第五話:不遜なる鑑定官、強欲の牙
霜原公国の首都『アイゼンガルド』。
北方の峻厳な気候が生んだその都市は、王国のような華美な装飾こそ少ないが、白い石材で築かれた堅牢な美しさと、活気ある熱気に満ちていた。
運河を流れる巨大な氷。その上を、魔力の光を吐き出す運搬船が蒸気を上げて進む。毛皮を纏った商人たちが吐き出す白い息が、街全体の温度を上げているようにさえ感じた。
「……すごいです! レオン様、見てください! あんなに大きな船に人が乗ってるんだもん!」
八歳の少女、シアが羊皮紙と炭を握りしめ、目を輝かせながら叫ぶ。
リリスに整えられた髪を揺らし、慣れない足取りながらも、俺の後ろを必死についてくる姿は、もはや灰谷の泥水を啜っていた孤児ではない。
「あれは魔導船といって、公国の主要な物流網だ。シア、驚くのはいいが、筆を止めるなよ。市場の食料の値段、後でまとめて報告してもらうからな」
「はい! わかってます、レオン様! ちゃんと記録するんだもん!」
シアは健気に返事をして、再び羊皮紙に目を落とした。彼女は俺の「取引記録係」として、この街の熱気を数字という形で必死に吸収しようとしている。
一方、俺の右隣を歩く「最恐の秘書」は、不機嫌を隠そうともしていなかった。
「……騒々しい場所ですわね。レオン様、やはりわたくしがこの街を影の鎖で覆い、静寂を与えて差し上げましょうか? そうすれば、レオン様の靴を汚す下等な民草も一掃できますのに」
「却下だ、リリス。商売には騒がしさと活気が不可欠なんだよ」
「ふふ、レオン様がそう仰るなら、このリリス、愛する主の『お遊び』にどこまでもお付き合いいたしますわ♡」
リリスは甘い声を出すが、その背後から漏れる殺気は、周囲の人間を無意識に数メートル遠ざけていた。俺たちは荷車を引いて、中央大通りの先にある管理局へと向かった。
◇
管理局の重厚な扉の前で、俺たちの行く手を阻む男が現れた。 丁寧に整えられた口髭。仕立ての良い官服。だが、その瞳には隠しきれない卑しさが張り付いている。
「おやおや、灰谷から来たという奇特な商隊はあなた方ですか」
男は丁寧な口調で、しかし明確に俺たちを見下した態度で話しかけてきた。管理局の鑑定官、デインと申します、と名乗った男は、手元の書類を仰々しく捲り、鼻を鳴らした。
「灰谷といえば、死に体の土地のはず。密輸、あるいは盗品の疑いがありますねえ。規則ですから、中身を確認させていただきますよ」
デインが顎で合図すると、数人の部下が俺たちの荷車に手をかけた。その中の一人、傷だらけの古い鎧に身を包んだ大柄な騎士が、一歩前に出る。
「……デイン殿。手続きが先ではないか。荷の開封は立ち会いのもと、記録を……」
「ガルド、君は黙っていなさい。これは公国の安全を守るための『緊急捜査』ですよ」
デインに睨まれ、ガルドと呼ばれた騎士は口を閉ざした。誠実そうな瞳にデインへの不信感を滲ませているが、立場が弱いらしい。
デインがゆっくりと、荷車の木箱の一つを開けた。
——その瞬間、周囲の空気が凍りついた。
木箱の中から溢れ出したのは、日光を反射して宝石のように煌めく、純白の結晶。不純物の一切ない、雪よりも白い『灰谷の白塩』だ。
「……な、なんだこれは……っ!?」
デインの目が、剥き出しの欲望で見開かれた。彼は震える手で塩を一つまみし、口に運ぶ。
「……っ!!」
デインの身体がビクリと跳ねた。 その顔は一瞬で紅潮し、目からは涙が溢れ、膝がガクガクと震え始める。
「あ、甘い……ッ! 雑味が、一切ないだと……!? 舌の上で精霊がダンスを踊っているようだ……! 翠海の特級品ですら、これに比べればただの『砂』に過ぎん! 宇宙の理を感じるほどの透明感だぁぁぁ!」
デインの頭の中で、金貨の弾ける音が鳴り響いているのが手に取るようにわかった。これを奪えば、一生を遊んで暮らせる。彼の表情が、獲物を見つけた蛇のように豹変した。
「……間違いない、これは盗品だ! 灰谷のような掃き溜めで、これほどの塩が作れるはずがない! 全二十箱、ただちに嫌疑押収する! 地下倉庫へ運べ!!」
「な……っ!? せっかくみんなで作ったお塩だもん! 泥棒はそっちだもん!!」
シアが悲鳴のような声を上げた。自分たちが一生懸命ろ過し、熱に耐えて作り上げた宝物が、目の前で理不尽に奪われようとしている。
そして。 俺の隣で、決定的な破滅の予兆が膨れ上がった。
「…………虫ケラが」
冷たく、甘く、死そのものを凝縮したようなリリスの声。 彼女の周囲の地面が、ミシミシと音を立てて裂け始める。漆黒の鎖が、次元の隙間からその凶悪な先端を覗かせた。
「レオン様が……主様が丹精込めて作った塩を、その汚い指で汚しただけでなく……中身を奪う? あなたの『存在の定義』を今ここで、永遠の苦痛に書き換えてあげますわ」
「ひっ、ひぃぃぃっ!?」
デインが腰を抜かし、地面を這いずりながら後退する。 リリスの本気の殺気は、常人なら呼吸することすら忘れるほどの重圧だ。
「……リリス、待て」
俺はリリスの手を優しく、だがしっかりと掴んだ。
「……レオン様、なぜ? あんなゴミ、今すぐに塵にすべきですわ!」
「わかっている。だが、ここで彼らを殺せば商売が台無しになる。……いいから、俺を信じろ」
「はぅっ!? ……レ、レオン様に手を握られましたわ……。しかもこんなに力強く……。ああ、これでもう一万年は生きていけますわ……♡」
一瞬で「死の公爵」から「恋する乙女」に切り替わったリリスは、ポッと頬を染めて鎖を収めた。デインのことなど、もはや彼女の脳内からは消し飛んでいるらしい。
俺は地面に這いつくばるデインを冷ややかに見下ろし、告げた。
「いいでしょう、鑑定官殿。正式な手続きだというなら、それに従います。……ただし、忠告しておく。その木箱の封印には、俺独自の『古紋』を施してある」
「こ、こもん……? な、なんだそれは……!」
「魔法の鍵だ。正式な手順……つまり、俺の認証なしに不当に箱を開けようとすれば、内部の熱量が暴走し、塩は一瞬で跡形もなく焼き切れる。……中身を失いたくなければ、せいぜい丁寧に保管することだな」
デインは顔を真っ青にしながらも、虚勢を張って部下たちに指示を飛ばした。ガルド騎士は無言で俺の顔を見据え、深く、済まなそうに頭を下げてから荷車を運び去っていった。
◇
宿に入った後、シアは今にも泣き出しそうになっていた。
「ごめんなさい、レオン様……。私、何もできなかったんだもん……。お塩、取られちゃったんだもん……」
俺はシアの頭をぽんぽんと撫でた。
「気にするな。すべては想定内だ。ああいう小悪党は、自分の欲で勝手に自滅してくれる。……それよりシア、リリス。明日、完璧な報告ができたら、この街で一番人気の氷晶パフェを奢ろう。魔法で凍らせた果実が山盛り載っているやつだ」
「ひ、ひょうしょうぱふぇ……!」
シアの目が一瞬で輝き、悲しみはどこかへ霧散した。
「ふん、子供っぽいですわね……。……レオン様、わたくしの分は、あーん、してくださるのが条件ですわよ?」
「善処するよ」
最強の悪魔と最年少の記録係が、食い気で一つにまとまった。 都の中心にそびえる白銀の城を眺めながら、俺は手元の炭を走らせる。
「……さて、誰が最初に罠に掛かるかな」
デイン・ヴァルガ。彼は今頃、倉庫で塩の箱を前に、どうやって俺の「封印」を破るか頭を悩ませているはずだ。 だが、彼が知らないことが一つある。
あの封印は、開けようとした者の指先から微細な『魔力の残滓』を読み取るように設計されている。
商談と謀略の幕が、静かに上がろうとしていた。




