天使の楽園
それは今から十年前のことだ。
当時のウナム王国には一つの大きな権力を持っていた公爵家が存在していた。その家の名前をコルムナディ公爵家という。
コルムナディ公爵家の当主の男、アランは当時の国王の次男であり、国内随一の実力者でもあり周囲からは天才と呼ばれていた。
しかし、そんなコルムナディ当主は次期国王などに興味はなく、通常ならば最有力候補と考えられていた国王の座を放棄して国内の辺境に住む教会のシスターと結婚して貴族にしては非常に小さな家で夫婦とその息子、そして数人の使用人と一緒に幸せな日々を過ごしていた。
だが、そのような生活をしているコルムナディ公爵家を恐れる人間も多くいた。当主の代わりに国王として祭り上げられた彼の兄である現国王シルバ・マク・ウナムは特にアランに対して劣等感を抱いていて、その感情が彼に対しての妬みへと働いていた。
誰よりも、武芸に優れ、博学で、容姿端麗で、尚且つ人望のあるアランに対して多くの貴族は危機感を抱いた。
そしてその危機感を好機だと判断してシルバは一つの判断をした。
それは即ち、アラン・マク・コルムナディの粛清である。
ただ家族内の平穏を望んだアランの人生はかくして崩れ去り、彼の忘れ形見である息子がその心の中に邪悪なまでの復讐心を内包して命からがらに生き残ることになる。
少年は身分の詐称のために自身の名前を捨て、太陽と称されるほどにまで輝いていた美しい金色の髪の毛は復讐の業火のような漆黒の髪へと変貌し新しい名前で生きていくことを決意する。
精暦759年の冬時。後世に〈コルムナディ公爵暗殺事件〉と呼ばれるようになるこの事件はウナム王国の貴族主義を決定づけると共に後に世界を動かすほどの力を持つ怪物を生み出す結果となった。
ニグルは100階層へと続く階段を進んでいく。階段は人が一人ほど歩けるぐらいの幅しかなく、高さも平均よりも少し高いぐらいのニグルの身長でも髪の毛の先が当たってしまうぐらいの狭さだった。
しかし、その窮屈な作りの道と比べて、階段の壁にはそこらに光り輝く鉱石が埋め込まれていてその光がニグルの行く道を明るく照らしていた。
ニグルはその光を頼りに階段を踏み外さないように先へと降りていく。
階段を下りていくとニグルは違和感を持った。
その違和感を確かめるために背負っている大剣の持ち手に触れる。すると、今までに何ら魔法的作用を発揮していなかったニグル愛用の武器にどうしてか魔力が通っており、何かと共振するかのように熱を発生させていた。
その異常事態ともいえる状態だが、ニグルはどうしてか危機感や驚きよりも安心感を得ていた。それはまるで欠けていたものが徐々に埋め合わされていくかのような安堵。
だが、ニグル自身もまたその安堵している自分の様子に疑問を抱いていた。どうして、今自分はこのような感情を抱いているのか、そしてなぜ自分の愛用する大剣が元の姿に戻って行っていると察知することが出来たのか。
まるで、自分の中に自分すらも知らない何かが存在していて記憶や知識を与えているかのようなそんな気持ち悪さをニグルは感じた。
そして―――唐突にニグルの頭に想像を絶する痛みが走る。
「―――くっ、ぐぅっ!?」
その余りの痛みに、ニグルはその場に座り込んで頭を押さえる。突然現れた理由も不明な頭痛に先程までの余裕そうな表情とは打って変わって激痛に苦しんで汗をかいている男の姿がそこにはあった。
―――ザーー、ザーー。
ニグルの脳内に身に覚えのない風景が広がっていく。
そこは、黄緑色に囲まれた草原で、周りには森や山、海などが一切見えないひたすらに黄緑の絨毯が広がる味気のない世界。
そんな世界の中でニグルは草原の上で直立している一人の少女を見つける。
齢は自分と同じであろうかとニグルは思った。そしてそれと同時に目の前の少女のことを美しいと思った。
まだ後ろ姿しか見ていないが世界にありふれている形状的な美貌も勿論絶世の美女と呼ぶにふさわしいものであるが、彼女の美しさは外面的な形よりも比類しない程に神秘的な彼女という存在そのものから溢れ出ているようにニグルには思えた。
彼女の纏う粗雑に編まれたボロボロな布でできた服でさえも、彼女の魅力を落とすことはなく、むしろそのところどころ穴の開いている衣服から見えるきめ細やかな白い肌が一層に彼女の可憐さを引き立たせている。
―――綺麗だ。
ニグルは初めて他者に対してそのような感情を抱いた。どうしてかは分からない。だが、今までに触れてきた存在の中でどうしてだろうか彼女にだけは自分の全てを委ねても良いようなそんな気持ちが心の内から湧いて出てきた。
ニグルがそのように思っていると、彼の存在に気づいたのか長い白銀の長髪を揺らして彼女はニグルの方向へと振り向く。
ニグルは心を爆発させた。
始めて見た彼女の眼が鼻が口が、そして顔の形がニグルにとってまさに理想的な顔立ちと全く同じだった。ニグルの心は既に彼女の虜となっていた。
だが、すぐにニグルは彼女の表情を見て心の気持ちを鎮静化させた。彼女はニグルを視界にとらえてから未だにどこか悲しそうな表情を浮かべていたのだ。
―――どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだ。
声が出せなかったから、どうせ聞こえないだろうと思いつつも心の声で目の前の彼女に訴えかける。
すると、彼女にニグルの声が聞き届いたのか彼女は口を開く。
「私は、気づいたらここに閉じ込められていたの。ここ以外の世界を知らない。ここ以外の世界を見たいのに出来ない。だから、悲しいの」
―――どうして出れないんだ。
ニグルは疑問に思ったことを心の言葉で伝える。
彼女は上空を指さす。ニグルは彼女の指さした方向へと顔を向ける。すると、そこには光が一つも存在しない闇の空間が広がっていた。
その時ニグルは気づいた。この世界を夜だと先程まで思っていたが、この空間にはそもそも夜という概念が存在しないことに。光り輝いて周囲を照らしているのは彼女であることに。
「ここは、無限の闇の世界。何処まで歩いても見慣れた草木に行き着いてしまうの。そして、どこまで飛んでも最終的には大きな力で叩き落されてしまう。私の翼では無理だった」
―――翼って?
ニグルは先程までの彼女の後姿を思い出す。そこには普通の純人種と同じように翼は生えていなかった。
「見せてあげようか?」
瞬間、ニグルの目の前に天使が出現した。いや、巨大な純白の翼を大きく広げた彼女が存在していたのだ。
さっきまでは生えていなかったのにどうして、とニグルは思ったがその翼をよく観察してみると、その翼は彼女自身の魔力で構成されたものだった。
空想具現化。言葉こそ簡単に言い現わせるがその技能は世界から失われたロストメモリだ。ニグルも伝説を読んで存在があったことは知っていたが実際にこの目で見るのは初めてであり、その技能を使って生み出された翼を見て圧倒されていた。
通常ならば人間という素体に翼をつけるという蛇足のような好意だがどうしてか彼女の場合はやはり美しさが際立って本物の天使のように見えてしまうとニグルは感じた。
「どう?」
―――似合ってるよ。
ニグルは返す言葉に困ってありきたりな言葉で返してしまった。しかし、彼女はそのことに全く不機嫌にならず、むしろ先程までの悲しそうな表情から楽しそうな笑みを浮かべている。
そのことにニグルが安堵していると、彼女が彼に対して言葉を零した。
「ところで、貴方は誰なの?」
今更かい、とツッコミを入れたくなるところだが何とかその手を抑える。
―――ニグラルプス、ニグラルプス・オレラコムだよ。
「にぐ、にぐらるぷ……うーん……」
―――難しかったらニグルでいいよ。親しい友人からはそう呼ばれているし。
「うんわかった。にぐる、ニグル、ふふふ……」
彼女はニグルの名前を何度も発音してその音を楽しんでいる。その名前の本人である彼はそのことに恥ずかしさを感じながらも、嬉しさを感じていた。
彼女の様子を見ていると、その素振りは少し幼げではあるが普通の少女と同じようにしかニグルには見えなかった。どうして、彼女のような存在がここで閉じ込められているのか彼には見当もつかなかった。
と、ここでニグルは彼女の名前を聞いていないことに気づいた。
―――ところで、君の名前は何なんだい?
「えっとね、私の名前は……ラシフィール…だった気がするの。ラシフィって呼んでくれると嬉しい」
―――ああ、わかったラシフィ。
ラシフィ。それが彼女の名前のようだ、とニグルは頭の中にすぐさま忘れないようにインプットする。些か、自分でもどこかストーカーのように彼女に執着している気がすると彼は思ったがそんなことはどうでもいいとすぐに余計な考えを振り払う。
―――ザーー、ザーー。
そのようにして自分の心の中と葛藤していると、自分の目の前にあった風景とラシフィの姿が徐々に曖昧になっていく。
ラスフィは僕のその様子に気づいて再び悲しそうな顔になる。
「これでお別れみたいだね」
だが、彼女は悲しそうな表情から無理にでも笑みを作ってニグルに言葉をかける。
「私、待ってるから。ニグルが私を縛る鎖を解き放つことを信じているから」
ザーーーーーガッ。
ラシフィのその言葉を聞いてニグルの視界が閉ざされて、現実の下の階層へと向かう道へと戻った。
先程までのラシフィとの会合は一体なんだったのか。ニグルは再び右手で大剣の持ち手に触れるがそこには先程のような魔力の波動は存在していなかった。
「……行くか」
ニグルはラシフィとの会合の余韻に浸らずに先を目指して歩いていく。ニグルには既に卒業までにもイリスとの決闘までにも時間が無いのだからぐずぐずしている暇はないし、無駄な休みの時間すらも惜しい。
少し下ると階段は終了しそこには丁寧に彫られた芸術品のような大きな門が存在していた。すぐ近くには転移エリアが設置されており、尚且つニグルが左手に握っている方位石が濃淡に赤く染まっている。
それを見てニグルはこの階層の意図を察した。
「これは、正々堂々と挑めということかね」
階層主部屋に至るまでの道が存在しないということはその労力の分だけ階層主の力が強大化することは目に見えており、そして今回の第100層は正しく最後の階層である。おそらく生半可な敵は現れないだろうとニグルは予測する。
「一度戻って万全を期して行くべきだろうか」
しかし、「いや」とニグルは自分の提案を首を振って拒否する。
「第99階層のバジリスクは全く消耗しないで勝つことが出来た。だったら、ここで挑んでも万全を期した状態とその力の差は全く変わらないはずだ。それに、一度見ないと対策の打ちようもないからな」
ニグルはそのまま部屋に入ることを選んだ。方位石をポーチの中に入れて門のところまで魔物もいないので安全に辿り着くことが出来た。そして、そのまま門に自分の手を当てて強引に開けていく。人一人が入れるほどの隙間が生まれてニグルは部屋の中に入って行った。
中に入ると、そこは先程までいた99階層の階層主の部屋とは異なり床や壁が豪勢な家によく使われる大理石のような素材で囲まれており、何も彼の視界を遮るような障害物は存在していなかった。
部屋の中心の床はほかの場所とは異なり、大きな赤く光る鉱石が埋められている。その上には階層主であろう巨大な魔物が座して待ち受けていた。
その姿を見たニグルはその生物の様相に眉間に皺を寄せてすぐに背中の鞘に納めていた大剣を引き抜く。だが、彼の握る大剣は振るえる手によってうまく構えられていなかった。
頬に汗を流しながら、ニグルは鋭い目で魔物を睨み付ける。
「おいおいふざけんなよ……どうしてここにケルベロスがいるんだ……?」