第十一話:英雄の影、騎士の盾
霜原公国での騒がしくも実り多き滞在を終え、俺たちは再び「我が家」である灰の谷――灰谷へと帰還した。
三台の馬車には、アイゼンガルドで買い占めた物資が山のように積まれている。それなりの重量があるはずだが、俺が《古紋》を施して重心と摩擦を調整した車輪と、何より御者台に座るガルドの熟練した手綱捌きによって、道中の揺れは驚くほど少なかった。
灰色の霧が立ち込める森を抜け、視界が開ける。
「……見えてきたな」
俺の呟きに、客室の窓から外を覗いていたシアが歓声を上げた。
「あ、レオン様! お家ができてる! 黒いお家がいっぱいです!」
シアの指さす先、かつての廃村には、俺たちが発つ前にはなかった「異様な光景」が生まれていた。しかし、近づくにつれて俺の表情は微妙なものに変わっていく。
そこに並んでいたのは、家と呼ぶにはあまりに無骨で、あまりに閉鎖的な「黒い立方体」の群れだった。
「……主殿! お帰りなさいませ! このアゼル、主殿の不在の間、一分の隙もなく領地を護持しておりました!」
村の入り口で、漆黒のフルプレートを揺らし、アゼルが深々と跪く。その後ろには、オルド爺をはじめとした村人たちが、期待と不安の入り混じった顔で並んでいた。
「アゼル、留守を任せて悪かったな。……それで、あの建物なんだが」
「はっ! 主殿の設計された黒金煉瓦を用い、私が腕によりをかけて建築いたしました! いかなる暗殺者の侵入も許さぬよう、壁厚は三尺を確保。窓という弱点を一切排除した、鉄壁の安息所であります!」
アゼルが誇らしげに胸甲を叩く。……やはりか。
俺の隣で、馬車から降りたボルクが、呆れたように鼻を鳴らした。
「……おい。あれは家じゃねえ。棺桶か、さもなきゃ強固な倉庫じゃ。窓もねえ部屋に人を住まわせるつもりか? 職人を馬鹿にしとるんか、あの鎧野郎は」
「……あ、アゼル様。……倉庫だもん。お野菜を入れるには最高だもん……」
シアのフォローが、逆にアゼルの心に突き刺さったようだった。巨躯の騎士が、目に見えてショボーンと肩を落とす。
「そ、そんな……。主殿の安全を最優先した結果なのですが……」
「……まあ、アゼルらしいよ。防衛拠点としては満点だ。……後の改修は、ボルク親方に相談してくれ」
俺は苦笑しつつ、村人たちに向き直った。
◇
馬車から次々と物資が運び出される。
アイゼンガルドで購入した上質な布、鉄の鍋、新しい靴、保存用の干し肉、そして医療用の薬や農作物の種。
「お、おい……。これは全部、わしらのものなのか?」
オルド爺が、震える手で厚手の布を撫でた。
「ああ。公国で塩が最高の値で売れた。……これは施しじゃない。あんたたちが泥水をろ過し、灰を捏ねて、俺の仕事を手伝った報酬だ」
俺が告げると、村人たちの間に静かな、しかし確かな感動が広がった。
自分たちの労働が、こうして目に見える「富」に変わる。その実感が、彼らの死んでいた瞳に、明日を生きるための強い光を灯していく。
「さて、みんな。新しい仲間を紹介する。盾のガルドと、鍛冶のボルク親方だ。……ガルド、ボルク。ここの連中だ。よろしく頼む」
ガルドは無言で会釈し、ボルクは「へっ、シ気たツラしおって。まあ、今日からは俺が叩き直してやるわい」と悪態をつきながらも、村の子供に氷砂糖を握らせていた。
ひとしきり歓迎が終わると、ボルクは早速アゼルの「黒い立方体」へと向かった。
「おい、鎧野郎。そこをどけ。……家ってのはな、光と風が入って初めて生命が宿るんじゃ。……指示を出す。お前のその人外の腕力を貸せ」
「……主殿に必要ないと断じられたこの腕、創造に役立てというのか。……承知した。ドワーフの老兵よ、指示を」
アゼルが指先に魔力を込め、煉瓦の壁にそっと手をかざす。
「……微塵」
アゼルが指先を横にスライドさせた瞬間、シュンッという、空気が泣くような音がした。
一メートルの厚みがある黒金煉瓦が、まるで温めたナイフでバターを切るように、音もなく正方形にくり抜かれる。
「ええい! 切り口が鏡みたいにツルツルじゃねえか! これじゃあ木枠が滑って固定できんわい! 少しは手加減して表面を荒らすくらいの気遣いはできんのか、この鉄屑め!」
「手加減……。破壊ではなく、生かすための微細な魔力制御。……深い。深すぎるぞ、ドワーフの叡智は。……精進いたします」
アゼルは大真面目に深く頷き、自分の手を見つめて反省し始めた。
その光景を、ガルド・ヴァルツは資材運搬のために抱えていた木材を持ったまま、その場に縫い止められて見ていた。
◇
ガルドの視線は、アゼルが切り出した壁の断面に注がれていた。
(……ありえない。あんなこと、ありえていいはずがない)
ガルドは元騎士だ。霜原公国で長年、血の滲むような訓練を積み、数々の魔物と対峙してきた。それなりの自負はあった。盾を構えれば数人の兵士を抑え込めるし、剣を振ればオークの首を落とすこともできる。
だが、目の前で行われているのは「武」という概念を超越した何かだ。
窓一つ開けるのに、自分なら全力で槌を振るっても数日はかかる。それをあの黒騎士は、指先一つで、欠け一つ作らずに成し遂げた。
ふと、ガルドは自分の腰に差した愛剣に触れた。公国で使い古された、傷だらけの鋼。アゼルの前では、それはただの玩具にすら見えない。
「……アゼル様、すごーい! 魔法みたいだもん!」
「お塩の時もそうだったけど、レオン様の仲間はみんな怪物だもん!」
シアと、彼女に懐いている村の子供たちが、アゼルの周囲ではしゃいでいる。アゼルは兜の奥で瞳を光らせ、「主殿の威光に比べれば、これなどは瞬きにも等しい」と、淡々と応じている。
ガルドはその輪から、一歩後ずさった。
公国での地位を奪われ、名誉を奪われ、最後に拾われたこの場所で、自分は何ができるというのか。アゼルが一人いれば、この村の防衛など事足りるのではないか。むしろ、自分のような「普通の人間」が剣を握っていること自体が、滑稽な茶番に思えてくる。
「……私の居場所など、どこにも無かったか」
ガルドは自嘲気味に呟き、人混みから離れるように村の端へと歩き出した。
俺は、そんな彼の背中を追った。
ガルドは村の境界線にある古い石段に腰掛け、夕闇に染まり始めた森を眺めていた。その横顔には、自分の存在価値を問い直すような、深い葛藤が刻まれている。
「――ガルド。アゼルの力が羨ましいか?」
俺が声をかけると、ガルドは弾かれたように立ち上がり、慌てて背筋を伸ばした。
「あ、主殿……。失礼いたしました。……羨ましいなどと、そんなおこがましいことは。ただ、あの御方の御力を目の当たりにすると……。私のような凡夫の剣など、主殿にとっては何の価値もないのではないかと……」
ガルドは俯いた。誠実な男だ。だからこそ、自分の「無力」を過剰に恥じてしまう。
俺はガルドの隣に座り、灰に覆われた地面に指で円を描いた。
「ガルド。アゼルは確かに無敵だ。彼が剣を振れば、一軍を滅ぼすこともできるだろう。……だが、アゼルは一人しかいないんだよ」
ガルドが怪訝そうな顔をする。
「彼が寝ている時、あるいは遠くの敵を討ちに出ている時、もし逆方向から別の敵が現れたらどうする? 彼がどれほど強くても、物理的に二箇所を同時には守れない。……英雄一人に依存する組織は、その英雄が不在になった瞬間に全滅する。それは『守り』じゃない」
俺はガルドの目を真っ直ぐに見据えた。
「俺が作りたいのは、アゼルがいなくても、俺がいなくても、この村の住人が自分たちで生存率を一%でも上げるための《仕組み》だ。……ガルド。アゼルのような『異常』は、人には教えられない。空を飛ぶ鳥が、魚に泳ぎ方を教えられないのと同じだ」
俺は立ち上がり、ガルドの肩に手を置いた。
「だが、あんたは違う。あんたは一つずつ段階を登って、技術を積み上げてきた『人間』だ。どこに盾を構えれば矢が防げるか、どう足を動かせば疲れないか……。それを子供たちや若者に、言葉で教えられるのはあんただけなんだよ。あんたは『灰谷の基準』だ」
「主殿……。私に、教官になれと?」
「教官であり、リーダーだ。俺は、灰谷の住人を『守られるだけの家畜』にしたくない。自分の力で盾を構える、最初の戦士たちを育ててほしいんだ。……あんたという『誠実な盾』が、この村の底上げをする。それがアゼルの強さ以上に、この領地には重要なんだ」
ガルドの瞳に、再び光が宿った。
必要とされている。英雄の隣に立つための「力」ではなく、未来の戦士を育てるための「経験」を求められているのだ。
彼は深く、深く頭を下げた。
「……ガルド・ヴァルツ。主殿の深淵なる『理』、確かに承りました。……この盾、主が愛するこの地そのものを守るための『掟』といたしましょう」
◇
それからの数日間、灰谷は劇的な変化を遂げた。
ガルドの指導の下、村の広場に、数人の若者たちが集まっていた。
遠征で馬車を引いていた青年や、かつて王都で日雇いをしていた男たち。彼らは昨日、アゼルが改修した建物の光景を見て、自分たちも何かがしたいと志願してきた者たちだ。
「……あ、あの! ガルドさん! 俺たち、強くなりたいんです!」
「この村を、自分たちの力で守れるようになりたいんだ!」
若者たちの言葉に、ガルドは厳格な、しかし温かな表情で頷いた。
彼はアイゼンガルドで新調した――ボルクが「まあ、最初の練習用じゃ」と言って叩き出した――訓練用の盾を若者に配る。
「……いいか、よく聞け。戦いで一番大切なのは、敵を倒すことではない。死なないことだ」
ガルドの声が広場に響き渡る。
「盾を構えろ。重心を落とし、呼吸を整え、隣の仲間と歩幅を合わせる。……一人ではただの板切れだが、並べばそれは『壁』となる。……それが、灰谷自警団の最初の教えだ!」
「「「はいっ!!」」」
元気な返事が返ってくる。
その様子を、少し離れた建物の陰からリリスが眺めていた。
彼女もまた、俺に「一番賢いお前にしか、子供の教育は任せられない」とおだてられたこともあり、上機嫌で教壇に立っていた。
黒金煉瓦の建物の一つを教室にし、子供たちに読み書きと計算を教えている。
「いいですか、劣等種……いえ、生徒の皆さん。この『理』を理解せぬ者は、一生誰かの影を歩むことになります。……さあ、復唱なさい!」
リリスの指導は苛烈だが、公国での一件で「無知の恐怖」を知ったシアを筆頭に、子供たちは食い入るように彼女の言葉を吸収していた。
一方で、農業も始まった。
灰谷の大地は、積もった灰と澱んだマナによって石のように硬い。
だが、俺にはアゼルがいる。
「アゼル、あっちの区画を三尺ほど掘り返してくれ。……全力でな」
「はっ! 魔剣 《グランディネ》、今こそその一撃を土壌への慈悲に!」
アゼルが抜剣し、地面に突き立てる。
ドォォォォォン! という衝撃と共に、大地が爆ぜ、地割れのような巨大な溝が掘り起こされた。普通の人間なら数ヶ月かかる開墾が、数秒で終わる。
そこに俺が古紋を描き、マナの循環を整える。オルド爺たちが、信じられないものを見るような顔で、その「ふかふかになった土」に種を撒いていった。
村の端からは、ボルクの槌音が響いている。新しく作られた工房で、彼は公国から持ち帰った鉄を叩き、農具や自警団の武器を次々と生み出していた。
◇
「……さて。教育、仕事、治安、そして食料。……ようやく、村の体裁が整ってきたな」
夕暮れ。
窓枠が付き、生活の匂いが漂い始めた煉瓦の家々を眺めながら、俺は温かいお茶を啜った。
シアが子供たちと笑い合い、ガルドが若者たちに号令をかけ、リリスが優雅に髪を整え、アゼルが防壁の建設に勤しんでいる。
この光景は、王都の連中から見れば、不気味な異形の集団に見えるかもしれない。
だが、俺にとっては、これが世界の何処よりも確かな「理」によって結ばれた居場所だ。
ふと、視界の端で黒い翼が揺れた。リリスが音もなく隣に寄り添う。
「レオン様。……ふふ、この地も随分と『美味しそうな匂い』がするようになりましたわね」
「美味そう? ああ、今日の夕飯のスープのことか?」
「それもありますけれど……わたくしが言っているのは、この土地に集まり始めた『意志』のことですわ。希望や活気というものは、境界の向こう側にいる存在にとっては極上の香料になりますの。……当然、それはお行儀の悪い隣人をも惹きつけますが」
リリスの視線が、村を囲む深い森の奥へと向けられた。
「……気づいていたか」
「ええ。数日前から、熱心にこちらを覗き込んでいる子たちがいますわ。……獣の匂い。それも、ひどくお腹を空かせた、切実な匂いですわね」
俺は、森の奥からこちらを窺う、獣のような野生の気配を感じ取り、口元を緩めた。
かつて死の村だった灰谷は、今や「富」と「安息」の灯台となっている。
森で飢えに苦しむ者たちが、その光に吸い寄せられるのは当然の摂理だ。
「……拒絶するか、共生するか。どちらにせよ、灰谷はもはや誰にも止めることはできない。……リリス、明日の朝食は少し多めに用意しておいてくれ。どうやら、最初の『外交』が必要になりそうだ」
「ふふ、承知いたしましたわ。わたくしの特性を抜きにした、最高に美味しい『餌』をご用意いたしますわね♡」
月光の下、灰の谷に不敵な、しかしどこか温かな希望が満ちていく。
俺の領地経営は、ここからさらに加速していく。




