第十六話:空に舞う偽りの翼、地に敷く真理の古紋
冬の気配が混じり始めた灰谷の夜明けは、冷たい霧に包まれていた。
数ヶ月前まで、ここには絶望しかなかった。泥水を啜り、死を待つだけの場所だった。
でも今は違う。俺がアイゼンガルドで手に入れた物資と、皆で焼いた黒金煉瓦で作った家々が、霧の向こうに力強く並んでいる。
俺、レオン・アルグレインは、防壁の上に立って、しっとりと濡れた地面に手を触れた。
「……よし、異常なし。回路は全部生きてるな」
指先から魔力を流すと、地面に隠した『古紋』が「準備はできてるぞ」と答えるように、かすかに震えた。
俺には神様への祈りなんて必要ない。 自分の頭で考え、自分の手で描き、何度も失敗しては調整を繰り返したこの図形たちこそが、俺にとって一番信頼できる相棒だ。
「レオン様。……朝早くから、熱心なことですわね」
いつの間にか隣にいたリリスが、俺の肩に外套をかけてくれた。
「リリス。みんなの様子は?」
「ええ、シアはガルド様に言われた通り、村の人たちを地下倉庫へ避難させていますわ。ガルルーン様たちの戦士も、それぞれの配置で牙を研いでいます。……みんな、レオン様を信じていますわよ」
「……信じてる、か。責任重大だな」
俺は苦笑いしながら、森の向こう側――王国軍が陣を敷いている方向を見据えた。
あそこには、俺を「無能」と呼んで追い出した兄、ルーカスがいる。 彼らは五百人の兵士と、神殿から借りてきた六体の『天使』という化け物を連れてきている。
あっちの連中は、誰かの命令で、誰かの作ったルールで動いている。
でも、この村の連中は違う。 俺と一緒に美味しい水を飲み、お腹いっぱい肉を食べて、自分たちの居場所を「守りたい」と決めた奴らだ。
「さあ、始めようか。リリス、アゼル」
「ふふ、最高のショーにして差し上げますわ」
◇
一方、村を包囲しているアルグレイン公爵家の陣地。 そこには、奇妙な空気が漂っていた。
「……なあ。あの村、本当におかしいぞ」
一人の若い兵士が、槍を握る手を震わせていた。 彼は上司から「裏切り者のレオンを捕らえに行け」と命令されてここに来た。500の兵士 対 110の村人。本来なら、一方的に勝てるはずの戦いだ。
なのに、目の前の霧に沈む灰谷から、説明のつかない「圧迫感」を感じる。
「まるで……谷そのものが、俺たちのことを『よそ者』だと拒絶してるみたいだ」
誰かが弱音を吐いた。 命令だから来ただけの兵士たちにとって、この村が放つ「自分たちの足で立っている連中」の熱量は、本能的に恐ろしかった。
「何を怯えている! あんなのはただのハッタリだ!」
軍の中央、豪華な馬車から兄ルーカスが顔を出して叫んだ。
「審問官殿! 早く天使に攻撃させろ! あの生意気な弟に、本当の『格差』を教えてやるのだ!」
ルーカスの言葉に、白装束の異端審問官が頷き、杖を振り上げた。
「……迷える不浄の魂に、光の裁きを」
その合図と共に、六体の天使が一斉に瞳を光らせ、眩いばかりの光を放ち始めた。 夜明けの静寂が、バキバキと音を立てて崩れていく。
俺は、防壁の上で目を細めた。
「……来たか。他人の決めた正義で動く連中には、一生見えない景色を見せてやるよ」
俺の足元で、灰谷の全回路が――俺が積み上げてきた努力の結晶が、静かに、しかし激しく唸り声を上げた。
◇
「天よ閉じよ、地よ平伏せ。唯一無二の光よ、不浄を焼き尽くす檻となれ――!」
異端審問官たちの唱える祝詞は、穏やかな祈りの歌なんかじゃなかった。 それは、大気中に漂うエネルギーを、自分たちの都合のいい「型」へ無理やり押し込め、強制的に書き換えていく、命令の合図だ。
公国軍の本陣から、黄金色の巨大な柱が何本も天に向かって突き抜けた。 その光は朝の霧を飲み込み、見る間にその輝きを増していく。眩しくて直視できないほどの光景だ。
「……来るぞ。シア、俺の後ろに隠れてろ」
俺の視界の中で、世界がぐにゃりと歪み始めていた。
「レオン様。……嫌な匂いですわね。綺麗事を並べながら、周りから命を啜っているだけの、泥棒の匂いですわ」
隣でリリスが、不快そうに鼻を鳴らした。 彼女の言う通りだ。
審問官たちが「聖なる光」を作り出すために使っているエネルギーは、自分たちの力じゃない。彼らが掲げる杖は、周りの森や大地、小さな草花が持っている生命力を、根こそぎ奪い取っていく力だった。
「見て、レオン様……。お花が、お花が枯れちゃうんだもん……!」
俺の外套をギュッと握りしめたシアが、悲しそうな声を上げた。
防壁のすぐ外側。昨日まで元気に咲いていた野花や、街道沿いの大きな木たちが、黄金の光に触れた瞬間にカサカサに乾いていく。葉っぱは茶色く縮れ、命の輝きが吸い取られて、空に浮かぶ「光の繭」へと消えていく。
世界を救うと言いながら、足元の花一輪すら踏み荒らしていく。
それが、あいつらの言う「正しい世界の在り方」なんだろう。
◇
キィィィィィィィィィィン!!
耳の奥を刺すような高い音が響き、空が割れた。 黄金の繭が弾け、そこから六つの「輝く絶望」が姿を現した。
六体の天使。
高さは三メートルを超え、背中には光の粒で編み上げられた六枚の翼が広がっている。
体は真っ白な磁器のように滑らかで、一切の無駄がない。顔には目も口もなく、ただ「審判」を象徴する黄金の光が、冷たく光っている。
「……綺麗だな。ムカつくくらいに」
俺は、その冷たい美しさに毒づいた。 あいつらは確かに美しい。でも、それは生き物としての美しさじゃない。 極限まで機能を絞った『兵器』としての美しさだ。
天使たちは優雅に宙に浮き、灰谷を見下ろした。 羽ばたくたびに、防壁にまで熱い風が押し寄せる。あまりに巨大なエネルギーが漏れ出している証拠だ。
天使たちの足元では、マナが吸い出された土が急速に乾き、真っ白な砂に変わろうとしていた。
「あいつらにとって、俺たちが必死に耕した土も、育てた苗も、ただの燃料にしか見えないんだろうな。……でも、悪いけどそうはいかない。その程度の『お仕着せの力』で、俺の作ったルールを上書きできると思うなよ」
俺は天使の胸のあたりを観察した。 そこには、召喚した審問官からの命令を受け取るための「核」がある。 一見すれば完璧に見えるその仕組みも、俺から見れば欠陥だらけだ。
「……動きが単調すぎる。命令に従うだけの地味な回路だ。あいつら、自分たちで考える知能をわざと消して、ただの『便利な手足』にしてやがるな」
それは、自分で決めることを捨てて、誰かの言いなりになることで手に入れた「空っぽの強さ」だった。
◇
「――神罰を。異端の地に、等しき滅びを!」
審問官の叫びと共に、六体の天使が、一斉に光り輝く長剣を構えた。 その剣先が、灰谷の防壁を指し示す。
「全軍、突撃ィ! 天使様の御加護の下、あの生意気な弟を捕らえよ!」
後ろの馬車から、兄ルーカスの勝ち誇った命令が飛んだ。
天使という「絶対的な強者」を味方につけたことで、王国兵たちの恐怖は消え、熱狂へと変わっていた。 彼らは今、自分の意志で走っているんじゃない。
天使という大きな看板に身を任せ、考えるのをやめて、「正義」という名の下に他人の家を壊しに来ているだけだ。
鋼の鎧の波が、地響きを立てて動き出す。 頭上には、太陽のような天使の光。 足元には、命を奪われて真っ白になった大地。
「……よし、みんな下がってろ。ガルド、若者たちの盾はまだ出すな。……ここからは、俺が書き換えた『世界の重み』を、あいつらの体に直接教えてやる」
俺は右手を高く掲げ、掌に描いた複雑な古紋を全開にした。
俺の足元、黒金煉瓦のずっと下で眠っていた数万の文字が、一斉に俺の合図に呼応した。「奇跡」なんて不確かなものに頼るあいつらに、俺の「執念」をぶつけてやる。
「……古紋術式、起動。――《重力境界》」
一瞬、空気が止まったような気がした。
そして次の瞬間、灰谷の入り口に踏み込んだ王国兵たちの顔が、驚愕と絶望に引きつった。
「な、なんだ!? 体が、重い……っ!」
「足が地面に吸い付くぞ! うああああ、動けん!」
突撃の雄叫びを上げていた王国兵たちの声が、一瞬で悲鳴に変わった。
彼らが灰谷の境界線を一歩踏み越えた瞬間、目に見えない巨大な手が、その肩を力任せに地面へと押し付けたのだ。
一人あたり数十キロはある鋼の鎧。いつもは自分を守ってくれるはずの「権威の象徴」が、今は自分を動けなくする「鉄の重石」に成り下がっている。
前のめりに倒れ込む者、膝をついて喘ぐ者。五百人の軍列は、まるで透明な壁にぶつかったかのように、その場でぐちゃぐちゃに乱れ始めた。
「落ち着け! これはただの嫌がらせ魔法だ! 審問官殿、早く『浄化』を!」
後方の馬車から、兄ルーカスが顔を真っ赤にして叫ぶ。 審問官たちが慌てて杖を振り、光の祈りを捧げた。
「不浄なる魔を払え! 《聖域浄化》!」
黄金の光が降り注ぎ、兵士たちを包む。本来ならこれでどんな嫌な魔法も消えてなくなるはずだ。 だが。
「……ば、馬鹿な!? 『浄化』が効かないだと!?」
審問官が目を見開いた。
無理もない。俺が仕掛けたのは、魔力で無理やり呪いをかけるような魔法じゃない。 この地面に描かれた『古紋』によって、この場所の「ルール」を書き換えただけなんだ。
物理法則そのものが「ここでは重力が二倍」と言っている以上、神様にお祈りしたところで地面は軽くならない。
「……悪いな。お前らが信じている『奇跡』より、俺の書いた『数式』の方が、ここでは正しいんだよ」
俺は防壁の上から冷たく告げた。 さあ、ここからは俺の村の連中の出番だ。
◇
「……自警団、構えろ! 盾を合わせろ! ここは我らが主の地である!!」
ガルド・ヴァルツの力強い号令が、戦場に響き渡った。
十人の自警団の若者たち。そして、里を焼かれた怒りに燃える獣人戦士たち。
数にしてわずか三十人。 でも、彼らが手にしているのは、ボルクが黒金煉瓦をさらに鍛え直して作り上げた、この世に二つとない『黒金装備』だ。
「……おおおおおっ!!」
ガルルーン率いる獣人族が、盾の隙間から弾かれたように飛び出した。 重力に足を取られ、もたついている王国兵に対し、彼らの動きは電光石火。
俺の古紋は「味方のマナ」を判別するように調整してある。 だから、彼らにとってこの地面は、羽が生えたように軽い。
ドゴォォォォンッ!
ガルルーンの『黒金戦斧』が振り下ろされるたび、王国兵の立派な鎧が紙細工みたいに切り裂かれる。 「化け物か、こいつら……っ! 俺の剣が、触れただけで折れたぞ!?」
正規兵たちの絶望。 500 対 30という圧倒的な数の差は、俺の「重力」と、ボルクの「装備の格差」によって、無慈悲にひっくり返されていった。
◇
「……ひ、退くな! 押し返せ! 我らには天使がついているのだぞ!」
ルーカスが必死に叫ぶ。 地上では王国軍がボコボコにされているが、空にはまだ六体の天使が残っている。 天使たちが俺を標的に定めた。
六本の光の長剣が、一斉に振り上げられる。 天空から、山を焼き払うほどのエネルギーが、一気にこの防壁へと降り注ごうとしていた。
「レオン様。……地上の掃除は上々のようですわね」
リリスが優雅に髪をかき上げ、俺の前に一歩出た。 アゼルもまた、鞘に入ったままの魔剣を腰に据え、静かに空を見上げる。
「ああ。……あいつら、俺の作った地面に足を踏み入れないことで、安全な場所から俺を狙うつもりらしい」
「ふふ、賢い選択ですわ。……でも、悲しいことに。わたくしたちの『絶望』に、届かない場所なんて存在しませんのよ?」
リリスが、パチンと指を鳴らした。 空気が凍りつき、天使たちの光を飲み込むような、真っ黒な闇が空に広がり始める。
「さあ、お掃除の時間だ。……リリス、アゼル。翼の数、全部数えておけよ。……一枚残らず、ここで落とすぞ」
「「――仰せのままに!」」
二つの影が、防壁から弾丸のように空へと跳ね上がった。
地上戦の混乱をよそに、空ではさらにありえない、次元を超えた戦いが始まろうとしていた。




