十七話:虚空の断罪【第一部完結】
「ひ、ひるむな! 相手はたったの三十人だぞ! 押し潰せ!」
重力に押し潰されそうになりながらも、王国軍の小隊長が必死に声を張り上げた。
数では依然として自分たちが勝っている。這いつくばりながらも、鋼の鎧を着た兵士たちが、槍を突き出し、盾を並べて「壁」を作ろうとする。
だが、その「壁」の前に、一人の男が立ちはだかった。
灰谷の自警団教官、ガルド・ヴァルツだ。
「……いいか、若者たち。盾を構えるのは、自分を守るためだけではない」
ガルドは、ボルクが叩き出した巨大な『黒金の盾』をガツンと地面に据えた。 彼の後ろには、ガチガチと歯を鳴らしながらも、必死に盾を並べる村の若者たちがいる。
「隣に立つ仲間を守り、愛する家族が眠る家を守る。その意志が、盾を本物の壁にするんだ。――来るぞ、踏ん張れ!」
ドォォォォォン!!
王国兵たちの捨て身の突撃が、ガルドたちの盾の列に激突した。 本来なら、農民上がりの自警団など一瞬で吹き飛ぶはずの衝撃。
だが、灰谷の盾は、一ミリたりとも動かなかった。
「な、なんだこの盾は……!? 岩を叩いているみたいだ!」
王国兵が驚愕の声を上げる。
それもそのはず。彼らが使っているのは、どこかの工房で大量生産された矛だ。 対してガルドたちが持っているのは、ボルクが魂を込めて鍛え、俺がマナの循環を整えた、言わば「生きている装備」なのだ。
「……次は、こっちの番だ。――牙を剥け、ガルルーン!」
「ハッ、言われなくても!!」
ガルドの合図と共に、盾の隙間から影が飛び出した。
獣人族の戦士たちだ。
彼らは重力の影響を受けない『安全な道』を正確に駆け抜ける。
シュバッ、と風を切る音。
ガルルーンが手にした漆黒の戦斧が、空を裂いた。
「そんなナマクラ、俺たちの鎧で弾いて――ぎゃああああっ!?」
王国兵が自信満々に構えた鋼の剣が、飴細工のように真っ二つに折れた。 それどころか、ガルルーンの斧はそのまま重厚な胸甲を叩き割り、兵士を後方へと吹き飛ばす。
「カカッ! 見たか! 俺の打った鉄は、持ち主の『守りたい』って根性に反応するんじゃ! ただ持たされてるだけのお前らのナマクラとは、格が違うわい!」
防壁の上から、ボルクが満足そうに酒瓶を掲げて叫んだ。
戦場を支配しているのは、もはや数ではない。 自分たちで作り、自分たちで鍛え、自分たちの意志でここに立つ者たちの「熱量」が、命令に従っているだけの兵士たちを圧倒していた。
◇
「私の精鋭たちが、あんな平民共に……っ!? レオン、お前のせいかぁぁぁ!!」
ルーカスの絶叫と共に、六体の天使が、一斉に光の長剣を振り下ろした。山を焼き払うほどの熱線が空を埋め尽くす。 だが、その光の雨を切り裂いて、二つの「影」が逆行した。
「――主殿の庭を汚す羽虫が。少し、羽をむしって差し上げましょうか」
「……この空、通さぬ」
リリスの漆黒の鎖が、空中で複雑な幾何学模様を描き、黄金の光を絡め取る。 アゼルが魔剣を鞘のまま一閃させると、真空の波が光の束を真っ向から打ち砕いた。
天使たちの無機質な瞳に、初めて「驚愕」に似た揺らぎが走る。
「――主殿。暫し、視界を汚す無礼をお許し願いたい」
アゼルの重厚な声が響いたかと思うと、彼の纏う漆黒の甲冑から、ドロリとした「夜」のような波動が溢れ出した。
彼は防壁を蹴った。
その一蹴りで、一メートル以上の厚さがある黒金煉瓦にクモの巣状のヒビが入る。アゼルの巨体は重力をあざ笑うかのように、垂直に、かつ弾丸のような速度で空へと突き進んだ。
「ふふ、アゼルは相変わらず不器用ですわね。……さて、わたくしもお仕事を始めましょうか」
リリスは優雅に一歩を踏み出すと、空中に漆黒の魔法陣が「階段」のように次々と展開される。
彼女はまるでお気に入りの庭を散歩するかのように、優雅に、しかし瞬きする間にはすでに天使たちの眼前にまで到達していた。
地上五百メートル。
そこは、人間が呼吸することすら忘れる、神域の戦場。
「ギ、ギギ……ッ!!」
六体の天使が、一斉に黄金の剣をリリスとアゼルに向けた。 彼らにとって、魔族は排除すべき最大の敵だ。 五体の天使がアゼルへ、残りの一体がリリスへと殺到する。
「……一体、ですか。わたくし、舐められたものですわね」
リリスが、不機嫌そうに唇を尖らせた。 彼女に向かって、一体の天使が音速を超えた突撃を仕掛ける。光の長剣が、リリスの細い首を撥ね飛ばそうと横一文字に振るわれた。
キィィィィィィィン!!
空間が割れるような衝撃音。 だが、リリスの首が飛ぶことはなかった。 彼女の周囲に浮遊していた数千の「影の粒」が、一瞬で収束し、天使の剣をミリ単位の差で受け止めていたのだ。
「そんな決まった動きで、わたくしの髪一筋にでも触れられるとお思い?」
リリスの瞳が、深紅に燃え上がる。
彼女が指先で空をなぞると、虚空から数百の漆黒の鎖――『深界の縛鎖』が噴き出した。
シュババババババッ!!
それは意志を持つ蛇のように空中で踊り、逃げようとする天使の翼を、四肢を、そして剣までも無慈悲に絡め取っていく。
「さあ、聞かせて。神の操り人形が、どんな風に泣くのかを」
リリスが手を握りしめる。
鎖がギリギリと音を立てて食い込み、天使の白磁のような肉体を砕いていく。
◇
一方、アゼルの戦場はさらに苛烈だった。
五体の天使が、星の瞬きのような速度でアゼルを包囲し、全方位から光の連撃を浴びせる。 一つ一つが城門を粉砕する威力を秘めた光の刃。
だが、アゼルは動かない。
彼は空中に静止したまま、鞘に入ったままの魔剣 《グランディネ》を、最小限の動きで操っていた。
――ガギィィィン! ゴンッ! ギィィィィィ!
アゼルは剣を抜くことさえせず、鞘の先端や腹の部分だけで、五体の天使が放つ剣撃をすべて弾き返していた。
その動きには一切の無駄がない。 まるで、どこから攻撃が来るのか、最初から「知っている」かのような動きだ。
「……遅い」
アゼルが、ボソリと呟いた。
天使たちは、命令された通りの「完璧な剣筋」で攻めてくる。
だが、それは裏を返せば、相手がどう動こうが関係なく、あらかじめ決められたプログラムを繰り返しているに過ぎない。
対するアゼルは、俺の隣で、毎日ガルドと「どうすれば仲間を守れるか」を議論し、ボルクと「どうすればもっと強い武器が打てるか」を追求してきた。
自らの意志で高みを目指す者の剣に、ただの機械的な動作が追いつけるはずもなかった。
「……主殿が仰った。この空を通すな、と。……なれば、死力をもって応えるのみ」
アゼルが、ようやく魔剣の柄に手をかけた。 その瞬間、灰谷全体の気温が数度下がったかと思うほどの、凄まじいプレッシャーが吹き荒れる。
「――《絶域・鴉一閃》」
抜剣。
瞬間、空から音が消えた。
いや、音が「置き去り」にされたのだ。
黒い閃光が、アゼルの周囲を円状に走り抜ける。 それは剣の軌道というよりは、空間そのものが「切断」された傷跡のようだった。
コンッ、という、アゼルが剣を鞘に収める小さな音が響く。
その直後。
アゼルを包囲していた五体の天使たちの胴体が、同時に、上下に真っ二つに泣き別れた。
「ガ、ガガ……ギギギギ……ッ!!」
魔力の核を真っ向から両断された天使たちは、再生することすら許されず、眩い火花を散らしながら崩壊していく。 天空から降り注ぐのは、黄金の破片。
地上で見守っていた王国兵たちにとって、それは自分たちの「信仰」がバラバラに砕け散る音に聞こえたはずだ。
◇
最後に残った一体を鎖で弄んでいたリリスが、アゼルの戦いぶりを見て、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「……もう終わりましたの? 相変わらず色気のない戦い方ですわね、アゼル」
「……主殿をお待たせするわけにはいかぬ」
アゼルは空中に浮いたまま、微動だにせず俺を見下ろしている。
リリスはふぅと溜息をつくと、鎖で捕らえていた最後の一体に向かって、甘く、残酷な微笑みを向けた。
「さて、あちらが終わった以上、あなたに構っている時間もありませんわ。……せっかくですから、最後は美しく散らせて差し上げます」
リリスが、空を仰ぐようにして両手を広げた。
彼女の背後に、巨大な漆黒の古紋が浮かび上がる。
「――《深淵の饗宴》」
天使の体から、黄金のマナが強制的に引きずり出されていく。
リリスの鎖が媒介となり、天使という存在そのものが、巨大な「魔力爆弾」へと作り変えられていく。 最後の一体は、自らの光に耐えきれず、風船のように膨れ上がった。
「さようなら、神様の可愛いお人形さん」
リリスが、パチンと優雅に指を鳴らした。
ドォォォォォォォォォォンッ!!
夜明け前の空に、今日一番の花火が生まれた。
黄金と漆黒が混ざり合った巨大な爆炎が、空を覆っていた灰色の霧を一掃し、澄み切った冬の青空を無理やり引き摺り出す。
爆風に煽られながらも、リリスとアゼルは、まるで重力など存在しないかのように、ゆっくりと防壁の上へと舞い戻ってきた。
◇
「……お疲れ。二人とも、派手にやったな」
俺が声をかけると、アゼルは無言で深く跪き、リリスは「はぅ……レオン様、見ていてくださいましたの!?」と、先ほどまでの魔王のような面影を完全に消して、俺に抱きつこうとしてきた。
「ちょ、リリス、今は戦時中だって」
「ふふ、勝利の女神には、相応の報酬が必要だと思いませんこと?♡」
俺はリリスを適当にあしらいながら、地上を見た。
空を支配していた天使たちは、もはや一欠片も残っていない。
後に残されたのは、自分たちの信じていた「最強の奇跡」を、文字通り塵にされた王国兵たちの、魂が抜けたような沈黙だけだった。
「……あ、ありえない……。天使が……全滅、だと……?」
後方の馬車から、兄ルーカスの、ひっくり返った絶望の声が聞こえてきた。
俺は、防壁の縁に立ち、彼らに向かって静かに、しかし谷全体に響き渡る声で告げた。
「――これが、お前たちが蔑んだ『無能』の答えだ。……さあ、兄貴。まだ続けるか? それとも、自分の足で立ち去る勇気くらいは持っているか?」
◇
黄金の光が降り注いでいたはずの空は、今や澄み切った冬の青色へと塗り替えられていた。 後に残ったのは、焦げたマナの匂いと、逃げ惑う王国兵たちが立てる無様な靴音だけだ。
「……う、うわあああああっ!!」 「助けてくれ! 天使様が殺された! あいつらは本物の悪魔だ!!」
あんなに統制の取れていたはずの五百の軍勢は、もはや見る影もない。
彼らが信じていた「神の加護」も「王国の権威」も、リリスの鎖とアゼルの剣撃によって、ただの紙屑のように引き裂かれてしまった。
俺は防壁を降り、ゆっくりと村の門を開けた。 そこには、泥にまみれ、豪華なマントを引きずりながら腰を抜かしている男が一人。
兄、ルーカス・アルグレインだ。
「……ひっ、ひぃ……っ!」
俺が近づくと、ルーカスはガタガタと震えながら後ずさった。 その顔に、かつて公爵邸で俺を見下していた時の余裕なんて欠片もない。
「レ、レオン……。お前、何を……何をしたんだ!? あの天使たちは、神殿が正式に貸し出してくれたものなんだぞ! こんなことをして、ただで済むと思っているのか! お父様が……公爵家が黙っていないぞ!」
俺は、ルーカスの前で足を止めた。 彼はまだ言っている。お父様が。公爵家が。神殿が。
どこまで行っても、この男の言葉には「自分」がない。
誰かの力、誰かの威光、誰かの看板。 それを剥ぎ取られれば、ただの弱々しい人間でしかないのに。
「……兄貴。あんた、俺のことを『無能』って言ったよな」
「そ、そうだ! お前は無能だ! 魔法も使えず、不気味な模様を地面に描くことしかできない……っ」
「そうだな。俺には、お祈りして天使を呼ぶ才能なんてない。……でも、この村を見てくれ」
俺は、背後にそびえる灰谷の街並みを指し示した。
黒金煉瓦で作られた、冬の寒さを寄せ付けない頑丈な家。 飢えを克服し、自ら盾を構えて立ち上がった村人たち。
そして、種族を超えて俺と肩を並べる、最強の仲間たち。
「これは、誰かに与えられたものじゃない。俺が自分で考え、自分で選び、この村の連中と一緒に作り上げてきたものだ。……あんたがしがみついている『公爵家』という看板より、よっぽど頑丈だと思わないか?」
「……っ、そんなもの、ただの砂上の楼閣だ! 力こそが、血筋こそが……!」
「いいや。本当の力ってのはな、兄貴」
俺はルーカスの目を見据えた。
「『自分はどう生きるか』を、自分で決めることだ。……あんたは今、その答えを持っていない。だから、そうやって震えることしかできないんだ」
俺は腰を落とし、ルーカスの足元に転がっていた、公爵家の紋章が入った立派な剣を拾い上げた。 それを、ルーカスの膝元に放り出す。
「……殺さないのか? 復讐を、しないのか……?」
ルーカスが、掠れた声で聞いてきた。 俺は、本当につまらなそうに首を振った。
「殺す価値さえないよ。……あんたには、生きて王都へ帰ってもらう。そして、俺の作ったこの領地が、あんたたちがしがみついている旧い世界を、外側から少しずつ変えていく様を、特等席で眺めていてもらうよ」
「な……っ」
「行けよ。二度と、この谷の空気を汚すな」
俺が背を向けると、リリスが「あら、本当にいいんですの? わたくし、彼の魂をパフェのトッピングくらいには加工できますのに」と不敵に微笑んだ。
「いいよ、リリス。……ゴミの処分に、時間を使うのはもったいない」
俺たちの言葉に、ルーカスはプライドを粉々に砕かれ、絶叫しながら、逃げ出した兵士たちの後を追って走り去っていった。
その後ろ姿は、もはや公爵家の嫡男ではなく、ただの迷子にしか見えなかった。
◇
戦いは、終わった。
村の広場には、大きな焚き火がいくつも焚かれた。
「――勝ったぞ! 俺たちの『家』を守り抜いたんだ!!」
ガルドの叫びを合図に、百十人の住民たちが一斉に歓声を上げた。
ボルクが「おらぁ、酒だ! 今日は俺の奢りじゃ!」と、アイゼンガルドで爆買いした樽を次々と開けていく。
ガルルーン率いる獣人たちも、村人と肩を組み、大きな肉に食らいついている。
リリスは俺の隣で幸せそうにケーキを頬張り、アゼルは村の子供たちに「おじちゃん、あのお空の剣、もう一回やって!」とせがまれて、困ったように兜を掻いていた。
シアが、俺の隣にちょこんと座った。
「……レオン様。私たち、もう『家畜』じゃないんだもん」
「ああ。あんたたちは、自分の力でここを守り抜いた。……立派な、俺の誇れる隣人だ」
シアは、こぼれそうになる涙を必死に堪えて、何度も何度も頷いた。
彼女の目には、もう二度と消えることのない、強い光が宿っていた。
◇
後日。
敗走したルーカス軍の報告により、王都はひっくり返るような騒ぎになったという。
「……灰の谷に、天使を屠る魔王がいる」 「追放された無能の王子が、人ならざる理を操り、最強の軍勢を築いている」
噂は尾ひれをつけ、王国全土、そして周辺諸国へと広がっていった。
しかし。 当の俺は、そんなことはどうでもよかった。
「……よし、アゼル。こっちの壁の古紋をさらに二重に強化するぞ。……ボルク親方、自警団の盾に新しく『衝撃吸収』の文字を刻みたいんだが、相談に乗ってくれ」
俺は、朝日が昇る灰谷の丘に立ち、新しい設計図を広げた。
かつての死の地は、今や一筋縄ではいかない強者たちが集う、世界で最も「自由」な楽園になろうとしている。
レオン・アルグレイン。
追放された領主による、辺境からの「世界再定義」は、まだ始まったばかりだ。




