第四話:白塩を売りに、霜原へ
夜の帳が下りた灰谷に、静謐な空気が流れている。
村の中央、俺が『古紋』で組み上げた「魔導警戒網」が、微かな振動を伝えてきた。地面を叩く、一定の周期――馬蹄の音だ。それも一頭。速度からして、こちらを窺っていた偵察者が王都へ向けて引き返したのだろう。
「……行ったか」
俺、レオン・アルグレインは、焚き火の爆ぜる音を聞きながら呟いた。
隣で控えていたアゼルが、漆黒の兜の奥で瞳を鋭く光らせる。
「主殿、やはり追わせましょう! 我が影に命じれば、夜明けまでにあの鼠の首を……いえ、なんなら王都の城門にその首を飾り付けてご覧に入れますが!」
アゼルがやる気満々で巨大な大剣の柄に手をかける。忠誠心が強すぎて、時々発想が物騒なのがこの騎士の困ったところだ。
「いいよ、アゼル。今は泳がせておく。彼らが王都へ戻って報告すれば、俺が『生きている』こと、そして『灰谷がおかしなことになっている』ことが伝わる。奴らが次にどう動くか、それを見極めるための布石だ」
「……っ! あえて敵を誘い出し、その喉元を喰らうための布石……! 流石は我が主、その深淵なる智謀に、このアゼル、改めて感服いたしました!」
アゼルがカシャリと甲冑を鳴らして膝をつく。いや、そこまで深い意味はないんだけどな。
だが、ただ待っているつもりはない。
王国――アルグレイン公爵家や、その裏にいる神殿が、灰谷の変貌を黙って見過ごすはずがない。「無能」と蔑んだ俺が、彼らも手に入れられなかった『至高の塩』を生み出していると知れば、間違いなく奪いに来る。
奪われる前に、自らの足場を固め、交渉のテーブルを自ら用意しなければならない。
「アゼル、リリス。明朝、遠征に出るぞ」
「遠征……! ようやく、どこかの国を滅ぼしに参るのですな!? このアゼル、今から素振りを一万回ほど済ませておきます!」
「違うからな? 物売りだよ。外貨を稼ぐんだ。……俺たちの目的地は、北の隣国、《霜原公国》だ」
◇
翌朝。
村の広場に、主要な面々を集めた。
昨日までの死んだような目はどこへやら、村人たちは俺が井戸から噴き出させた真水で顔を洗い、少しだけ血色のいい顔をしている。
「これから俺とリリス、そして数名で霜原公国へ向かう。目的は、昨日作った『灰谷の白塩』の売却、そして村に必要な物資の調達だ」
俺は羊皮紙に書き連ねたリストを広げる。前世でオカルト雑誌の台割を作っていた時のように、必要な項目を優先順位ごとに整理してある。
「買うものは多い。鉄の工具、上質な布、釘、薬、農作物を作るための種。……それから、できれば『交易許可証』のツテも探したい」
村人たちがざわつく。彼らにとって、霜原公国は「極寒の商業国」であり、そう簡単に近づける場所ではないからだ。
「王国側の街道は避ける。徴税官や監視の目がうるさいからな。……俺たちは、西の『深森』を抜けて直接公国へ入る。リリスがいれば魔物は問題ない」
「ふふ、当然ですわ。レオン様を傷つけようとする不浄な存在は、影も残さず消し去って差し上げます。……ところでレオン様、道中の夜は寒いですわよね? わたくしが暖房代わりとして、レオン様の外套の中に忍び込み……」
「却下だ。リリス、お前は最強の魔除けとして期待してるんだからな」
「……っ! 『期待している』……! ああ、レオン様の愛が重いですわ……! 今の言葉でわたくし、古代龍すら素手で三枚おろしにできる気がします!」
リリスが頬を赤らめて身悶えしている。……愛ではなく、ただの役割分担のつもりなのだが。
「留守はアゼルに任せる。お前は村の防衛と同時に、建設を進めてくれ。黒金煉瓦で倉庫と家をさらに増やし、石窯をもう三つ作るんだ。村の連中の指揮は、最年長のオルド爺さんに委任する」
「……領主様。そんな大役、わしのような老いぼれに……」
オルドが震える声で言う。
「お前しかいない。俺は『理』を書き換えて仕組みを作ったが、それを動かすのはお前たち村の人間だ。アゼル、爺さんを助けてやれよ」
「はっ! 承知いたしました! オルド殿、案ずるな。もし不埒な者が現れたら、このアゼルが村ごと空中へ浮かせて退避させてご覧に入れます!」
「……家がバラバラになるから、普通に地上で守ってくれ」
脳筋騎士の物騒な提案を訂正し、俺は出発の準備を整えた。
◇
旅支度を進めていると、背後から服の裾を引かれた。
振り返ると、孤児の少女シアが立っていた。浄化された水で洗った顔は綺麗になり、目だけが、やけに真っ直ぐだった。
「……あの、レオン様」
「どうした、シア」
「私も……私を、一緒に連れて行って……欲しいの」
その言葉に、一番に反応したのはリリスだった。
「あら。霜原はレオン様を付け狙う不埒な輩がいるかもしれない場所。足手まといを連れていく余裕なんてありませんわ。……何より、レオン様のお側は、わたくし一人で十分です」
リリスの微笑みが、わずかに温度を下げる。シアはびくりと肩を揺らしたが、それでも引かなかった。
「……助けられるだけは、もう嫌なんだもん。レオン様が来て、みんな笑うようになったの。でも、それは全部レオン様がくれたものだもん。……私、何もしてないもん。このままじゃ、私たちはまた死ぬのを待つだけの抜け殻に戻っちゃう」
彼女の目は、本気だった。
「外を知って、どうするつもりだ」
「村に持ち帰るの。何がいくらで売れるのか、外の人が何を欲しがっているのか。……それを覚えないと、私たちはレオン様の『家畜』になっちゃう。そんなの、絶対に嫌。私は、レオン様を助けられる人間になりたいんだもん」
彼女は灰谷の住人を代表して、「自立」を求めていた。
「リリス。シアも連れていくぞ」
「……ええっ!? レオン様、本気ですの!?」
「ああ。シア、お前の役割は『取引記録係』だ。霜原で何を買い、何をいくらで売ったか、すべて記憶しろ。そして、街の相場を見て回るんだ。わかったな?」
「はい! レオン様!」
シアの瞳に、ぱっと光が灯る。一方で、リリスは盛大に溜息をつき、不満げに頬を膨らませた。
「……仕方がありませんわね。……でもシア? レオン様の睡眠を妨げるようなことがあれば、あなたの影を呪いでおやつにして食べますわよ?」
「えっ……」
「冗談ですわ♡ ……七割くらいは」
……リリス、顔が笑ってないぞ。
◇
出発は正午。
商品は、昨日リリスの火加減で精製した『灰谷の白塩』。
アゼルが用意した頑丈な荷車に、白金のように輝く塩が二十箱、積み込まれている。各箱には、俺が炭で描いた『不変の印』を施した。湿気や振動から中身を守る、前世の秘術を応用したパッケージングだ。
「さあ、行くぞ。シア、荷札の数は間違いないな?」
「うん! 全部で二十箱、確認済みだよ!」
シアは新しい役割に張り切り、羊皮紙を抱えてテキパキと動いている。
西の深森へ向かって、荷車が動き出す。
◇
王国軍ですら迂回する「深森」だが、リリスにとっては単なる散歩道でしかなかった。
「……レオン様、三時の方角に下等な多頭蛇が。少々騒がしいので、お掃除して参りますわ」
リリスが優雅に指を鳴らす。
次の瞬間、森の奥から聞こえていた咆哮が、ぷつりと途絶えた。
虚空から射出された漆黒の鎖が、巨大な化け物を一瞬で「因果」ごと解体したのだ。
「……ひっ。……死んじゃった。あんなに大きかったのに、一瞬で消えた……」
シアが顔を青くしながら、手元の羊皮紙に何かを書き込み始めた。
「シア、何を記録してるんだ?」
「はい! 『リリス様の機嫌を損ねると、消滅する』とメモしたの!」
「……正解だけど、それ商売に関係ないよね?」
リリスが「ふふ、よく分かっているじゃない。シア、後でおやつをあげますわね♡」と、なぜか得意げに胸を張る。この二人、案外いいコンビかもしれない。
◇
三日間の強行軍の末。
深い霧の森を抜けると、空気の質が劇的に変わった。
鼻を突くような鋭い冷気と、どこか鉄に近い硬質な匂い。
目の前に広がったのは、白い石材で築かれた、堅牢極まる城壁だった。
「……すごい!! こんなに大きくて綺麗なところ、初めて見た!」
シアが目を輝かせてはしゃいでいる。その姿は、ようやく年相応の子供に見えた。
霜原公国、首都。
北方の物流の要衝であり、市場からは活気ある怒号がここまで聞こえてくる。
門前には、分厚いプレートメイルを着込んだ門兵たちが立ち、入る者一人一人に鋭い視線を送っていた。
「止まれ。旅の商人か? ……ん? 嬢ちゃん、そんなキラキラした目で街を見てどうした。観光か?」
門兵の軽口に、シアが胸を張って答えた。
「はい! 世界一美味しいお塩を売りに来ました!」
「ははは、大きく出たな。どれ、その『世界一』とやらを拝ませて……――っ!?」
俺が荷車の蓋を少しだけ開けると、そこから純白の輝きが溢れ出した。
曇天の空の下、白塩の結晶が自ら発光しているかのように反射し、門兵の目を焼いた。
「……な、なんだこの輝きは!? まぶしすぎる! これ、本当に塩か!? 宝石の間違いじゃないのか!?」
「ああ。灰谷の白塩だ。不純物を一切除いた、理の結晶だよ。……公国の商人たちに会わせてもらおうか。商談の時間だ」
兵士の顔から疑念が消え、貪欲な好奇心が湧き上がる。
背後で、シアが誇らしげに、しかし少し緊張した面持ちで羊皮紙を握り締めていた。
「行くぞ、二人とも」
俺は不敵に笑い、公国の巨大な門をくぐった。
――辺境領主生活、七日目。
世界を書き換えるための経済の歯車が、今、アイゼンガルドの冷気を受けて激しく回転し始めた。




