ケルベロス
ケルベロス、それは地獄の番人とも言われている原生生物でありその名の通りこの世の果てに在る危険区域〈冥界〉にて侵入するに相応しい実力者であるかどうかを選別する災級原生生物だ。
その力はこの世界最強の種族と言われているドラゴンの通常個体の階級である超級原生生物をはるかに上回る危険度を誇り、最上位探索者でなければ命を落とすことは必死と見なされている。
99階層のバジリスクは高級原生生物であったことを考慮してもこの余りの強さの違いに驚愕と恐怖、そして理不尽さをニグルは感じざるを得なかった。
魔物という原生生物を劣化模倣した存在であってもその強大さは人間であるニグルにとって命を脅かす死神のような存在であることに疑いはない。
―――グルルゥ……。
ケルベロスの三つの頭と六つの瞳がニグルの身体を射貫く。その瞳はニグルを逃れないように睨み続けていた。それはまるで肉食動物が捕食する草食動物を見つけたかのような狩猟の際の眼。
その視線と共に乗せられる気迫がニグルを金縛りにあわせる。圧倒的な強者を前にしての肉体的硬直。
「―――ッ!!」
ニグルはその金縛りを強引に弾き飛ばした。しかし、無理に恐怖に抗おうと体を動かしたためか精神と身体の意志が一致しておらずニグルは通常の時よりも圧倒的な体の重さを少なからず被る。
「はぁはぁ……、さすがは模造品とはいえケルベロスだ。格が違う……」
ニグルは震えながらも体に魔力を通して強化する。その強化は先程までの戦いとは天と地の差ほど込められている魔力には差があった。
ニグルを中心にその力の奔流でクレーターが形成される。それに伴い、突如として光を発していなかった大剣が階段の時同様に光り輝き始める。光が膨張していき、そのまま大剣を包み込んでいく。大剣の輝きと同調するかのようにケルベロスに踏まれている鉱石が脈動を打つかのように小刻みに周囲を赤色に照らし出す。
「何だこれは……うっ!?」
ニグルの頭に先程と同様の頭痛が走る。その痛みは床の光と同調してその振動に従うかのように小刻みに、だが衝撃的に彼の脳に何かを伝えようと訴えかける。
ニグルは目の前のケルベロスに弱点を露呈しないようにポーカーフェイスを気取りながらも内心その痛みに苦悶している。当然だ、頭を押さえて倒れ込むほどの先程と同じ痛みであるのだから全く動じないという方が可笑しい。
その痛みは先程のラシフィの所に誘ったときことをニグルはふと思い出す……、
―――私、待ってるから。
ラシフィが別れ際にニグルに伝えた言葉。どうしてか彼の脳内でその言葉が強く主張される。彼女がどこにとらわれているかもわからないのにどうしてこの状況で彼の頭の中に訴えかけてくるのか。ニグルには分からなかった。
「……」
ニグルの手元に開いているアイテムポーチから〈幻乱玉〉を左手に握られるように表出する。それと同時にニグルの視線には強い敵意と殺気、そして威圧感が乗せられていた。尚且つ、先程までの体の震えは既に消え去り戦闘態勢は完璧に行われていた。
大剣が光を輝かせながらニグルはその剣先を真っ直ぐとケルベロスの中心の顔へと突き刺すようにして向かせる。大剣にいつもとは異なり濃密な力の奔流が暴れ出している。それを見てニグルは口元を引き攣らせながらも無理に笑う。
「これで……いけるか?いや、いかなくちゃ、だな。ははは……何言ってんだ、俺ってやつは。敵を前にしてこんなに弱気になってたら勝てるもんも勝てなくなっちまうなんて初歩中の初歩の精神論だろ」
大剣に〈斬破〉のための魔力を注ぎ込む。その魔力の波動をさすがにケルベロスほどの生物にもなると目視できずに察知しにくいニグルのものであっても動物本能で感じ取ることができる。魔力を感じ取ったケルベロスはその特徴的な三頭に異なる性質の魔力の波動を口に収束させていく。
それはニグルの愛用している〈斬破〉と同じ基本系統魔法の〈砲破〉だ。砲破は自分の魔力を砲撃という形で相手にぶつける技でありそこに様々な性質を付与することで様々な応用を効かせることのできる魔法だ。炎系統のガニエラ使いの〈炎砲〉や雷系統の〈雷砲〉もこの砲破に系統の性質を織り交ぜることで可能となる魔法の一種だ。
その基本知識を即座に頭に浮かべたニグルは同時にケルベロスの収束している魔法の系統を見破る。
「あれは……〈風砲〉に〈雷砲〉と〈闇砲〉か。―――て、やばっ!」
系統にはそれぞれの性質という物が存在している。炎には爆破、水には流化などそれぞれに特化した分野が存在している。だがこれは属性が使えるから分野を使えるというわけではなく、例えば爆破が先天的に得意だから炎の精霊と契約できたという考え方が正しい。だから、ニグルが精霊と契約していないのに風系統の分野である斬裂を使えるのはこのようなロジックが存在していたりする。
そして今回ケルベロスが行おうとしていることは風の斬裂と雷の加速、そして闇の浸食を完全に合成させた三性質合成魔力砲だ。即ち、雷光のように速く、風のように鋭利で、闇のように相手を毒する凶悪極まる組み合わせの奥義。このトライ・バーストこそがケルベロスの真骨頂の一つであり、最強の技だ。
ニグルは急いでケルベロスのトライ・バーストの射線上から退散する。
そもそも砲破という魔法は威力を必要とするのならば時間をロスすることはないのだ。それはつまりトライ・バーストが速射されることを意味しており、莫大な魔力をその身に内包するケルベロスにとってそのくらいの魔力を浪費することなど呼吸するように当たり前に行えるほどに微々たるものであり魔力の回復もまた一度で砲破を行った分を補充できるほどだ。
つまり、トライ・バーストの無限放出機関。技を指し続けている間誰もがその身に接近することが敵わない。それがケルベロスを門番たらしめている理由だ。
ニグルは次々と放たれていくトライ・バーストをギリギリで躱し続けながらどうにかしてケルベロスの身に近づいていく。
それは彼が溜めに溜めている斬破のための魔力をケルベロスの弱点に性格に当てるためでもあるが、それが現状においてケルベロスのこの攻撃に対応できる唯一の方法でもあるからだ。
トライ・バーストはその性質上自分に放っても致命傷を与えかねない。ケルベロスは最高位の原生生物でありニグルの目の前にいるのはその模倣体とはいえ確かに知能というものを持っている。それは自分の技の危険性も認知しているということだ。だから、ニグルはその危険性を考慮して距離を詰めることでトライ・バーストを封じようとした。
「……よし」
ケルベロスの魔力の奔流が収まり、それに伴い周囲を破壊する音もまた収まる。そのことに自分の考察が的中したことを悟りそのまま斬破をケルベロスの急所である魔核へと放つ。
―――ぐるぅ。
その時、ニグルは自分の行動にどうしてか問題があったかのように感じた。ケルベロスを倒すための全てのプロセスは正しいのにもかかわらずそこに欠陥を感じたのだ。
それはいつ見たかもわからない正夢のような根拠のない感覚ではあるがそれでもニグルの中は彼の脳にこの行動が不正解だと盛大に訴えかけてきている。
だが既に斬破のアクションは開始されてしまった。後には引けなくなっている。そこに聞こえたのが自分の行動をあざけ笑うかのように唸り声をあげているケルベロスの音。
そして、ニグルはケルベロスの前足にまるで目の前にいる小さな羽虫を追い払いかのように、されど本気で薙ぎ払われ、そのまま部屋の壁へと叩きつけられた。
「ぐはっ……!?」
肺の中の空気が一気にたたき出されて一時的な呼吸困難に至る。そしてそのまま床に立入れ込み、空気を求めてヒューヒューと激しく息を繰り返す。身体は先程の衝撃であらゆる箇所が破壊され、攻撃を諸にくらった左腕は骨が中から粉砕されて再起不能だ。
「こいつはもう使いものになんねえ……」
ニグルは大剣が零れ落ちたために自由となっている右手で左腕を抑えて激痛に耐えながら、ポーチから口元に何かを移動させてそのままかみ砕く。
何かをかみ砕いた後、ニグルは激痛に襲われていたはずの左手から手を離して近くに落ちている大剣に目を向ける。そこには相変わらず光輝き続ける大剣の姿があった。
「お前は何を言いたいんだ……」
ニグルにとって先程からケルベロスの下にある鉱石と同調して輝いているこの大剣の存在が不思議で仕方がなかった。どうして大剣が輝いているのか、鉱石と同調しているのか。どうして、先程この大剣が光ってラシフィと出会うことが出来たのか。
さすがのニグルでもこの大剣がラシフィと非常に関係のあるものであることはわかっていた。だが、この大剣がどのような意図で作られた物なのかは一切理解することも調査することも出来なかった。ひたすらに謎に包まれた武器。
ニグルは大剣と同調している床の鉱石を見るとそこは絶えず光輝いていた。その上には先程からずっとケルベロスが座しており、ニグルの方を警戒するかのような視線を向けていた。
「……ずっと?」
ニグルはふと疑問に思った。
確かに先程まで自分から攻撃を仕掛けてそれをケルベロスによってトライ・バーストと薙ぎ払いという攻撃によって対抗された。その結果が今の現状だ。
だが、ここで一つの疑問点が浮かんだ。
それは、今までケルベロスは決して自分の意志からニグルに攻撃を仕掛けていないのだ。そう、その攻撃の全てはニグルが大剣に魔力を込めて尚且つその大剣が床の鉱石と同調して光り輝いていたから生じた一つの防衛策ではなかっただろうかとニグルは思った。
ニグルは今までの階層主との戦いを振り返る。
例えば99階層のバジリスクを例に出してみよう。バジリスクはニグルを捉えた瞬間に〈縛鎖の瞳〉で彼を拘束しようと試みた。それは自分から彼を殲滅しようとしていたに他ならない。だが、通常はこれで正しい。
何故ならば魔物とは自身の領域という物をもっており、そこに侵入した存在を自身の平穏を打ち破る外敵と見なすのは至極当然の結果であるからだ。
では、100層のケルベロスはどうだろうか。
まず、ケルベロスはニグルが部屋に入ってもなんら干渉をしなかった。それは、ケルベロスの領域がまるでこの部屋ではないことを証明しているかのような考察を抱かせる。
「確かに、レベルが違いすぎる。バジリスクの後のケルベロスはやはり異常だ」
そもそも他の踏破した人間がはたしてケルベロスに勝利を収める程の力を持っているだろうかとニグルは思った。
ニグルは今朝ケヴィンに思い出させてもらった選抜隊の六人の顔を浮かべ、その力から彼らが個人でケルベロスを倒すことが出来たのかを考える。
「〈七虹〉イリスと騎士になってしまった〈勇者〉キリエならばもしかしたら性質的に打倒できるかもしれないが……体術で俺に劣っている他の奴らじゃあ瞬殺だろうなあ」
いくら精霊装甲を纏っていたとしてもケルベロスの一撃を防ぐほどに熟練していないだろうし、魔石も吸っていないだろうとニグルは考える。
となると、真実の階層主は何処に存在しているのかとニグルは思った。
周囲をぐるりとじっくり見渡す。すると、本来ならば迷宮から脱出するために設置されただろう場所に赤色の身体を持つ小さな飛龍がまるでケルベロスに襲われないように必死に身を隠している様子が垣間見れた。
「そうか、そういうことか」
ニグルはその時、ケルベロスが何者なのかを悟った。
同調し合う剣と鉱石、怯える階層主、常に座して決して動かないケルベロス。そして、大剣が見せたラシフィの姿。全ての道が一本につながった。
「そもそもケルベロスは階層主なんて甘い存在じゃなかったんだ」
ニグルは大剣をポーチにしまい込んでから粉砕骨折してもまだ握り続けていた〈幻乱玉〉を自由の利く右手に握り替える。既に、大剣を持ちながら他に何かをするなどという甘い考えは捨てる。元よりすでに不可能なのだから。
ケルベロスは高い魔力感知能力と恐ろしいまでの嗅覚で敵の所在を掴む。バジリスクほどではないが厄介な索敵能力だ。
「だが、その程度ならなんとかなる……て、何を言っているんだ俺は」
ニグルは自分の過大評価を前提とした攻略方法に思わず鼻で笑って首を大きく横に動かす。確かに、一度は一瞬でもケルベロスを欺けるだろうがその後に確実に討伐する方法が存在しているのか。
すでに片手は破壊され使い物にはならない。そして、ニグルの大剣で確実に魔核を仕留められるなどという保証などどこにもない。
いっそのことここでさっさと負けてしまおうかとニグルは思った。たとえ負けても再び万全の状態で挑めばいいじゃないか、そのようなネガティブな考えがニグルを支配していく。
だが、ニグルはその時一つのことに気づいた。
「俺が消えた後、ケルベロスはどうなんだ?」
迷宮の階層主は挑戦者が現れるごとに同種類の新しい魔物を迷宮が創造することで出現する。では、階層主ではないケルベロスはどうなるのだろうか。おそらく、過去に踏破したときのように出現しないのかもしれない。
だが、それはいままでにケルベロスが出現したことが無いという状態で為されたものだ。おそらく今回のニグルの会合が初めての例だろう。これからも出現しないだろうという保証はない。
もしかしたらこれからは出現し続けるかもしれない。それは探索者になろうという人間を育成する上で非常に大きな問題だ。
学校迷宮ではどういうわけか決して死ぬことはない。
だが、それは肉体面での話だ。
ケルベロスという強大極まる相手を前にして、普通の人間ならばその存在の余りの大きさに呑まれることで原生生物や魔物に対しての潜在的な恐怖心を植え付けられる結果となり探索者としては再起不能になる可能性を否定することが出来ない。
そう考察したニグルは自分の討伐手段のあまりの種率の低さとこれから起きるであろうケルベロスによる訓練生狩りの被害の狭間に置かれる。潔く敗北を選択するか、それともわずかな勝率に縋って戦うのか。
自分の勝手で逃げるのかそれとも他人を想って戦うのか。自由奔放の彼としては常に前者を選ぶのだが今回に限っては個人の自由な判断という裁量をはるかに超えている。
最早ニグルにはどうしていいのか分からなかった。
「どうすればいいんだよ……?」
ニグルの苦悩が爆発したかのように口から愚痴が零れる。
その時、彼の感情と呼応するかのように鉱石の光が強く、強く輝きニグルに視界を光で染めた。