第十三話:謝罪の塩、盟約の宴
「……謝罪、だと?」
泥に塗れた地面に膝をついたまま、ガルルーンは呆然としながら俺を見上げていた。
この世界の、特に弱肉強食を絶対の理とする獣人族の社会では、勝者が敗者に頭を下げるなんて光景はあり得ないのだろう。彼の困惑しきった表情が、それを如実に物語っていた。
「ああ。俺の配下が、この森の魔物を狩りすぎた。……安全を優先した結果だが、お前たちの獲物を奪い、飢えさせたのは事実だ。それは俺の、統治者としての不手際だよ」
俺は努めて淡々と、しかし誠実に告げた。 すると隣で、アゼルが鎧の音を激しく鳴らして反応した。
「主殿……! 私の行き過ぎた掃除が、主殿に頭を下げさせる不名誉を招いたというのですか……。このアゼル、不覚。今すぐこの首を撥ねてお詫びを——」
「アゼル、極端なんだよ。首を撥ねる暇があったら、後でガルルーンたちに渡すための獲物をもう一頭狩ってこい。それが一番の償いだ」
「……御意。即座に、この森で最も巨大な猪を仕留めて参ります!」
アゼルが音もなく背後の森へと消えていく。その異常なまでの機動力に、ガルルーンたちは再び戦慄したようだった。
俺は腰を落とし、懐から取り出した小袋を開けた。中の乾燥肉を一切れ、ガルルーンの鼻先に差し出す。
「まずはこれを食え。話はそれからだ」
ガルルーンは戸惑いながらも、抗いがたい肉の匂いに突き動かされ、それをひったくるようにして口に放り込んだ。
噛み締めた瞬間。
「…………っ!!」
彼の黄金色の瞳が、こぼれ落ちそうなほど見開かれた。
ただの乾燥肉じゃない。そこに振られた『灰谷の白塩』が、肉の旨味を暴力的に引き出している。三日間、まともな食事も摂らずに極限状態だった彼の胃袋に、最高級の栄養と塩分が流れ込んでいく。
「……美味いか?」
「……ああ。……クソッ。こんなもん、食ったことねえ……っ!」
ガルルーンの目から、一筋の涙が溢れた。
それは屈辱の涙ではなく、生命の危機を脱した安堵と、失いかけていた「味覚」を取り戻したことへの、根源的な感動に見えた。
◇
一刻後、灰谷の村の中央広場。
急遽用意された焚き火を囲み、村人と獣人たちが入り混じって、奇妙な「宴」が始まった。
アゼルが宣言通り、山のように巨大な『剛毛猪』を仕留めて戻ってくると、ボルクが手早く解体し、新設された石窯で焼き上げる。
「ヘッ、肉の焼き加減ならドワーフに任せろ。……おい、獣人! そっちの肉はまだ生じゃ、焦るんじゃねえぞ!」
「……ドワーフの老いぼれが、指図するな。……だが、その窯とやら、いい熱を出すな」
ガルルーンは、ボルクが叩き出した鉄製の串を手に取り、感心したように唸った。
俺はその隣に腰を下ろし、リリスが淹れた、よく冷えた茶を差し出した。
「ガルルーン。俺は、あんたたちをこの地から追い出すつもりはない。……むしろ、協力してほしいと思ってるんだ」
「協力……? ……俺たちは奪いに来た敵だぞ。……お前の、その豊かな食料をな」
ガルルーンは自嘲気味に笑い、広場で走り回る村の子供たちに視線を向けた。
「……この森では、強い者が奪い、弱い者が野垂れ死ぬ。それが当たり前だった。俺も、抗争に明け暮れ……飢えで冷たくなっていく子供たちを、何度も見てきた。だから、お前のような奴は信じられん」
彼が自ら語ったその言葉には、リーダーとして一族を守れなかった苦渋と、深い後悔が滲んでいた。なるほど、だからあんなに必死に襲ってきたわけだ。
「奪い合いに未来はないよ、ガルルーン。……俺の村は、これからさらに大きくなる。畑を広げ、道を造り、いつかは王国や神殿の手が及ばない『楽園』を創るつもりだ。……そのためには、この森を熟知した『目』と、外敵の接近をいち早く知らせてくれる『耳』が必要なんだ」
俺は焚き火の炎を見つめながら、正面から彼に提案した。
「あんたたちは獲物を失い、俺たちは森の警戒網が手薄だ。……同盟を組まないか? 俺たちはあんたたちに食料と塩、そしてボルク製の武器を提供する。代わりに、あんたたちはこの森の番人になってくれ」
ガルルーンは、持っていた肉を置き、再び村の子供たちを見た。
そこではシアが、異形の獣人の戦士に対しても、屈託のない笑顔でポトフを差し出している。
リリスやアゼルのような、世界の理を壊しかねない強者が、俺の言葉一つで「秩序」を保っている。その光景を、彼はじっと観察していた。
「……子供たちが、笑っているな」
ガルルーンが低く呟いた。
「……俺の里のガキ共は、いつも腹を空かせて、怯えた目をしている。……人間。お前についていけば、俺の里のガキ共も、あんな風に笑えるのか?」
「ああ。俺の領地は、笑いたい奴を笑わせるためにある。……もっとも、リリスのスパルタ教育に耐えられれば、の話だが」
俺の冗談に、リリスが「ふふ、獣の子供も、案外良い素材かもしれませんわね」と不敵に微笑む。
ガルルーンは大きく息を吐くと、俺に向かって右手を差し出した。
「……ガルルーン・トーテムハート。この名にかけて、蒼狼の民は、灰谷の領主レオン・アルグレインと盟約を結ぼう。……俺たちの牙、貴様の理想のために貸してやる」
「……ああ。期待しているよ」
俺がその厚い手を握り返した瞬間、二人の周囲に青白い光の輪が広がった。 俺が空中に描いた『誓約の古紋』。 それは単なる口約束じゃない。魔力的な契約として、互いの「誠実」を繋ぎ止める絶対的な楔となった。
◇
一夜明けて。
盟約の証、そして人材交流として、ガルルーンの娘であるキリハが村に残ることになった。 ……といっても、彼女の態度は刺々しい。
「……勘違いしないでください、人間。私は、貴方を信じたわけではありません。……隙があれば、あの白い塩の製法を盗み出し、里へ持ち帰ってやりますからね」
キリハは鋭い犬歯を剥き出しにして、俺を睨みつけた。
だが、俺には見えている。彼女の鼻が、俺が朝食に用意した『塩漬け肉のポトフ』の香りに、ピクピクと敏感に反応しているのを。
「好きにすればいいよ。……キリハ、とりあえず朝飯だ。食わないと偵察の訓練もできないだろ?」
「……。……ふん、毒見をしてやるだけです」
キリハが渋々スプーンを口に運ぶ。
次の瞬間、彼女の背後にある尻尾が激しく、左右にぶんぶんと振られ始めた。
「……っ!! な、なんですかこれ……! お肉が口の中で溶ける……! それに、この野菜、甘い……!」
「古紋で育てた採れたての野菜だ。……おかわりもあるぞ」
「……。……くっ、ご飯なんかに惑わされませんからね……! ……もう一杯、ください」
……完全に陥落しているな、これは。
こうして、灰谷には新しい仲間が加わった。
獣人族との同盟。それは、単なる武力の増強ではない。 灰谷が「単なる避難所」から、多様な種族を飲み込む「新しい国家」へと進化するための、決定的な一歩だった。
だが、平和な時間は長くは続かない。
村が豊かになり、異種族と手を組んだという噂は、風に乗って南の王国へと届いていた。
俺を追放した、愚かなるアルグレインの家。 そして、異端を許さぬ神殿の影。
灰谷の空に、再び不穏な影が差し込もうとしていた。




