「君は一人でも生きていけるから」と婚約破棄されかけたけど、なんなら全然そんなことないしもう無理限界
穏やかな昼下がり、王城の一室。
「君は気高く強いから、きっと一人でも生きていけるだろう」
ヒルデガルトは、ロマンス小説で手垢がついたような言葉を、婚約者である王太子ユリウスから伝えられた。
「彼女は、僕がいないと生きていけないんだ」
ヒルデガルト・フォン・シュタールは、国で最も大きな穀倉地帯を持つシュタール公爵家の長女だ。この国の王太子であるユリウス・フォン・フォーゲル殿下の婚約者として、数多の厳しい教育を受けてきた。
ただでさえ、小さく、馬鹿にされやすい容姿のヒルデガルト。
甘く見られることがないよう。
下に見られることがないよう。
完璧な淑女として、国母となるものとして。
良き王の良き妃であるために、新世代の淑女の手本たるべしとして生きてきたのだ。
――その結果が、先の、「未来の良き王」からの言葉であった。
ヒルデガルトも、以前から、妹のカテリーネが王太子に世話になっているらしいことは知っていた。
妹カテリーネは国一番の美少女だ。その上、「かわいげ」を上手く使うのが得意で、誰にでも愛らしく品を作ってうまく取り入ることができる。……そして、それはユリウスにも同じく向けられ、彼はそれを、愛らしいと受け止めた。
だからこそ、可愛げのなくなった長女ヒルデガルトと挿げ替える形で、同じ家の娘である次女カテリーネを妃として迎えても問題ないのでは、と、考えたのかもしれない。
ヒルデガルトは、そう、全てを理解し、納得した。そして――
「……」
「……ヒルデガルト?」
「……や」
「や?」
「やだぁ……」
ぼろぼろと、ヒルデガルトの両の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ひ、ヒルデ?」
「や、やだ! やだやだ、こんなに、がんばったのに!」
「ヒルデ、」
「ひどいよ、な、なんでっ、すてないでえ」
先の「手垢のついた言葉」を受けて――すっかりヒルデガルトはわあわあ泣き出して、口から嘆きをこぼすだけの赤子になってしまった。
「やだあ、殿下のことが大好きだからこんなに頑張ったのにっ、いらなくなったからすてるんだっ、ひ、ひどいよ、ひどいよお」
どうしていいかわからなくなって宙に浮いたユリウスの両手の間を割って、ヒルデガルトはユリウスの胸元にぽすんと飛びこんだ。
「もうやだ……がんばったのに、もう、やだあ……」
ぐすぐすとユリウスの胸で泣くヒルデガルトの背を、ユリウスはどうしていいかわからないまま、そっと撫でていた。
完璧なる鉄の淑女になったと思っていた幼馴染の、心の奥底はあの頃のままだったことを――うすら暗く喜びながら。
ひとしきり泣いたヒルデガルトは、さっぱりと顔を上げて言った。
「ふう、すっきりしました。お召し物を汚してしまって申し訳ございません、殿下」
「い、いや、服の汚れなんて……」
「では、もう未練はありませんので、陛下から毒杯を賜って参ります」
しれ、と、ヒルデガルトは何でもないことのように言う。――自分の死を。
「待って、何? 毒杯? 何故」
「何故って……王太子妃教育で、外に出せない王家の醜聞をも学んだのです。婚約破棄であるならば、私は毒杯を賜るしかありません」
清廉潔白な国などほとんどない。
王になるユリウスにとっては「父から聞いた、外に漏れたら困る秘密」くらいでも、現王家の血を引いていないヒルデガルトには「無償で逃してはもらえない致命的な醜聞」であると言える。だからこそ、この国には厳格な掟があった。
「それでは殿下、ありがとうございました。殿下のお心が私になくても、私は殿下を心から愛しております、永遠に。では、妹をどうかよろしくお願いします」
さっさと部屋を出ようとするヒルデガルトの手を、ユリウスは思わず握って引き止める。
「ま、待って。ヒルデ、本当に待ってくれ」
「……如何なさいましたか」
ユリウスは、呼び止めはしたものの、ただ、それは、どこかへ行ってほしくない一心だった。血の気が引いた頭で、何を話せばいいのかわからないままに。
自分のひどく愚かな過ちのせいで、彼女はここから永遠に消えてしまう、と。それだけが事実だった。何かを話して、この場に繋ぎ止められるなら、何でも良かった。
「君はあの涙を、ずっと心に秘めていたのか? 何故、何のために」
「良き王になられる殿下の妃であるためです」
にこ、と、ヒルデガルトは慣れた作り笑顔で微笑む。泣き腫らした目だけは、ユリウスにとっては、数年ぶりだった。
「……誰かに、いや、僕に言ってくれたら、」
「……いえ、ご負担を強いるわけには参りません。殿下も、王になるための厳しい教育を受けておいでです。私のことで手を煩わせるなど」
美しく笑顔を作れているつもりのヒルデガルトの顔は、それでもまだ悲哀が滲み、シルクの手袋につつまれたちいさな手は、僅かに震えている。
甘えてはいけない。王太子殿下に迷惑をかけてはいけない。そう信じ込んで、心を何年も縛り付けてきた。ヒルデガルトの濡れた頬を、新しく暖かい涙が、溢れる心が伝ってゆく。
ユリウスは、今こうして涙を流す彼女を見るまで、ヒルデガルトを「強い女性になった」と思い込んでいた。
――自分が勝手に思い込み、勝手にめげて、勝手に逃げていたことに、ユリウスはようやく気がついた。
「……殿下は、私のことは、もう、お嫌いですか?」
「いや、僕の目が濁り、眩んでいただけだ」
――彼女は、王太子の妃になるために、強い女であろうとしていただけで。
本当はあの頃の、ふるふると震える仔ウサギのような彼女のままだったのだ。
「君が僕のために強くなろうとしているのを、理解できていなかったんだ。……すまない」
ユリウスはヒルデガルトの震える手をそっと包んだ。あの頃の小さいままとすら思えるほど小さい手で、どれほど耐えてきたのか。
「僕は……ヒルデを、初恋の人を、見殺しにするところだった。一番守らなければならない君を、すっかり強くなったと勘違いして……しかも、婚約破棄の毒杯のこともすっかり忘れて……何と冷たい男だろうね、僕は」
頭ひとつよりも低いところにあるヒルデガルトの、少し赤く腫れぼったい目を見て、ユリウスはもう二度と間違えないように、誓うように伝えた。
「今更謝って許してもらえるとも思わない。どのようにも償う」
「……では、どうぞ見捨てないでくださいね。私は例えあなたに裏切られても、あなたを嫌うことなどできない、愚かな女です。そして、何より、あなたに生殺与奪の権を……命を握られている女なのです」
弱々しく微笑むヒルデガルトに、そっとユリウスは腕を回そうとする。ぽす、とユリウスの胸元にヒルデガルトが頭を預け、おそるおそるユリウスはヒルデガルトを抱きしめた。
「……妹はあなたがいなくても、なんだかんだ誰か男を適当に吊り上げて、おだてて、うまいこと生きてはいけますが……私はあなたに捨てられれば、そうですね……謂わば『物理的に即死』です。どうか、お忘れにならないでくださいね」
「本当にすまない……」
ひどく申し訳なさそうにしているユリウスを見て、くすくすと、ちいさく笑いだしたヒルデガルトが小さく揺れる。温かく優しい揺れは、ユリウスの腕にも、そっと伝わってきた。
ユリウスにとっても、ヒルデガルトは初恋の人だった。
幼い頃、その小柄さで「どんなに反撃されてもどうせ痛くないだろう」と侮られたヒルデガルトは、他の貴族の子供達にいじめられることが何度かあった。
ユリウスはいじめられて泣きぬれるヒルデガルトを王城の庭の一角で偶然見つけた。
「あなたは、いじわるしない?」
「しないよ」
「いたいことしない?」
「しないよ」
飛びついて泣きつく幼いヒルデガルトを、幼き日のユリウスはそっと宥めた。
――それが二人の、最初の出会いで、最初の思い出だった。
ユリウスはそれを思い出しながら、そっとヒルデガルトの背を撫でる。
「……よければどうか、今後も、僕の前では甘えてほしい。二人きりの時だけでいい」
「先ほどのような、見苦しい姿でも?」
申し訳なさそうに、恥ずかしそうに言うヒルデガルトの手は、再び少し震えていた。ユリウスは震える指に、そっと自分の指を絡める。
「おかしな話だが……実は、僕は甘えられて頼られるのが大好きなんだ。ヒルデには、見苦しくてもいい……いや、なんなら、誰にも見せない姿を見せてほしい、縋ってほしいとすら思っているよ」
「……本当に?」
「本当に」
微笑むユリウスを見て、ヒルデガルトは。
「……ッ、好き……!」
ひし、とユリウスを抱きしめて。
「すてないで、どこにもいかないでっ……おいてかないでえ……がんばるから、いっしょにいて、い、いっぱい、がんばるから……! 好き……ずっと好き……!」
再び、わあわあと泣き出したのであった。
――わあわあ泣き喚く愛しの婚約者を見て、王太子殿下は胸が苦しいほどに胸キュンしていたということは、言うまでもない。
ちなみに。
妹カテリーネはどうなったかと言うと。
「殿下、」
「カテリーネ……もう間違えることはないよ。今まで気を持たせてしまって申し訳なかった。僕の愛する人はヒルデだけなんだ」
品を作って近寄るカテリーネへ、ユリウスはぴしゃりと告げ、その場にとどめた。
「……まあ……」
こてん、と首を傾げるカテリーネ。
「思ったより遅うございましたね。もう少しお早くお気づきになっていただけないと、危うく廃嫡か、本当に私と挿げ替えでございましたよ」
「廃嫡か……いや、それよりもヒルデを失う方がずっと怖いってことがわかったよ」
「私も恐ろしゅうございました。私などに目が眩んでねえさまを捨てるなんて、とんでもない」
「……君はもしかして、父かシュタール公爵に何か頼まれていたね」
「まあ、そこまでお気づきに? 殿下ったら、本当に目がしっかりと覚めておられますわ」
カテリーネは、姉妹揃って細く頼りなさげな肩を、くつくつと揺らして笑った。昨日まであんなに儚げだと思っていたカテリーネは、今や父王よりも逞しくしたたかであるようにすら見えた。
「ふふふ。ヒルデねえさまは、ほんとはあんなにお可愛らしいのに……鎧を着てしまったら、ご自分で脱げないんですの。今後も優しく脱がして差し上げてくださいましね」
「勿論」
「私は私の婚約者を探しますわ。ふふ! ねえさまからお聞きになりました? 私、こう見えて、なかなか逞しいんですのよ」
「ああ、うん、もう、見ればわかるよ」
笑いながら立ち去るカテリーネを、ユリウスは、僅かに冷や汗を流しながら見送ったのだった。
――ユリウスが国王に即位し、少しばかり経った頃。
夜な夜な国王陛下と王妃陛下の寝室から、信じられないくらい、甘く優しい国王陛下の声がすると。
「よしよし。僕の妃は本当に可愛いな」
そして、それに対して、どう考えても王妃陛下の声で。
「すき……ちゅっちゅする……ぎゅーもする……」
とすっかり幼児退行しているお声が聞こえてきたと。
メイド達は確かにその耳で聞いたが、誰にも言わなかった。
あの気高く美しく、完璧な淑女であるはずの王妃陛下が。
国王陛下の前でだけは、ふにゃふにゃの甘えん坊の仔猫のようになっているのが、あまりにも、とてもじゃないけど信じられなかったので。
……とりあえず、国王夫妻の仲がよろしいことは、まあ、良いことではあるので、見なかったことにしたのだった。
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余談
ヒルデ:カテリーネの優秀さは重々知っているので、わかってて挿げ替えにかかってるならそれのほうが良いと思った。カテリーネのことは大好き。
カテリーネ:王家や王太子が本気で姉を捨てるなら、全ての人脈と手練手管と愛嬌をフル活用して王家を取り潰す気満々だった。ヒルデガルトのことが大好き。




