肆
十二月一日日曜日 晴れ
今日は〈けしもの屋〉の奉公も休み。
出されていた学校の課題も終わらせた午後、紅鳥が花を持って僕の家に現れた。
季節外れの、可愛らしいピンクのスイートピーやチューリップを集めた花束は、ひと目でお見舞いの品だと察せられた。
今朝光哥に聞いたところ、翠環の熱はだいぶ下がったということで、ちょうどお見舞いに行こうと思っていた矢先の紅鳥の来訪だった。
チャイムを押すと、秀が元気いっぱいの笑顔で出て来た。 昨日の(多少の)憂い顔なんて何処へやら、だ。
「おー、彩だけかと思ったら紅鳥までいる―。 入って入って、ちょうど四妹の房間でケーキ食べようとしてたところなんだ。 燕児がむっちゃ美味そうなの作ってくれたんだ」
秀の機嫌の良さから察するに、翠環の調子は一晩で随分と良くなったことが判る。
果たして、房間で僕達を待っていた翠環は、予想以上に元気そうな笑顔を見せていた。
「彩哥哥! あと、そちらの姐姐はどなた?」
瞳をまん丸にした翠環は、古装劇の中でしか見ない様な、古典的な衣装に身を包んだ紅鳥に興味津津といった様子。 可愛いお人形や衣装が好きな翠環が、お人形より数十倍可愛い紅鳥やその装束に魅かれるのは当然のことだろう。 紅鳥もまた、初めて会う小さな翠環に、強い関心を持っている様子。 僕の袖をくいくいと引っ張って、「早く紹介して」とせがむ。
手短に紹介を済ませると、二人は笑顔を交わし合い、たちまち長年の仲良しのように、きゃっきゃと笑ってお人形遊びを始めた。
紅鳥は喋れないけれど、二人の間に言葉の障害は無いらしい。
翠環に、一日遅れの誕生日プレゼントを渡そうと思ったけれど、気の合う女子同士の話が盛り上がると、男子はとてもその輪には近付けない。 ここは女子同士、楽しく話のお花でも咲かせてもらうのが一番だろうから、帰り際にでも渡すことにしよう。
「三少爺。 彩様とそちらの小姐のお茶をお持ちしました」
翠環の世話係である燕児は、運んで来たお茶とケーキを卓子の上に置くと、深々と頭を下げて出て行った。
綺麗な紅色をしたお茶からのぼる湯気は、ふっくらとした、深い奥行きある香り。 せっかくならば温かいうちにとカップを持ち上げると、秀が急に僕の肩を抱いた。
お茶が少し飛び散って、手と足に滴が飛んでしまった。
「な、何するんだよ、熱いじゃないか、危ないだろ――」
「ジャーン! 見ろ!!」
僕の目の前で、青色の手袋をぴらぴらとして見せた秀は、にかっと笑うと、手にはめて、再び僕の顔のまん前に突き出して見せた。
「どうだ、似合うだろ?」
「――似合う」
「そーだろ、当然そーだろ。 これはな、聞いて驚け四妹が、オレの為に編んでくれた特別な、そんじょそこらの手袋とは違うお手袋様なんだぞ。 四妹が一日早いけど誕生日プレゼントだってさっきくれたんだ」
にっこにっこにっこにっこ、とにかく嬉しくて堪らない様子。
それは確かに、色々な意味で特別な手袋だろう。
秀は、市販の手袋は使えない。 右手は問題がなくても左手が、使い物にならない。
暖かな天堂島では、防寒の意味で手袋をする機会なんてほとんどないのだけれど、ファッションではめる人もいれば、何らかの作業をする際に手袋をはめる機会はいくらでもある。 学校の校外作業なんかでも、必要となる場面はよくある。 けれど、どんな場合においても、秀がはめることのできる手袋は特注でもしない限りないのだ。
否。 〝これまでは〟なかったのだ。
「よかったな、良い妹妹を持って」
秀は最高のにかっとスマイルを見せると、再び僕の首を絞めるように抱いた。
「いい友達も持ってるぞ、オレ」
「何なんだよ、お茶が飲めないだろ」
「ありがとナ、毛糸買いに行ってくれて」
飲みかけたお茶にむせ、思わず咳き込んでしまった。 秀は叩くように背中をさすってくれた。
「四妹から聞いた。 毛糸が足りなくなって困ってたら、彩が買ってきてくれたって。 おかしいと思ったんだよ、手芸なんてミジンコ程も興味の無い彩が手芸屋に行くなんてさ」
「――ミジンコより、興味あるかも知れないだろ」
僕は何気ない振りをしてカップを持ち直す。 秀は満足そうに笑うと、今度は、両手を揃えて僕の前に突き出した。
「――何?」
「ついでに、彩のプレゼントも貰っとこうかと思って」
無邪気な笑顔で待つ秀の手のひらを叩くと、僕は身体の向きをわざと変えた。
「お前の誕生日は正確には明日だろ。 そも自分から要求するなんて厚かましい限りだ」
「えー、どうせくれるの分かってんだからいいじゃん」
むくれてみせる秀を無視しつつお茶を飲む。 スッと後味が爽やかなお茶が胃に落ちると、ふっと、昨日お師匠に言われた言葉を思い出した。
「なあ、秀」
「なに?」
「もし――」
陽射しが戻った店先の前庭で、お師匠は僕に言った。
「消してあげようか」
「――え?」
「秀君の、第六の指」
僕は少し驚いた表情でお師匠の顔を見上げた。
「そうすれば、左手にまつわるこの先の〝もし〟の心配はなくなる。 君の、秀君に対する懸案は、確実にひとつ減る。 心配はいらない。 〈消し〉たことも、第六の指があったということすらも、秀君や周辺の人々の記憶からは消すから、後に問題は残らない」
「そ、れは――……」
「ああ、もちろんお代はいらないよ。 いつもしっかり働いてくれる彩君への、ほんのささやかなお返しだ」
お師匠は変わらない穏やかな微笑を浮かべたままで、その言葉の真意が何処にあるのか、僕には掴めなかった。
返答に困って黙り込んだ僕の肩を、お師匠は軽く叩いて、「返答が固まったら、いつでも私の房間へおいで」と言い残し、ゆっくりと店内へ戻っていった。
カランと、今度ははっきりとドアベルの音が聞こえた。
一人残された僕は、周囲に置かれている植木や石、円卓、それから店の看板、柱、扉、窓、入り口に置かれた椅子、そして、石畳に落ちる影を見るでなしに見た。
僕が目にするこの限られた眺めの中に、なんて様々な物があることだろう。
もし仮に、これらのどれか一つが欠けたとしたら、この眺めはどんな風に変わるのだろうか。
窓や扉などは、無くなればきっと明らかな違和感を覚える。 けれど、アクセントに置かれただけの小さな鉢植え等は、無くなったところで、気付きもしないかもしれない。
だけど、僕はそれらが〝在る〟景色を既に知っている。 在ることをごく自然に、風景の一部分として無意識下に記憶している。 それらがそこにあることは、どれ一つとして違和感はなく、全てが集まることで、僕が見慣れたひとつの眺めを作り上げている。
「――ああ」
この世の中に、無駄であったり無用であったりする物がないとは思わない。
けれど、そういった物にも、それぞれのものなりに、それ相応の存在価値があるのではないか。
いま街中に溢れる、派手で賑やかな生誕節絡みの宣伝も、関心の薄い僕にとっては鬱陶しく感じるだけのものであったとしても、秀を始めとする、この季節を心待ちにしている人々にとっては、心を高揚させる楽しみな催事の先触れなのだ。 自分がその盛り上がりに同調できないからといって、街中の盛り上がりを否定するのはおかしなことだし、そも、僕が否定しようと、この季節のお祭りムードは毎年やってくるものなのだ。
既にあるものを拒絶したところで、何ら生産性のある答えは見つからない。 もちろん、自分なりの意見を持つことは重要だ。 けれど、自分の考えに固執することによって、実は容易に導き出せるはずの答えまで、見失ってしまわないとも限らない。
それならば、どうすればいい?
ふうっと深く息を吐き出すと、僕は空を見上げた。 雲は風に流されて、天には青空が広がっていた。
僕は掃除道具を片付けると、少し駆けるようにして店内へ戻った。
「〝もし〟――何?」
ひとり回想に耽っていたら、傾いた秀の顔が、鼻すれすれの超近距離にあった。
「近いっ! もっと離れろ」
「何だよ、彩が急に黙り込むから心配して覗き込んでたんだろ」
「覗き込むにも程度があるだろ」
「心配事があるなら大親友のオレに隠さずに話せばいいのにさー、水臭いんだよなー、阿彩は」
むくれっ面をしながら、秀ははめていた手袋を大切そうにそっとはずすと、改めてじっとその青に視線を固定した。 膨らませていた頬が、みるみるしぼんで笑顔に変わっていく。
「――秀は、左手の指が五本だったらよかったって思うこと、あるか?」
秀はキョトンと僕の顔を見た後、ゆっくりと首を傾げた。
「なんで?」
「〝もし〟の話だよ」
秀は更に首を急角度に傾けると、「うーん」と小さく唸りながら視線を上へやった。
「五本でも六本でも、どっちでもいいけど?」
「からかわれたり嫌味言われたりするのに?」
「けど、六本指のおかげでオレに興味を持ったり覚えてくれる奴もいるし――」
秀は首を元の角度に戻すと、翠環に貰った手袋を再び左手にはめ、にかっと笑いながら突きだした。
「それに、これがオレだから」
誇らしげな青の左手から、秀の顔へと視線を移す。 何の屈託もなく、ひたすらにこにこ笑っている秀につられて、僕も自然笑顔になる。
「――うん、よかった」
「何が〝よかった〟?」
「やっぱり秀は、そのままでいいってこと」
「? どいう意味?」
「言葉のまま、それ以上もそれ以下も意味はないよ。 秀はいつまでも秀のままでいいって思っただけ」
ますます分からん、という顔を秀はした。
僕はそんな秀をよそに、少し冷めたお茶を楽しむ。
明日は月曜。 帰ったら予習をしておかなくては。