無色透明で出来ている
「ここならいいよ」
そう言って少女は立ち止った。春とは言えまだ寒い、吐く息が白い早朝。古い団地のゴミ集積所の周りには、烏が荒らした生ゴミが散乱していた。
「ここに一緒に飛び込もう」
え? うそだろ?
「うそじゃないよホントだよ」
そう言って少女は勢いよくゴミ袋の山に飛び込む。
「ほら、おいでよ」
ゴミ袋の山に埋もれた少女が得意そうに笑って手を差し伸べた。しかし僕は動けない。しばらく膠着状態が続いて、やがて少女は黙ってゴミ袋の山から這い出てきた。
「意気地無し」
少女は髪や制服にゴミを付着させたまま、とっとと歩き出した。僕は慌てて付いていく。今になって彼女の制服が夏服であったことに気がついた。
「じゃあ、ここならどうかな?」
そう言って少女は再び立ち止まった。廃園のような、いつ手入れされたのか分からない公園。そして木々がうっそうと生い茂る中にある公衆便所を少女は指さしていた。公衆便所の内部は、蛍光灯が点滅を繰り返し、スプレーで描かれた落書きが偶発的に前衛アートを生み出している。
「ここなら烏もいないし」
いや、これさっきよりハードル高いし。
「えー? そうなのー」
しかし少女は、僕の話を聞いていなかったように、水浸しの汚れた床に寝転ぶと、両脚を広げてスカートの中を僕に見せた。
「きて…」
そして僕に向かって手を差し伸べる。
ごめん、無理。こんなところ絶対無理。って、やばいよここ、絶対やばい!
「なにそれ。ねえ、もしかして潔癖症? じゃあ、私となんか付き合えないよ」
いやだから…もっと普通なところで…
「普通なところで…エッチしたいって?」
寝そべったまま少女が笑う。返事をしないでいると、のそのそと起き上がり僕をにらみつけた。
「最低!」
少女の夏の制服は背中が濡れてすっかり汚れていた。その真ん中に、水平に、真っ白な下着の紐が、まるで蛍光処理が施されているように浮かび上がっている。
「さて、あとはどこがあるかな…」
頬にかかった髪を、汚れたままの手ですくい上げ、少女は遙か遠くを見やった。
次ぎに連れて行かれたのは廃屋となった空き家だった。伸びきって枯れたままの雑草をものともせずに少女は分け入る。ガラスの割れた玄関の戸を何度も乱暴に動かし、やがて強引に開け放った。そして靴を履いたまま室内に上がる。歩く毎に埃が舞い、床がぎしぎし音を立てた。
だめだよ、いやだよこんなとこ。
「どうして? 誰も来ないし雨風しのげるし、ほら畳だってあるじゃない」
そう言って指さした部屋は、雨漏りがするのだろう、黴が生えて黒く変色した畳が自らの重みに耐えきれず床下に沈み込んでいた。少女は埃で白くなっている廊下にぺたんとしゃがみ込んだ。
「じゃあ、こっちなら?」
僕は黙って首を横に振る。
「贅沢な人だこと」
そう言って少女はため息をついた。そして考え事をするように爪を噛む。埃で汚れた爪を。
「どういうところならいい?」
「せめて、もう少し衛生的な場所が」
こくんと頷いて少女は起き上がった。
「良い場所があるよ」
そう言って歩き出す。振り向きもせず、僕が付いてくることを疑うことなく。次ぎに連れて行かれたのは食肉倉庫だった。マイナス20度の倉庫の中で少女は振り向く。
「ここなら、限りなくどこまでも衛生的」
彼女には、つり下げられた巨大な肉塊が見えていないようだった。そしていきなり制服を脱ごうとする。
「なんで! ダメだよ死んじゃうよ!」
意味が分からないという風に少女が首をかしげる。
「寒くないの?」
「寒いよ」
「こんなところ、こんな薄着で10分もいたら絶対凍死する」
「腰抜け! そんなに死ぬのが怖いんか」
そりゃ…怖いよ。ふつう怖いよ。怖くない君が普通じゃないんだ。
「普通じゃないよ。何を今さら」
分かってるよ、分かってるけどこれは何か違う。とにかく僕は彼女の腕を掴んで冷凍倉庫から脱出した。
この日はこれで少女と別れた。今日は、朝の4時に起こされた。次もまたメールで知らせるという。実は、彼女からセックスの許可はとうに下りていた。ただしそれは生理の日限定。それは勘弁と言ったら今日になって突然呼び出されたのだ。しかしまさかこんな展開になるとは思いもしなかった。
「変態だと思ってるでしょ?」
翌日、学校で会うと、そう言って少女は笑った。
「変態だよ、どうしようもない変態。だけど相手が変態なのはいや。普通の人がいい、普通の人が、がくがく震えて、脂汗流して、顔を醜く歪めて、そして思い切って足を踏み外す瞬間がたまらなく好き」
僕はもうずっと、立ってられないくらいに震えていたよ。
「それだけじゃあ、ダメ。だって君、震えてるだけで実際には飛び込んでこないんだもの」
飛び込めるヤツなんてきっといないよ。
そして数日後、再び少女が僕を呼び出した。工業団地の廃液が流れ込む、どぶ川。工場をカモフラージュする桜並木は満開を過ぎ、散った花びらが汚れたどぶ川を、驚くほど鮮やかに薄紅色に染めていた。
「綺麗でしょ」
そう言って少女はどぶ川に飛び込んだ。一度、頭まで浸かってから浮上した全身には、薄紅色の花びらがおびただしく付着している。
「もう、おしまいにしよ」
突然、僕を見ないで少女が言った。
どうして?
「君はどこにも飛び込めないし、わたしもそろそろ面倒になってきた」
…もう会わないってこと?
「うん。ゲーム、オーバー」
僕は何も言えずに少女を見守った。
「ねー、一つ聞いていい?」
なに?
「本当は、わたしとどうなりたかった?」
僕は、君と、彼氏彼女の関係になりたかった。
「わたしがこんなにおかしくても?」
……
「そこは見ないようにしてたんだね」
そういうわけじゃなくて… だっていきなりこんな展開になるとは思わなかったから。
「ねー、例えばお互い心が読めたとして、君の心の中はこのどぶ川より綺麗だって自信を持って言える?」
言えないけど、こんなに汚くはないと思いたい。
少女はクスッと笑った。
「どうかな? わたしとエッチするチャンスをいつも伺って、生理中にセックスしたらどんな感じかも想像したはずだし、たぶんオナニーだって何度もしてるはず。それって、このどぶ川より綺麗なこと?」
だけどそれは、男として普通のことだと思うし…
「普通だったら何を考えてもいいんだ。どんな非道な空想をしても、口に出さなかったらそれでいいんだ」
無理やりやったり、強引なことしなければいいじゃないのかな? 頭の中で考えるだけなんだし。
「ううん、違う。それ単に、理想化した現実に囚われているだけ。あのね、これがホームレスのオジサンなら、たぶん躊躇うことなく喜んで飛び込んで来るんだよ。開き直って、プライドとか今までの常識とか捨てていくと、この世の中から許せないことがどんどん無くなっていく。近代化なんて格好付けて言うけどさ、それって醜い現実に、虚栄と虚構を重ね塗りして、見ないようにしてきただけのことなんじゃないのかな?」
全身を桜の花びらで着飾った(まるで晴れ着を身にまとったような)少女が、どぶ川の真ん中にいて、僕を見上げていた。
「君が、わたしのこと、本当は良い子だって言ってくれたの、嬉しかったんだよ。でも仮に、君の申し出を有り難く受け止めて恋人同士になったところで、私を取り巻く現実は、残念ながらこんなもの」
それでも僕は、今でも君のことホントは良い子だと思ってる、信じてる。
「じゃあ飛び込みなさい。飛び込んでわたしを抱きしめなさい」
そして少女は両手を僕に差し出した。
「変えられるのは人間じゃない、変えられるのは人間を取り巻く現実。君が飛び込めば、このどぶ川は清流に変わるかもしれない。だから飛び込んで。本当にわたしを救いたいなら。わたしが本当は良い子だと、今も信じてるなら!」
少女は怒ったような、軽蔑したような、憐れんでいるような、恐れているような、哀願するような瞳で僕を見上げる。僕はがくがく震えていた。足を踏み外して、どぶ川に落ちてしまいそうなくらいに、がくがくと震えながら。
onaishigeo 「無色透明で出来ている」 2012/05/12 初出:ブクログのパブー http://p.booklog.jp/book/49684