第十四話:野生の少女と、甘い罠
灰谷の朝は、一羽の鳥のさえずりから始まった。
蒼狼の民の少女、キリハは、人生で初めて「柔らかい布の上」で目を覚ました。
「…………っ!?」
彼女は跳ねるように飛び起き、鋭い爪を剥き出しにして周囲を警戒した。
そこは、黒金煉瓦で作られた家の一室。昨日までは「魔王の城」だと思っていた場所だ。窓からは俺が調整したマナの循環によって、冬が近いとは思えない柔らかな陽光が差し込んでいる。
(……おかしい。私は、この人間たちの弱点を見つけるために残ったはず。それなのに、昨夜の記憶が……あの、白い粒がたっぷりかかった肉を食べてからの記憶が、幸福感で霞んでいる……っ!)
キリハは己の不甲斐なさに、ふさふさとした灰色の尻尾を激しく床に叩きつけた。
しかし、鼻腔をくすぐる「匂い」が、彼女の警戒心を無慈悲に粉砕する。
香ばしい、麦を焼く匂い。じっくりと炙られた脂の乗った肉。そして、鼻の奥がツンとするような、だが食欲を限界まで突き動かす薬草のスープ。
「……毒だ。これはきっと、私を骨抜きにするための高度な魔導毒に違いない……。……毒見をしてやらねば」
キリハは本能に従い、ふらふらと部屋を出た。
◇
村の中央広場に出ると、そこにはすでに活気ある「日常」が広がっていた。
「あ、キリハちゃん! おはようだもん!」
シアが、焼きたてのパンが入った籠を抱えながら、満面の笑みで駆けてきた。
彼女の髪には、リリスが朝から丹念に梳かした形跡があり、朝日を反射してキラキラと輝いている。俺はその光景を眺めながら、リリスに淹れてもらった冷えた茶を啜っていた。
「レオン様、キリハちゃんもお腹ぺこぺこだって! さっきからお鼻がピクピク動いてるんだもん!」
「シア、あまり直球で言ってやるな。……キリハ、おはよう。よく眠れたか?」
「……。……朝食の毒見に来た。早く、その怪しい茶色の液体をよこすのです。私が安全を確認してやるです」
キリハは耳を伏せ、強張った表情で俺を睨みつける。だが、彼女の背後でメトロノームのように激しく振られている尻尾が、その「本音」を雄弁に物語っていた。
「スープのことか? 毒なんて入ってないよ。……リリス、彼女にも一杯」
俺が促すと、隣で優雅に控えていたリリスが、氷のような視線をキリハに向けた。
「……ふん。獣の分際で、レオン様の慈悲を当然のように受けるとは。……キリハといったかしら。口に合わなければ、そのままその喉を影の鎖で縫い合わせて差し上げますわ。音も出さずにね」
「……っ、不気味な女め……」
キリハはリリスの重圧に怯えつつも、差し出された木製の器を受け取った。 そして、一口。
「…………っ!!」
野菜の甘み。肉の旨味。そして、それらすべてを完璧に調和させる『灰谷の白塩』の魔法。
里で食べていた、血の滴る生肉や泥のついた根菜とは、次元が違った。キリハの尻尾は、彼女の意志を完全に無視して、さらに激しくブンブンと回転を始めた。
「……どうだ、キリハ。灰谷の食事は」
「……。……ま、不味くはない。生き延びるために、残さず食べてやるだけです。あと三杯、いや四杯ほど。……安全のために、完食してやるです!」
キリハは器に顔を突っ込むようにして、驚異的な速度でお代わりを重ねた。それを見るリリスの目は「やはり獣ですわね」と冷ややかだったが、シアは「おいしいよね!」と自分まで誇らしげに笑っていた。
◇
朝食が終わると、広場の一角にある黒金煉瓦の建物――通称『灰谷学習舎』で、リリスによる「教育」の時間が始まった。
「……いいですか。この数式を解けぬ者は、生涯、自分の獲物の価値すら計算できぬ愚か者として死にます。……キリハ、あなたも座りなさい。耳を動かす暇があるなら、手を動かすことですわ」
「……私は戦士です! こんな細っこい棒を握って紙を汚すのが戦士の仕事ですか!」
キリハは反発したが、リリスが指先から小さな漆黒の鎖をチラつかせると、大人しくシアの隣に座った。
「キリハちゃん、これ、『九九』って言うんだよ。これを覚えると、里のお肉がいくつで売れるか、すぐわかるようになるんだもん。レオン様に褒めてもらえると、とっても嬉しいんだもん!」
シアが横から、自分のノートを見せながら優しく教える。
キリハは最初こそ不満げだったが、シアがスラスラと計算を解き、俺が「シア、よくできてるな」と声をかけた瞬間の彼女の得意げな顔を見て、猛烈な対抗心を燃やし始めた。
「……ふん、私の方が鼻は利くし、木登りだって上手いです。……こんな数字遊び、一瞬で終わらせてやるです!」
キリハの負けず嫌いが、リリスのスパルタ教育と噛み合った瞬間だった。
獣人特有の集中力で、彼女は瞬く間に文字と数字を覚え始めた。知識という名の「獲物」を狩る快感に、野生の少女が目覚めていく様子は、見ていて実に小気味よかった。
◇
昼休み。
キリハはシアに連れられて、村の境界線にある演習場へと向かった。 そこではガルドが自警団の若者たちに「盾の構え」を教えている。
「ねえ、キリハちゃん。森のこと、教えてほしいんだもん。レオン様が、森の歩き方を覚えるのも大事だって言ってたから」
「……シア、お前は足音がうるさいです。もっと爪先にマナを込めて、風を殺して歩くのです。見ているです」
キリハは得意げに、森での歩法をシアに教え始めた。
読み書きを教わる側から、教える側へ。
異なる種族の子供たちが、互いの欠けている部分を補い合う。 俺が目指した理想が、こうして草の根レベルで回り始めているのは、実に愉快な気分だった。
◇
夕暮れ時。
キリハは、いつの間にか俺の隣で、夕焼けに染まる畑を眺めていた。
「……レオン。お前は、なぜこんなことをするです」
「こんなこと?」
「敵だった私に飯を食わせ、知識まで与えるです。……私たちを、家畜にするつもりですか?」
キリハの問いは鋭かった。俺は畑の芽を優しく撫で、静かに首を振った。
「家畜は、自分の頭で考えない。俺が欲しいのは、俺と一緒に笑い、この村を豊かにしようと考えてくれる『隣人』だ。……キリハ。あんたの里の奴らも、いつかこの村の住民として迎えたいと思ってる。嘘じゃない」
「……お前、本当におめでたい奴です。里の連中は、頑固で恐いですよ」
キリハは鼻を鳴らしたが、その頬は夕焼けのせいだけではなく、僅かに赤らんでいた。
リリスが背後で「レオン様、その獣にあまり近づかないでください。毛が移りますわ」と不機嫌に割り込んでくるまで、そこには灰谷の歴史上、最も穏やかな空気が流れていた。
◇
だが、その穏やかな夕暮れは、一人の急使によって無残に引き裂かれた。
「――レオン様! ガルルーン様より伝令です!」
森から駆け込んできた獣人の戦士が、泥にまみれ、息を切らしながら叫んだ。
「南から、軍勢が来ます! その数、五百! アルグレイン公爵家の旗を掲げた私兵、そして……『異端審問局』の白装束を纏った連中です!」
その言葉に、村の空気が一瞬で凍りついた。
五百。 村の総人口を遥かに超える、圧倒的な軍勢。
しかも、そこには神殿の「異端審問局」……俺の術式を『禁忌』と断じ、根絶やしにしようとする狂信者たちの影がある。
「……来たか。思ったより早かったな」
俺は立ち上がり、静かに目を細めた。
瞳から慈悲の色が消え、脳が冷徹なシミュレーションを開始する。
「……アゼル。ガルド。ボルク。……そしてリリス。全員、広場へ集まれ。……ゴミ掃除の準備だ」
俺の声が、灰谷の夜を震わせた。
キリハは初めて見る俺の冷徹な横顔に息を呑み、シアは不安げに俺の外套の裾を握った。
「シア。大丈夫だ。……ここを、誰にも奪わせはしない。……兄貴。ルーカス・アルグレイン。まだ、俺から何かを奪えると思っているのか」
平和な開拓生活という『前座』は、ここで終わる。
アルグレイン公爵家、そして神殿。
旧き秩序の牙を、この「新しい理」で一本残らず叩き折ってやる。
俺は、懐から最高級の魔力伝導インクを取り出し、防壁の設計図へと視線を落とした。




