参
十一月三十日土曜日 晴れ時々曇り
公孫秀と僕、結城彩の付き合いは、互いが生まれた時から始まっているので、ほぼ十四年。
もっと正確に言えば、僕が秀より四ヶ月後に生まれているので、おおよそ一三年と八ヶ月といったところだ。
まあ、そんな細かな数字はさておき、僕の家と秀の家はお隣さんで、両家共に、天涯地区のみならず、天堂島全体でも知らない人は極僅かと言われるほど、広大な敷地を有する有名二大邸宅だ。
家族ぐるみの付き合いで、両家の関係は大変良好。 家人の行き来も頻繁。
お隣とはいってもやたらに広い敷地を持つが故、両家をまっとうな手段で行き来すると、玄関から玄関までだけで、早足で歩いても優に十五分の時間を要する。
しかし、そこはそれ。 好奇心旺盛な幼少期の少年達は、ある種の冒険心に突き動かされ、身長よりも高い塀を果敢によじ登るなどして、互いの房間を行き来したりしていた。 否、現在進行形でしている。
――と、書くと、僕まで率先してこういった出入りをしているかのように思われるので、少し訂正を入れておくと、そのような不法侵入まがいの手段でばかり行き来しているのは、あくまで秀。 いくら気の知れた間柄であっても、僕は基本、正規のルートを通って出入りをしている。 ……ただ、まあ、僕も数回、塀を乗り越えて行き来したことがあるので、あまり強く言えた立場にはないのだけれど。
独自の通行経路を開拓した僕達(ことに秀)は、本当に昼夜の別なく、相手宅内をふらふらと自由に歩きまわり、またそれを相手方の家人に咎められることもなく、実の兄弟同然に育った。
秀の家には既に二人の兄と三人の姉がおり、秀が三歳の時、妹の翠環が生まれた。
公孫家の姉妹の中で、四番目に生まれた娘だから、秀は翠環のことを「四妹」と呼んでいるけれど、もし翠環が秀より一日でも早く生まれていたら「四姐」と呼んでいたことになる。 これは天堂島の古い慣習で、年齢・性別による序列が家族内の呼称にはっきり反映されるのである。 ちなみに、結城家は曾祖父の代からこの島に移り住んだ新参者なので、そういった習慣は取り入れられていない。
「四妹」こと公孫翠環は、生まれつき極度に病弱で、自分の房間から外へ出られるのは、一ヶ月に一度あるかないか。
彼女の世界は、広大な公孫家の敷地の中でも、更に限られた極僅かな範囲。 自分の房間と、すぐ上の兄である三哥、つまりは秀の房間、あとはたまに散歩に連れ出してもらえる院子の一部くらい。
大家族の中で育っているにもかかわらず、頻繁に接する人間は世話係の趙燕児と秀と、その世話係の光哥こと李光くらいで、仕事や家の切り盛りに忙しい両親は、一日に三十分会えれば長いくらいらしい。 他の兄弟姉妹も、一日に一度は必ず顔を見せるけれど、秀のように何時間も一緒に過ごす者はおらず、ほぼ毎晩会いに行っている僕の方が、他の兄姉より一緒にいる時間は長いくらいかもしれない。
そのためか、翠環は僕のことも「哥哥」と呼んで慕ってくれている。 一人っ子の僕にとっても、秀は兄弟、翠環は妹みたいなもので、そう呼ばれることは素直に嬉しい。
人見知りではにかみ屋の翠環は、紅鳥に負けないくらい大きな瞳をした可愛い少女だ。
いつもベッドの上で、ぬいぐるみを相手に本を読んでいるのだけれど、秀や僕が部屋を訪れると、それこそ桜の蕾が一斉に開くみたいに、ほんわり、おっとりとした可愛らしい笑顔で迎えてくれる。
あまり長く起きていると、疲れてすぐに熱を出してしまうので、翠環はいつもベッドに横たわった姿で僕達との会話を楽しむ。
そんな翠環が口癖のように口にするのが「三哥哥、今日はどこへ行ったの? どんなものを見つけたの?」だ。
翠環にとって、秀は外の世界に接する大切な扉の様なもの。 秀の見聞きし体験したことが、翠環が、間接的にでも触れることが出来る外の世界なのだ。
自分の趣味でもあるけれど、秀は、翠環に新しい世界を見せるため、毎日どこかで新しい発見をしているのだ。
**
ここは海角、〈けしもの屋〉老板の私室。
そして今は、お昼の休憩時間。
「妹の為に毎日新しい発見を求めているなんて、なかなか麗しき兄妹愛だね」
「そうなんですけれど、秀の体験=翠環の疑似体験になるというのも、冷静に考えると、少々問題がある様に思えて。 翠環は本当に素直で、大好きな三哥が言うことをそのまま何でも本気にしてしまうんです。 疑うってことを知らないんです。 時々、心配になるんですよね。 秀の話すことが、世の中の〝普通〟だと翠環が思い込んだら、ちょっと問題があると。 だけど、嬉しそうに秀の話しを聴いている翠環の顔を見ていたら、半端な修正情報は伝え難くって……」
誕生パーティー出席の為に出していた休暇届けを取り下げ、本日も、毎土曜と同じ午前十時から出勤。 そして今は、楽しいお昼休みのおしゃべりタイムだ、
店の表にはちゃんと休憩時間を記した札を出している。 もし万一お客がいらした場合でも、年季の入ったドアベルが来訪者の存在を報せてくれるので、機敏に反応すれば、さしてお待たせする心配はない。 休憩時間は休憩時間として寛ぐけれど、即時対応できる緊張感は常に持ち続けている。 ただ、その緊張感が役立つ場面が皆無に等しいことが、少々寂しくて悲しくて厳しい現実なのだけれど。
「彩君の話を聞いていると、翠環小姐はなかなかの幸運の持ち主だと思えてくるね」
「幸運――ですか? 自由に室外にも出られないのに、ですか?」
「身体的には、決して恵まれているとは言わない。 だが世の中には医療も受けられず、一人孤独の内に病と闘っている者も少なくないからね。 比較する問題ではないとは思うが、翠環小姐は治療環境だけではなく、精神的支えにも恵まれているからね」
「精神的支え、ですか?」
「二人の好哥哥に支えられている」
「二人? いえ、翠環の哥哥は三人ですが――」
「血のつながり云々ではなく、精神的に、ということだよ。 秀君と彩君。 君達二人が翠環小姐の支えとなっていると私は感じるのだがね」
玄青師匠は、僕が嬉しく感じる言葉を、何気にさらりと言う。 普段、言葉ではっきりと褒められることの少ない僕にとって、お師匠のこんな言葉は、少しこそばゆくもあるけれど、新鮮な、小さな喜びを与えてくれる。
少し照れたせいか、頬が少々火照った気がした。 照れ隠しにお茶を一口飲む。
その時、表の方から小学生くらいと思われる数人の子供の喚き声聞こえてきた。 気のせいか、何かが割れる音も聞こえたような――。
そういえば、少し前に白獏が出かけたのだった。
白獏の、髪から衣装まで全身真っ白の、とにかく目立つ姿と暴力的行動に興味を抱くのは、何も秀だけではないらしく、この近所の悪ガ――もとい、好奇心旺盛な子供達が、白獏目当てで店先にやってきては、毎回さんざんに蹴散らされている。 本日も、帰って来た白獏に付きまとった末に駆逐されたのだろうか――。
余程乱暴に開けたのだろう、ドアベルが必要以上に大きくカラランと鳴る。 この感じはやはり白獏だろうけれど、気性の荒いお客である可能性も否定は出来ない。 念のため確認が必要か。
「ちょっと様子を見てきます」
腰を浮かせた途端、閉じられていた房間の扉が荒々しくバンッと開き、白い、不機嫌な姿が現れた。
切れ長の銀眼は据わり、僕を刺し殺しそうな迫力で睨んでいる。
「し、白獏、おかえり――」
白獏が機嫌が悪いのはしょっちゅうのことだけど、今、何故こんなに不機嫌なのか見当が付かず、思わず怯んでしまう。
「ねー、お願いですってば! 大哥、オレを弟分にして下さいよー」
白獏の背後で、非常に聞き覚えのある声が、元気に陽気に響く。
「大哥ってば、聞いてくれてます? オレの決意は本気も本気、大哥の命令なら逆立ちで天堂島五周だってしてみせますよ」
「……あの、もしかして、もしかしなくても――」
「丁稚、この小猿を黙らせろ」
低いドスの利いた声と共に、白獏は、襟首を掴んで自由を封じた秀を前へ突きだした。
やっぱり――、という思いと同時に、何故秀と白獏が一緒に現れたのかを考える。
「そのつれない態度がますますかっこいい! 大哥、いい声してますねー」
猫の子供みたいに、半分吊るされた状態にされていても、秀は白獏に熱い視線を送りはしゃいでいる。 そして、白獏の苛立ちは目に見えて増していく。
「しゅ、秀、なんでいるんだ?」
慌てて秀を白獏から引き取ると、無理矢理に僕の方を向かせ、問い質す。
「えー、なんでって、暇だったから遊びに来ただけだけど? 老板さんが、昨日、いつでも遊びに来ていいって言ってくれたし」
「なんで白獏と一緒なんだよ」
白獏の据わった視線に怯えつつ、ちょっと声を落として聞くと、秀はにかっと笑って頭を掻いた。
「いやさ、ここに来たら表でちびっこどもが七人くらい隠れてんの見つけてさ。 何してんのかって聞いたら、もうすぐしたらこの大哥が帰ってくるって言うからさ、オレも一緒に隠れて待ってようとしたんだ」
「隠れて待つ必要ないだろう? 何、それでチビ達と一緒に、白獏の帰りを襲撃したのか?」
背中に冷たい汗をかきながら、まずは秀の興奮が冷めるよう、丁寧に、順を追って話を聞いていく。
「その予定だったんだけど、ちびっこの一人がオレの左手に気が付いてさ」
言いながら、秀は左手をひらひらとさせた。
「そしたらちびっこども、オレを追っかけるのに熱中し始めちゃって」
「追っかけるって――」
「彩も何回か巻き込まれたことあんだろ? 〝妖怪の手だ〟とか何とかいって小石ぶつけたり玩具の鉄砲で撃ってきたりすんの。ちびっこ達、最初は控えめにBB弾打ってくるくらいだったんだけど、そのうち調子に乗ってきてさ、そこら辺にある石っころを投げ始めてさぁ」
よくよく見ると、秀のこめかみにかすった様な傷があった。 薄っすらとだけれど、血が滲んでいる。 それを見て、僕の頭はしびれるような気がした。
「当ったのか?」
「ああ、大丈夫大丈夫。こーんな小さな石っころが、ほんのちょこっとかすっただけだから。 たださ、ちょっと失敗してオレこけちまったんだ。 そしたら、ちびっこどもが更に調子にのって銃をかまえてさ」
いつの間にか紅鳥が水と薬箱を用意してくれていたので、秀を座らせて治療を始めた。
「もう〝撃たれる〟って思ったんだけどさ、その瞬間、この大哥が颯爽と現れたんだ」
秀の眼は星が輝いてるかのようにキラキラとして、興奮は収まるどころか増す一方。
「すごいんだぜ、大哥、あっという間に七人をひっつかまえてさ、ケツを叩いて追い返したんだ。 その動きの速さったら、武侠映画の早送りでも見てるみたいにヒュッヒュッて速くってさー」
「それって、つまり、白獏に助けられたってこと?」
絆創膏を貼りながら、僕は眼を丸くして秀の顔を見た後、入り口の扉に背を持たせかけている白獏へ視線を移した。
「誰がこんな五月蠅い小猿を助けるかボケ。 店先で騒いでるチビ餓鬼共を追っ払っただけだ」
「えー、でも結果的には助けられたし」
告白でもするかのように頬を染め、眼をキララと輝かせながら喋る秀と、真反対の視線を白獏は向けている。
「てめえが最初から睨みを利かせて餓鬼共を押さえ込んどきゃよかったんだ。 それをてめえが、ヘラヘラ笑って何も言わんと馬鹿みてえにいつまでも付き合っているから餓鬼共が調子こいていったんだド阿呆が。 迷惑なんだよ、店の前で戦争ごっこなんぞされるのは」
白獏の口から、「店の迷惑」なんて言葉を聞くと、かなり違和感を覚えたりするのだけれど、いま白獏が言った言葉に、僕は大いに共感を覚えるところがあった。
もっとも。 肝心の秀には、その部分が伝わっていないようなんだけれど……。
「オレ、前からファンだったんだけど、今日の大哥の華麗なアクションで更にマジに惚れたっす! 」
秀はいつの間にやら席を立って、白獏のまん前に進み出ていた。 「命知らずな奴め!」と、内心大滝のような汗をかきつつも、この先どんな展開になるのかというほんの僅かな興味が勝って、しばらくは秀を止めないで見ておくことにした。
秀は飼い主をじっと見上げる忠実な犬のように、尻尾をふりふり、白獏の次の言葉を待っている。
悪意など微塵も混ざっていない、純粋ストレートな気持ちを真正面からぶつけられて、白獏も少々テンポが狂っているようで、力技(飛刀や直接の暴力行為)でどうにかしようという様子は見られない。 ちょっと意外。
などと感心していられるのはここまでだった。
白獏が、秀に落としていた視線を上げた。
予見はしていたけれど、お鉢が回ってくる時が来たのだ。
白獏の、いよいよ険しくなった銀眼に暗い光が過る。
「――いいか、丁稚。 俺は、今から、寝る。 もうこれ以上、言うことはねえよなぁ?」
懐に入れた、見え隠れするその右手には、三本ほどの鋭利な銀刀が冷たい光を放っている模様。
僕はすかさず秀をはがいじめにし、無理矢理白獏との距離を広げた。 その間に、白獏は大きなため息をひとつ残して消えて行った。 宣言通り、今から昼寝をするつもりなのだろう。
「えー、行っちゃうんですかー」などと、いつまでも白獏の後ろ姿を追っている秀を引きずり戻し座らせると、タイミングを計っていたかの様に、お師匠がお茶を出してくれた。
「白獏君は昼寝が日課なものでね。 それより秀君、こんな時間に来るなんて、君、昼食は済んだのかい?」
片手でお茶を飲みながら、秀は紅鳥が持ってきてくれた茶菓子の八宝蛋糕に早速手を伸ばした。
「あ、大丈夫です。 四妹を寝かせる前に一緒に食べましたから」
「寝かせるって、翠環、また熱でも出したのか?」
三つ目の菓子を口にくわえると、秀はポンと手を叩いて、高速回転で口の中の菓子を咀嚼し飲み込んだ。
「そうだった。 今日はそれを言いに来たんだ。 彩、そして紅鳥、ごめん」
秀は両膝に手を置き、深々と頭を下げた。 僕と紅鳥は顔を見合わせてきょとんとした。
「ごめんって、何が?」
「それが、明日のパーティーなしになった」
「なしって、翠環の調子、そんなに悪いのか?」
秀は深く息を吐くと、四つ目の菓子を取りながら、心為し表情を曇らせた。
「四妹、今朝急に高い熱を出してさ。 医者には薬を飲んで安静にしてれば二三日で治るだろうから、熱自体は心配ないって言われたんだけど、ちょっと体力が落ちているから、パーティーみたいな賑やかな場には、しばらく出ない方がいいだろうってことになって」
「昨晩僕が会いに行った時には、そんなに辛そうじゃなかったのに」
「それがさ、四妹、ここ数日、かなり夜遅くまで起きて何かやっていたらしいんだ。 それが良くなかったんじゃないかな」
秀の言葉にはっとして、僕は手にしていた茶碗を卓子へ戻した。
「? 彩、どうかしたの?」
「いや――、えっと……翠環は何で、そんな夜遅くまで起きていたのか、理由、聴いたか?」
秀は頬杖をついて、珍しくもはっきりとため息を吐いた。
「それがさー、燕児には理由を話しているみたいなんだけど、オレには話してくれないんだ。 光哥もなんとなく知ってるっぽいのにオレには教えてくんないし。 四妹、いつもは何だって一番にオレに話してくれるのに、秘密を持ちたいお年頃、ってやつかなー」
秀は組み合わせた手を、何回も開いたり閉じたりを繰り返している。 中でも、左手の六本目がしきりに動く。 この仕草は、心底の心配事がある時にやる秀の癖だ。
ただ、心配事があっても食欲が衰えることはないらしく、紅鳥が追加で持ってきた鳳梨酥(十個)を一人でぺろりと平らげた。 どんな状況でも変わることのないこの食欲が、秀の活力の源だとしみじみ思う。
***
「気にかかっているようだね」
秀が帰った後、店先の掃除をしていたらお師匠がやって来た。 お師匠が屋外に姿を現すことは滅多にないので、少々驚いてしまった。 ドアベルが鳴ったことにも気付かないなんて、僕は余程ぼんやりとしていたらしい。
「あ、すみません。 僕、ぼーっとしてしまって」
「翠環小姐の発熱の原因に、彩君、君は心当たりがあるようだね」
ゆったりと周囲の景色を見渡した後、お師匠は確信ある口調で言った。
「――はい」
「秀君には知られたくはないことなのだね」
「翠環はそれを望みません。 その気持ちが解るから、秀には言えない――けれど、秀が翠環を心配する気持ちもよく解るから、黙っているのもどこか心苦しくて」
お師匠はふふっと微笑むと、足元に落ちている割れた植木鉢に視線を落とした。
「すいません、これ、秀が追いかけられた時に引っかけて割ってしまったみたいで。 すぐに片付けます――」
一か所に集めていた欠片を箒で掃き取ろうとすると、お師匠の手が僕の行動を制止した。 僕の顔を見て僅かに微笑むと、お師匠は膝を折り、欠片に手を当てた。 瞬きの後、欠片は音もなく消えた。
これはお師匠の得意技。 手で触れた物を消してしまう、お師匠だけが持つ、まるで手品のような特殊能力。
久々に目の前で見たけれど、あったものが忽然と消えてなくなるのは、実に不思議なものだ。 手品なら種もしかけもあるし、消えた物は必ずどこかに隠れて存在するのだけれど、お師匠の消した物は、本当にこの世界から消えて無くなる。 何処を探しても、その存在は二度と見つけ出すことは出来ないのだ。
「君は、気にしているのかい?」
お師匠の技に見入っていて、何を聞かれたのかとっさには分からず、少し困惑顔でお師匠の顔を見た。
お師匠は再びふふと笑うと、立ちあがって僕の顔を見下ろした。
「秀君の指のことだよ」
「え――あ、はい。 まったく気にしていないとは、言えません」
「何が、どう気になるのかね?」
持っていた箒と塵取りを右手にまとめて持つと、僕は自分の左手をじっと見た。
「今日みたいなこと、昔から割とよくあるんです。 からかわれたり、意地悪を言われたり――時には不快そうな表情をあからさまに向けられたり」
「君も一緒にその言葉や態度に曝されるのが嫌なのかね?」
「いえ、そうじゃなくて――それは別に構わないんです。 不快には感じますが、そういった態度を取る人々がいることも、自分と違うものに怖れや嫌悪を抱く人が少なからずいるということも、頭の中では理解していますから、感情的にならずに落ち着いて対処すれば、それなりに受け流すことは可能なんです。 ただ――」
言葉を途切れさせた僕を、お師匠は静かに見つめるだけで、先を急がせようとはしない。
雲が太陽を隠しているせいか、服から出ている肌にあたる風に、ほんの僅かな冷たさを感じる。
「ただ時々、秀に苛立ちを感じることがあるんです。 なんであんなにへらへら笑っていられるのか」
手にしていた箒の柄を、僕は雑巾でも絞る様にぎゅっと握った。
「小さな頃は、指のことでしつこく苛められて、泣いたこともあったんです。 けど、あいつ、それでも絶対怒らないんです。 今日みたいなことをしてくる相手にも、あからさまに好奇の目を向けてくる相手にも。 今日だって、白獏が言ったみたいにさっさと子供達を追い払えばよかったのに、それは出来たはずなのに、そんなこと絶対にしないんです」
「怒って、反発してもらいたいのかい?」
静かなお師匠の言葉に、僕はぐっと言葉に詰まった。
「――分からないんです」
風が、石畳に落ちていた木の葉をクルクルと巻き込みながら吹き過ぎていった。
「ただ、僕が秀の立場だったら、自分ではどうしようもない身体的問題をどうこう言われることは、決して愉快なことではないと思うんです。 かといって、感情的に怒って相手に反発したところで、それが意味を成す行為であるとも限らない。 けれど、そういう行動を取られたら嫌だという意思表示くらいは、やっぱり、してもいいと思うんです」
喋っている内に、胸の奥底でもやもやとしていた言葉が溢れ出る。
「秀は、翠環や僕のことは心配して首を突っ込みたがるくせに、自分のことになるとどこまでも無頓着で、他人の心配をろくに聞きもしないんです。 今日だってあの程度の傷で済んだからまだいいですけれど、この先も、同じような目に遇うことはあるでしょう。 その度に、僕達周囲の人間はハラハラさせられるのに、肝心の秀は、きっとへらへらと笑ってその場が過ぎるのを待つんです。 それを見ていることが、歯痒くて――」
「それを、直接秀君に言ったことは?」
「あります」
僕は小さくため息を吐く。
「けれど、秀はやっぱり笑って受け流して。 挙句にこんなこと言うんですよ。 〝例えば、指一本に、袋に入った饅頭を一袋ずつ持てるとすると、オレの場合、他の人より一本分、多い饅頭が持てるだろ。 それって得じゃない?〟って。 ああ言われたら、なんだかそれ以上言うのも馬鹿らしくなって」
「秀君らしいね」
くすくす笑いながら、お師匠は帯に挟んでいた扇子を取り出し、はらりと開いて口元を覆うと、僕の耳元で囁いた。
雲に隠れていた太陽が再び顔をのぞかせた。
陽光が石畳を明るく照らすと、周囲に在る個々の物が持つ色彩が鮮やかに見えた。