帳簿をお返しいたしますわ。ご安心ください、もう誰にも読めませんので
「リーゼロッテ・フェルマー! 君との婚約を破棄する!」
王立学園の卒業パーティー。広間の中央で、ユリウス・ダルトン侯爵令息が声を張り上げた。
その腕には男爵令嬢のマリエル・ボーデンがしがみついている。頬を赤くして、勝ち誇った顔を隠そうともしていない。
楽団の演奏が止まった。三百人の招待客が一斉にこちらを向く。
リーゼロッテ・フェルマー子爵令嬢は、手にしていたグラスを静かに置いた。
「理由をお聞かせ願えますか」
「君は金の話しかしない」
ユリウスは吐き捨てるように言った。
「去年、私が新しい馬を買いたいと言ったときのことを覚えているか。君はこう答えた。『今月は無理です』。婚約者に向かって『無理です』だ。私は侯爵家の跡取りだぞ。マリエルは違う。彼女は私の話を最後まで聞いてくれる」
「ユリウス様は、いつもお優しいんです」
マリエルが小さくうなずいた。悪気のない顔だった。
「だいたい君は、いつも地下の物置にこもって何をしている」
ユリウスは笑った。
「帳簿づけだろう。あんなもの、書記にでもやらせておけばいい。侯爵家の女主人になろうという娘が、算盤を弾いて六年だ」
広間に、遠慮のない笑い声が起きた。
どこかで誰かが「まあ、お可哀想に」と言った。
リーゼは息を吸った。
この人は知らないのだ、と思った。
自分が何のためにあの物置にいたのかを。ダルトン侯爵家の支払いを、取引先との交渉を、借金の返済計画を、六年間たった一人で背負ってきたことを。
あの馬を買えなかったのは、その月に職人組合への支払いが三件重なっていたからだ。あそこで馬を買っていたら、ダルトン家は職人組合から出入りを止められていた。
けれどユリウスは、そんな話を一度も聞こうとしなかった。
「かしこまりました」
リーゼは膝を折り、優雅に一礼した。
「お二人の幸せをお祈りしております」
ユリウスが口を開けたまま固まった。
言い返されると思っていたのだろう。泣かれるか、すがられるか、せめて理由を問い詰められるか。そのどれも起きなかった。
マリエルもきょとんとしている。
「つきましては、お返ししたいものがございます」
リーゼは顔を上げた。
「明日、ダルトン邸へ伺ってもよろしいでしょうか」
翌日の昼、ダルトン侯爵邸の玄関前に荷馬車が二台停まった。
降ろされたのは、革表紙の帳簿が七十二冊。三つの木箱にきれいに収められている。
ユリウスは、それを見て眉をひそめた。
「なんだ、これは」
「ダルトン侯爵家の帳簿でございます」
リーゼは箱の蓋を開けた。
「わたくしが十二の年から六年間、つけてまいりました。月に一冊、七十二か月分でございます。収入も、支出も、取引先も、支払いの期日も、すべてこの中にございます」
「……七十二冊も、何を書くことがある」
ユリウスが箱を覗き込む。一冊を手に取り、ぱらぱらとめくった。
そして、動きが止まった。
数字は並んでいる。整った字で、几帳面に、一行の乱れもなく。
だがその数字の横に、見たことのない小さな印が並んでいた。丸の中に点。斜めの線が二本。三角に短い横棒。
「なんだ、この記号は」
「わたくしが考えた符牒でございます」
「符牒?」
「はい。数字だけでは足りませんので」
リーゼは説明を始めた。
「帳簿に金額を書いても、それだけでは家は回りません。いつ、誰に、どの順で払うのか。それが分からなければ、金額を知っていても意味がないのです」
ユリウスは黙っている。
「ですのでわたくしは、数字の横に印をつけることにいたしました。丸の中の点は、月末までに必ず払わねばならないもの。斜めの二本線は、待ってもらえる相手。三角の横棒は、待ってもらう代わりに利息が増えるもの」
リーゼは一冊を指さした。
「六年前、わたくしはこの家の支払いを組み替えることから始めました」
「……そんなものは、誰でも読めばわかる」
「いいえ」
リーゼははっきりと言った。
「この符牒の意味を書いた紙は、どこにもございません。わたくしの頭の中にしかありません。十二のときに考えて、そのまま六年間誰にも教えておりません」
「なぜ教えなかった」
その問いに、リーゼは少しだけ間を置いた。
「訊かれなかったからです」
ユリウスの顔から、血の気が引いた。
「六年間、この家の誰ひとりわたくしにこの印の意味を訊きませんでした。旦那様も、奥様も、あなたも」
リーゼは箱の蓋を閉じた。
「けれど、もうわたくしは部外者でございます。他家の帳簿を持っているわけにはまいりません。ですから、お返しいたします」
そして一礼した。
「ご安心ください。もう誰にも読めませんので」
リーゼが玄関を出るとき、廊下の奥に人影があった。
当主のオズワルド・ダルトンだった。杖にすがるようにして立ち、こちらを見ている。何か言いたそうに口を開き、そして閉じた。
結局、彼は何も言わなかった。
リーゼも、何も言わずに頭を下げた。
フェルマー子爵邸に戻ると、リーゼはまっすぐ自分の部屋へ向かった。
扉を閉め、コルセットを緩め、寝台に腰を下ろす。
六年だった。
フェルマー家は、三代前まで穀物を扱う商家だった。
リーゼは五つで算盤を持たされ、十のときには店の帳場に座って仕入れの値を決めていた。
父の口癖があった。
——数字は嘘をつかん。嘘をつくのは、数字を書く人間だ。
リーゼは数字の並びを見れば、そこにある穴が見えた。どこで金が漏れているか、誰が嘘をついているか。見ようとしなくても見えた。
十二歳の春のことを、リーゼはよく覚えている。
父に手を引かれてダルトン邸へ行った日、通されたのは客間ではなく地下の物置だった。
紙の束が、床に山積みになっていた。
請求書。督促状。借用証。日付順にも相手先ごとにも並んでいない。ただ届いた順に放り込んであるだけだった。
「帳簿は、どこにございますか」
十二歳のリーゼが訊くと、オズワルドは黙った。
「……つけておらん」
彼はそう言った。あの頃の彼は、まだ杖をついていなかった。
「金が入れば使う。足りなくなれば借りる。ずっとそうやってきた。いくら持っていて、いくら出ていくのか、わしにも分からんのだ」
ダルトン家は借金まみれだった。屋敷は立派なのに、台所には小麦粉がなかった。使用人の給金が三月分止まっていた。
フェルマー家は商家上がりの新興貴族だ。金と、帳簿の技術がある。ダルトン家には家格がある。
だからこの婚約は、最初から取引だった。こちらが金と経営を出し、あちらが名前を出す。両家の当主がそう決めて、契約書まで交わした。
リーゼはその契約の中身を、十二のときに全部読んでいる。
リーゼは物置の床に座り込んで、紙の束を一枚ずつ分けはじめた。
まず相手先ごとに。次に日付順に。それから、待ってくれる相手と待ってくれない相手に。
三日かかった。
終わったとき、この家がいつ潰れるかが分かった。あと四ヶ月だった。
その三日目の朝、屋敷に金貸しが来た。
ベルクという男だった。ダルトン家に最も多く貸していて、最も気が短い。
「今日中に耳を揃えてもらおうか。でなければ差し押さえだ」
応対に出たオズワルドは、青い顔で言葉が出なかった。
「ベルク様」
声をかけたのは、床に紙を並べていた十二歳の娘だった。
ベルクは笑った。
「なんだ、お嬢ちゃん。大人の話だ」
「差し押さえをなさると、ベルク様のお取り分は四割ほどになります」
男の笑いが止まった。
「この家に貸しているのはベルク様だけではございません。七軒ございます。そのうち三軒は、ベルク様より先に取り立てる約束をお持ちです」
リーゼは、床の紙を一枚ずつ指した。
「王都商会。三年前の証文に、優先の一文がございます。次にヴァイス商会。こちらも同じ一文。それから石工組合。こちらは組合の規則で先に払われます」
「……」
「屋敷を売っても、その三軒で八割が消えます。ベルク様に残るのは、お貸しになった額の四割ほどでございます」
ベルクは床の紙を見た。それから娘の顔を見た。
「……お前、それを三日で調べたのか」
「はい」
「誰に教わった」
「どなたにも」
男はしばらく黙っていた。
「……で、小娘。お前は何が言いたい」
「差し押さえをなさらなければ、八年で全額お返しいたします。利息もお約束どおりに」
「八年だと。誰が保証する」
「わたくしが帳簿をつけます」
娘は、床に並べた紙の山を指した。
「この家には、これまで帳簿がございませんでした。ですから誰も、いつ払えばよいのか分からなかった。滞ったのは金がなかったからではございません。順番を知らなかったからでございます」
ベルクは長いこと動かなかった。
それから、帽子をかぶり直した。
「……名は」
「リーゼロッテ・フェルマーと申します」
「フェルマーか。なるほど、商人の娘だ」
彼は出ていった。
差し押さえは、来なかった。
八年で返す、と言ってしまった。
だから、帳簿をつけることにした。
だが数字を書くだけでは足りなかった。いつ払うのか、誰に払うのか、どの順で払えばこの家が保つのか。それを書き込む方法が要る。
だから、自分で印を作った。
丸の中に点。斜めの線が二本。三角に短い横棒。
誰にも相談しなかった。相談できる相手が、いなかったからだ。
その冬の夜のことだった。
リーゼはその物置で帳簿をつけていた。寒かった。指がかじかんでペンがうまく持てなかった。蝋燭が短くなって、手元が暗くなっていた。
扉が開いた。
ユリウスだった。十四歳の彼は、寝間着の上に外套を羽織っていた。
彼は何も言わなかった。ただ、手に持っていたランプを机の端に置いた。
そして、出ていった。
それだけだった。
リーゼは、明るくなった帳簿をしばらく見ていた。
六年間で、たった一度きりのことだった。
それから六年、リーゼは同じことを繰り返した。
十四で王都商会の利息を一分下げさせた。十五のとき、ヴァイス商会が値を吊り上げようとしたので取引先を隣領に替えた。翌月、ヴァイス商会のほうから頭を下げに来た。
交渉に出るとき、リーゼはいつも一人だった。
オズワルドは病を得て床につき、ユリウスは狩りに出ていた。
商人たちは最初、みな笑った。子供が出てきたと思って笑い、帰るころには笑っていなかった。
やがてダルトン家に金が回りはじめた。使用人が増え、夜会に呼ばれるようになった。
その六年、リーゼはずっと地下の物置にいた。
そして彼らは、こう思うようになった。
うちはもともと立派な家なのだから、これが当たり前なのだ、と。
リーゼは、その勘違いを訂正しなかった。
言えばよかったのかもしれない。この家が回っているのはわたくしのおかげです、と。
けれど、言いたくなかった。
自分の口から言ってしまえば、それは請求書になる。あの夜のランプのように、誰かが自分で気づいて自分から持ってきてくれるのでなければ意味がない。
だから黙って数字を合わせ続けた。
六年間、待っていた。
誰も、来なかった。
「……よく働いたわね、わたくし」
声に出した途端、涙が出た。
悔しかった。
六年間ずっと口にしなかったものが、いっぺんに込み上げてきた。気づいてほしかった。ありがとうと言ってほしかった。あの夜のランプみたいに、一度でいいから誰かにこちらへ来てほしかった。
リーゼは枕に顔を押しつけて、声を殺して泣いた。
十二から十八まで。娘が誰かに恋をしたり、友達と遊んだり、着るものを選んだりする六年を、リーゼは全部あの物置で使った。
それを、笑われて終わった。
その夜、リーゼは十二時間眠った。十二歳の春から一度もしたことのない、深い眠りだった。
ダルトン侯爵家で最初の異変が起きたのは、それから十九日後のことだった。
ユリウスの執務室に、老執事のゲルトが青い顔で入ってきた。
「若旦那様。石工組合から催促状が届いております」
「催促状?」
「先月分の支払いが滞っていると」
ユリウスは机の上の帳簿を見た。この三週間、彼はこの七十二冊と格闘していた。
「払っていないはずがないだろう。金はあるんだ」
「……金庫には、ございません」
「なに?」
「今月の分は、先週の職人組合への支払いで出ております。次に金子が入りますのは、領地からの地代が届く来月の頭かと」
ユリウスは言葉に詰まった。
「では、今は一文もないというのか」
「はい」
ゲルトは言いにくそうに口を開いた。
「リーゼロッテ様は、入ってくる金子と出ていく金子を月ごとに回しておられました。どの支払いを先にすれば、次の金子が入るまで持ちこたえられるか。その順序を組んでおられたのでございます」
「順序」
「はい。若旦那様は先日、石工組合より先に馬具商へお支払いになりました。あれで回転が狂ったのでございます」
「ならばその順序を、お前が組め」
「できません」
ゲルトは首を振った。
「どの支払いを先にすべきかは、帳簿の印に書いてございます。ですがその印を読めるのは、リーゼロッテ様おひとりでございました」
ユリウスは帳簿を開いた。
石工組合の欄はすぐ見つかった。金額も書いてある。だがその横の印が読めない。丸の中に点が打ってあり、その隣に小さな数字が添えられている。
この数字が何なのか、わからない。
「日付ではないのか、これは」
「わたくしにも、わかりかねます」
ユリウスは別の頁をめくった。同じ印が、別の取引先の欄にもある。数字だけが違う。
三時間かけて、彼は七十二冊を調べた。
わかったことがひとつだけあった。この屋敷には、月に百件を超える支払いがある。石材、木材、布地、食料、使用人の給金、税、そして名目のわからない送金が二十件ほど。
その百件すべてに、期日と順序がある。
「……リーゼは、これを毎月やっていたのか」
「はい」
ゲルトが答えた。
「リーゼロッテ様は月末になりますと、三日ほど屋敷にお泊まりになりました。朝から晩まで机に向かっておられました。わたくしどもがお茶をお持ちしても、顔もお上げにならず」
「そんな話は聞いていない」
「若旦那様は、その時期はいつも狩りに出ておられましたので」
ユリウスは黙った。
「ひとつ、申し上げてよろしいでしょうか」
ゲルトは静かに言った。
「あの方がいらした頃は、請求書が届く前に金子が用意されておりました。届いてから探したことは、六年間で一度もございません」
ユリウスは何も言えなかった。
その日の夕方、彼は石工組合に手紙を書いた。支払いが遅れたことを詫び、期日を教えてほしいと。
返事はこう来た。
——期日は契約書に記載のとおりです。
契約書がどこにあるのか、ユリウスは知らなかった。
催促状は、それから毎週届くようになった。
石工組合。次に木材商。次に布地商。ひとつ支払いが遅れると、その噂が組合を通じて広がり、別の商人が前払いを求めてくる。前払いをすると手元の金が減り、次の支払いがまた遅れる。
二ヶ月目には、屋敷に出入りする商人が半分になった。
その月の終わりに、マリエルが訪ねてきた。
ユリウスは久しぶりに笑顔になった。この二ヶ月、彼女には一度も会えていなかった。
「マリエル。よく来てくれた」
「あの、ユリウス様」
マリエルは玄関に立ったまま、中へ入ろうとしなかった。
「お父様が、しばらくこちらへは来るなと」
「……なぜだ」
「よくわからないんですけど、ダルトン家は危ないって。商会の方がそう言っていたそうです」
彼女は困った顔をしていた。演技ではなく、本当に困っている顔だった。
「わたし、そういうお金のことは何も知らなくて」
ユリウスは、その言葉を聞いた。
君は金の話しかしない。
三ヶ月前、自分が広間の真ん中で叫んだ言葉だった。
「ごめんなさい。わたし、聞いてません」
マリエルは頭を下げて帰っていった。
悪い娘ではなかった。ただ、何も知らないだけだった。
三ヶ月前の自分と、同じだった。
それから数日して、ユリウスは人づてに聞いた。
マリエルがフォルクス伯爵家の令息と夜会で踊っていたという。ボーデン男爵家は、すでにその縁談を進めているらしい。
「フォルクス様がおっしゃっていましたよ」
話を持ってきた男は、悪気なく笑った。
「あの娘は自分の話を最後まで聞いてくれる。ああいう娘は、なかなかいないと」
ユリウスは、返す言葉を持たなかった。
三ヶ月前、三百人の前で自分が叫んだ言葉だった。
夜会には、もう長いこと呼ばれていない。
三ヶ月目に、それは来た。
王都の金融組合から届いた一通の通知。ユリウスはそれを読み、二度読み、三度目でようやく意味を理解した。
八年前、父オズワルドが事業に失敗したときの借金。
まだ、残っていた。
総額は、この屋敷を売っても足りない額だった。返済は八年計画で組まれており、六年分が済んでいた。あと二年で完済するはずだった。
その返済が、三ヶ月前から止まっている。
契約により、支払いが三ヶ月滞った場合は残額の一括請求となる。
「父上!」
ユリウスは父の寝室へ駆け込んだ。
「これは何ですか。借金など、とうに返し終わったと」
オズワルドは寝台の上で目を閉じていた。しばらくして、ゆっくりと口を開いた。
「あの子が、毎年少しずつ返していた」
「……なぜ、言ってくださらなかったのですか」
「言えるものか」
老人の声は掠れていた。
「十二の娘に家の借金を返させているなどと、息子に言えるものか」
ユリウスは、パーティーの夜に父が自分の袖を引いたことを思い出した。
あのとき父は、ただ一言こう言った。
やめておけ。
理由は、言わなかった。
話は少し戻る。
婚約破棄から十日後、リーゼは王城に呼び出された。
差出人は王国財務卿。名前はアーベル・グランツ。二十五歳で財務卿に就いた、史上最年少の男だという。
執務室の机には、書類が山と積まれていた。その向こうから若い男が立ち上がる。
「フェルマー子爵令嬢。お呼び立てして申し訳ない」
「いえ。あの、ご用件は」
「あなたを財務省に迎えたい。監査官補として」
リーゼは、思わず訊き返した。
「……わたくしを、ですか」
「ええ」
「失礼ですが、わたくしは学園を出たばかりの十八の娘でございます。監査官の職に就いた者は、みな十年以上の実務を積んでいると伺っておりますが」
「あなたも六年積んでいる。それに、補であれば身分も年齢も問いません」
アーベルは続けた。
「三月ののちに試験がございます。通れば監査官です。……もっとも、あなたが落ちるところは想像がつきません」
アーベルは机の引き出しを開けた。
取り出したのは、一冊の帳簿の写しだった。表紙にダルトン侯爵家の紋が押してある。
「六年間、あなたのつけた帳簿を読んでいました」
リーゼは、言葉に詰まった。
「王国では毎年、爵位を持つ家から帳簿の写しを提出させています。税を正しく納めているかを確かめるためです。年に千通ほど届きます。わたくしは十九のときからその全部に目を通す仕事についておりました」
アーベルは写しを開いた。
「ダルトン侯爵家の分は、六年間、一枚残らず読みました」
「……あの、それは」
「数字の横に、小さな印が並んでいるでしょう」
彼は頁の一点を指した。丸の中に点。斜めの二本線。三角に横棒。
「あれが何を意味するのか、わたくしは三年かけて解きました」
リーゼの手が震えた。
「三年、ですか」
「ええ。最初の一年は、ただの落書きかと思っておりました。二年目に、印の種類が全部で十一しかないことに気づきました。三年目に、丸の中の点がついた支払いだけはどの月も必ず月末までに済んでいると気づきました」
アーベルは顔を上げた。
「そこから先は早かった。斜めの線は待てる相手。三角は待つと利息が増える相手。あなたはこの十一の印だけで、百件の支払いに順番をつけていた」
「……」
「それだけではありません」
彼は別の頁をめくった。
「八年前の負債。あなたはこれを、通常の支出に紛れ込ませて返していた。名目を分けて、月に三口から五口。ひと目では借金の返済とわからないように」
「……家の体面がございましたので」
「ええ。わかります」
アーベルは、静かに言った。
「わたくしは六年間、この帳簿を書いた人間に会いたいと思っておりました。ダルトン家の家令かと思っておりました。名前を問い合わせても、いつも返事は『当家の内々の者』とだけで」
彼は写しを閉じた。
「先月、あなたが婚約を解消されたと聞きました。そしてダルトン家の今月の写しが届いた」
「……いかがでしたか」
「印が、ひとつもありませんでした」
リーゼは、口元を押さえた。
「数字だけが並んでいました。あれでは家は回りません」
「……」
「あなたが婚約を解消された、その翌月から印が消えた。それで分かったのです」
アーベルはまっすぐにリーゼを見た。
「あの帳簿を書いていたのは、ダルトン家の者ではない。あなたおひとりだった」
アーベルは机を回り込み、リーゼの前に立った。
「フェルマー嬢。六年間、誰もあなたに読み方を訊かなかった。わたくしも訊けなかった。あなたが誰なのかを知らなかったからです」
彼は頭を下げた。
「今、訊かせてください。あの十一の印は、どういう意味ですか」
リーゼの目から、涙がこぼれた。
誰にも読めないはずだった。
この世でただ一人を除いて。
六年間、誰も訊かなかったことをこの人は三年かけて自分で解いていた。そして解けたあとも、こうして訊いてくれている。
「……はい」
声が震えた。
「はい。お教えいたします」
婚約破棄から、三ヶ月後。
ダルトン侯爵邸に、王家の財務監査が入った。
黒塗りの馬車から降りてきた監査官を見て、玄関に並んだ使用人たちがざわめいた。
紺の制服。胸に王家の紋章。手には革の鞄。
リーゼロッテ・フェルマーだった。
「本日は王国財務省より監査に参りました。監査官のリーゼロッテ・フェルマーでございます。ダルトン侯爵家の帳簿一式を拝見いたします」
執務室に通されたリーゼは、机の上に積まれた七十二冊を見た。三ヶ月前に自分が返したものだ。埃をかぶり、付箋が乱雑に貼られている。
その横に、新しい帳簿が三冊。ユリウスがこの三ヶ月でつけたものだった。
リーゼは新しい帳簿を開き、五分で閉じた。
「支払期日の記載がございません」
「……」
「取引先の欄に、名前しか書かれておりません。契約の条件も、利息も、遅延の際の取り決めも書かれておりません」
リーゼは顔を上げた。
「これは帳簿ではございません。金額の一覧でございます」
ユリウスが口を開いた。
「……お前の帳簿こそ、誰にも読めなかったではないか」
「はい」
リーゼは頷いた。
「印の意味は、どなたにも申し上げませんでした。読みにくうございましたでしょう」
「ならば同じことだ」
「いいえ」
リーゼは古い帳簿を一冊取って、開いた。
「日付がございます。金額がございます。相手の名前がございます。印がお読みになれなくとも、いつ、いくら、どなたへ出たかは並んでおります」
新しい帳簿を、その隣に置いた。
「こちらには日付がございません。この金がいつ出たのか、まだ出ていないのか、どなたにも分かりません」
「……」
「王国が確かめるのは、納めた額が正しいかどうかでございます」
リーゼは新しい帳簿を閉じた。
「いつの金か分からぬものを並べて、額が正しいと申し上げることはできません」
リーゼは、古い帳簿の山に目をやった。
あと二年だった。
八年計画で組んで、六年分を返し終えていた。名目を分け、体面を守り、毎月三口から五口ずつ。あと二年で、この家は借金から自由になるはずだった。
リーゼは、書類をめくる手を止めなかった。
ユリウスは、うつむいたまま動かなかった。
三ヶ月で、彼は痩せていた。目の下に隈があり、袖口が擦り切れている。
「リーゼ」
彼は絞り出すように言った。
「戻ってきてくれ」
部屋が静まり返った。
「頼む。私が悪かった。君がこの家に何をしてくれていたのか、何も知らなかった。今なら分かる。だから——」
「ユリウス様」
リーゼは、静かに彼の言葉を遮った。
「ひとつ、お伺いしてもよろしいですか」
「……なんだ」
「十二の年の冬に、あの物置にランプを持ってきてくださいましたね」
ユリウスが、まばたきをした。
「……なんの話だ」
「寒い夜でございました。蝋燭が短くなって、手元が見えなくなっておりました。あなたは何もおっしゃらずに、机の端にランプを置いて出ていかれました」
「……覚えていない」
「そうですか」
リーゼは書類を閉じた。
「わたくしは、六年間覚えておりました」
ユリウスの顔が歪んだ。
「あの一度で足りると思っておりました。次はきっと、どなたかが自分で気づいてくださると」
「そうか」
ユリウスの目に、光が戻った。
「なら、君はまだ私のことを——」
リーゼは、その先を聞かなかった。
この人は、いま何を聞いたのか分かっていない。
六年間待っていたという話を、まだ望みがある合図として受け取った。ランプのことを覚えてすらいないのに、覚えていた側の気持ちを自分に都合よく使おうとしている。
六年分の答えが、それだった。
リーゼは立ち上がった。
「あら」
そして、小さく首をかしげた。
「わたくしの代わりは、いくらでもいるのでは?」
ユリウスが、息を呑んだ。
リーゼは鞄から書類を取り出し、机の上に置いた。
「王国財務省より、ダルトン侯爵家に対する監査結果をお伝えいたします。貴家の負債総額は、資産評価額を上回っております。ついては爵位の返上、または王家管理下での再建をお選びいただくことになります」
彼女は一礼した。
「ご返答は、一ヶ月以内にお願いいたします」
執務室を出て玄関へ向かう途中、背後から足音が追ってきた。
ゲルトだった。老執事は廊下の真ん中で足を止め、深く頭を下げた。
「リーゼロッテ様」
「ゲルトさん」
「わたくしは六年間、お茶をお持ちするばかりでございました」
白髪の頭が、さらに下がった。
「一度も、お訊きしませんでした。何を書いておられるのですかと、一度も」
リーゼは足を止めた。
「申し訳ございませんでした」
「いいえ」
リーゼは首を振った。
「あのお茶で、六年もちました」
ゲルトが顔を上げた。何か言おうとして、言葉にならなかった。
リーゼは一礼して、玄関を出た。
門の外に、馬車が待っていた。
扉が開き、アーベルが降りてくる。
「終わりましたか」
「はい」
「どうでしたか」
リーゼは少し考えて、答えた。
「思ったより、何も感じませんでした」
アーベルは笑った。
「それは良いことです」
彼は馬車の扉を押さえ、手を差し出した。
「帰りましょう。来週は辺境伯領の監査です。あちらの帳簿はひどいものですよ。印どころか、頁がところどころ破ってあります」
「まあ」
リーゼは、その手を取った。
「では、わたくしが読み方をお教えいたしますわ」
「ええ」
アーベルは、まっすぐに彼女を見た。
「これからは隣で読ませていただけますか」
リーゼは笑った。
六年ぶりに、心から笑った。




