壱
十一月二十四日日曜日 晴れ
北半球では比較的南方に位置する「南海の楽園(旅行会社定番のキャッチコピー)」天堂島といえ、十一月末にもなれば朝晩に若干の肌寒さを覚えることもある。 年がら年中半袖やノースリーブの人もいるけれど、冬季になれば、セーターにコート、さらにはマフラーまでもを着用する人々だっている。
そんな個々人の体感温度の問題はさておき、この時期になると、天涯でも海角でも、街中の気温は住宅街より平均二三度高くなっているように感じられる。
何故かというと、答えは簡単。 放出される熱量が増えるからだ。
街中は現在、一ヶ月先に迫った生誕節に向け、そこかしこが電飾されている。 華やかに幻想的に、ひねて見ればただただ派手に煌びやかに。
誘蛾灯に誘われる昆虫の如く、人は続々と街頭に集い、その数たるや、ひと目で人酔いしそうなほど。
イルミネーションの電球が発する熱(天堂島ではあまりLEDが普及していない)と、それを見物に集まった人々が生み出す熱気が合わさった結果、温度上昇につながっている――のだと思う。
賑わいは、何も視覚や体感温度にだけ影響を与えるのではなく、聴覚方面でも顕著に変化がもたらされている。 シャンシャンと高らかに鳴る鈴の音に乗った音楽が、この時期独特の「ほーら、愉しいだろう?」という雰囲気を抜かりなく演出している。
天涯も海角も、街は基本的に人出は多いのだけれど、この時期の賑わいっぷりは常の比ではない。 商店街連合の人々の計画は、毎年大成功といったところだろう。
この季節ならではの賑わいと言えば、十月初旬から早々と予約受付を開始している生誕節ケーキの予約獲得合戦が、本戦に入ったと言わんばかりに熱を帯びている。
ショコラクリームでシックにまとめた、大人の雰囲気醸し出すブッシュ・ド・ノエル。 たっぷりの生クリームにくるまれたふわふわのスポンジの上に、苺にブルーベリー、キウイ等の果物を見栄えよく飾り付けたオーソドックスなデコレーションケーキから、トナカイやサンタ人形、ついでにビスケットで作ったロッジ風の家やもみの木を、ドールハウスの如く飾り付けた賑やかなものまで多種多様、甘い物好きなら目移りすること間違いなしの豊富なラインナップだ。
それら各店独自の創意工夫を凝らしたケーキが、実物以上に豪華に加工された画像となって、店頭や街頭掲示板などに「予約受付中」の文字と共に張り出されている。
十月の、受付開始直後の宣伝は大人しい。主役となるべきその時がまだ遠い分、ひっそりと伏し眼がちに部屋の片隅で控えているといった印象だ。
しかし、発売日を一ヶ月後に控えた現在、そんな内気なことでは熾烈な販売競争を生き残れやしない。 それまで被っていた猫の皮を放り投げるように脱ぎ捨て、選挙戦の如く店名と商品名を宣伝するポスターをあちらこちらに張れるだけ張る。 店舗によっては、店先を通りかかる通行人に、元気な挨拶と共に、「受け取り拒否などはさせん」といわんばかりの勢いでチラシを配り始める。
天涯に五十二軒、海角に二百八十軒ケーキ専門店はあり、その他の食品メーカーも数に入れれば更に三十六、競合相手が増えることになる。 人口約三百万人の天堂島で生き残るために、宣伝は大切な企業活動なのである。
宣伝方法は何もポスターや呼び込みに限ったものではない。 電脳化が進んだ現代、宣伝手段は更に多様化している。 他社との差異を明確に打ち出した宣伝をおこなうことは、いつの時代でも宣伝担当者の頭を悩ませる問題だと思う。 特に現代の、網絡上に溢れる膨大な情報の中から、自社製品の宣伝を確実に見てもらうには、それ相応の技術と工夫が欠かせない。 気まぐれなネットユーザーは、獲得できればかなりの数を稼ぐことが出来るかもしれないが、ユーザーのセンサーの網に引っかからなければ、その宣伝は虚しく網絡の大海を漂流し、情報の荒波に揉まれた末に、深海に沈んでしまうだけだろう。
時代に合わせた宣伝はもちろん必要だ。 けれど、堅実に顧客を獲得するには、意外と古典的な手段の方がインパクトを与え、数字を伸ばすことに貢献出来る場合があると思う。
そんな堅実な古典的宣伝手法の一つに、食品模型、というものがある。
最近の食品模型は技術の進歩目覚ましく、一見では本物か偽物か見分け難いほど細密な仕上がりのものが増え、もはや芸術の域に達していると思うことも少なくない。 それら食品模型を目にする機会のある人々に対しては、ポスターやCMよりリアルな存在感で視覚に訴えかけるので、より確実に印象を残すことが出来るのではないだろうか。
これらは特に、好奇心旺盛な子供や感受性豊かな女性客に、より強く働きかけるように思う。 ショーウィンドウ前の通行客限定、というピンポイントな宣伝手段ではあるけれど、潜在的に高い集客力を持つ食品模型に、これを飾る店側は密かに期待をしているに違いない。
そして――。
そんな店側の思惑に見事に引っかかっている奴が一名、現在進行形で、目の前にいる。
ちなみに、年齢は十三歳と十一ヶ月の男子。
「――~~阿秀。 頼む、頼むからっ、動こう。 あれはあくまで商品見本で、食べられないからっ」
海角一甘いケーキを売る店として有名(=天堂島一甘いケーキを売る店)なケーキ店のショーウィンドウに飾られている生誕節ケーキ(模型)に、常に欠食状態の公孫秀は大いに魅入られてしまったらしく、輝くほどに拭きあげられた硝子にへばり付き、あと数秒したら涎を垂らすこと間違いなしの状態。
「家に帰ればお菓子なんていっぱいあるだろう? そんなにこの店のケーキを食べたけりゃ買って帰ってもいいし、光哥に頼めば店に負けないやつを作ってくれるだろう? ほら、店内の人達が明らかに不審の眼差しを向けてるって。 目的の買い物もお望みの食い倒れも済んだんだから、天涯へ帰るぞ」
かなり本気で秀の腕を引っ張ってみたものの、超強力な吸盤でも付いているのか、秀の手と顔はウインドウに張り付いたまま数ミクロンも動かない。
「オレだって阿彩の買い物につきあったじゃん。 手芸部の女子が行きそうな、ピンクとフリルのキラキラ手芸用品店」
「外で十分程度待たせただけだろ? 僕はその十倍近く秀に付き合ったんだから文句ないだろ。 とにかく、菓子なら天涯の家に帰ってから飽きるまで食べればいいじゃないか」
「家ぃ? 確かに家に帰れば、なんかの実の砂糖漬けやら果物を潰して糯にしたやつとか、餡子のぎっしり詰まった饅頭とかいっぱいあるけど、オレ、血糖値が上がるだけの菓子よりこってり乳脂肪分が多そうで鼻血出そうなくらいに甘そうなこっちの菓子のがいい。 それに光哥、あんま洋菓子作ってくれないし。 和菓子なら作ってくれるけど、大井の爺さん仕込みのやつ」
ちなみに言い添えておくと、「僕」こと結城彩の幼馴染である「阿秀」こと公孫秀の家は、代々海運業で財を成している四百年は続く旧家で、財界のみならず、政界にも親類縁者は数知れず。 加えて言えば、分家ではなく本家。
名家旧家にありそうな、「名前だけはご立派で台所事情は厳しい」などと言うことはなく、現在進行形で、公孫家は名実ともに繁栄している。 三男とはいえ、この公孫秀は、そんな超一流な家柄の少爺。 つまりは、正真正銘のお坊っちゃま、だ。
僕も可愛がっていただいている伯父様伯母様も、笑顔の裏の更に裏にある顔は、経験値の低い子供などでは到底推察しきれないけれど、単純に感じるままの印象は、大らかでもてなし上手で、僕みたいな半家族同然の客にでも、いつも食べきれない程の料理や菓子でもてなしてくれる。
じゃあ、客に出す分を家庭内でケチっているかと言うと、そんなことはあろうはずもなく、育ち盛りの秀が「負けました」と言うくらいの量の料理が、毎回の食卓に並ぶ。 それに加え、茶菓も時間時間で準備される。 それなのにしょっちゅう飢えている秀の胃袋の活動は、通常の人の三倍は活発に違いない。
ついでに言えば、中等科の学生(僕達が通う天堂中央第一学院=平均的に裕福な家庭が多い)が親から与えられる小遣いは、最低でも学年の平均額を秀も貰っているはずだ。 世間一般的な、中学生の常識から大きく外れる様な使い方をしていない限り、例え小遣い前の、財布の中身が心許ない時期であったとしても、いま釘付けになっている店のお菓子の一個や二個を買えるくらいは残っていていいはずなのだ。 それなのに、大型ヤモリのようにウインドウにへばり付き涎を垂らし続けるのは止めて欲しい。
へばり付き始めて軽く十四分――。
この間、一部の店員はへばり付く秀と僕を、あからさまな不審の眼で見ていた。
そして。
そのうち一人の店員があることに気付いたらしく、奇妙に歪んだ驚きの表情になると、のけぞるような、一歩後ろに退いた、腰の引けたような姿勢になった。 それから、確認するように指をさし、あるものの数を数え始める。
「いつものこと」と、僕は思う。
一人が気付いたからには、間もなく他の店員にも知られることだろう。 そうしたら、更に多くの視線を集めるだろうことは確実だ。
しかし、注目の的である秀は、ウインドウのケーキを見続けることにのみ集中をしていて、店員の視線なんて、微塵も構ってはいやしない。 そもそも、他人の視線なんて気にしない性質の秀は、視線に気付いたところで逆に手を振って、にかっと無邪気に笑うだけだろうけど。
店員間で情報が伝達され始めた模様。
奥の厨房からわざわざ出てくる、野次馬根性丸出しなもの好きまでいる。
「――やっぱり、か……」
ため息交じりに、秀の硝子に張り付いた手に視線を向ける。
彼らの視線を引き付けているのは、秀の左手。 更に具体的に言えば、指。
秀の左手には六本の指がある。
一本多い。
ただそれだけのことなのに、それに気付いた人は大抵、この店の店員の様な反応をする。そんなに興味をそそられるものかね、と半ば呆れ感心しつつも、いい加減、ここからは立ち去るが無難と判断する。
「秀、いつまでへばり付いていたって状況は変わらないだろう? そんなに食べたいんなら予約していけばいい。一人で食べるならSサイズで十分だろうし、光哥と翠環と燕児の四人で食べるならLにすれば足りるだろう? よし、決まり。 予約しよう、するぞ、それで天涯へ帰る、いいな」
ちょっと補足すると、「光哥」とは公孫家の使用人で秀のお目付け役、「翠環」(秀は「四妹」と呼んでいる)は、秀の三歳下の妹で大変なお兄ちゃん子。 「燕児」は翠環の世話係だ。 公孫家の中でも仲の良い四人だけど、殊に翠環と光哥は、秀にとっては特別に大切な存在なのだ。
「えー、いま食べられないんならもう少しだけ見ていたい」とかなんとか、不満を漏らす秀を渾身の力でウインドウから引き剥がし店内へ引きずり入ると、秀に口を開かせる隙を与えずLサイズのケーキの予約をし、勢い何故か支払いまで僕がして、ようやく天涯の自宅に戻ったのは、それから二時間後のこと。
帰宅に、通常所要時間の倍以上かかったことは、言うまでもなく、未練たらたらでなかなか足を動かさない秀を引きずって歩いたハンデのせい。