え?』
思わず呟くと、たまたま近くに座っていた清華が空を見上げた。その彼女の無防備な横顔は、14歳の樹には刺激が強く、思わず顔を伏せる。
空模様をうかがう上目遣い、軽く開いた口を囲む唇、サラサラとなびく黒髪。
初めて同級生の女子を異性として意識した瞬間である。
それからもまた清華のあの横顔が見たくて、いの一番に雨に気づけるように外に出るときは神経を集中させた。
その後はなかなか彼女と仲良くなるきっかけはつかめないまま、中学三年でクラスが別れる。
しかし転機は突然起きた。
小雨の降るある放課後、陸上部の練習に向かう途中で清華を見かけたとき、彼女は転ぶ寸前だった。
思わず腕をつかみ、その細さと柔らかさにおののいていると、通りすがる同級生から囃し立てられた。
すぐに手を離して無言で立ち去ろうとすると、今度は彼女から樹の腕をつかんできた。
その手の小ささ、感触に慌てふためく樹を尻目に、清華は空を指すと、そこには曇天の中で明るい青空と小さな虹が浮かんでいた。樹も思わず目を見張る。
『見て!虹だよ!』
『わあ…』
『きれいだね!あ、助けてくれてありがとう!』
『別に…』
清華の明るい笑顔に、樹は改めて彼女を想う感情が初めての恋であることを認識したのだった。
だから、昼に信号待ちで昔と変わらない清華の無防備な横顔を見て、今日こそは声をかけようと思い近付いたときに彼女がバランスを崩したときのデジャブ。
あのときと違い、支える力も体格もある。がっしりと右腕で清華の体を抱き留めると、目の前に彼女の驚いた顔が迫った。思い描いていた以上にかわいかった。
それにしても、ちゃんと中学の同級生だと覚えてくれていて本当に良かった。あれじゃあ不審者扱いされてしまうところだったな。
清華が樹に向かって変わらないねと言ったとき、彼女の顔に浮かんだのは懐かしさばかりだった。彼女も変わっていない。
そのあとさり気なく彼氏の有無を聞き、今晩の食事を誘えたことは、樹にとってかなり頑張りだった。自分で自分を誉めたい。
道行く人々の間から、待ち合わせ場所でキョロキョロと周りを見渡す清華の姿を見つけた。彼女もすぐに樹に気付き、笑顔で小さく手を振る。樹は胸がほっこりと温かくなるのを感じた。
機会があれば、伝えてみようか。梅雨の放課後一緒に虹を見上げたときから、君が初恋の人だったって。どんな反応をみせるだろう。