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第九話:新たな絆、灰谷への帰路

 アイゼンガルド管理局の広場に、冷たい北風が吹き抜ける。しかし、そこに漂う空気は数分前までの刺々しい絶望ではなく、何かが新しく始まる時の、静かな熱を帯びていた。


「……本当によろしかったのですか、レオン殿。私は、公国での名誉も地位も、文字通り全てを失った男だぞ」


 整地された石畳の上、ガルド・ヴァルツが自嘲気味に呟いた。その手には、先ほどまで彼の胸を飾っていた霜原公国守備隊の徽章きしょうが握られている。彼にとっては人生の全てだったはずの、誇り高き鉄の塊。


「名誉で腹は膨れないし、地位はあんたを裏切った。そんな重荷をいつまでも抱えてる必要はないさ」


 俺はガルドの前に立ち、彼の手から徽章をひょいと取り上げた。


「これ、いらないなら俺がもらっておくよ。ボルク親方、これ、溶かして新しい釘の材料にでもできるか?」


「カカッ! 公国の精鋭部隊の徽章を釘にだと? 若造、お前さんは本当に性格が悪いわい。……だが、質は良い鉄じゃ。一度折れた誇りを打ち直した方が、粘りのある良い釘になる。最高級の『灰谷の釘』に仕上げてやるわい」


 後ろで槌を肩に担いだボルクが、豪快に笑う。  ガルドは呆気にとられたように俺たちを見ていたが、やがて、その強張っていた頬を僅かに緩めた。


「……そうか。私の人生は、釘からやり直しというわけか。……悪くない。いや、救われる思いだ」


 ガルドは俺の前で再び姿勢を正し、拳を胸に当てた。


「ガルド・ヴァルツ。これより灰谷はいだにの盾として、主殿の命に従う。……この命、使い潰していただきたい」


「使い潰さないって。長持ちしてもらうよ、あんたは灰谷の『安心』の象徴になるんだからな」



 管理局の騒動が落ち着いた後、俺たちは摂政リディア立ち会いのもと、公国最大手の『北風商会』との商談に臨んだ。


 場所は城内の一室。重厚な円卓を囲むのは、リディア、北風商会の会頭、そして俺とシアだ。  シアは緊張で指先を震わせながらも、俺が買い与えた新しい羊皮紙を広げ、しっかりとペンを構えている。


「さて、レオン。デインの件では公国が迷惑をかけたわね。お詫びというわけではないけれど、この取引は私が公正を保証するわ」


 リディアの言葉に、会頭が額の汗を拭いながら頷く。


「……もちろんでございます、摂政閣下。……レオン様、あの『灰谷の白塩』、あれは間違いなく今の大陸で流通している最高級品を凌駕しております。不純物がこれほどまでに削ぎ落とされた塩、一体どうやって……」


「製法は企業秘密だ。それより、話を進めよう。残りの十九箱、一括で買い取ってもらいたい」


 会頭はゴクリと唾を呑み込み、シアが提示した相場表に目を落とした。


「シア。現在のアイゼンガルドでの、特級塩の末端価格は?」


「え、ええと……! 銀貨五十枚……だもん。でも、冬前だからこれからもっと上がるはず……だもん!」


 シアが一生懸命、この数日間で調べた数字を読み上げる。  会頭は驚いたようにシアを見た。八歳の子供が、これほど正確に市場の動向を把握しているとは思わなかったのだろう。


「ほう……。お嬢ちゃん、なかなかの慧眼だ。……レオン様、敬意を表して、一箱あたり銀貨百枚に相当する金貨一枚、計金貨十九枚でいかがでしょう」


 シアのペンが止まった。金貨十九枚。普通の平民が一生遊んで暮らせるほどの大金だ。  だが、俺は冷ややかに微笑んだ。


「……会頭、あんた、俺を試してるのか?」


「な、何のことでしょう……?」


「この塩はただの調味料じゃない。保存食に使えば、その保存期間は倍に延び、魔力的な変質も抑えられる。……つまり、これがあれば遠征中の兵士は『魔力を帯びた、腐らない最高級の肉』を食べ続けられるということだ。軍事的な価値を考えれば、金貨一枚でも安い。……それとも、リディアに『独占供給権』を王国の商会に流す相談をしてもいいんだが?」


「まっ、待ってください! わかりました、計金貨二十五枚で手を打ちましょう! その代わり、今後一年の独占販売権を我が商会に……!」


「いいだろう。契約成立だ」


 シアの書く手が止まらない。  目の前の机に、次々と金貨が詰まった重い袋が積み上げられていく。チャリン、という金属同士が奏でる澄んだ音が、室内を満たす。


「……すご、い……。これだけで、村のみんなが一年中、お腹いっぱいパフェが食べられる……だもん」


 シアが呆然と呟く。  金貨二十五枚。それが、俺たちが灰から生み出した富の正体だった。



 商売が終われば、次は約束の「ご褒美」と「爆買い」の時間だ。  まずは街で一番のカフェにて。


「ふぁあ……冷たくて、甘くて、お口の中で雪が溶けていくみたいなんだもん……!」


 シアが山盛りの『氷晶パフェ』に目を輝かせている。  リリスはといえば、レオンの隣の席を死守しつつ、自分のパフェを優雅に口に運んでいた。


「ふふ、まあまあの出来ですわね。……でもレオン様。わたくし、先ほどお約束した通り『あーん』を待っておりますのよ? さあ、早く。わたくしの愛の導火線が焼き切れる前に」


「……はいはい。ほら、あーん」


「はぅ……っ! 生きててよかったですわ……! これでわたくしの魔力出力が、あと三倍は跳ね上がりますわね!」


 ……リリスの幸福の基準が安上がりで助かる。


 食事が終わると、俺たちは市場へ繰り出した。


「おい、若造! その鉄、買うな! 不純物だらけのゴミじゃぞ!」


 市場の鍛冶ギルドで、ボルクの怒号が飛ぶ。


「ええい、お主。商売人を名乗るなら、炭の質にもっと拘れ! こんなスカスカの炭で何を打つつもりじゃ! 灰谷の炉をバカにしとるんか!」


「す、すみません、親方……!」


 かつての名匠の眼力に、店主たちは震え上がった。ボルクは次々と最高級の鉄鉱石、頑丈な工具、特殊な機材を選別していく。  レオンは苦笑しながら、シアに支払いを指示する。


「シア、予算管理は任せたぞ」


「はい! 鉄鉱石が銀貨五十枚……ええと、あと銅貨十枚分ならおやつ買っても大丈夫だもん!」


 シアは指を折りながら、必死に計算を合わせる。昨日まで酒場で震えていた少女は、今や「灰谷の金庫番」としての顔を持ち始めていた。  一方、ガルドは黙々と、村人たちのための農具や保存食を荷車に積み込んでいた。


「ガルド。あんたの装備は買わなくていいのか?」


「主殿。私の装備は、ボルク殿が灰谷で打ってくれると言った。……今は、村の連中が冬を越すためのものを優先すべきだ。それが騎士……いや、主殿の盾としての務めである」


 どこまでも誠実な男だ。俺は満足して頷き、最後の一買い物を済ませた。  大量の「書物」だ。歴史、地理、魔導理論。世界の『理』を知るための武器だ。



 アイゼンガルドの城門。  夕闇が迫る中、俺たちの前には、物資でパンパンに膨れ上がった三台の大きな馬車が並んでいた。  見送りに来たのは、摂政リディアだ。


「……本当に行ってしまうのね、レオン」


「ああ。灰谷には待っている連中がいるからな。……リディア、色々と礼を言うよ」


「礼を言うのはこちらの方よ。……それから、執務室のあの『紋』。……あんなにぐっすり眠れたのは、数年ぶりだったわ」


 リディアは僅かに、本当に僅かに微笑んだ。


「……また空気が淀んだら、呼びつけるわよ。その時は、もっと高い塩を持ってきなさい」


「ああ。予約料は弾んでもらうぞ」


 俺は軽く手を振り、馬車に飛び乗った。


「シア、出発だ!」


「はい! 灰谷へ帰るんだもん!」


 シアの元気な声が、アイゼンガルドの城壁に響く。  御者台にはガルドが座り、客室ではリリスが買ってきた菓子を頬張り、ボルクは黒金煉瓦を愛おしそうに撫で回している。


「……ふぅ。一週間ぶりの『家』か」


 馬車が動き出す。アイゼンガルドの白い街並みが遠ざかっていく。


 今回の遠征で得たものは、莫大な金貨だけではない。  ガルドと、ボルク。そしてシアの自信。  灰谷は、もはやただの廃村ではない。


「……アゼル。待たせたな。……帰ったら、次の『改造』を始めるぞ」


 俺は揺れる馬車の中で、新しい古紋の設計図を脳内に描き始めた。  村を守る防壁。魔力を供給する大型の古紋炉。  そして、王国や神殿が手出しできない「絶対的な掟」。


 霜原公国の門を出た時、空には満天の星が輝いていた。  その光は、灰の谷を照らす希望のように、強く、激しく、俺たちの行く道を導いていた。

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