王太子の憂鬱
最近の王太子は、不機嫌極まりない。
純白の衣装を、血染めにして帰城した日、湯浴みで身を徹底的に清め、身支度を整えた。
産婆のおばばから締め出された部屋の廊下で、家臣らに、自室でもっと堂々と待つのが次期王の姿、という諫めも聞かず、今か今かと聖女である王太子妃の出産を待ち構えた。
報告を受け、部屋に入り、愛し子である聖女と、その腕に抱かれた我が子と対面してすぐのこと。
聖女から、我が子を自分の乳で育てたいと言われたのだ。
「聖女の乳は我のものなのに⋯!?」
あまりの発言に驚天動地。
しかも、聖女は双子を生んでいた。
炎の使い手と光の使い手。奇跡だ!こんなにめでたき事はない、と両親、家臣皆喜んだが、王太子は、なにひとつとして、めでたくなかった。
「我が愛し子の乳が二つとも取られてしもうた⋯!」
しかも、寝所を別にされた。
産婆のおばばから、生まれた子は抵抗力が低いため、外に長くいた者は、たとえ王太子とて、長時間の入室は良くない、とかなんとか。
「どうでも良いわ、そんなこと」
と、居座ろうとしたが、金のまつ毛に縁取られ、ゆっくりと瞬きをする金の目で、愛し子から見つめられる。
「うう⋯」
(我はこの目に弱いというのに⋯)
日頃、感情を表に出さない聖女の、時折見せる感情が可愛くて仕方ない。
(こんな時に、その目で、その表情で我を見るというのか)
「わかった⋯。好きにせい」
お抱えの回復魔法使いが聖女の身体を癒してくれたというのに。
二人で約束していたのに⋯。
手を繋いで寝ようね、て約束したのに⋯。
そして、体調が回復したら――⋯
久々の夜の褥がお預けなのである。
王太子はその夜、枕をしっとりと濡らした。
翌日の朝、いつもなら長い金の睫毛と、それにかかる金の前髪を手で梳いて、口づけを軽く百はするというのに。
愛すべき我が妻である聖女を抱いて朝寝を微睡むはずが⋯⋯
本来なら愛し子が隣にいるはずのその場所は、手を伸ばすと、ひんやりと冷たかった。
そんな日が何日も続いた。
「はあ、つまらぬ。我はつまらぬという言葉が嫌いなのじゃ」
聖女は産婆のおばばと子供たちに取られてしまったままだ。
公務すら殆ど父親である王に取られた。
供は付けず、湯浴みをして心身を整える。
(公務も父君が、張り切ってしておる)
故に、やることもずいぶんと減ってしまった。
孫の誕生が相当に嬉しいらしい。気持ちが若返っていた。
聖女の部屋にいっても、ぽつんと一人、疎外感。
子は可愛い。可愛いが聖女はそれ以上、計り知れないぐらい可愛いのだ。愛おしさが全く違う。なのに、相手にされない⋯。
聖女が愛おしく見つめるのは、我が子なのだ。
「我は可哀想な人間なのじゃ⋯」湯船で、はあ、と一人溜息を吐く。
赤銅色の髪が、汗と湯気でしっとりと濡れる。
頬は上気し、白い肌が薔薇色に染まり、酷薄そうな薄い唇はまるで紅を差したよう。
「そうじゃ、我より可哀想な者がいた」
ザバリ、と湯殿から上がると早速、身支度を整え、飛竜を喚びだし、飛び立った。
雪がちらつくシュトラール辺境伯領へと入ると、まずは魔物の森を目指した。
「ふむ、たいして変わらぬな」
隣国に牽制をするため、敢えて国境ギリギリを飛ぶ。
森の見張りの者たちが王太子の姿に気付き、敬礼をする。
(我を気にせず警戒を怠らぬようにすれば良いのに⋯。ライオネルに挨拶は結構、と言うべきか)
避難していた村々も皆平素と変わりないように思う。
シュトラール屋敷へと到着する。
「⋯っ!これはこれは王太子殿下!」
家令と思わしき壮齢の男性が急ぎ駆けてくる。
「挨拶は結構。先触れも出さずにすまぬな。ライオネルはいるかえ?」
部屋で待つのは嫌だ、と断り、ライオネルのもとに案内してもらった。
「これは⋯」
案内されたのは、調理場。
黒髪の大きな身体が必死に、小粒の赤い実を薄く切っていた。
いや、この男が持つと小粒に見えるのだ。
(む?なんぞ小さくなっておらぬか、この男)
「そちは⋯なにをしておるのじゃ?」
「ああ、これは、王太子殿下⋯先日は、」
と、顔を上げたライオネルの顔に生気が感じられない。魔物の目と恐れられる紅い目が、死んでる。
「よせよせ、礼も挨拶も無しじゃ。我は挨拶のあの時間が無駄で嫌いなのじゃ。謁見の間以外はするでない。して、お主は何をしておるのじゃ?」
「妻に飲ませる薬の準備をしております」
「なんじゃと?その実がか?」
「左様にございます」
王太子が訪ねて来たからか、ライオネルは続きを侍女に任せ、王太子を連れてその場をあとにした。
「我のことは気にせんで良いぞ」
「そう言うわけには」
「あれから奥方はどうなったのじゃ?」
「⋯⋯それは」
あとに続く言葉はなかった。
奥方の顔を見たいと言えば、部屋に通された。
こういう時、権力とは実に便利である。
通されたのは夫婦の寝室だった。自分だったら、部下が通すものなら火炙りだが、いくら上司が言ったからと、この男は懐が深い、と思いながら入室した王太子が見たものは――。
「なんぞ、眠っておるとこに邪魔してしもうたかや?」
「⋯⋯いえ、まだ目が覚めないのです」
「まだ⋯?」
(そんなはずは⋯我がけしかけたあの日、此奴は、この娘に口移しで薬を飲ませたではないか。あの時、たしかに娘の頬には赤みが戻ったはず――)
王太子は、無遠慮にライオネルの妻であるミレイユが横たわる寝台へと近付くと、見下ろした。
流れる白金色の髪。頬には微かに赤みがあるが、肌は透き通るほどに白かった。
「む?お主⋯まだ腕は治していないのかや?片方、失ったままではないか」
ミレイユの肩から下は掛布で隠れてはいるが、腕があるとは思えぬほど、その先はなだらかだった。
「――腕は⋯、もう少し血が増えてからが良いかと判断いたしました」
王太子は、ライオネルの顔を見遣ると、
「ひどい顔よのう。お主、嫁御に声はかけておらぬのかえ?我は言うたであろう?声をかけよ、と。いくら身体に血が巡ろうとも、生者の声を聞こえぬば、黄泉の国へと行くものぞ」
死んだような目をした男の、目が見開いた。
虹彩が揺らめく。
「それともお主は、奥方に死んでほしいのかや?死んでほしいのならば、そのまま声をかけずにじっとしていれば良い。この娘も亡き父と母に迎えられて、幸せに逝くであろうよ」
そう言うと、王太子はフッと鼻で笑った。
「興が冷めたわ。最強という名を恣にした男とは思えぬほどの凋落ぶりなことじゃの。我は帰る。見送りはいらぬでな」
去り際、ちらりとライオネルに目をやった。
ライオネルの紅い瞳からは、静かに涙が流れていた。
雪が降る中、屋敷から出てすぐ、乗り捨てた炎の飛竜のもとに戻ると、ミレイユが喚んだ大猫が、飛竜の傍で暖を取っていた。
「猫とは毛に埋もれておるのに、寒がりであるのう」
すっ、と手を遣ると大きな顔がゴロゴロと擦り寄ってくる。
「なんじゃお主、娘に似て警戒心が湧かぬのか?」
フワフワの毛が気持ちよくて、背伸びをすると、そのまま、きゅ、と首根に抱きついた。
「ほれ、我は温かいじゃろう?女神の加護があるのでな。寒さと暑さには強いのじゃ」
「ふふ、気持ちが良いし、可愛らしゅうのう。お主に会いに来るのもまた一興であるな」
そう言うと、大猫に「また来る」と挨拶をし、炎の飛竜に跨り、帰城した。
王太子が、帰城し、目指した場所は、城内の離れの一角。
石造りの建物に忌々しい代物が眠っている。
「正直、行きたくはないがな。仕方あるまい」
歩きながら、パチン、と指を鳴らし、術を解いた。
石造りの建物内の爆殺の仕掛けは、王太子の術による仕掛け。
もしもの侵入者用である。
そこは、転移装置のある建物だった。
行先はただひとつ、サライア王国。
サライア王国からの親交・友好の印、と贈りつけられたノルデリア国の転移装置は、外から操作する者が必要、と秘匿を知る者にはそう伝えてはいるが、実際にはそうではない。
内側から膨大な魔力さえ送り込めば、転移可能である。
限られた者だけしか、扱えない。魔法は使えても魔力量には、限りがある。
敢えて超大な魔力量を必要とした装置にしたのだ。
この装置で亡命する者が出ないように。
サライアの第一王子がしつこかったので、作れない代物を要望したら執念で作り上げたのである。
(故に、扱えるのは我一人――ということであるな)
扱いは簡単。装置に触れて放出するだけ。
視界がぐにゃりと歪んだかと思うと、心地よい温度へと変わった。
「こ、これは、不落の君⋯ッ!」見張りの者の声がした。
「突然すまぬな。第一王子はいるかえ?」
「は、はい!ただいまお呼びいたします!」
そういうと、サライアの見張りの兵がひとり第一王子の元へと走っていった。
強大国サライアは、小国ノルデリアの王太子に対して異様に好感度が高い。
酔狂な第一王子を始め、国民も熱烈歓迎なのである。
原因は、しつこい第一王子に対して、火魔法をぶっ放し、王宮の一部を破壊したことである。
あわや、戦争の危機!かと思えば、サライア人は初めて見る魔法にびっくり仰天、拍手喝采。
それからは、“不落の君”という二つ名で呼ばれている。
大きなメガネが特徴の、褐色の肌のサライア人にしては珍しく多少肌の色が薄い第一王子はすぐきた。寝癖をつけて。
「まさかまさかまさか⋯っ!君から来てくれるなんて⋯っ!!」
第一王子は、寝ていたのか寝衣姿である。王太子を見る目は熱烈に、目は感涙なのか潤んでいる。ズンズン迫ってくる顔には、そばかすが散っていた。
「少々、お主に聞きたいことがあってな」
「なんなり!!」
そう言うと床に平伏した。
「面を上げよ。我の部下でな、怪我をした奥方の目が覚めぬのだ。傷は癒えておる。血も通ってはおる。こういう場合、お主ならどうする?」
「部下に嫉妬!!」
「⋯⋯」
「⋯まあ、冗談は置いといて。うーん、僕は医者じゃないからなぁ〜⋯。ここではなにも言えない、てのが答えかな?その奥方って娘?連れてきたら、こっちの病院で最新鋭の治療もできるよ。入院させる?」
「入院⋯」
「そうだよぉ。うちの国なら輸血も出来るしさ!魔法使いの国の血なんてワクワクするよ!まあ、転移装置作る時に、魔力がなんなのか出どころが分かんないから、抜きまくったけどさ。その娘、連れてきたら充分な血はこっちで準備するよ!」
と、にこやかに第一王子はそう答えた。
「ふぅむ、やはりお主に相談するのが間違っておったか。あの娘を預けたところで、血をそっくり入れ替えられそうじゃな」
と、王太子が第一王子を呆れた目で見ると、
「ええ〜。そこまでは⋯多分、しないよぉ〜」
「帰る」
「ええ〜!?もう帰っちゃうの!?待って待って!もう少し話を⋯」
と、第一王子は、慌てて立ち上がると背を向ける王太子の腕を掴もうとした。
するり、とその腕を躱した王太子。
「気安く我に触れようとするでない。我に許可なく触れて良いのは聖女だけじゃ」
と、冷たく言い放つ。
「うう〜⋯相変わらず、つれない⋯。聖女様ってそんなに可愛いの?」
と、聞かれたので、つい聖女自慢したい欲がぐっとせり上がり、負ける。
「ひと目見たらお主の目が潰れるほど、可愛い」
「潰れるほど!?」
「潰れるほどじゃ。故に我は、毎日聖女に恋をして大変なのじゃ」
「こ、こい〜!!」
と、言うと第一王子は、ぶはっ!!と吹き出し、そのままのけぞって腹を抱え、床に転げんとばかりに笑い声を上げた。
その様子を静かに見ていた王太子は、第一王子に向けて手をかざし、狙いを定め、ボン!と火魔法を放つと、第一王子は「わあ!」と叫び、慌てて避けた。
火力の弱さに己の手を見た王太子は、
「お主、大気が変わっておらぬぞ。先日、我が言った環境に、何も着手はしていないのかえ?」
と、第一王子を睨めつけると、
「まあ、それはおいおい着手する予定だけど、今は心底着手しなくて良かったと思ってるよ」
と、返答された。
「まあ、でも本気で困ってるなら協力するよ。その奥方って娘?が目覚めるためにはどんな手を使っても、て気持ちならね。ついでにうちでは、そんなさみしい方のために、完全受注生産でそっくり人形なんてのも作ってるよ!お客様の要望どおり、肌の質、髪質、さらにアソコの具合も。全てを満足する品を揃えるよ!」
にっこりして言う第一王子に、さらに火魔法を放った。
さすがは、性に明るい国だと、ある意味感心しながら、王太子は帰国した。
「結局、余計に疲れただけじゃったな」
相変わらずの、一人寝。淋しい。
淋しいので、白金色の大猫に癒しを求めに行った。
「おぬしは⋯、なにを⋯やっておるのかや?」
シュトラール辺境伯屋敷に着くと、ライオネルがミレイユそっくり人形を抱きかかえて、話しかけていた。
(いや、人形ではなく本物じゃな。変な情報を仕入れてしもうたから勘違いしてしもうたわ)
ライオネルの妻が小柄なのもあって、余計にタチが悪い。
(話しかけさせるつもりで発破はかけたつもりじゃが、いけないものを見ているようじゃ⋯)
奥方の大猫に会いに来た、と告げると、好きに過ごして良いという。
なので、王太子は屋敷の主の言葉に甘えて、好きに過ごすことにした。
のそのそと大きな男が、小柄の娘を横抱きにして、屋敷中をウロウロしているのである。気になって仕方がない。
その様子を、王太子は黙って後ろからついていきながら、
(傷心中のライオネルにはちと申し訳ないが、少々滑稽ではある⋯のう)
ちなみに、王太子の後には大猫がついて歩き回った。
また、別の日に、辺境の屋敷に訪れてみた。
黒髪赤目の旦那様は、機嫌が少し良くなっていた。口元に笑みすら湛えている。
聞けば、奥方の血色が良くなってきたという。
ならば、そろそろ腕を再生してはどうか、と尋ねてみた。
紅い目が怯えたように一瞬揺れた。
「⋯⋯そなたの妻が、目覚めた時、腕が無いのとあるのでは、どちらが目覚めが良いものかのう?」
と、言うと渋々、再生魔法を使う気になった。
寝室に行き布団をめくる。首元に見える白い布。白金の娘は、肩にかけて包帯をしていた。
付け替えはお付きの侍女が行っているという。
傷はライオネルが塞いだものの、未だに直視が出来ないそうだ。
ライオネルは、寝台の横で膝立ちをし、おそるおそるといった体で包帯を解いていく。
肉が歪に盛り上がり、濃い肉の色をしていた。
「⋯っ」と、微かな音がしたので、そちらを見た。
大男が、肩を震わせ泣いていた。
「⋯⋯な、なにも泣くことはないのではないかえ?」
「しかし、私のせいでミレイユが⋯っ」
「そう思うなら、早う治してやれ」
嗚咽の混じった詠唱は、なにも効果がなかった。
何度か唱えさせたが、声が詰まるわ、震えるわ、どもるわとこれはさすがに聞き届けれまい。
鼻を啜る音だけが大きくなる。
「これ、お主。⋯そう、ビスビス泣くでないわ。嫁御の腕が治ったことだけを思い浮かべるのじゃ。のう、お主のそんな姿見て、娘はより一層申し訳なく思うのではないのかえ?」
気づいた時には柄にもなく慰めていた。
「う⋯っ、」
(⋯⋯大男がしゃっくり上げる姿を見るのは初めてじゃ)
「まずは、深呼吸じゃ。胸いっぱいに吸うのじゃ。そして、ゆっくりと吐く。とりあえず、今はなにも考えぬほうが良いぞ。そう、上手じゃ。何度か繰り返すのじゃ」
見てられない部下に、気付いたら王太子までも膝立ちをし、背中を擦り、優しくしていた。
(我は、聖女以外には、心を向けることはないというのに。⋯しかし、この男はあまりにも情けないのう)
ふと、自分もそうなるかと考えてしまった。
聖女がもし、身体の一部を欠損して目覚めないなどと。
答えはひとつ。
なる。
(うう、⋯だめじゃ。ライオネルのことを馬鹿にはできぬ。想像しただけで鼻の奥がつん、としてくるのじゃ)
部下の前では、涙は見せぬ!と、なんとか堪えた。
漸く、ライオネルも落ち着くと、詠唱を始めようとしていた。
(『そんなに震える声で唱えたならば、いびつな腕が生えそうじゃのう』と言ってみたが、効いたのかや?)
王太子は、軽く首を傾げた。
静かな部屋で、すっ、とライオネルが軽く呼吸をした音が聞こえた。
そこへ続くようにライオネルの声が、静かに発せられた。
「⋯⋯我が呼びかけに応えよ、生命の流れを司る者たちよ。生命の糸よ、巡り紡ぎて、結ばれよ。砕けた秩序を取り戻し、欠けた月が満ちるように、失われし器を満たせ」
ミレイユの肩口から、銀糸の光の粒子が糸のように現れる。
幾重にも絡まりあったかと思えば、眩い光を放ち、光の粒子が弾けるように輝いた。思わず閉じた目蓋を開くと、そこには、欠損したはずの腕があった。
「⋯⋯ふむ、見事なものじゃ」
まるで、先程まで欠損していたとは思えぬほど、肩口から滑らかに伸びた腕。
「ようやったな」
王太子のその声に、ほぅ、と息を吐いたライオネル。
ミレイユの再生された腕を見ているのか、恐る恐る、妻の手を握ると、肩を震わせてまた泣いた。
「⋯お主、意外にも泣き虫なのじゃな」
王太子は、困ったように眉根を寄せると、そう声をかけた。
あれから妻の腕が再生したというのに、夫のライオネルはみるみると、痩せていった。
と言うより、筋肉が萎んでいる。
「おぬし、鍛錬は止めたのかや?」
唯一の鍛錬が、ミレイユを抱いて立ったり座ったり歩いたりなのではないか、と懸念すればそのとおりだった。
ライオネルと茶を飲んでる時であった。
なにをやっておるのだ。と、絨毯が敷かれた上に足を投げ出し、大猫にもたれかかりながら呆れていたが、すぐにその理由が分かった。
かくん、と突然後ろの存在が消えた。
そのまま、床に倒れた。
「な⋯に⋯」
ドタドタドタ⋯!バタン!!
王太子は、助け起こされることもなく、床に放置されたまま。
ライオネルは、急ぎ足で部屋から出ていった。
しばらくすると、大猫がまた再び姿を現した。
「どういう事じゃ⋯、お主は呼ばれずとも現れるのかや?」
猫を撫でながら、呆然と見つめた。
召喚とは一体――⋯。
大猫は姿を現し、しばらく経ったが、ライオネルは、――戻ってこなかった。
勝手知ったるなんとやら。
寝室を覗くと、眠る自分の妻に必死で声をかけるライオネルの姿があった。
(なるほど⋯たしかに、鍛錬どころではないな)
そして、大猫がなぜ消えたり現れたりするのか、なんとなくだが気付いた。
(娘は、意識を失っていようとも、尚も喚んでおるのじゃな。あの大猫を。夫の安寧を願うために)
その大猫が消えるのだ。たしかにライオネルにとっては一大事。
その後も、大猫が消えては、ライオネルが屋敷内を奔走する姿を度々目にした。
(まあ、身体を動かす良いきっかけになるやもな)
ライオネルが頼りないから、王太子はぐっと頻度を増やして辺境伯領に訪れるようになっていた。
なんなら、泊まっている。
雪も積もり始めた。
(雪が積もりきってしまえば、隣国からの脅威も減るじゃろうて。まあ、兵士には村に常駐してもらってはいるが)
そんなある日のことだった。
もうほとんど王太子の私室と化した屋敷の一室で、猫とのんびりと過ごしていた。
猫が、ふと何かを察したように鼻をひくつかせた。
その様子に、もしや、と思った。
人が近付く気配がする。この気配は枯れ葉のように萎んでしまった男の気配である。それと――もうひとつ。
男の表情が気になった。あんなに嫁の容態で右往左往していた男だ。泣き虫で――⋯。
その男は、今どんな表情で愛する妻と、一緒にいるのか。
きっと、抱き抱えて入ってくるに違いない。
しかし、嫁は、そっくり人形のように力なく横抱きにされてはいないだろう。
ライオネルの鼓動がうつったように、とくりとくり、と胸が逸った。
扉が開く。
王太子は、悠然と、いつものように、関心がないように、その瞬間を待った――⋯。
久方ぶりに帰城した。
あんなに寂しかった一人寝も、今では慣れたものである。
そこへ、扉がゆっくりと開いた。
「これは⋯、珍しいのう。愛しい赤子たちは、もう良いのかえ?」
起き上がり、見つめた王太子の視線の先。
肩口まで揃えた金色の髪。
金の長い睫毛に縁取られた、金色の瞳。
白い肌に薔薇色の頬と唇。
薔薇色に潤む小さな唇が微かに開いた。
「赤ちゃんは、おばば様に預かってもらったの⋯」
か細く、ゆっくりと紡がれる鈴のように鳴る声。
そう言うと、王太子の寝台へと近づき、それに合わせるように王太子は、誘うように掛布を持ち上げた――⋯。
「我は、そなたが愛おしい。そなたがこの世からいなくなった瞬間、我も後を追うが。そなたは、我がいなくとも子のために生きていける生き物じゃ。じゃから、我より先に逝くではないぞ」
王太子はそう言うと、愛おしい者の額の汗を、そっと指先で拭う。
上気した頬に唇を落とし、見つめると、熱で浮かされた金の瞳に王太子が映る。
先程まで、可愛らしい声で啼いていた唇が開く。
「あなたも⋯あなたも子のために生きて。あなたは父親になったんだもの⋯。私はあなたと一緒にあの子たちの親になりたいの」
そう言うと微かに微笑む。
表情があまり出ない聖女。普段は無表情で言葉数も少ない。
閨の最中にだけ仮面が剥がれるように見せる表情が可愛くて、ついしつこくしてしまうのはいつものこと。
「我は⋯、我は正直に言うと、子など要らなんだ」
「能力がなかろうと、遠縁からでも子を養子にもらえば良いと思っておったのじゃ」
「じゃが、産まれた子を抱くそなたを美しいと思った。母にならねば見られなかった姿に、我は嬉しくは思っておる」
そう言うと、王太子は、聖女に口づけをすると、
「我とそなたの子を生んでくれてありがとう。そなたにだけ、痛く苦しい思いをさせて⋯すまなかった」
王太子が申し訳なさそうな表情で続けて言う。
「おばばが申しておった。子を生むことは、命をかけるものじゃと。血もたくさん出たと聞いた。⋯すまぬ。覚えていたはずなのに⋯。そなたの姿を見て我慢できず、無理をさせた。⋯⋯その⋯今さらじゃが」
聖女にそう告げる王太子の様子に、聖女はくすり、と笑うと、
「ふふ、⋯女だもの。その分、丈夫に出来ているわ⋯」
と言うと、聖女は王太子を抱きしめるのだった――。




